歴史とは何か 新版

  • 岩波書店
3.74
  • (15)
  • (18)
  • (22)
  • (1)
  • (2)
本棚登録 : 770
感想 : 35
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (410ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000256742

作品紹介・あらすじ

「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分理解できるようになるのです」。歴史学への最良の入門書を全面新訳。未完に終わった第二版への序文、自叙伝、丁寧な訳注や解説などを加える。達意の訳文によって、知的刺激と笑いに満ちた名講義が、いま鮮やかによみがえる。

■内容紹介
歴史は現在と過去のあいだの対話である――。この有名なフレーズで知られる本書は、E. H. カーが1961年にケインブリッジ大学でおこなった6回の講義がもとになっている。事実と解釈、歴史と科学、歴史における因果連関、歴史と客観性、進歩としての歴史など、歴史を考えるうえで最も重要なテーマが盛り込まれており、歴史学の最良の入門書、20世紀の古典であるといってよい。
カーは、生前に第2版を準備していたが、序文のみに終わった。本書は、これまで清水幾太郎氏の翻訳で親しまれてきた初版の本文を新たに訳出し、第2版への序文、残されたメモから未完の第2版の内容を復元したR. W. デイヴィスによる論考、晩年のカーによる自叙伝、略年譜などを加えたものである。訳者による懇切な訳註と解説が、理解を手助けしてくれるだろう。
本書には、歴史と歴史学をめぐる印象深いフレーズがふんだんに盛り込まれている。

「歴史家の解釈とは別に、歴史的事実のかたい芯が客観的に独立して存在するといった信念は、途方もない誤謬です。ですが、根絶するのがじつに難しい誤謬です。」
「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」
「本気の歴史家であれば、すべての価値観は歴史的に制約されていると認識していますので、自分の価値観が歴史をこえた客観性を有するなどとは申しません。自身の信念、みずからの判断基準といったものは歴史の一部分であり、人間の行動の他の局面と同様に、歴史的研究の対象となりえます。」
「ちょうど無限の事実の大海原からその目的にかなうものを選択するのと同じように、歴史家は数多の因果の連鎖から歴史的に意義あることを、それだけを抽出します。」
「歴史家にとって進歩の終点はいまだ未完成です。それはまだはるかに遠い極にあり、それを指し示す星は、わたしたちが歩を先に進めてようやく視界に入ってくるのです。だからといってその重要性は減じるわけではなく、方位磁石(コンパス)は価値ある、じつに不可欠の道案内です。」

知的刺激とニュアンスに富み、笑いに満ちあふれた名講義が、達意の訳文と訳註によって、鮮やかによみがえる。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【まとめ】
    1 現在と過去のあいだの終わりのない対話
    19世紀の歴史家たちは事実を求めた。歴史哲学者によれば、まずは事実を確定しよう、その後で、事実から結論を導こうという態度が主流だった。
    しかし、過去の事実と歴史的事実は違う。歴史的事実とは、歴史家が重要なものだと感じ、先験的に決定したものである。カエサルがルビコン川を渡ったことが歴史的事実だと決めたのは歴史家だが、他に幾百万の人がルビコン川を渡ったからといって、誰もなんとも思わない。つまり、歴史家の解釈とは別に、歴史的事実のかたい芯が客観的に独立して存在するといった信念は、途方もない誤謬である。解釈という要素は、あらゆる歴史的事実に入り込んでいるのだ。

    19世紀の事実信仰に根拠を与えたのは、史料の物神崇拝だった。史料のなかにあることは真実という考えである。しかし、いかなる史料――王令、条約、議会文書、日記――も、その筆者が考えた以上のことは教えてくれない。歴史家が史料に取り組んで分析し解読するまではなんの意味も持たない。

    クローチェは、すべての歴史は「現代史」であると唱えた。その意味は、歴史の本質は過去を現在の目で見ること、現在の諸問題に照らして見ることであり、また歴史家の主なる仕事は記録でなく評価することである、ということだった。
    また、オークショット教授は、「歴史とは歴史家の経験である。歴史を『つくる』のは歴史家以外のだれでもない。歴史を書くという行為だけが歴史をつくるのである」と述べた。

    コリンウッドは『歴史の理念』の中で、歴史を考えるうえで見過ごされていたいくつかの真実を明らかにした。
    ①歴史家自身の思考、価値観を理解しなければならない
    ②歴史家が対象とするその時代の人々の思考、価値観を理解しなければならない
    ③過去の理解を果たせるのは現在の目を通して見たときだけであり、現代の思考や価値観に縛られざるをえない

    歴史は純粋なままではわたしたちのところにやってこない。歴史的事実はつねに記録者の頭を通過して屈折している。そのため、歴史を学ぶ際には、まず歴史家を学ぶべきである。歴史の解釈の価値を十全に味わうためには、当の歴史家の心中を理解せねばならない。

    歴史家の果たすべき役割とは何か。まず自分のテーマ、提起している解釈に関連する事実はすべて書き記すことである。そして、事実の客観的な編集と、主観的な目から見た解釈の相互作用によって歴史を形にすることである。歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話なのだ。


    2 社会と個人
    社会と個人はどちらが先か、という問題に答えはない。どちらも互いに必要で、相互補完の関係にあり、対立しているわけではない。
    子どもの口にする言語、人間の思考、それらは個人的な遺伝でなく、育成集団から社会的に習得する。原始社会(=単純な社会)ほど均一性が強いとはよく言われることだが、社会の発達と個人の発達は相互的に発展していくため、近代社会になるにつれ個人化が進む、という単純な解釈をするのは危険である。

    常識的な歴史観では、歴史とは個人が個人について書いたものと見なす。しかし、今となっては単純すぎて不十分だし、もっと深く考える必要がある。歴史家の知識とはその個人の排他的財産ではなく、多くの人々が何代にもわたって、また多くの国々の人が参与して蓄積したもの。歴史家が研究する人々の行動は、真空のなかの孤高の個人たちの動きではない。人々は過去のある社会の脈絡のなかで、それに推されて行動したのだ。

    第1講では「歴史を研究する前に、歴史家を研究せよ」と述べた。それに、「歴史家を研究する前に、歴史家の歴史的・社会的環境を研究せよ」と追加したい。歴史家は一個人だが、歴史の産物、社会の産物でもある。歴史の研究者は、この二重の光のもとに歴史家を見ることができるようにならねばならない。

    歴史家の研究対象は個人の言動か、社会的諸力の動きか?
    歴史において重要なのは「個人の性格や言動である」と見る説には長い系譜がある。社会がもっと単純だったころはそれでよかった。しかし今日の複合性が増した社会においては違う。共産主義の出現をマルクスの頭脳に、ナチズムの台頭をヒトラーの個人的な邪悪さに帰結するのは誤りだ。
    そもそも個人と社会を区別しようという試みが間違いなのだ。個人とは社会の一メンバーである。歴史家は不満を持つ一人の農民を考慮するわけではない。しかし、幾千の村に何百何千万の不満農民がいるなら、これは歴史家が無視できる要因ではない。

    人間はつねに、または習慣的に、十分に意識した動機や率直に認めるような動機によって行動するわけではない。それに、無意識あるいは本人が認めないような動機への洞察を排除するとしたら、これは、わざと片目を閉じて仕事をするようなものだ。

    歴史は「人の意図したことの説明/事情」をもとに書くことができるというのは、まったく違う。また、行為者自身の口にする動機の説明や、何故「みずから見積って実際の行動をしたのか」といった説明をもとに書くことができるというのも、まったく違う。歴史的事実とはたしかに個々人をめぐる事実だが、それは孤立した個々人の行動をめぐるものではないし、個々人本人がそのため行動したと考える現実的ないし想像上の動機をめぐるものでもない。歴史的事実とは、むしろ社会をなす個人と個人のあいだの相互関係をめぐる事実であり、当人たちが意図した結果とはズレて時には相反する結果を生じるような社会諸力をめぐる事実である。

    歴史とは――歴史家のたずさわる調査探究と、その対象となる過去の事実という――その二つの意味のどちらも、社会的プロセスであり、これに個人は社会的存在としてかかわっている。社会と個人のあいだの対立関係とは幻だ。歴史家とその事実とのあいだの相互作用のプロセスは現在と過去のあいだの対話だが、これは抽象的で孤立した個々人のあいだの対話ではなく、今日の社会と過去の社会とのあいだの対話である。
    過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになる。人が過去の社会を理解できるようにすること、人の現在の社会にたいする制御力を増せるようにすること、これが歴史学の二重の働きである。


    3 歴史と科学
    歴史は科学ではないという批判があり、それを要約すると次の5つが論拠として挙げられる。しかし、そのすべてが正しいわけではない。
    ①歴史は独特なことを対象とし、科学は一般的なことを対象とする。
    →科学も歴史も同一のものは二つとない。歴史家はユニークのなかの一般性に興味関心があり、歴史家はつねに一般化によって証拠を検証する。ユニークと一般のどちらかが他方より優位だとは考えない。
    ②歴史は教訓を垂れない。
    →①の一般化によって、歴史から学び、一連の事象の教訓を一連の事象に応用している。古典・歴史からの教訓は歴史のそこここで意識的・無意識的に伝授されている。
    ③歴史は予見不可能である。
    →歴史家は一般化することで将来の行動に道案内をもたらす。かりに学校で2、3人の子どもが麻疹にかかったとすると、この感染症が広がるだろうと人は推論する。この予言は過去の経験からの一般化にもとづく指針である。
    ④歴史は人間が人間を考察するものだから、必然的に主観的である。
    →現在の歴史家と過去の事実の間で相互対話が働き、歴史家の観点が観察対象に影響して修正を生じることがある。これは物理学における「観察者」の概念と同じである。ただし歴史は、人間が主体であり客体である点で、科学と少し違う。
    ⑤歴史は科学と違って、信仰と倫理の問題と密接に関係している。
    →特定の歴史的事情の説明に神を持ち出すことはできない。歴史家は神というジョーカーを使わず、問題の意味を自ら考えなくてはならない。また、歴史家の仕事は、ヒトラーやスターリンにたいして――倫理的判決をくだすことではない。過去の個人の過ち・道徳でなく、過去の事象、制度、政策に対して判決を下すべきである。


    4 歴史における因果連関
    最近では、歴史の法則や原因を語らなくなり、代わりに説明や解釈、機能的アプローチ(いかに起こったか)のほうを好むようになっている。
    歴史家は、原因の多様化と同様に原因の単純化もおこなう必要がある。

    歴史とは歴史的意義という観点からする選択のプロセスである。歴史家は数多の因果の連鎖から歴史的に意義あることを、それだけを抽出する。その歴史的意義なるものの基準は、歴史家がその因果の連鎖を自分の合理的な説明と解釈のパターンへと合わせてゆく能力のこと。歴史的な意義のない因果の連鎖は偶発的なものとして捨てられねばならないが、その理由は原因・結果の関係が違うからではなく、その連鎖自体が関係ないからである。


    5 進歩としての歴史
    古典的文明は基本的に非歴史的なものだった。過去という感覚はなく、未来という感覚もなかった。
    歴史に意味と目的を与えたのはユダヤ教徒とキリスト教徒である。歴史にゴールの観点があるということは、そのまま歴史の終わりを意味する。歴史は神義論になったのだ。これが中世の歴史感であったが、ルネサンス期には人間中心の世界観と理性の優位という古典的な見方が復活し、歴史は、「地上における人間の状態の完成というゴール」に向かう進歩となった。

    進歩の崇拝はイギリスの最盛期に絶頂に達したが、ロシア革命のころには「進歩」に否定的な意味合いが混じり出し、「西洋の没落」が論じられるようになる。

    進歩という概念は何を意味するか、背後にどのような前提が隠れているのか。
    啓蒙の思想家たちは歴史の進歩と自然の進化を同一視していた。しかし、歴史の進歩は数十年のスパンで起こるが、生物的進化は数千年のスパンで起こる。歴史とは習得した技能を世代から世代へ伝承することによる進歩であり、進化と進歩は根本的に異なる。
    進歩には定まった始点と終点があると考える必要はない。文明とは発明や創作といったことではなく、むしろ無限にゆっくりとした発達プロセスであり、そこにときおり目覚ましい飛躍が起きる。進歩は中断も反転も逸脱もなしに連続的に前に進むものではない。前進のときも後退のときもある。

    歴史的行動という観点から見て、進歩の本質的な内実とは何か。市民権を全員に拡張する、刑事罰を改正する、人種や貧富による不平等を撤廃するということについて、そこに進歩の仮説を適用したり、進歩の行動であると解釈したりするのは、歴史家である。行動をしている本人たちではない。

    わたしたちの判断基準は、静態的な意味の絶対、すなわち昨日も今日も、そして永遠に同一であるなにかではない。わたしたちの過去の解釈は、進むにつれてつねに修正され進化するものである。歴史におけるこうした方向感覚によってのみ、過去の事象を整理して解釈することができ、未来を見定めつつ現在の人間のエネルギーを解放し組織化することができる。そうした過去を整理して解釈する行動こそが歴史家の仕事である。

    歴史は過去と現在のあいだの対話である。より詳細に言うならば、過去の事象とようやく姿を現しつつある未来の目的のあいだの対話である。歴史家による過去の解釈も、その重要性や関連性の選択も、新しいゴールの姿が現れるのにしたがい、進化しながら見えてくる。


    6 これからの世界
    歴史家は、まだアジア・アフリカ革命の範囲と意義について評価を定める位置にはいない。アジア・アフリカの発展は、世界史の全体の見通し図における前向きの発展である。世界事情における英語圏全体の重みは確実に低下しているが、支配集団がこうした展開に目を向けようとも理解しようともしないのは問題である。

    近代史が始まるのは、多くの人々が次から次へと社会的・政治的意識をもち、自分たちの集団を過去と未来をもつ歴史的存在だと自覚して、全面的に歴史に登場するときである。先進的な諸国においてさえ、政治的、歴史的な意識が住民の過半数ほどにまで広まり始めてから、まだせいぜい200年に達しない。

    全世界を構成している諸民族が歴史のフルメンバーとして登場したとイメージできるようになったのは、そうした諸民族が植民地行政官や人類学者の関心事でなく歴史家の関心事となったのは、ようやく今日初めてのことなのだ。これはわたしたちの歴史観における革命である。

    西ヨーロッパの外と歴史の地平が広がっていることに、歴史家は気づいていない。理性への信念が英語圏の知識人や政治思想家のあいだで衰退しており、加えて、世界は永久に動いているというかつて広く浸透していた感覚が消えてしまっている。世界が過去400年の間でもっともラディカルに変貌している今、そうした状態は無為無策である。将来、英語圏の歴史家、社会学者、政治思想家が課題に立ち向かうための勇気を取り戻す日を、わたしは待ち望んでいる。

  • 大学時代に清水幾太郎訳で読んだ。美しい翻訳と言われることもあるが、当時の私には堅苦しくて途中からあまり覚えていなかった。2022年に発行された新版は講演録のライブ感を出すためか〈笑〉が多用されている。
    単純に彼が笑うだけならよいが、論敵に触れた箇所になると皮肉に輪をかけるようにもとられて、感情移入ができる。

    第2講では個人の力と限界、関係性を考えるきっかけになる。すなわち歴史とは社会的・時代的に条件付けられた歴史家が、同様に社会的・時代的な事実とのあいだで試みる対話/相互関係なのだという。

    ここをおさえつつ、科学と倫理、因果連関、進歩と読み進めると現代にも通用すると痛感する。古典的名著と呼ばれるゆえんであろう。

    あまりにも有名だが、以下の2つのフレーズは特に胸に刻んでおきたい。

    43ページ
    歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話なのです。

    86ページ
    過去は現在の光に照らされて初めて知できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。人が過去の社会を理解できるようにすること、人の現在の社会に対する制御力を増せるようにすること、これが歴史学の二重の働きです。

  • イギリスの歴史家、E.H.カーによる本書『歴史とは何か』は、岩波新書による邦訳が長らく歴史を学ぶ大学生がその基礎として専門過程の入り口で読まされる必読書の1冊である。私自身も、広義の現代史の研究室に所属していたことから、3回生くらいのタイミングで本書を課題図書として読んでいた。

    本書の主張とは乱暴の要約すれば「客観的な歴史というのは存在せず、全ての歴史というのはそれを叙述した主体による主観性から免れない」というテーゼである。これは少しでも歴史学に触れた人であれば当然のものとして受け入れられるものである。一方で歴史を学び始めた学生にとってみれば、「歴史とは客観的なファクトの積み重ねである」という教科書的な思い込みがあるわけで、そのギャップを体感する、というのが本書の教育的な意義であろう。

    本書はそんな名著の新訳であり、かつ非常に懇切丁寧な注釈や解説によって、文脈の理解が高まる手助けがされている。本書で顕著に感じたのは、冒頭の本書のテーゼが全く古びていないというのは当然のことながら、知的なユーモアを連発するE.H.カーの語り口の面白さであった。旧訳を読んだのはもう20年も前で記憶が薄れているとはいえ、こんなにユーモアに富んだ本だという記憶は一切ない。

    そうした点も踏まえて、改めて本書が歴史に少しでも関心を持つ人にとってのファーストチョイスとして、長らく読まれるということを切に願いたい。

  •  岩波新書版『歴史とは何か』を読んだのは、はるか昔の大学生のときだったが、「歴史とは、現在と過去のあいだの終わりのない対話である」という有名なフレーズに触れて、何となく満足してしまったような気がする。
     今回、新しく訳された新版を読んで、前に読んだときいかに読めていなかったかを痛感した。

     カーは第二版のための準備をしていたが、残念ながらその前に亡くなってしまった。本書の元となった講演が行われたのは1961年。その後の歴史学に関する議論の進展を考えるとどうしても古さは否めないが、各所に示唆に富む考察や見解が示されていて、今でも読み応えのある本だと思う。

     本書には、第二版準備の草稿について弟子のR.W.デイヴィスによる解説、カーによる自叙伝が付されていて、大変参考になる。

     新書版と比べていないので明確には分からないが、元々講演であったからか、だいぶくだけた語り口調の翻訳という印象。そのためか、内容はかなり難しいことを言っているのだが、その割に読みやすい。

  • 歴史学の意義やあり方を著した古典名作の新版。装丁が白赤のシンプルだけどスタイリッシュでまずそこが好き。

    1961年が初版で幾度と版を重ね読み継がれている。内容は現在読んでも決して色あせないし、愛聴しているコテンラジオにも通ずる信念を感じた。

    第一講はこの本のもっとも有名な歴史とは「歴史家とその字事実の間の相互作用」、「現在と過去の間の対話」という主張が語られる。史料フィティシズム、史料の物神崇拝、もう一方の歴史家の解釈主義のどちらに偏るでもない、相互作用的な歴史感というのが肝要である。

    第二講は歴史家は独立した存在ではなく、当時の環境や社会情勢、思想に影響を受けるもの、社会的な存在で時代の産物であると論ずる。さらに考察の対象である事象もまた社会的であり、現在‐過去を相互的に知覚され理解されるというスタンスを打ち出す。

    続く三-六講とまとめようと思ったけど断念。
    歴史における属人的な帰結、偶然の産物を考慮に入れるか?これに対しては、あくまで共通する一般的でメタ的なものを抽出することがより重要である。イギリスや欧米に重きを置く歴史観への疑問を投げかけている部分は、現在より注目度が上がってきている視点だと思いし、この指摘はこの時代には先進的で先見の明あり、鋭いなーと。

    全体的にウィットに富んだ堅苦しくない語り口で、翻訳も狙っている部分に(笑)と記載することで、軽妙な感じをばっちり表現されてくる。歴史を学ぶ意義、ただの知識ではなく現在の生活や自分の行動へと結びつくエッセンスを抽象化して築いていくことにあるのだと少し理解が深まったかな。

  • E・H・カーの『歴史とは何か』については清水幾太郎訳(岩波新書)のものがすでに存在する。
    なので清水訳と今回の近藤訳を比較していく。

    本文の読みやすさについて。
    ・清水訳が良い

    理由は単純で、近藤訳のしばしば入る[笑]という表現が著しく読了感を損ねる点である。
    たとえば近藤訳のp.4には以下のような記述がある。
    「しかしながら、一九五〇年代の文章ならすべてかならず意味が通ると信じるほどに先端的ではないのです[笑]」

    これが清水訳ではこうだった。
    「しかし、何によらず、一九五〇年代に書かれたものはみな意味があるという見方を信じるところまでは私もまだ進んでおりません」

    近藤は清水の訳に本作でも言及しており、
    その意味で清水に誤訳があったなら、近藤が直している可能性が高い。
    しかし、意味の忠実さを求めるなら原文を読むべきで、
    訳文として求める「一定程度のわかりやすさ」なら清水訳でも困ることはあまりない。
    それよりはページによっては1ページ内に[笑]が4つも書く近藤訳の方が大変読みにくい。

    注釈の読みやすさ
    ・近藤訳が良い
    清水訳では注釈は巻末にまとまっており、
    わざわざ読もうとしない限り目に入らない。
    これに対して近藤訳では注釈の内容がほぼ必ず同じページにあり、
    「わざわざ読む」という手間無しに読み通すことができる。
    注釈の内容も原注だけでなく、近藤の足したと思われる注釈、
    それこそ2022年のウクライナ情勢にまで軽く触れたものがある。
    また、より重要なのはE・H・カーの間違いを指摘する注釈である。
    『歴史とは何か』は歴史学を志すものならどのような形であれ大いに重視する文献だが、
    カーを崇拝せずに済む、という意味ではこの注釈は重要である。

    資料としての充実具合
    ・近藤訳が良い

    清水訳では新書ということもあり、『歴史とは何か』の本文の訳のみを収録している。
    これに対し、近藤訳ではR・W・デイヴィスによる「E・H・カー文章の解説」がある。
    これはE・H・カーが『歴史とは何か』の次回作を構想し、
    しかし執筆が間に合わなかったカーの資料を解説するという野心的な試みである。
    更にカーの自叙伝など、「本を読むための資料」にも事欠かない。
    この意味で近藤訳は価値がある。

    総評:読者層によって勧める訳が異なる

    初学者、大学生
    ・清水訳
    本文が素直で、また単純に文字数が少ないのは最初にふれる上で、
    読書のハードルを下げることができる。
    E・H・カーの『歴史とは何か』に最初にふれるなら、清水訳が今でもおすすめである。

    院生、歴史研究者、清水訳読破者
    ・近藤訳に目を通すべき
    清水訳の良い所は文字数が少ない所であり、欠点は文字数が少ないことである。
    文字数が少ないということは読みやすいが、情報量が少ないということでもある。
    すでに清水訳を読破した人には近藤訳の追加部分や、
    本文を改めて読んで『歴史とは何か』への考えを深めてもらいたい。
    真剣に歴史学をやるつもりなら、近藤訳を新品で買うのは高くないどころか安いと言える。


  • 現代の歴史研究が果たすべき仕事を明らかにしつつ、二度の世界大戦、共産圏の伸長を背景にしたアカデミズムにおけるペシミズムや保守主義に檄を飛ばす。

    有名な警句、『歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります』は後段で以下のように発展する。
    『歴史とは過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話』
    歴史における絶対者とは止まることのない変化なのであって、歴史家はそれ以外の絶対者を斥けつつ常に未来を意識し過去を探究することで歴史記述を進歩させる必要がある。より広い規準で過去を見つめることを可能にする。

    進歩史観を過去のものと指摘しつつも、文章の端々から人類の進歩に対する希望を感じとれる。このアンビバレンツな状態を表明するという行為自体が、一つの時代の中で生きる一歴史家である自己を理解するということだろう。

  • 複数の尊敬する方が「これは読んでおけ」とおっしゃる古典は読んでおくべきだと思いました。しかし若いときに読んだら、ほとんどわからなかったようにも感じます。

  • 手違いで2冊ある。

  • 歴史学を学ぶ上での入門書としてよく挙げられていたので購入。
    値段はサイズやページ数の関係からだろうが岩波新書版に比べてだいぶ高くなっていたが、読み切った感想としてはこの新版を買って良かったと思った。
    「歴史とは何か」本文自体は正直新版でも難しかったのだが、巻末付近の近藤氏による解説によって最低でも要点だけは掴めたと思う。
    そして第二版への草稿や自叙伝等、著者のカー氏や「歴史とは何か」への理解を深めることに繋がる文章まで収録されているのがやはり良かった。
    注釈に関してはやはり巻末より本書のようにページ中に書いてある方が読みやすい。
    おそらく注釈が巻末にあったら更に読破に時間がかかっていただろう。
    第2講にあった「歴史書を手にして、扉の著者名を見るだけでは不十分です。出版年、そして執筆年も見ましょう。」という言葉にはなるほどと思わされた。
    歴史にはどうしても著者の解釈が含まれるので執筆年や出版年からその時代の背景、そして著者のその時代の考え等を知ることによってやっとその歴史書の真意を知れるのだと実感した。

全35件中 1 - 10件を表示

近藤和彦の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ミヒャエル・エン...
カルロ・ロヴェッ...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×