- Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000613255
作品紹介・あらすじ
3.11直後に『万葉集』の挽歌を想起する。安部公房のことばを新宿の光に重ねる。あるいは中国大陸の表象を、移民の問題を、東アジアの記憶の物語化を、閻連科、多和田葉子、温又柔と語りあう。人はいかに異言語に身をさらし、異言語を旅することができるのか。「異言語に触発された高揚感」が切りひらく新しい日本文学論。
感想・レビュー・書評
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対談・エッセイ集で『越境の声』と似た構成だが、二作の間に十年以上時間が経っていて『越境の声』の背景には9・11が、本作の背景に3・11が横たわる。
I その直後の『万葉集』
II 多言語的高揚感
ー閻連科、多和田葉子、温又柔との対談
III 路地裏の光
ー島国と大陸をめぐる十五のエッセイ
著者の原風景であるかつての台湾の町並みを求めて中国奥地を旅し、そこからのインスピレーションを日本語で表現する。この中国奥地の描写が刺激的で、今まで古典しか興味の射程範囲に入れてなかった中国文学にむくむくと興味が湧いた。
私は北京や上海しか知らなかったけど、中国は本当に広い。
引用202p
中国大陸は、英語で書けばジャーナリズムになり、日本語で書けばもしかしたら文学になるかもしれないという、予感のような、個人的な結論に至ったのである
ほか、日本は閉じているからこそ不安を感じずに外国から多くのものを取り入れられる、という指摘は面白かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
タイトルからして魅力的。異言語間の往復で思考回路が多少なりとも影響を受けているように感じることはあっても、この感覚を説明するのは難しい。言語化してくれている本には抗えない。スタンフォードで日本文学の教鞭をとり、万葉集を英訳して、ついに日本に移住した著者が、英日中の三か国語の間で考えること。
山上憶良の百済出身説から、日本におけるバイリンガルや人的国際化の先端がすでに8世紀に見えるという解釈は面白い。多和田葉子さんとの対談では、母語以外の言語で書くことについて、表現の根源的な欲望があると書く。移民であることは、その国の人間になりきれないところに価値があるのではないか、とも。「世界は言葉によって表現され、文字によって描かれることで存在する。言語によって世界は違って見える」。確かに。
多和田さんや安岡章太郎さんはじめ、個人的に未読の多くの作品に導かれた一冊だった。 -
『#バイリンガル・エキサイトメント』
ほぼ日書評 Day655
アメリカ出身ながら、日本語で作品を著しているマルチシンガリストの講演&エッセイ集。
中盤、多和田葉子との対談でもある通り、自ら「左」を任じているのだが、「外から見たインナー論」とでも言うべき考察は、共感できるものも多い。
講演集パートは、語られるトピックに重複も多いが、印象に残ったフレーズを2つ。
山上憶良は、実は百済からの渡来人であり、彼が遣唐使に任じられるに際して、その無事の帰還を祈る歌(万葉集)で、やまとのくにを「言霊の幸はふ国」と述べた。
中国語で「仮(ジャー)」には"偽"という意味がある。「仮煙」は偽タバコ、「仮票」は偽切符、「平仮名」や「片仮名」も彼の地では、真の文字ではない「偽」の文字ということになるが、それを「日本人の理解で、書き言葉、エクリチュールを分け」ることで、万葉集をはじめとする我が国の多様な文学作品を産むことができた。
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万葉集の英訳者として知られるリービ英雄の言語経験はかなり複雑だ。カリフォルニアで生まれ、台湾、香港で少年時代を過ごし、米国での大学教員を経て日本で日本語の小説家となった。そうした言語経験がこのアンソロジーで綴られている。「あとがき」に「とにかく母から学んだ以外の、もう一つの言語に身をさらされながら、あるいは身をさらしたという経験のうえで文学を書くときに、そんなエキサイトメントが生じるし、表現の歴史の中からもそんな感情がたびたび伝わる」とある。「相手が考えたこともなく、感じたこともないことを、考えさせたり、感じさせ(中略)、新しい世界の把握の仕方を言葉にする」リービの「表現」は、確かにエキサイティングである。
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ちらっと本をめくってみたら、まさに中西進先生と万葉集のエピソードのページだった。おもしろそう。