- Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000614665
作品紹介・あらすじ
クラスター対策に3密回避。未知の新型コロナウイルスに日本では独自の対策がとられたが、その指針を描いた「専門家会議」ではどんな議論がなされていたのか? 注目を集めた度々の記者会見、自粛要請に高まる批判、そして初めての緊急事態宣言……。組織廃止までの約四カ月半、専門家たちの議論と葛藤を、政権や行政も含め関係者の証言で描くノンフィクション。
感想・レビュー・書評
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◯とても面白い。NHKのドキュメンタリーさながら、臨場感があり分かりやすい。
◯専門家会議って国の組織じゃなかったのか、から、感染症の感染拡大、専門家たちの市民を守るという思い、専門家が訴えられる?!まで、波瀾万丈というかジェットコースターのような展開。
◯著者のスタンスも非常に好感。事実をどちらの立場に立つのでもなく、ありのまま伝えようという意志を感じる。だからこそ、行政、政治家、専門家と幅広い取材が可能となったのだろう。その記載内容に信頼がおける。
◯去年のその頃の自分を思い出しながら読めるという同時代性も良い。これは是非多くの人に読んでもらいたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2020年の年明け以降、世界は新型コロナウイルス感染症に蹂躙された。
中国・武漢から始まり、世界へと滲みだした感染症は、多くの死亡者を出しながら、野火のように広がった。人と人とが触れ合うことで広がる感染症の性質から、多くの国で都市封鎖(ロックダウン)や活動・往来の抑制が行われ、経済にも大きな影響が出た。
現在のところ、日本では第五波がほぼ収束し、落ち着きを見せているが、世界全体では感染の再上昇が見られる国もあり、なお予断を許さない。
本書では、日本で、2020年2月~7月に設置された新型コロナウイルス感染症専門家会議の成立から解散までを追う。
先が見えない中で、構成員である専門家も、何度か「ルビコン川を渡る」決断をし、「分水嶺を越える」経験をする。誰も本当の未来が確実には予測できない中、専門知識を武器に、より良い方向へと社会の舵取りをしようという、それは必死の毎日だったのだ。
本書では、専門家会議の構成員の証言から、専門家会議がどのような経緯で発足し、中では実際、どのような議論が行われていたのかを再構成する。
専門家会議の前身である厚労省アドバイザリーボードができたのはダイヤモンド・プリンセス号が横浜に入港した2020年2月3日。構成員は12名。それがそっくりそのまま、2週間後に内閣官房付の専門家会議となった。
そもそも感染症は完全に防ぐことは困難であるうえ、相手は未知のウイルスである。どのような対策を取るのがよいのか、手探りが続く。
専門家会議としては、市民にわかりやすく科学的に正しい知識を伝えることが急務だった。
しかしそこにはどうしても政治が絡む。出そうとする文言にチェックが入り、せめぎ合いが続く。ここは譲って、ここは譲らない。感染症を抑えるために、市民にどのように伝えるのが効果的かを予測しながらの判断となる。
対策を取るにはまずデータ収集が重要なわけだが、ここからして非常にアナログだった。各自治体で書式が異なるうえ、基本は紙ベース。学生ボランティアなどがそれに眼を通し、必要な情報をピックアップしていく。まずは書式を揃え、情報を入手しやすい形にまとめる試行錯誤が続く。
個人情報であるため、取り扱いも困難である。データ分析をするために専門家がやってきたのに、権限がなくてデータにアクセスできないなどということも起こる。
また、当初使用されていた部屋は通信環境が充実しておらず、各々が持ち寄ったルーターで通信していた。何しろこの手のデータは重い。1ギガ、2ギガというものを数回やり取りしただけで、全員がWi-Fiにつながらなくなることもあった。これではオンライン会議も無理。スマホを数台並べてスピーカーモードにし、電話会議を行うことすらあった。
そんな中で、日本独自の三密回避やクラスター対策といった方針が決められていく。
感染が広まるにつれ、苛立ちは専門家に向けられることも増えていった。専門家の立場としては提言を行っているわけだが、記者会見などで具体的に話をするのは専門家であることが多く、どうしても注目が集まってしまう。
脅迫を受ける者が出る。心身を壊す者も出る。訴訟を起こされた者すらいる。ギリギリの状況で激務が続いた。
市民の側は、具体的な数字を欲しがる。緊急事態宣言が出た後、〇万人中、△人の発症者であれば解除できるといった形のものである。しかし、いくら専門家でも確実なことは言えないわけである。そこをどう判断し、どう落としどころを見つけるか。専門家の間でも激論が交わされる。
実のところ、専門家会議という組織には、その存在に法的根拠がなかった。
その中で、危機感から「前のめり」の強めの対策を訴えてきたわけだが、いささか無理が生じてきた。1つは専門家自身が政策を決定しているように受け取られる恐れがあること。もう1つは経済への影響が多大になり、感染症の専門家だけの議論では収まらなくなったこと。
専門家会議は解散の方向へと向かう。
2020年7月3日、専門家会議は廃止、以後、新型コロナウイルス感染症対策分科会として活動していくことになる。
本書の内容はここまでだが、周知のとおり、その後、GoToトラベルやオリンピックを経て現在に至る。
新型コロナウイルスパンデミックを総括するにはまだ早いが、手探り状態で進んでいた緊迫のドキュメントとして、読み応えのある1冊である。 -
この本は、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の発足から廃止までの約五ヵ月を振り返り、専門家たちの視点を核に、政府や行政の声も合わせた「乱世」の記録です。
未知のウイルスを前に、使命感から命を削るように動いてくれた専門家たち。
多くの人に読まれて欲しい本です。 -
対策案の考案、厚労省等の関係各所との調整、国民への情報発信などを、凄まじいスピード感で実行していった専門家の先生方に、敬意を表したい。
もどかしく感じたのは、省庁内部や、国と地方など、縦割りに伴う信頼関係の薄さ、連携不足であった。
特に、感染状況のシミュレーションに用いる感染者数等のデータを、地方自治体の発表資料から手作業で引っ張ってきていたことには衝撃を受けた。
最近になって、科学的には徐々に解明されてきているにも関わらず、ワクチン接種や医療体制拡充などの対策がなかなか進まないのも、各組織間の連携がうまく行っていないことも原因にあるように思う。
専門家会議に参加されていた先生自身による振り返りの著書等もあるようなので、読んでみたい。 -
旧専門家会議は、特措法の下に無かったので、法律上立場が曖昧だったので廃止されて、その後に分科会に再編されたようです。(この辺の事情知らなかった)
普段メディアで目にするコロナニュースだと、扇動的だったりして見る度に右往左往だけしてしまいがち。
この本で昨年の6月まで活動していたコロナの専門家会議の中が、どう動いていたかが描かれていたので、これ読むとニュースから受ける印象が変わると思う。
SNSでは、批判一本槍な風潮も目につくけど、それぞれの組織の仕事のやり方や専門性の違い。
または、法律との兼ね合いが絡まって、これを普通の人が解きほぐして、運営を行うのは至難の業だという事が痛い程よく分かった。
どの組織についても顔が見えないと批判的に見がちになる。
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大変興味深く拝読した。コロナが出てきた直後の意思決定がどのようにされていたのか、断片的な報道では知り得なかったことがまとまっている。未知のウイルスに対する初期対応の難しさがひしひしと伝わってくるまた、どう意思決定者に伝え、国民にコミュニケーションするか、何を課題として議論すべきかという点が、コロナ対策の本質的なテーマなのだとも再認識する。
読んでいろんな疑問が一年越しに晴れた。なぜあんなにも意思決定が遅く感じられたのか、専門家はどんな立場だったのか、などなど。最終的に思ったことは、政治の意思決定と、科学分野の検証プロセスはあまりにも相性が悪いということ。
そのギャップを埋めるために、結局は「人」同士のやりとり、つまりは政治的なかけひきがクッションとなっていたわけですが、専門家の方々の努力というか、思慮の深さには頭が下がる思い。
非科学的で非合理な判断、イニシアチブをとろうとする政府が何よりも大きな原因だと思いつつも、また一方で、こういった人たちの能力と言葉を信じて、ともに危機を乗り越えていくぞ、という強い意志と、受け取る側のリテラシーが未熟だったこととも、日本のコロナ対策の問題では根深い要因だったようにも思う。 -
読むきっかけ:新聞広告で知り、専門家会議の運営に興味を持つ。
尾身氏をはじめとする専門家の矜持に低頭する。
以下、文中の尾身氏の心に響いた言葉。
「サイエンスというのは失敗が前提。新しい知見が出てくれば、前のものは間違っていたということになる。そういう積み重ねが科学であり、さらに公衆衛生はエビデンスが出揃う前に経験や直感、論理で動かざるをえない部分がある。一方で役所は間違わない、間違いたくないという気持ちが強かった。」
「リーダーは感情のプロである必要がある。リーダーとは何かといった本には、決断力やコミュニケーション、大きな方向性を示すことなどが書いてありますが、でももっとも重要で難しいのは、感情の、怒りのコントロールです。怒ったとしても、根拠のある怒りが必要だ。後で尾を引かないような怒り方をすることが重要です。」 -
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議は政府に対し状況分析や科学的根拠を持って対策を提案するため2020年2月に設立された。同年6月、西村大臣からの唐突な廃止発表まで約5ヶ月間、「3密の回避」、「人との接触8割減」、「新しい生活様式」などを打ち出してきた。
本書は専門家会議の議論や葛藤の様子を会議メンバーや関係者の証言で振り返るノンフィクションである。議論の内容、政治や行政との溝と連携のあり方、市民生活への影響などについて、どのように考えていたかが生々しく伝わってくる貴重な一冊だ。
未知のウイルスに対して、手探りながらも高所大所からレベルの高い議論がなされ、庶民目線ではなかなか難解なところもあったが、いくつかのポイントは理解できた。それを以下に示す。
①政府、官僚組織には「国民の不安を煽ってはならない」という考え方と「間違うことがないという前提で物事を進める無謬性の原則」がある。対して、専門家会議の立場は「サイエンスは失敗が前提。新しい知見が出てくれば、間違っていたことを反省し、次に生かす。100%のエビデンスがなくても見解や提案として出せるものは出す」ということでスタンスが違う。
②政治家に求められるのは専門家の意見を聞いた上で最終的に国の責任で判断すること。今回課題になったのは、ある場合は専門家に意見を聞き、ある時は聞かないで決めてしまうという一貫性の欠如(尾身氏)
③国も大事だが、前線に立つキープレーヤーとなる知事の意見を聞かないと、暴走集団になってしまう(尾身氏)
④専門家の文章は論理的に見えて情緒的なところもあり、そのまま政策には使えない。一方、役人の文章はできないことを隠しがち。
⑤役所はパターナリスティック(父権的。強い立場にあるものが弱い立場にあるものの利益のためだとして、本人の意志を問わずに介入・干渉・支援する)な考え方なのに対し、西浦氏はベネフィットとリスクの情報を双方が共有するインフォ―ムドデシジョンを促すべきだという立場を取った。
⑥日本モデルはその都度アジャストすること。基本的な考え方は一貫しながらもその時々の状況や相手に応じて作成を変えていく柔軟さは中国やロシア、トランプ政権にはないよさ(尾身氏)
⑦専門家会議は特措法に紐付いていない法的に極めて不安定な組織であり危うい立場を余儀なくされた。対策の歪みや不満の矛先が彼らに向かい、脅迫されたり、警護がついたり、訴訟を起こされたり、一時的な入院生活を送ったメンバーもいた。政府が頼りなく「前のめり」にならざるを得なかったため、責められる立場になった。
⑧専門家会議の「卒業論文」で尾身氏は「前のめり」だったと認め、反省した。
全体を通して、専門家の方々のご苦労がよくわかり、それに比して「専門家の意見を聞いて考える」という決まり文句で巧妙に責任を回避してきた政府への憤りが再燃した。 -
●日本は何度でもチャンスがあった。それを幾度も逃してしまったからです。度重なる震災の時も、SARSや新型インフルエンザパンデミックの時も同じことを言い続けてきた。保健所や自治体の機能強化や人員の拡充、PCR検査能力の強化、リスクコミニケーション…鴨長明の方丈記にも、喉元を過ぎれば人はすぐに忘れてしまう、と書かれてある。
●専門家会議。国から頼まれてもしないのに専門家独自で、見解を発表したり、会見をするなんて普通はやらないわけです。政府の政策決定のプロセスが見えず会議の議事録が公開されないこともあり、本来は対策を決定する立場にない専門家会議が、批判の矢面に立たされることになる。
●尾身副会長は、自治医大卒、WHOで活躍し、ポリオを根絶させた人物。
●多くの人は誰にも感染させないが、例外的に1人が多数に感染させる例がある可能性に気づいた。多くの人が誰にも感染させていないのに流行が大きく広がっていると言う事は、1部のスーパースプレッダーがいると言うこと。
●情報を単純化して白かっ黒に分けるのではなくて、ありのままを、難しいなら難しいと伝えるべきなのです。ここで何もしないと感染が爆発的に拡大してしまう、完全には防御できません。それをどれだけ抑制できるかの瀬戸際なのです。
●厚労省はまず見解の文章を確認したい。それを下から上層部に順次上げていかなければならないと言う。「こういう時に忖度が起こるんだ」「今こそ我々の分水嶺ですね」