- Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000245203
作品紹介・あらすじ
作家は、さまざまな場所を訪ね歩いた。ダウン症の子どもたちのアトリエ。身体障害者だけの劇団。愛の対象となる人形を作る工房。なるべく電気を使わない生活のために発明をする人。クラスも試験も宿題もない学校。すっかりさま変わりした故郷。死にゆく子どもたちのためのホスピス…。足を運び、話を聞き、作家は考える。「弱さ」とは何か。生きるという営みの中に何が起きているのか。文学と社会、ことばと行動の関わりを深く考え続けてきた著者による、はじめてのルポルタージュ。
感想・レビュー・書評
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いつも何色のフィルターを通して見ているんだろう?
飾りのない素直な気持ちなら、違う世界が見えるのだろうか?失ってはいけないもの、現実を真っ直ぐ見つめることができる自分自身の弱さ。強く生きようとすればするほど、気づかなくなってしまう大切なもの。
最後に思い出すのはチャンドラーが残したフレーズ…
"強くなくては生きていられない。でも、やさしくなければ、生きている資格はない。"詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本書を貫くテーマは「自由」。何らかが大きく欠如することによって、それと引き換えに得られる自由が描かれている。文字通り命を賭した自由もある。著者の高橋源一郎は、このいわば弱者の世界に、小説や文学に似たものがあると書いているが、その正体のひとつは、「ものすごく壊れやすい自由」なのだと思った。本書での、そんな自由を掬い上げる手つきは優しい。あと少しでも優しすぎると、かえって偽善になる。その手前に、辛うじてとどまっている。
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『101年目の孤独 希望の場所を求めて』-「101年」とはこれまで、成長を目指して歩んできた100年が終わり、緩やかな下り坂の次の100年に入ったことを象徴している。そこでの希望の場所とはどういう場所なのだろうか、というのがこの本が書こうとしていることだ。
「著者初のルポルタージュ」と帯には書いてあるが、ルポルタージュというカテゴリーにはめるのは間違っているだろう。少なくともこの本から受ける印象と射程に対して違和感がある。
高橋さんは、ダウン症の子供たちのアトリエ、障害者の劇団、ダッチワイフの製造業者、非電化の発明家、既成概念から自由な山間の学校、失われた田舎、子どもホスピス、過疎の島、を訪ねる。いずれも(括弧書きの)「弱い」人たちの話だ。
これらに目を向けるようになったのは、高橋さんの息子が、小脳炎で障害が残るかもしれないという体験をしたことから始まったことを告白している。そのときパニックとなって子どもと自身の将来について一日思い悩んだことを打ち明ける。
それは高橋さんにとって驚きであったのだ。驚きとは発見することだ。そこから、高橋さんの「弱さ」へのまなざしが生まれた。そこで「見えないもの」が「見えるもの」となった。この「弱さ」の再発見が、高橋さんの新しい何かの始まりなのだろうかと想像するのは間違っているだろうか。
息子の病気と震災とに「考え方」の深い部分を揺さぶられたときに浮き上がってきた違和感。この違和感を突き詰めて考えた先にわたしたちが囚われている「考え方」に辿り着き、そのとき視界から排除されている「弱さ」こそがもともとのわたしたちが持っているものであることを見つけることができた。
そして、その「弱い」ものが、高橋さんがこれまでの生涯を捧げてきた「文学」に似ているということを発見した。それがどういうことを意味するのか、わかったというべきではないのだろう。自分にはそのための驚きが訪れてはいない。もしかしたら、この先ずっと訪れないのかもしれないし、それが訪れるのは、「老い」が避けがたく進んでいることに気がついたときかもしれないし、死が自らか、自らの大事にするものをほとんど捉えようとするときなのかもしれない。
余命が限られた子どもたちが集まるマーチン・ハウスのスタッフがいった
「世界中が、ここと同じような場所だったらいいのにね」
という言葉に対して、高橋さんは、「わたしもそう思う。そして、どうして、そう思えてしまうのか、わたしにはわからないのである」と書く。
高橋さんの次作は、『弱さの思想: たそがれを抱きしめる』らしい。「弱さ」の肯定の思想が高橋さんが向かおうとしている場所なのだろうか。その場所は、文学の「鍵」ではなく、「文学」そのものとつながるのかもしれない。それは、ある種の「老い」を「衰え」を肯定する思想かもしれない。そこに何か肯定的なものを期待させてもらってもいいだろうか。
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※ 原発推進・擁護派への有効な批判は、価値観の転換でなくてはいけない。原発廃止にしても新再生エネルギーで対応は可能ということや、原発廃止がなぜか経済成長につながる、というのは明らかに間違っている。
この本が書かれるきかっけのひとつは原発事故なのであろう。これまで高橋さんが原発推進に反対の立場(それほど単純ではないが)であるように感じてきたが、この本を読んでその理由がわかったような気がする。
同質性を強制し、欲望を生むことで推進力とするグローバル経済の中で、その構想が実現可能であるのかはわからない。それでも「弱さ」の肯定こそが、原発推進の「考え方」に対置するべきものだと考えているのではないか。
そして、わたしはいまだ「弱さ」を決して肯定できていないこともわかるのである。
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※ 2014年1月の段階で孤児保護施設を描いた日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」への抗議が激しくなり、スポンサーがCMの放送を自粛する事態にもなっている。この動きは、「弱さ」の否定だ。
「弱さ」の肯定の立場に立つのであれば、抗議ではなく、その「弱さ」が見えるようにすることが必要だろう。一方、「弱さ」を扱うことの困難さもこの事件により示されたと思う。
例えば、死にゆく子供ホスピスの子供たちは「ふつう」の人には見えていない。そこでは、テレビがよくやるような泣かせるものにしようとする考えはない。それでは、「弱さ」を見ていることにはならない。頭の中で囚われている「考え方」が崩れることがないように見たいものを、見ているだけだ。そして、見たくないと思うものは、決して見ないものである。
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※ 「わたしたちは支配されている。なにに? 警察や軍隊に? 違う。「考え方」にだ。警察や軍隊や権力なら、それは「目に見えている力」だし、それらがわたしたちを支配する力は具体的だ。支配されるわたしたちは、それを「痛い」とか「ひどい」と感じることもできる。抵抗することもできるだろう。けれども、わたしたちの頭の中に住み着いた「考え方」に抵抗することはできない。」と書くとき、その思考の方法はフーコーに似てくる。やはり高橋さんは、「弱さ」の肯定の哲学と、それによる「支配」からの解放を目指しているのだろうか。 -
静かで優しい論調だけど,その中にとても強い思いが込められている。自由を求める旅。世界には希望にあふれた場所があることを教えてくれた。
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弱者や弱さへの視点、弱者や弱さからの視点、優しさとゆったりとした時間をもって見つめる筆者のアプローチは心穏やかな世界を感じさせてはくれる。
しかし、筆者のルポに感心するだけではなく、実際に自分がどう動き感じ受け止めるかが肝心だと突きつけられているのではなかろうか。 -
小説家が我が子の脳性麻痺に出合うことで始まった
旅の出合いをドキュメントした本である
どんな場所を選んだかというと
ダウン症の人達の絵画教室
身体障害者が集まって立ち上げた劇団「態変」
ダッチワイフのオリエント工業土屋日出夫
非電化工房を立ち上げるに至った発明家藤村靖之
南アルプス子どもの村学校
子どもホスピスマーチンハウス
チャプレンという開かれた聖職者マーク
山口県祝島の暮らしに根ざした反原発闘争
福岡市の宅老所よりあい
更に故郷である尾道を振り返り小津の「東京物語」
高橋さんは文学者であることを買い被っていないだろうか
小説は例え話としてウソを付くことで何かを伝える
手段だと考えられてもいるけれど
所詮暮らしを分断された環境に押し込められて
対等性も自在性も抵当に取られた中で
プロという権利を掴み食い扶持を稼ぐ手段を
目的化して自己満足しているにすぎないだろう
競争社会の中で弱者と呼ばれている人々は
こうした依存と権利による社会における価値観と
それによる搾取と支配従属のシステムにとって
役に立たないが故により厳しく隔離されているのである
ひょっとすると高橋さんはドキュメントだと言いながらも
社会的問題として捉えていないのかもしれない -
作家が何かを求めて世間的弱者とつながる施設・場所をめぐる旅。行き先は、ダウン症の子供たちのアトリエ、障害者の劇団、ダッチワイフの製造業者、非電化の発明家、「なにもない」学校、イギリスの子どもホスピス、原発反対デモを三十年も続けている高齢者の島。
世間からは弱者とみなされている立場の人々だが、彼らは自分自身のことを弱者だとは認識していない。ただ生を生きるのみである。そこに濃密な時間が生まれる、と著者の高橋氏は感じている。すぐそばに死が生々しく控えているからこその濃密な時間なのだけど、生老病死が遠ざけられてしまった現代の日本で、その濃密さを感じるのは困難だ。「死」に代表される弱さを追い払った時点で、「生」もまた貧弱なものになってしまい、あとに残るのは孤独。
これから長い斜陽の時代が始まるということ、斜陽の時代をより良く生きることは可能だということを教えてもらった。 -
趣味でボランティアを続けていて、それを話すたび「弱い人を助けたいんだね」と言われ、うまく言えないけどそれは違うと思っていた。
最近は「隠されている世界を知りたいから」「知った気になってその世界に飛び込んだけど、本当は何も知らないしできない自分に気づきたい」というのが自分の答えかなあ、とようやく考えがまとまりつつあった中で読んだ本。
弱さと自由。社会の構造。私は、隠されている知らない世界のことをもっと知りたい。その先で、自分に何ができるかみつけたい。とても分かりやすい文章で、だからこそ著者が伝えたいことがストレートに胸に響いた。 -
高橋源一郎氏はとてつもなく困難な方向へとチャレンジしている。それはとうてい到達不可能な場所なのかもしれない。だが到達不可能であることをわかっていながらチャレンジするという行為にこそ意味がある。
本書は元雑誌掲載という制約上からか、それぞれのテーマの扱う問題に対して、ページ数が物足りないような気もした。ルポという形式をとるのであれば、高橋源一郎氏自身の想いだけではなく、もう少し、その想いへとつながるための周辺事実を積みかさねた文章のほうがリアリティが出るだろう。
ために、少しセンチメンタルというかエッセイのようになってしまっているところが難。
でも、いい。僕は氏の本を読むと心が若返るような気がするのだ。 -
「弱さ」をテーマにしたエッセイ?帯にはルポルタージュと書いているが。なぜ「101年目」なのか?100年が上りなら101年目から下るということか?世に言う「弱さ」が実は「強い」ものであり、それが著者の「文学」の礎であるとしめられる。