- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000287302
作品紹介・あらすじ
自分のいのちは自分だけのものだと考えると苦しくなる。死んだらすべてがなくなってしまうのか。なぜこの世には不平等な生があるのか-。著者は山深い森の生活から生まれた思考と、西洋哲学・仏教思想とを往還しながら、いのちのありかを探す旅に出る。そして、自分のいのちは自分だけのものではなく、他者や自然や、思いを寄せる人びとと共有しているものなのだと諒解していく。深く静かな思索。
感想・レビュー・書評
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2016.3.2
まず、本書の問いそのものが、目から鱗というか、内省させられるものだった。いのちとは何か、なんていう問いを持ったことが私はなかったからである。さも当たり前のように、いのちとは私のものであり、この体に宿るものだと思っていた。本書でいうなら、いのちのピラミッドを個々人が持つという近代的西洋社会の一員だったわけだ。しかし著者は、いのちとは関係の中にあるという。「私の存在は私とともにある関係の総和である」という。これは自我や価値観についても言える定義だとは思う。しかしいのちもまた、このように捉えられるものなのか。時空的な関係を持てば持つほど、自らにとっていのちはかけがえのないものになっていき、生きているという実感を持てるようになっていくのだろうか。確かに事実、我々は様々な関係の中で存在している。食べ物も空気も、友も家族も、社会も国家も、我々の周りには存在している。しかしそのような客観的存在ではなく、よりその関係を実感することを、近代は奪ってきた。そうして私たちは自由の代償に孤独と、存在の軽さを手に入れたわけである。しかしだとすれば、いかにすればその関係を取り戻すことができるかということだ。関係とは客観的なものではなく主観的なものである。そしてそれは確信とか了解とか言えるもので、理解すれば関係が生まれるわけではないし、その関係への実感には程度によるグラデーションもある。こう考えると、関係とは確信である、ということもできるのではないか。では日々生きている中で、どうすれば自らにつながるものに対する確信を得ていくことができるのだろうか。つながりが、関係が人間の幸福にとって大切なことは、アドラーのいう共同体感覚や、マズローの社会的自己実現欲求、エリクソンの発達段階など、心理学の巨匠は口を揃えて言っていることだ。関係の実感とは言い換えれば居場所感覚ということもできるだろう。それは、あなたがいなければ私は存在できないという感覚と同時に、私の存在があなたのためになっているという感覚でもあるだろう。支え支えられ、という感覚が、関係の確信のためには必要なのではないか。ただ眺めるだけの自然との関係と、植え育てる農業における自然との関係の違いの間にはこのような構造的違いがあるように思われる。しかし現代は、このような関係の構造を切り離してしまった。便利さが横行し、資本主義が闊歩し、金を払えばサービスを受けられる社会になった。支え合わなくても金さえあれば生きていける個人の時代になった。そこに現代の関係の希薄化の原因があり、現代の個人の苦しみの原因があるのではないだろうか。しかしこれは、だからといって個人が努力して関係を生み出していけるような問題でもない。個人個人の社会は辛いから、今日から俺は関係を作っていくぞ!とはならない。切り離されるような、個人化を進めるような、そんな社会的引力というものが存在している気がする。その意味でも、我々の生きることの虚無感や孤独感は、社会の構造の問題なのだ。著者も述べる通り、いのちというのは何か、という問いに対する絶対の答えなんて存在せず、それは理解の世界でなく了解の世界で求められるものだ、つまり科学では答えられない。故に様々ないのち観があっていい。正しいも間違いもない、言わば個々人の価値観の違い、文化の違いである。問題は正しいか否かではなく、それが人間の生にとって幸せか否かである。そう考えるならやはり、現代の個人のいのち観よりも、前近代的なつながりのいのち観の方が確かに人間の幸福にはあっている気がするし、よく発展途上国で幸せランキング1位の国みたいな紹介のされ方をするけど、やっぱりあれもそういうことなのだろう。私自身アフリカに滞在していた時の、物的豊かさと精神的豊かの違いを垣間見たが、その1つの答えとしても本書は説得力を感じるものだった。しかしそのいのち観というものは我々個々人が選んだものではなく社会の圧力によって勝手に無自覚的に選ばされたものであるというところが要点で、つまり我々がこの社会で幸福に生きていくにはこの社会を変えるなりなんなりしないといけないということである。なぜなら了解とは関係の実感によって得られるものであり、理性的選択ではなく経験的学習であり、この社会で生きる上はこの社会から得られる経験しかできないからである。だからといって私には繋がりの生は無理っつって諦めることはまた違うが、自分の居場所感覚というものが自らの幸福にどれだけの充足感を与えてくれるかはある程度自明のことにも思われるし、これからもそのような関係の生を目指していきたい。しかし一方、その関係の中で自らのいのちの優位性がなくなることがあるのかは疑問である。私は友達も家族もいるが、それらとの関係も持つが、しかしやはり私にとっては私のいのちが頂点である。関係の網の目の中で生きる私におけるいのちの平等性は、もう少し考えたいところだ。視点としては非常に参考になり、生きることを改めて考えさせられる一冊だった。しかし文章がやや冗長的な気がして、読みにくかった。 -
(「はじめに」の部分で印象に残った箇所)
他者との関係を意識することの中に、私の「いのち」は存在している。また、人によってはその人が持っている信仰が、つまり、その信仰との関係が死の人の「いのち」を存在させることになったかもしれない。自然との関係や思い描く他者との関係、ときに神や仏との関係がその人の「いのち」を支え、「いのち」を与えたのである。「いのち」は自然や神仏を含む他者との関係の中に存在していた。
上野村に暮らす人々は、自分たちの命が自然、その村の共同体、その村の生業、先祖、伝統との関係のなかで存在している。そこに暮らす人々はその共同体によって自分の命の置き所や生き方死生観を諒解する。その人たちにとっては、その場所と共同体の中で生きることが、絶対的に一番よく、満足できるところである。生きることの価値は、その共同体が教えていた。そして、ありふれた普通の一生を成し遂げることが重大であった。その共同体の生き方をまもってこそ、村の人々は生を納得し、死を諒解した。
シュティルナーやヴァイとリングがみていたものは、人間のいしきは思考は決して自由なものではないということだった。資本主義や共産主義などの様々な社会的な思想やそのそのとき思想の傾向に依拠して、物事をとらえている。しかし、自分では自分で自由にものを考えていると思っている。この錯覚が社会を支えている。
同じことが「いのち」に対しても言える。誰もが「いのち」とは何かをわかっていると思っているが、実際にはその時代、その社会が概念を提供し、その概念を受け入れているだけだったりする。
そして、生の意味、死の意味も論証できることではないし論理的に説明できることではないが、その共同体の中に居たり、共同体が教えてくれたりすることで、共同体の内部にいるとそう思えてくる、ということを超えないのである。これも信じるという行為のなかで生きていることになる。
柳田國男によると、伝統社会では、生と死は親しい関係にあったと述べている。その親しさは、先祖=祖先を祀るという行為を通してくる。祀るからこそ、その祖先はこの世界に戻ってくる。ときに、子孫たちを見守っている。すなわち祀るという行為が生者の世界をつないでいる。
祀るという行為によって、死者ち生者をつないでいる。仏壇や神棚にお茶た食べ物を置いたり、声をかけたるすることも、祀る行為である。死者は消えてしまった人ではなく、関係の中に存在している。このような習慣が今も続いているということの中に、伝統社会から受け継いできたものが、今も精神の古層にも凝っていることが示されている。
つながりを成立させているものが、祀るという行為である、それは共同体が定着させた。人々の思い、願い、祈りが生み出したものである。いわば願いをとして人々は生者の世界と死者の世界を親しいものにしてきた。
「おのずから」の世界
ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」
人間の命は誰かや何かに管理できるくらいに軽いものとして人間を扱う社会がある。 -
簡単な言葉で書かれているし、それほど分厚い本ではないのに、読み進みません。
内山さんの言いたいことを本当には分かってないんだろうなという気がしました。 -
以下引用
直接的には会うことが出来なかったとしても、他者との関係を意識することのなかに、「いのち」はある
「いのち」を成立させる場があって、いのちは成立している。
いのちは自分自身のなかにあるという思い込み
カントが、物自体という言葉で呼んだ本物の姿はとらえられない
人間は自分たちが認識している死しかとらえることができない
人間の奥底にはつかむことのできあい意志がある。
知性で理解された生への衝動を実現しようとすると虚無感が生じる
存在の自己了解を与えていたものは、単なる自然ではなかった。自然との関わりをとおして生み出されてきた村の暮らしが、彼に自己了解を与えて来た
死者という過去は、過ぎ去った過去ではなく、現在と結んでいる過去
この自然的人間になることが、仏教的には悟り。 -
「いのち」「死」「生き方」を共同体から説く。近代以降になると自分を包む世界がなくなり「裸の個人」になり、家族しか自分をつつむものがない。そこで家族が壊れると本当の「裸の個人」になる。それは自然・祖先・仲間との「時空」のつながりのあった日本の魚山村の共同体と対極の世界である。共同体では、自分は自然と祖先と仲間に包まれており、安心して死を迎えることができる。▼「いのち」を現代は個的なものとしてとらえている。しかし「いのち」は関りとの関係の中で、「場」のなかで了解されてゆくものだ、と説く。▼考えさせてくれる本だが、自由・平等・博愛が昔に比べて身近なものになった現代の側面も評価するべきだと思った。
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784000287302 -
キリスト教は個人を基盤にするという性格を内蔵していた。それは前身にあるユダヤ教が流浪の民であったユダヤ民族として生きる個人の救済を目的にした宗教、ユダヤ人として生きる個人に祝福をもたらす宗教だったことからきている。ユダヤ人ではなくてもユダヤ教を信じれば天国にいけるとしたことで、ユダヤ人の宗教を民族、人種を超えた普遍的な宗教に替えたことにあったのだが、流浪sるう個人の救済が原点にあったことは確かだった。