女王ロアーナ,神秘の炎(上)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000259309

作品紹介・あらすじ

「あなたお名前は?」記憶喪失から自分を取り戻すことはできるのか。取り戻したとしてそれは本当に自分なのか。エーコの赤裸々な妄想と姿態が晒される衝撃の超・小説。戦中戦後のイタリア文化史を回顧するかのように図版を満載した異色の本であり、また、著者初めてといえる自伝的語りと展開は幾通りにも読み解きをうながし、読む者は謎に絡め取られる。エーコ畢生の神秘の技法、ここに大団円を迎える!

感想・レビュー・書評

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  • 記憶をなくした主人公(なぜかはわからない)が、自分の過去を、当時の書物や世相を通じて再構築していくという、いかにもエーコらしい捻くれた物語。自分を形作っている要素を、解明というか妄想していくわけだけど、そこはエーコ。当時の書物に対する蘊蓄が詰まっていて、エーコがただ言いたいことを言うために、小説のテイを成しているだけじゃないかって気もしてくる。それはそれで良い。

  • <上下巻併せての評>

    歳をとってきた人間がやろうとすることの一つに「自分史」を書くというのがある。記憶力も衰えてきて、思い出すことができるうちにまとめておきたくなるのだろう。特に遺しておくような値打ち物の過去もなければ、日記をつける習慣もないので、これまで考えもしなかったが、エーコが書いたのを読んでいたら、これの日本版が読んでみたくなった。というのは、本作『女王ロアーナ、神秘の炎』は限りなくエーコの自分史に近い。それもただの自分史ではない。

    少年時代に読んだ本やコミック、目にしたポスター、ラジオから聞こえてきた音楽などを通して、当時の自分を思い出す試みである。しかも、それは自分一人にとどまることなく、同じ時代を生きた人の記憶とも重なる。エーコが列挙するマンガや物語の中には、アメリカのコミックやディズニーのアニメなども含まれるので、それらは分かるものの、イタリアのものはほとんど分からない。同じ国の読者ならどんなに楽しいことだろう。しかも、贅沢なことに大量の原色図版つきである。

    自分史などに興味が持てないでいるのは、他人の名前は忘れてしまっていても自分についての記憶はまだ確かだからだ。もし、それも覚束なくなってきたら、必死になって思い出そうとするだろう。現に口に出そうとして出てこない人の名前は一日中出てくるまで気になって仕方がない。当時の世の中の出来事とその頃出回っていた読み物や流行の音楽を、自分の個人史と結びつけることで、ありありと目の前に光景が浮かんでくる。日本版があれば、という所以である。

    ミラノで古書店を営むヤンボこと、ジャンバッティスタ・ボドーニは、目を覚ますと病院にいて医師の質問を受けていた。口はきけ、眼も見えるし、百科事典的な記憶には何の問題もないのに、自分の名前も、顔も一切合切記憶から消えていた。事故のせいで脳の一部に損傷を受け、自動的に行動することを助ける潜在記憶には問題がないのに、もう一つの意識的に思い出すための顕在記憶の中のエピソード記憶と呼ばれる、自分を自分につなぎ留めておく記憶がすっぽり抜け落ちてしまったのだ。

    彼にはパオラという心理学者の妻がいて、彼が子どもの頃暮らしていたソラーラに行ってみることを勧める。そこには、祖父が遺してくれた大きな館があり、子どもの頃にヤンボは、そこに住んでいたからだ。当時は第二次世界大戦中でミラノは空襲が激しく、両親はヤンボを疎開させていた。ところが、結婚してからヤンボはソラーラに行くことも館で暮らすことも嫌がっていた。そこには何らかの理由があるにちがいない。記憶が戻らないのも何かそこに起因しているのでは、というのが優しく聡明な妻の見立てであった。

    古書店の仕事の方はシビッラという美しい娘が彼の代わりをつとめていた。親友のジャンニが娘のことで揶揄うようなことを言ったので、ヤンボは自分とシビッラの間には何かあるのではと疑心暗鬼にとらわれる。しかも街角で出会った老婦人から、かつての情事をにおわせるような言葉を掛けられる。この辺の艶笑譚的なくすぐりはいかにもエーコらしくて、愉快。何にも覚えていない男の自意識の暴走は止めようがない。

    妻と子はミラノに残してソラーラで暮らし始めたヤンボは祖父の書斎を覗いて本がないのに驚く。聞けば、屋根裏部屋にあるという。そこには祖父が蒐集した大量の新聞や書籍があった。ヤンボはそれから毎日、屋根裏部屋に通い詰め、飽かずにそれらを読み漁るのだった。屋根裏部屋、秘密の扉、封じられた礼拝堂、というゴシック小説めいた筋立てが読者の心をそそる。記憶の底から表面に気泡のように立ち上ってくるいくつかの名前や歌。それらの手がかりを求めてヤンボの探究は続く。

    幼少期にソラーラで何が起きたのか、どうしてそれを思い出したくなかったのか。霧に関する文章をいくつも集め出したのはそもそも何を理由としていたのか。下巻に入ると、第二次世界大戦下のソラーラは決して安全な田舎とはいえなかったことが明らかになってくる。村にはドイツ軍がシェパードを連れて脱走したコサック兵を捜索にやってくる。彼らを逃がし、パルチザンのもとへ届けるためにヤンボは手助けを頼まれる。

    頭がよくて行動力もあるヤンボの活躍とその後の展開が時代状況と絡み合い大きな重みをもって迫ってくる。トーマス・マンの『魔の山』に登場するセテムブリーニとナフタを一人にしたようなグラニョーラという人物がヤンボに、神は邪悪だと説くあたりは『魔の山』や『カラマーゾフの兄弟』を彷彿させる。少年だからといって戦争は免罪符をくれるわけではない。その時代を生きた者でなければ書けない真実が、そこにある。

    『女王ロアーナ、神秘の炎』の主題になっているのは記憶である。次第に明らかになってゆく少年時代のヤンボの生活だが、その中でリラという少女の顔だけが思い出せない。初恋の少女で、その後転校して会えずじまいになっている。ソラーラでの出来事がタナトスを主題にしているとすれば、リラに関する挿話の主題はずばりエロスだろう。ソラーラで一度は死んだヤンボの魂が再生するきっかけとなったのがリラである。人を喜ばせ、人に好かれる今のヤンボはリラによって命の火がともされたのだ。

    自分史とはいっても、少年時代が中心で、尻切れトンボの感じがしないでもないが、ムッソリーニと黒シャツ党の跋扈する時代のイタリアを生きた一人の多感で読書好きの少年の瑞々しい思春期をイタリアらしい明るい色彩と音楽、それにそこだけフォントを変えて記される様々な小説から引用された名文句の数々。これはプルーストだな、とかランボーときたか、というふうに分かるものを見つけてはにやりとする愉しみがある。ユイスマンスの『さかしま』のように贔屓の作品への言及は何よりうれしい。本好きのために書かれたような小説だ。誰か書けるうちに日本版を書いてくれないだろうか?

  • ※上下巻合わせての感想です。下巻に詳細あり。
    読み始めはまさかこんな展開と思わなんだ!記憶喪失の主人公と一緒に"霧"の中を歩み、たどり着くのはああここなの?!と下巻の、最後の20ページで脳内がスパークした。
    脳汁の出る、知的体験ができるしミステリー小説的な面もあり、面白い…。
    読書人生のマイフェイバリット10に入ってしまうかも。

    付け焼き刃だが、分裂症気味な主人公。20世紀の文学の王道のスタイルそのままですね。でも、人はみんな分裂気味かも、あらゆるところであらゆる自分がいるものだから。

  • 『ぼくの考えは単純さ。いままで誰もそんなふうに考えなかっただけだ。〈神〉は邪悪だということさ』―『16.風が鳴るー第3部 OI NOΣTOI 帰還』

    『まさに、その瞬間、ぼくは啓示を与えられた。いまならわかる、この世は目的がなく誤解の怠惰な賜物であるという痛ましい感覚であったが、その瞬間ぼくは感じたものを「神はいない」としか表現することができなかった』―『17.賢明な若者―第3部 OI NOΣTOI 帰還』

    エーコの「永遠のファシズム」を読んだときに、どことなく上手く言いくるめられたという感覚に囚われた。似たような評論集「歴史が後ずさりするとき」を読んだ際には感じなかった違和感。それが欧州における大戦の大義と作家の少年期の正義感との共振と不協和音に由来するであろうことは薄々理解は出来ていた。それは誰しもが胸の奥に囲っている薄暗い記憶。小さな罪の意識が為せる自己弁護なのだろう。そのことを自伝的小説とされる本書にて確認する。

    振り返って見ればどうしてそんな価値観に従っていたのかというような過去の自分の行為も、その時々の理屈があった筈。大抵はそんな子供っぽい屁理屈も一緒に黒い袋に詰めて見てみぬふりを決めこむが、子供だって闇雲に悪さをする訳ではない。厄介なのはその屁理屈の部分は記憶の沼の底に沈んだままで罪深い行為の記憶だけが時折沼の表面に浮かび上がって来ること。もちろん急いでそれを水面下に沈め直しはするのだが、沈める際の手応えが返って記憶を鮮明にさせる。あの時の駄菓子。教室でのいじめ。一つひとつは一見無関係のようだけれど、それを行った自分の中にどんな大義があったのかと見つめ直す行為は、麻酔もそこそこに自らの外科手術を施すような行為。エーコがここでやって見せたのはそんなことなのだろうかと訝しむ。

    エーコはその振り返りの過程で「紙の記憶」を頼りに過去を再体験する。如何にも記号論の大家らしい試みであると思う一方、人の価値観の形成には自らが選び取った情報以外にも大きな影響を与えた要素がある筈とも思う。それを環境要因と呼ぶのは余りにも自分自身の過去の行為に対して自らの関与を否定するかのようにも響くけれど、周囲の価値観が自らは預かり知らぬところで決定された後に押し付けられるという側面があることは否定できまい。そこに敢えて目を向けないのは、様々な価値観の錯綜する欧州においては、そんな環境すら自らが選択すべきもの、あるいは選択したもの(あるいは相続したものと言うべきか)と仮定されることなのだろうか。エーコの紙の記憶に対する拘りを見るとき、そんな厳しい考え方もあることを知らされる。

    子供ながらに感じていた正しさと全体主義的な価値観の乖離、それこそが沼の底から時折顔を出して記憶を呼び覚まさせようとする原因。そんな乖離を今も感じていないのかと、何処かで誰かが呼び掛けてくる。その声に身震いする。所詮、大人も子供と大差がある訳ではない。

    「薔薇の名前」の現代版のような展開から、後半はまさに走馬灯と形容すべき記憶の蘇りの嵐に物語は変容して行く。個人的には主人公の解く筈であった謎がもう少し、仄めかしでも良いので語られて欲しかったとの思いも残るが、フランチェスコ会修道士の弟子の記憶の中に残るものは必ずしも真実そのものではなく、表現され具現化された意図の表層のみ。その裏にある思いは永遠に歴史からは失われる。人の記憶を頼りにすれば、よしんばそれが真理であったとしても生き残ることはない。そんな風にエーコに言われたようにも思う。死後十年は自らの名前を冠した講演会などの開催を禁じたというエーコの意思には、そんなエーコの歴史観もまた見え隠れする。もちろん自分自身の表出し得なかった思いもまた人々の記憶と共に失われる定めと覚悟して。紙の記憶に拘ったエーコの決意に思いを至らせる。

  • ◆霧に包まれた記憶を探す [評者]篠原資明=哲学者
    東京新聞:女王ロアーナ、神秘の炎(上)(下) ウンベルト・エーコ 著:Chunichi/Tokyo Bookweb(TOKYO Web)
    http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018022502000182.html

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    「あなたお名前は?」記憶喪失から自分を取り戻すことはできるのか.取り戻したとしてそれは本当に自分なのか.エーコの赤裸々な妄想と姿態が晒される衝撃の超・小説.戦中戦後イタリア文化史的レベルの図版を満載した異色の本であり,また,著者初の自伝的語りと展開は幾通りにも読み解きを促す.エーコ畢生の神秘の技法,大団円.四色刷.(全2冊)
    https://www.iwanami.co.jp/book/b341712.html

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著者プロフィール

1932年イタリア・アレッサンドリアに生れる。小説家・記号論者。
トリノ大学で中世美学を専攻、1956年に本書の基となる『聖トマスにおける美学問題』を刊行。1962年に発表した前衛芸術論『開かれた作品』で一躍欧米の注目を集める。1980年、中世の修道院を舞台にした小説第一作『薔薇の名前』により世界的大ベストセラー作家となる。以降も多数の小説や評論を発表。2016年2月没。

「2022年 『中世の美学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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