ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』という戦い

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (366ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000240635

作品紹介・あらすじ

ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』において自らの『論理哲学論考』を乗り越え、哲学問題をまったく新しい光のもとにおいた。従来の問題に新たな解答を与えたというよりも、むしろそっくり哲学の風景を変貌させたのである。読者は、本書によってその光のもとに導かれ、『探究』が開いた哲学的風景に出会うだろう。

感想・レビュー・書評

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  • ほとんど(いや、まったく?)誰の助けも借りず、誰の威を借りることもなく野矢茂樹はウィトゲンシュタインの畢生の大作『哲学探究』と戦う。ここで行われている議論は野矢のこれまでの著書の議論とシンクロするところがあり、そこから大きく前進したわけではないにしろベースに立ち返って徒手空拳で考え続ける姿勢に感心する。これこそウィトゲンシュタインが『哲学探究』という著書を通して教えたかったことかもしれない、とさえ思った。故に、この本を読むことは自分なりの哲学の「型」を見つけ、それを鍛え上げ「実践」することではないかと思う

  • 系・院推薦図書 総合教育院
    【配架場所】 図・3F開架 
    【請求記号】 134.97||NO
    【OPACへのリンク】
    https://opac.lib.tut.ac.jp/opac/volume/468142

  • 野矢は『探究』を『論考』との戦いという線で見ており、それゆえ対比がしっかり示されていて、『論考』の凝縮された解説にもなっている。また、ラッセルやロックなど『探究』の論敵になっている考え方も詳しく述べられ、『探究』の問題意識がよりはっきりしてくる。特に本書にも「『探究』における最も標高の高いピーク」とあるとおり難解な、規則に従うこと・規則のパラドックスをめぐる185〜242節を丁寧に扱ってくれるのはありがたく、わかりやすい解説だ。加えて、原著を読んでもピンとこなかった、数列と「読む」を巡る理解と体験の151〜184節、像理論と願望・期待の志向性の文法428〜490節についても、一定の読みを与えてくれる良書だった。
    言語の意味は、対象と名の唯一の結合ではなく、状況と文脈の生活形式における使用である。言語という単一の論理規則があるのではなく、日常言語、外国語、図示、身振りなど様々な言語が、それぞれ言語ゲームを織りなしている。ゲームは、共通の要素を持つわけではなく、一家族の構成員のように部分的にそれぞれが類似するので、家族的類似性をもつ。言語ゲームの規則(語の使用規則=文法)に従うことは、人間本性と訓練に基づく生活形式を共有することが条件となる。意味が問題となるような、理解の瞬間、言語規則の規範性、私的言語としての痛み(感覚)、閃きや言葉を探す非言語的な思考、心の中で話すこと、私、命題の像、期待・願望の心的概念、意志、意図、意味。これらはすべて、対象と名の意味の同一性に還元できるものではなく、常に変化する言語ゲームにおける人間の使用としてはじめて示されるものだ。逆にいえば、各人において把握しているものが異なっていても使用上問題なければ成立する。文と使用の間にに心的な意味の力という影が介在するのではなく、慣習において慣れ親しんだ道具のように文が直接使用されることで、あとから説明や訂正のために意味の理解・規則が取り出されるのである。『論考』の論理の形而上学に通底する、アウグスティヌス以来の意味の形而上学を批判し、言語ゲームという新しい哲学を打ちたてる。心の中へと神秘化する哲学の病を、体系構築や単なる反論ではなく、問うことで、読者に考えさせ、自ずから治癒させる。術語がほとんどない平易な文であるのに、これほど難解に感じられるのは、自問自答と体系づけられていない文体もある。しかし、メタ視点と心の中の通俗的な安住から、言語を使用の関係へと引きずり出すことへの抵抗だろう。人が自身で思考するよう励ます書物だ。
    節の大まかな区分…1〜133言語ゲームと家族的類似性、134〜184理解、185〜242規則と生活形式、243〜315感覚、316〜362思考、363〜427想像(「これ」と私)、428〜490像と文法、491〜568意味と絵画・音楽、569〜610期待、611〜660意志と意図、661〜693意味
    ・はじめに
    『哲学探究』は、哲学の専門家たちでさえ読もうとして跳ね返される。晦渋な表現はないのに、何が書かれているのか、なぜそんなことを言うのか、断片的考察がどうつながっているのか。『探究』で目の当たりにするのは、哲学問題と格闘するウィトゲンシュタインの姿。『探究』は、読む人がその人自身の思考へと促されることを望んでいる。
    ・1
    買物と建築現場の言語ゲームは、現になしている言語実践についても、言語と行動の結びつきを示す。言語の諸現象を、語の目的と働きが見渡せる原初的言語使用において検討すれば、霧は晴れる。自分に言い聞かせている。
    哲学は問題を治療する。答えではなく、問題はなかったと解消すること。前期後期一貫している。考察は偉大で重要なものを壊しているように見える。途方に暮れている哲学問題から、蠅に蠅取り壺からの出口を示すように。哲学の完全な明晰さは、問題の完全な消滅であり、真理ではなく禍々しいものに取り憑かれた人を祓い清める活動。『哲学探究』は治療の報告。
    言葉は意味をもつ、という病。アウグスティヌス、大人が物を指差して呼ぶのを見て、名前の意味を理解した。これは、人間の言語の本質についての像を示しており、言語において語は対象を名指している、文は名指しの結合だという考え。言葉の意味を世界との関係で捉えること。『論理哲学論考』のアイデア、自動車事故の裁判の記事を読み、法廷における自己の再現模型。代理物があるからこそ、様々な可能性を試すことができる。『論考』は、哲学問題が思考の限界を超えていることを示し、思考不可能であることと結論した。模型は現実の対象を代理し、可能な事態のあり方を表現することで、世界の可能性を思考することができる。日常的に使用している代理物は言語。語は現実の対象を名指している。『探究』はこの『論考』の基礎を打ち壊す。リンゴのメモは、店員がそれと似た記号が書かれたケースを開けたのであり、ここにリンゴの語の意味は関係ない。ものごとのあり方を描写することは、言語の重要な働きの一つだが、それだけではない。
    命令は、世界を記述する記述文の理解がなければ実行できない。「しかし」「ゆっくり」は世界記述、つまり文の真偽に関わらない。語は意味をもつ→語の意味とは世界記述であり真偽が言えること→語の意味は文の真偽に関わるもの。
    →科学的命題のみが本質的な言語となる。
    『論考』では、事実を構成するもの全てを対象と呼び、対象を代理する語を名と呼ぶ。赤い、も性質を表す名。文は名のみによって構成され、事実は対象のみによって構成される。名は対象を代理する。
    建築現場の言語ゲームのような単純な言語で「語の意味」を考察する。ブロックの意味を、指差して語を発する過程を、直示的な教え方と呼ぶ。しかし、助手が親方へ運ぶためには、それだけでは不足する。8節で、数詞と「そこへ」「これ」が追加される。そこへ、これは直示そのもののため、指差しできるものではない。対象の名前ではない。直示不可能。その語を用いた活動つまり言語ゲームを教えなければならない。
    →使用
    ブロックを思い浮かべるだけでは運べない。言語ゲームを習得しなければ語の意味は学べない。語が対象の意味として始まるわけではない。
    ・2
    普段の言語使用で、命名や名指しが行われていることは、語を対象の名とする発想の発生源。2は直示的に定義しうるが、このクルミのペアが2と呼ぶのか、逆にそう命名したいときに誤解されるのか、様々に解釈されうる。『探究』の対話相手は、治療しようとしている相手であり、ウィトゲンシュタインは1人で様々な考え方を俎上に載せ治療を探る。
    直示的定義を起源とすることと、語を対象の名とすることは区別されねばならない。直示は名を前提するが、名は直示的定義かどうかは無関係で、名指せる単純な関係ではないというのが『論考』の立場。外的な性質(その対象が偶々もっている性質)は必要ないが、内的な性質(そのものが必ずもつ性質)は全て捉えなければならない(2.01231)。
    →論理空間における、文としての構造を前提としてはじめて、名は分節化される。
    外的な性質、そのリンゴが赤。内的な性質、リンゴが色、重さをもつ。内的な性質は、リンゴが赤い、実っている、がナンセンスでないことから数詞でないこと、怒りっぽい、がナンセンスであることから人ではないことなど、全ての言葉の意味がわかっている必要がある。一つの直示的定義を成立させるには、言語全体の理解が必要というのが『論考』の結論。原子論的ではなく、全体論的。語と語の有意味な結びつきが文を作り、網の目を構成する。語が結び目、文が網の糸。世界の結び目は対象、網の糸は事態可能性。語が対象の名であるのは、言語全体と世界全体の重なりを背景にしてのこと。
    『論考』の言語観では、子どもは小さい言語を学び、新たな言語を習得するたび、他の語との関係で言語全体を拡張していく。しかし、『探究』では、最初の小さい言語の語を問題とする。具体的に赤などを直示的に「定義・説明」するための色、数、長さについても、建築現場の言語ゲームのような直示的な「教え方」が必要。名前を尋ねるための名前を知る。人間本性を利用した訓練。これは説明や定義のレベルにとどまる『論考』には欠けていた視点。直示的定義だけでは、何が名指されているかわからないので、言語学習はスタートしない。名前を尋ねるためには訓練が必要。数という語が必要かどうかは、誤解されるかどうかにかかっており、それは状況と人による。この当たり前のことは、厳格な論理を前提した『論考』や本質を見抜こうとする眼差しには、視野に入らない。
    ・3
    「これ」は真の名前であるという言説は、論理を順化する傾向、バートランドラッセルの理論。ただ一つの対象につけられた名前は固有名、記述は確定記述という。固有名はその対象が存在しなければ無意味となる。他方、確定記述は、記述された事態の可能性があれば有意味である。そこでラッセルは、固有名の意味はその名指す対象であるが、確定記述はその記述が当てはまる対象を名指す言葉ではない、とした。確定記述を述語として捉える、「水星より内側にあって太陽に最も近い惑星」を「〜は水星より内側にあって太陽に最も近い惑星」に。主語は対象がなければ無意味になるが、述語はそうではない。主語は「あるもの」となり、文が有意味であるからこそこれは偽となる。ここからラッセルは、哲学が存在しない確定記述を主語にし、存在すると思い込んで、誤った形而上学に陥った、したがって確定記述は主語ではない、とした。
    また、かつて存在した固有名は、「〜をした人」と確定記述として認識されている。聖徳太子は実は固有名ではなく、遣隋使を派遣した、十七条憲法を制定した、冠位十二階を定めたなど、実質は確定記述。したがって存在しなかった場合は、有意味だが偽とされる。普段固有名としているものは、「〜という性質をもっている」と分析できる。名指す対象が存在しないと無意味になる真の固有名は「これ」だとする。
    『探究』は、名の意味を対象とする出発点を拒否する。伊藤博文という「名をもった人物」ではなく、伊藤博文という「意味」は1909年に死んだ、とは言わないことから、名と意味は異なる。名前の意味は、それを用いる言語ゲームを見ることでわかる。ある語の意味とは、言語におけるその語の使用である。
    『論考』は言語だけでなく、世界の本質を明らかにする。現実の世界だけでなく、可能な事態を考えることで、非現実の可能な世界のあり方を思い描く。思考の限界を画定するため、あらゆる思考の可能性を開く必要がある。要素の分解は究極まで細かくされ、単純な要素を語で代理することによって思考の可能性が開かれる。その外にある哲学問題は無意味であると『論考』は示した。ラッセルの確定記述も、固有名が単純でなければならないという発想で、複合命題で表される対象はすべて確定記述になる。固有名をつけてもいくらでも分解できるので、「これ」としか呼びようがなくなる。『論考』では、単純な要素は思考を可能にするため要請され、具体例がなくともなければならないとされた。いずれも言語、世界、思考という大振りな言葉にたぶらかされていた。あたかも言語という単一の構造があるかのよう。様々な言語ゲームを想定することで、「ただ一つの言語」を拒否。言語ゲームでは、使用が優先されるので、単純な要素は問題にならない。例えば半分に切り分けられた将棋の駒に使い道はない。分解されたから基本的なのではなく、それは単に別の言語ゲームでしかない。『論考』の誤りは、ただ一つの言語を想定したこと。木が一つのまとまりゲシュタルトなのか合成なのかは、「合成されている」で何を指すか(どの言語ゲームか)による。椅子の絶対的単純な構成要素を語ることは無意味。『探究』47節。新しい思考の可能性とは、どのような言語ゲームが可能かということ。新たな概念が生まれれば、新たな言語ゲームが開かれ、新たな思考の可能性が開ける。言語が変化することによって思考の可能性も変化しうる。
    ・4
    言語ゲームの本質は述べていない、『探究』は本質の探究を拒否する。言語のすべての現象に共通なものなどありはしない。共通点があるから言語と呼ぶのではなく、多くのことなった仕方で血縁関係、家族的類似性にある。ゲームという概念も部分的に共通する特徴がつなぎ合わされているだけ。家族的類似性、部分的な類似性によって一家族が形成される。
    絶縁体、裸子植物など人工的概念なら共通性質を認めることも可能だが、自然発生的概念は曖昧で家族的類似性によってまとまっている。例えば「読む」は、音読、斜め読み、気持ちを読む、空気を読む、先を読むなど様々。家族的類似性は哲学を一新する概念だが、ラッセルならそれを日常言語の不完全性とし、『論考』ならその日常言語の基底に唯一の論理的秩序があると考えるだろう。本質を探す眼鏡から、新しい家族的類似性の眼鏡へ。旧来の概念観は、曖昧の排除を守ろうとする。日常言語の多くは曖昧。『探究』では、日常言語は曖昧で問題がなく、むしろ曖昧であることが望ましい場合もある。「この辺りにいてください」は無意味ではない。厳密さの眼鏡の方が不良品。
    子供にゲームの概念を説明するには、いくつかのゲームを描写する、あるいはその類のものをゲームと呼ぶと伝える。曖昧な概念を理解するとは、曖昧なものとして理解するということ。「こういうもの」と見本を用いた説明は、最善のもの。ジョンロック『人間知性論』、一般観念説、見本は一般観念(普通名詞)を形成するための補助手段。犬という語は、犬一般を表す。現実には個々の犬しかいないので、犬一般は心の中にあるということになる。一般観念を形成しやすい実例を示すこと、それが見本を用いた説明ということになる。
    →私、が基準になっており、使用における関係によって決まるため一般概念は単一ではない。
    しかし、見本の中に一般観念はない。見本がないときに、一般観念が見本の代わりをするという意味で、むしろ一般観念が補助手段。見本と同じなら例外がなくなる、違うならどのように違うのか厳密にすることは不可能。犬一般の観念の耳は垂れているのか立っているのか。心の中に問題をやって解決した気になっているだけ。必要なのは、一般観念の形成ではなく、語の使用と、言語ゲームに参加できるようになること。
    言語使用は正誤の使い方があるので規範的活動であり、語は対象を表すものでなければならない。しかし、第一に日常言語は、家族的類似性の「曖昧さ」で構成されており、規則で捉えるのは不可能。そして、第二に規則は我々の行動を「完全には規制できない」。規則に定められていない想定外の事態のとき、規則は機能しない。規則は道標である。役立つが、全てを規定しない。カーブ手前の真っ直ぐの道標は、道なりなのか突っ切るのか。説明は誤解を取り除くのに役立つ。疑い出したらきりがない(デカルト的懐疑)。道標は通常の状況で目的を果たすなら何の問題もない。道標も規則も迷いやすいところで立てられる。
    規則的な論理は、命題(文の内容)の意味において成り立つ、という幻想。『探究』では、日常言語をその乱雑さや曖昧さを含めてそのままに受け止めることが目指される。買物、建築現場の言語ゲームでは、意味は問題にならず、文脈における行為に力点が置かれている。論理は、明らかになった結果ではなく、一つの要請にすぎない。ツルツルした純粋な氷の上でなく、ザラザラした大地の摩擦の上を歩かなければならない。これまでの論理観は、道標を隙間なく立てる厳密さ。
    ・5
    ブロックの一般観念形成が、運ぶ言語ゲームを成立させる、という考え方は、理解の概念を誘惑する。何を理解するのか、という問いは罠にかかっている。それは観念、意味を求めること。意味を一瞬で理解することと、時間をかけてなされる使用が言語ゲームで起きている。使用法ではない。使用法を理解することとは、従っていれば正しい使用が導かれるいわば水源地を把握すること、存在しない規則。ある語を聞いて同じものを思い浮かべても、異なった仕方で使用する可能性がある。ある語の意味の正しい理解を決めるxを設定しても、それに従っているかを決めるyが必要、それに従っているかはzが、と無限に続く。『論考』で崇高化されたxを『探究』では世俗化する。実は、わかった!という経験は理解ではない。
    →理解は一瞬ではなく、使用で証明される。
    数列は一定の規則を理解すること、各項を求める関係で、理解と使用の好例。あらゆる数列の中で、自然数は特別。子どもに1〜9と桁が上がる仕組みを教えることになるが、問題はどれだけ数えても言わざるを得ない「以下同様」をどう教えるか。あらゆる数列の前提として自然数がある。自然数は理解するものではなく、身につけるもの。訓練。100まで数えたら101,102と続くのが人間の本性だが、それを備えていない子どもは数えることは挫折するしかない。数列から差がわかったり、一般項の数式を見出しただけでは、理解したことにはならない。数列を学んでいるという状況が必要。思いつきで次の項がわかっても理解したことにはならない。理解した状態へと変化することが、誤解を生む。心の中ではなく、場面を見る。
    「読む」という問題。意味を全く考えず読み上げること。あてずっぽう、元々知っていたなどとどう違うのか。ウィトゲンシュタインの面白さ、大きな魅力は、今まで誰も悩んだことのないような問題を取り出す眼差し。読み上げ機械のようなものとの対比で、入力の有無を考えることができるが、そのためには脳を調べなければならない。しかし、日常生活において視神経脳状態を調べることなく区別しているので、読み上げることと視神経脳状態は独立している。子どもに教えた読み上げの判断も、あくまでも状況とその子の反応を観察してなされる。いつ読み上げができるようになったのかは、答えられない。読み上げ機なら正常に作動したときと答えられるので、機械との対比は不適切。
    →読み上げも、理解も、状況文脈の使用において証明される。私の心の中ではない。
    読み上げるとは、できごとや状態ではない。パンが焼き上がる、ならパンの状態。読み上げているかどうかの区別は状態ではない。どのような過程で読み上げるというのかは『探究』には書かれていないので、本書で踏み込む。文字と声の結びつきは、文字が書かれていることによって声を発する因果関係が思いつくが、そうではなく、なぜ読み上げるかと聞かれたときに書かれている文字を挙げる理由関係にある。ウィトゲンシュタインは、『青色本』でも原因と理由の区別を重要視している。原因は、できごとAがBを引き起こす、できごと同士の関係。理由は、ある行為や判断を正当化するもの。薬を飲んだから痛みが和らぐだろう、のような同時のものもある。
    →原因AによってB、理由AなのでB。A→Bが必然的か、BからみてAが正当化しうるか。読み上げることは、文字があれば必ず起きることではない。
    読み上げることは、書いてあるからという原因かつ理由。しかし、読み方の正誤があるので規範性をもつが、因果関係は正誤は不要。読み上げるとは、正しさを確認したり、訂正したりする活動と結びついて成り立つ。
    「今わかった!」という言葉もできごとや状態ではない。合図。意味を理解する一瞬と、時間をかけて使用することの差は、理解が報告ではなく叫びであることにある。曲の出だしを思い出したときのような、「オーケー大丈夫」というゴーサイン。「よし書けるな」という見通し、やってみなければわからないが、ゴーサイン。わかった続けられる、というのは、頭の中の報告ではなく、未来に向けての合図。心の状態の記述とすると完全に道を誤る。意味の理解は、言葉の意味を求める考えの源泉。わかったというのは、言語使用を説明する基底の論理を把握したことの表明。
    ・6
    言語使用は、規範的活動であるので、規則として表現される。『論考』は言語の論理の規則が存在すると考えていた。しかし、4章のとおり、第一に見本で示さざるをえない「言語の曖昧さ」と、第二に常識的な範囲内に縛られる「規則の不完全さ」から言語使用の規範性すべてを規則で説明するのは不可能。+2の数列で1000以上で+4してしまう生徒。すべての適用を導いてくれるような、「理解されている何か」などありはしない。規則は、いかなる行為も解釈で一致させることができてしまい、矛盾も可能になるので、一致も矛盾もなく、行為の仕方を決定できない(規則のパラドックス)。記号に反応するよう訓練されている。心の中の意味ではなく、道標と身体反応の直接的結びつき。建築現場の言語ゲーム、親方の音声と助手の行動の結びつき。+2という文字模様に対する、本性と訓練による反応。+4が自然な反応。規則に従うためには、道標を使い続けるというような慣習が必要。規則に従う、報告、命令、チェス、これらは慣習(継続的使用、制度)。暗黙のうちに示される規則は、実際に使用する中で把握するしかない。規則が口頭か記述されたものを規則の表現という。芸術や信仰対象などではなく道標として使われる場合、道標は規則の表現となる。規則の表現が「意味するもの」が規則なのではない。それは意味をイデア、観念、心の中とするものだ。規則は道端、壁、本棚にある。使われる規則の表現そのものが、規則。規則の表現は、それ自身では意味をもたず、使われることで規則となる。規則の表現を使用するとは、ある行為の従う・違反を判断すること。成文法は、法の表現だが、重視される判例が法の実質であり、それは慣習。また、野矢によれば、道標に対して、一様に反応として従うのは原因だが、規則として用いることは行動の理由となる。
    規則のパラドックス、規則は行為の仕方を決定できない。+2の命令も1000以上で+4と記述しうる。教訓二つ、本性と訓練の重要性と、解釈の無力性・解釈によらない規則把握。本性が異なるのか、解釈が異なるのかという違いがある。解釈で意味は定まらず、場面に応じて従う・違反を決める解釈によらない規則把握がある。規則を見てとる、知覚すること。逆に規則を読み取ることは、解釈することで、誤解とされるような無数の解釈がある。正しい根拠は何かという問いを拒否し、解釈はなく、規則は見てとられている。フライパンを、楽器ではなく、調理器具として使っている(調理器具として見ようという解釈ではない)ので、調理器具の相貌として見る。行動の正誤を評価する理由として使用され続けることにより、規則としての相貌を端的に解釈によらず見てとる。つまり、慣習が必要。相貌は野矢の理解。
    規則は行為を決定しえないという規則のパラドックス。+2という命令を1000以上のとき、端的に+4と見てとるルートヴィヒは「本性と訓練の重要性」を、+4と解釈するアーロンは「解釈によらない規則の把握」を示唆する。
    →天然かひねくれか
    規則に従うこと185〜242節は『探究』における最も標高の高いピークを迎える。
    規則に従うとは、第一に、本性と訓練に基づき、規則の表現に対して盲目的に反応するようになっていること。第二に、解釈によらない規則の把握は、場面に応じて従う・違反を判断して示される。解釈は無限にあるが、一つに収斂するため、そこから意味、理解、規則の単一性を幻想する。迷ったとき間違えたときのみ説明、規則の表現の参照がなされる。規則に従うとは、解釈によらない反応と、それを正誤評価する「実践」。「われわれ」として規則に従うことができるのは、本性と訓練が一致しているから。これを生活形式と呼ぶ。正誤は人々が語ることに対して言われ、言語において人々は一致する。意見の一致ではなく、生活形式の一致。生活形式は所与で、そこからスタートする。規則に従うことが成立するためには、生活形式を共有する「われわれ」が形成されていなければならない。したがって、規則に私的に従うことはできない。
    ・7
    規則の成立は、本性と訓練によって規則の表現への反応が一致することと、規則の表現を行動の理由とする正当化の実践があること、による。他人の痛みは分かりえない、という懐疑論は、他人の痛みについて語る日常生活からみて端的に間違っている。
    痛いという語は、本性と訓練だけでなく、痛いという語を用いた新しいふるまいの言語ゲームが必要。泣き声や呻き声に過去形否定形三人称はない。痛みが知りうるかの対立は、経験によって真偽が言える経験命題ではなく、言語ゲームでの使われ方を述べた文法命題。「痛みは他人に知りえない」という懐疑論は、文法命題。知りうるという日常言語の文法命題。
    ある種の感覚にEと名づけカレンダーに書き込む。これは呻き声レベルにとどまる。野矢は、痛みを語るためには、人称と時制が必要とする。Eと記すことに文法すなわち言語ゲームの規則はなく、正誤もない。私の記憶が正しいかどうか決められないし、今の感覚は過去に経験していないので比較できない。
    各人がカブト虫と呼ばれるものが入った箱を持ち、自分だけが確認できるとすると、バラバラなものが入っていても、空であっても個別に定義され、言語ゲームに属さない。対象と名が結びつかない。カブト虫は痛みと読み換えることができる。ただし、「痛み・感覚は存在せずふるまいだけがある」という行動主義ではない。なぜなら、泣き声呻き声を引き起こす何かではあるからだ。痛み・感覚という共通の同一性が存在するのではなく、使用の中で決まる。
    →犬という語の意味のように、各人において痛み・感覚が異なっていても使用上問題なければ成立する。
    痛みという同一の語を使うから、痛みという感覚の同一性が形成される。痛みという語を用いた言語ゲームが、その感覚に痛みという意味を与える。
    ・8
    非言語的な思考は可能か。私的言語は不可能であるため言語は公共的であり、思考に言語が必要であれば、思考も他者へ開かれたものとなる。逆に非言語的な思考が可能なら、思考は純粋に心の中だけにあり、他者を排除し意識に閉じこもろうとする哲学者に居場所を与える。
    「あ、そうか!」という思考の閃きは、まだ言葉にならない瞬間という意味で、言語以前の思考か。また、歌詞の意味を考えず歌うこと、発声練習など、考えずに話すこともある。考えることと話すことは別もので、言葉に意味=生命を与えるのが思考ではないか。そして、思っていることにぴったりの言葉が見つからないとき、言語以前の思考があるように思える。
    しかし、ウィトゲンシュタインは、思考という非身体的過程が、語ることに生命と意味を与えているわけではない、とする。
    思考の閃きは、メモに凝縮される。ウィトゲンシュタインはそれ以上は書いていない。自身で考えるしかない。第一に、メモの一言が記憶を呼び起こす、再現のきっかけ。第二に、メモ書きが新たな考えや言葉を生むヒントになる、産出のきっかけ。ウィトゲンシュタインはどちらかといえば後者を指している。「ここから進んでいける」、まだ何もはっきりしていない。言語以前の思考があるわけではない。
    →理解の瞬間と同じ。
    考えて話すことだけでなく、考えずに話せるので、思考と話すことは別と思えるが、非言語的な考えだけを生じさせることは不可能。
    →話さずに考える、ということが、声に出さないだけでなく、言語を介さない思考。
    哲学に仮説はあってはならない、説明の代わりに記述。仮説が問題を生むので、仮説を不要とする明瞭な記述が、哲学問題を消す。考えずに話すことと、考えて話すことの違いをウィトゲンシュタインは多くは語っていない。「確信をもっていうこととの類比を考えてみよ」。確信だけを取り出せない。口調の違い。考えなしに演奏する場合と同様。ジグソーパズルのピースが相貌をもつのは、図形背後の思考ではなく、他のピースとの関係だ。はぐれたピースでさえ他との関係を視野に入れており、それ自体で把握するなら無相貌。「ペン先がだいぶくたびれてきたな。でもまあまだいけるか」と読むとき、それを取り巻く部屋、机、書きものを想定する。発声練習として読み上げるとその物語は遮断される。考えて話すとは、周りの関係を想定すること。断片的で脈絡がないとき「考えて話せ」と言われる。数列の続きを想像することも相貌を把握すること。あるピースを与えられたら自動的に取り巻く絵柄を想定する。
    ぴったりした言葉を探すとき、先行する思考があるかに思えるが、「言葉を話す意図」である以上、言語が前提となる。定規とコンパスという道具を使って、角の三等分を考えて不可能だったときと同様。さらに、「ぴったり合う」には、ボルトナット、シャツの色、料理と酒、収入収支、韻、敬語、子供向けの話し方など様々ある。ジグソーパズルのピースはぴったり合う。一つの文は、他の文と結びつき、文を用いた活動とぴったり合う。典型的な物語の内で捉える。
    →ぴったり合う言葉には、先行する思考ではなくて、状況・文脈がある。一致ではなく、合致、当てはまる。
    ひとは語ることから思考を剥ぎ取れない。心の中で語るとは何か。暗算は、筆算や声に出して行う計算を学んだものだけが学べる。暗算しかないのであれば、頭の中の「計算」と呼ぶことができない。計算の概念がなくなる。したがって、心の中で語る「内語」もまた、公共的な言語を話すことができる者だけが可能。内語に対する規準は、語ることと、行動。態度、表情、口に出したことは、内語の証拠。証拠は、ふつう証拠といわれる経験上のつながりの関係の徴候と、概念上のつながりの関係の規準に分かれる。夕焼けと翌日の晴天は経験上のつながりがあるが、晴天はその日の空でわかるため、夕焼けとは独立している、これを徴候。A→BであるがAとBは独立、Aは徴候。
    →徴候は、理由に近い。別の事象。
    上空から水滴が降ることと、雨の概念は独立していない、これを規準。A=B概念、Aは規準。
    →同じ事象、概念化。
    内語という概念は、態度・表情・発話という規準のあり方に依存して形作られている。
    →言語使用があるから心の中で話せる。私的言語と同じ。
    内面的な過程は、外面的な規準を必要とする580節。心の中の「それ」を、痛み、思考、内語、感情、意図など意味付けるのは公共的な言語ゲームである。本質は文法に表現されている371節。対象は、言語使用によって意味を与えられる。
    ・9
    頭痛、思い、眺めは、私だけがもっている「これ」。意識の中の世界の観念論、さらに純化させれば、私だけの世界の独我論。哲学的病。
    →ウィトゲンシュタインの哲学的病を共有しないと、何が問題かわからず、議論についていけない。
    そして、私の視覚イメージに私はいない。視覚上の部屋の中にはその持ち主を見出せない399節。「これ」は私の意識の世界。観念論、主体の数だけ世界がある。独我論、視覚風景だけが存在する。しかし、普通に考えれば、「これ」は視点による見え方の違い。たしかに、ある対象がどう見えるかは、見る人の位置、身体状態、知識、価値観などあり方に依存する。だが、細かく言わなければ同じ見え方を共有しうる。本を取ってもらうとき、本の見え方の細かい違いは不適切で、同じ本があること見ている。位置や視力が問題になる場合も、その場面で何に関心を向けているかに依存する。視力検査など主体のあり方に関心があるときは、主体のあり方を示す。ふつう知覚主体が地、対象が図だが、視力検査では図地反転が起こる。知覚主体のあり方は、位置、方向、身体状態、知識、価値観。これがウィトゲンシュタインのいう新たな捉え方。新たな語り方、新たな対比、新たな知覚経験、新たな捉え方、これらは新たな対象を見ることではない400-401節。
    →対象か主体への関心の向け方にすぎないのに、観念論独我論では「これ」を特権化する哲学的誤解が生じる。
    哲学における「2人の人が同じ知覚経験を持つことはありえない、ゆえに私だけが〈これ〉をもつ」という無制限な厳密さの要求から解放しなければならない。
    日常言語では、私はいまここにいる、ということはアプリオリに真。しかし、『論考』における「私は私の世界である」というとき、私はいまここにいない①。認識主体を抹消する自己中心的語法②、私は部屋を見ている→部屋の視知覚が存在する、彼女は部屋を見ている→彼女は然々の仕方でふるまっている。私だけが見ている視覚上の部屋、部屋の視知覚③。「私だけがこれをもっている」と「私と他人は同じものを見ることができる」という像の衝突。②から③自己中心的語法は、視覚上の部屋の発見ではなく、新たな語り方にすぎない。言い換えても何も変わらない。視覚上の部屋のような、私の世界には帰結しない。
    私は痛いというとき、観念論独我論では私という語の対象はいない。そうして、私は世界の一部でなく、世界を超越あるいは世界そのものと考えるに至る。「私は痛い」というとき、痛みを感じている人物を指し示しているわけではない404節。彼女は痛みを感じている、は状態の記述だが、私に関しては痛みは叫び、あるいは呻きであり、人物の状態の記述ではない。見られた私は、見ている私である。右手と左手をあわせると、さわる私とさわられる私は同一。机に触るとき、私と机は同一空間にある。視覚を触覚に近づければ、机を見るとき、私と机は同一空間にある。あたりまえのことをあたりまえに言える、私はいまここにいる。
    ・10
    『論考』『探究』の像概念は別物ではない。『論考』では、言語は模型であり、語が対象を代理し、語が組み合わされた命題は対象の事態を表す。表現されたものが像。命題と思考が世界の像である、像理論。『探究』では、像理論を廃棄し、言葉の意味はその使用であるという使用説で捉えられる。しかし、『論考』でも使用を強調したので、たんに転回ではない。『論考』、使用されない言語は意味をもたない3.328。『論考』の誤りは、使用の軽視ではなく、言葉を像とすることで言語使用を捉ええたとみなした点。老人が坂に向かっている像を、登っていると見るのは、われわれは後ろ向きに下らないからにすぎない。像が特定の使用を強いるが、そうでない可能性もあることは、『論考』では無視された点。これは、規則のパラドックスに関連する。規則に従うとは、イデア的な規則があるのではなく、規則の表現に対する反応にすぎず、本性と訓練によって反応するようになっている。野矢としては規則を像と呼んでよいとする。老人の絵のような数列を静止画と捉える。『論考』は本性や生活形式を視野に入れていなかった。像と言語使用の論理関係をアプリオリな秩序と捉えていた。像Bildは、『論考』『探究』でも絵。『論考』では肖像画のような写実に限定するが、『探究』では「こんなふうになっている」と示す風俗画のような絵も含む。風俗画は、正確さではなく、時代・地域の生活や活動のあり方を表現する。文と比較されるとき、取り巻く大きな脈絡が示唆される。名を聞くと像が思い浮かぶ37節。だから、ひとは一般観念説に誘われる。像は特定の仕方で言葉を使用するよう促す。道標。言語使用の規則も像。言語使用の場面を一挙に把握することは不可能なので、像に頼る。だが、像は生活形式に依存するものなので、論理的に導くものではない。像は、物語を知ってはじめて何を言いたいのかわかる挿し絵にすぎない663節。思考は考えている間、断片的な動画を与えるだけで、無限数列を続くままに有限の時間内で思考することはできない。
    像=意味という哲学問題の発生源。言語が描く像は、使用においてはじめて意味をなすのであって、描いた時点では意味はない。私の世界に私はいない観念論と、世界の中の私である日常言語の対立。観念論は何も示しておらず、使用できない。その像の使用はどうなっているのか?424節。『論考』「私は私の世界である」は事実で真偽を確認できないので、語りえぬものを語ってしまっている。それが私の世界だとして、私という語の使用に関して、なんら道標を立てていない。新たな思想は新たな言語を要求するが、哲学はそこに新たな言語ゲームを開かねばならない。そして「私の世界」のような像を示して導こうとすると、言語ゲームは閉ざされている。明白なナンセンスへの移行。『論考』の真偽が言えないナンセンスだけではなく、言語ゲームを開かないこと。『論考』は、その命題から言語ゲームを開かない像という意味で、梯子もどき。そして治療には、反論ではなく問うこと。また、像の出自を明らかにすることで力を弱めること。
    ・11
    音声や文字である文が、形は全く似ていない、現実の事態である事実を表す。これは、思考ではなく、言語が、「何かについての」という志向性をもつ。志向的性格の心的状態として、願望や期待がある。ある対象について表象している心の状態を「影」という。明日晴れてほしいという願望は、明日の晴天の影を含みもつ。願望はいかにして志向性をもちうるのか。月面に降り立ちたいなど、願望が満たされることは、必ずしも経験に基づくものではない。願望と満たす対象の関係は、文法的。命題Pの願望は、Pによって満たされる。重要なのは、心は介在していないということ。つまり、心的な志向性が言語の意味を支えるのではなく、言語が心的な志向性を支えるのである。期待とその実現は言語において合致する445節。事実についての命題も、何が思考を真にするのかは、言語において合致する。語りが有意味であるために、未来の影、否定における事実の影があると思うのは、事実誤認。ウィトゲンシュタインは、それを指摘するにとどまっている。ここから先は考えなければならない。台形は五角形ではないと否定するとき、五角形の台形は思い浮かべない。命令にもどうすれば果たされることになるのか、実行の影の誘惑がある。しかし、「赤い円を想像せよ」という命令は、命令の理解が実行になり、想像が実行になる。ナンセンス。命令と実行の間に、実行の影はない。命令と実行の関係は、願望と実現同様に、文法的なもの。命題Pの命令は、Pによって実行される。従うことを命じているのではない。文法命題であり、命令が「これこれのことをせよ」という内容なら、「これこれのことをする」が命令の実行である458節。いま存在していない「影」は、文法的なものでそれ以上の何かではない、という憑き物落とし。文がどうやって表現するのかは、使っているときに目の当たりにしており、何も秘められてはいない、隠されたものなど何もない435節。現れるのはなんの変哲もない平板な事実。
    →命題-文法-像の使用(意味の理解)-行為。間になにか文の意味の理解を超えた、思考による心的で不思議な力があるわけではない。すべては言語の中で起こっている。
    肖像画を肖像画たらしめるものは、似ているかどうかではなく、その評価と修正の活動。何かを意味するとき、人自身がそれを意味する456節。意味するとは人が誰かに向かっていくようなことなのだ457節。
    →言語が意味するのではなく、人が言語を使い、意味する。
    志向性は、言語の文法の内に存する。文法は、記号を用いた人間の活動を律する規則にほかならない。
    ・12
    マルコム『ウィトゲンシュタイン─天才哲学者との思い出』、ウィトゲンシュタイン「表現は生の流れの中でのみ意味をもつ」。
    『ラストライティングス』913節、言葉はただ生の流れでのみ意味をもつ。
    『哲学探究』は、この言葉を目指したものとして読まれるべき。
    『探究』以前以後の違いは、「空間から時間へ」。『論考』では、可能性の総体を空間と呼び、命題の像による世界の可能な事態の総体を論理空間と呼んだ。過渡期には色空間が中心に据えられた。『探究』では、言葉は本来時間の流れの中で使用されるものであり、空間的に捉えられる言語から時間の流れへと解き放つことが、その言語観の核心。
    論理空間は、可能な世界W1の集合{W1...Wn}。nは巨大。命題の意味は、論理空間の限定。命題が真になるような現実世界の部分空間をここでは真理領域と呼ぶ。真理領域を規定しないものは真偽を問えない擬似命題。哲学的言説は擬似命題。
    論理空間は可能な世界の集合。可能な世界は要素的な事態の集合。要素的な事態を表す命題は要素命題。要素命題の成立・不成立の組み合わせによって論理空間は自動的に決まる。このことを、ここでは要素的事態(命題)の相互独立性と呼ぶ。要素命題は互いに論理的な推論関係にあってはならない。両立不可能でもいけないので、日常言語に要素命題の例はない。しかし、『論考』では、究極まで分析を進めて、最も単純な命題を取り出したとき、その要素命題は相互独立で、その分析はただ一つとした。『論考』3.25。この唯一性は、過渡期において撤回される。論理空間はあらゆる可能性を尽くしているので、その外部は不可能。それゆえ論理空間は唯一。論理空間に意味づけられる言葉(真偽を表す命題)では、哲学は語ることはできない。哲学問題が語りえぬものであることを示すのには、定義で十分だったので、分析、要素命題、論理空間が実際にどのようなものかには関心がなかった。
    1929年にケンブリッジ大学に戻った際の、新たな考察が「色の両立不可能性問題」。日常言語を見通すことによって哲学問題を解きほぐす必要があり、その一つが色を語る場面だった。赤い、青いは、両立不可能なので要素命題ではない。両立できないのは、われわれが語をそのように使っているから。味覚は、甘味・塩味・酸味・苦味・旨味の5次元空間。色は赤→橙→黄→緑→青→藍→紫と1次元的なスペクトル。
    →CMYKなら4次元、RGBなら3次元だが。味覚には名前がついていないなのでは。
    両立不可能なのは、赤と青の語の文法である。文法は過渡期、後期の中心的概念。ただし、これとは異なる文法も可能。赤青緑の要素の組み合わせの3次元も可能。
    →文として表すようになっているかどうか。日本語は3次元になってない。それが文法。
    色彩語は、一定の文法をもとに一つの体系をなしており、それを色空間と呼ぶ。味空間、親族関係空間などすべての概念が空間を形成する。したがって、要素命題の相互独立性は撤回される。論理空間を否定するものではなく、実際の概念体系に合わせた形で制限する。『論考』でも色空間への言及があるが、色が1次元的であることは無視されている。「視野内の斑点は必ずしも赤くある必要はないが、しかし色をもたねばならない。いわばそれは色空間に囲まれている。」2.0131。色空間は、通常の色概念、三原色の色概念など、ただ一つには定まらない。唯一性から多様性へ。このことは文法の恣意性を表している。正しい、より良いは、生き方による。過渡期は、言語をしばしばチェスに喩えた。『哲学的考察』18節、語は何か、チェスの駒は何か、二つの問いは類比的。チェスのルールは変えてもよいし、どれが正しいというのもない。チェスのルールも多様性に開かれ、その採用には恣意性がある。
    →ソシュール言語学
    ポーンの動きは、ポーンの規則。語の意味は、語の使用規則すなわち文法。チェスのアナロジーは、『論考』言語観からの決別。語は対象の指示ではない。指示の意味論から、語の意味は、語が従うべき使用規則=文法に求められる。真偽も役に立たない。真偽の記述文ではなく、使用、つまり質問依頼命令などが中心となる。
    『探究』では、両者ともに空間的であることを批判し、言語使用を時間をかけてなされることとする。一つの文も、文脈によってその意味を変化させる。チェスのアナロジーなら、過渡期の動きの規則だけでは捉えられない。ここでは戦法におけるポーンの活用が、ポーンの意味になる。それゆえ様々な戦局の文脈があり、ポーンの意味は確定しない。規則に従う、報告、命令、チェス、これらは慣習(継続的な使用、制度)。文を理解することは、言語を理解することであり、技術に習熟すること199節。ある語・文が使われうる文脈は無数にあり、新しい文脈が生まれうる。慣習とは、これまでの使用例であると同時に、新たな展開に開かれている。技術に習熟する、言語を理解するとは新たな局面に対処する能力。言葉遣いは変化し新たな言葉や使い方が生まれる。このことを示した規則のパラドックスは、文の意味を使用規則=文法の内に捉えても、その文はつねに新たな使用に開かれていることを表す。論理空間、色空間は無時間的な想定だったが、言語使用は時間の内にある。新たな論理空間=思考可能性の全体は、思考できない。われわれは予見しえない未来へと生きる。言語使用も予見しえない。意味は全貌をもたない。
    言葉が果たす役割は、聞き手にしかるべき反応を引き起こすこと。しかし、聞き手の反応ではなく、「意味の理解によって従う・拒否を決定し行動する」と考えてしまうと、どう反応するかは二次的なものとなり、反応とは独立に発話の意味は理解されるはず、となる。『論考』、過渡期は、聞き手の反応を視野に入れてなかった。一時点の意味理解として捉えており、使用の時間性を無視した。5章理解の罠。理解されている意味とは何か。それは存在しない。
    →あるのは、使用。間に意味という力があるわけではない。
    建築現場の言語ゲームは、声に反応する例で、意味とか意味理解に媒介されていないことを示す。
    →「この石材が必要なのだからここに持って行こう」ではなく、たんに音に対する反応。赤リンゴ5のメモも、「赤いリンゴを5個買いたいのだな」と思う意味理解ではなく、単に赤、リンゴ、5という記号に反応して動く。
    命令するとき、記号を伝えるだけで十分であり、言葉の背後などは不要503節。音声や文字模様や身振りが、言語と呼ばれる道具。
    意味から使用が導かれるのではなく、音声や文字が直接反応を促す。意味なる何かや、意味理解なる心の状態ではない。「意味」という語は、言語学習や訂正のための道具。言葉の意味とは、意味の説明が説明するものである、すなわち意味という語の使用は、意味の説明560節。
    →文→意味→理解→使用ではなく、先に文→使用があって、あとから説明のために便宜的に意味と理解が取り出される。道具。
    意味を問うてしまうと、ふつうの言語哲学のような、指示や真理の意味論、言語使用の規則、発話の意図の分析をし、言語のあり方の理論としては有効だが、日常使用としては的を外す。「意味」という語の使用は、「規則」と同様、誤りの訂正。何の問題もない言語使用は、意味や規則に導かれているだけではない。
    →使用の一定の流れが、あとから見て意味や規則の体系をなすように見える。使用において通じないとき、訂正される。
    言語使用が滞ったとき、意味や規則に言及しなければならない。道標。
    道具として見ること。ノコギリは何の表象でもない。言葉も何も表象していない。ノコギリを使って木を切る熟練度には程度差があるように、言語の意味の理解にも程度差はある。そして、道具のように慣れを生む。ネコと呼ぶのは偶々だが、カバと入れ替えると、意味論的には大した変更ではない。しかし、日常言語としては抵抗がある。馴染んだ言葉、体の一部、それを「言葉の魂」と呼ぶ530節。
    言語の文、音楽のテーマ、二つの理解は類似している527節。強弱とパターン、結論、挿入句。類比は第一に、音楽は、それ自体は何かの表象ではない。言語も言語外の対象や事態を表したものではなく、言語として理解される。音楽が描写するものを介して反応を引き起こすのではないように、言葉も描写ではなく直接反応を引き起こす。第二に、音楽が結論や挿入句として聞こえるには言語、文化的背景が必要。『断片』164節、表情豊かな演奏を説明するには文化が必要。言語もまた、われわれ人間の生き方の理解を背景とする。第三に、音楽は時間の内に展開する。言語使用は、時間の内にある。われわれは言葉とともに生きることによってしか、言葉を捉えきれない。『論考』では無時間的空間的に言語を像(Bild絵)として捉えていた。『探究』では音楽のテーマに準えていることは示唆的である。
    ・13
    哲学は、答えに窮すると心の中に逃げ込む。心的概念の点検。信念、予期、なじみの感じ、再認、雰囲気、意志、意図。それらはすべて「意味する」という概念の分析を睨んだものである。意味こそ『探究』の中心的問題。
    信念は、常に信じている状態があるわけではないので、心の状態ではない。信念から思考は隔たっている574節。椅子に座ったとき、椅子が支えると信じていた575節。仕事のために椅子に座るときは、椅子の状態のことなど考えない。信念は、心の状態ではない。信念は、答え方、行動の仕方で現れる。心をのぞき見てもわからないので心の状態ではない。むしろ人物の状態。
    予期、期待もまた、そのことではなく他のことを考えている。爆破の予期は、それに付随する被害物への思いかもしれない。友人の来訪の期待は、食事や部屋の様子かもしれない。「もし彼が来なかったら私は驚くだろう」というのは心の記述ではない577節。予期は状況の中にある581節。
    →予期単体で心の状態、内面を表すのではなく、外面である前後関係や周囲との関係で意味をもつ。
    信念や予期のあり方を知るには、発言、行動、状況を見なければならない。内面的な過程は、外面的な規準を必要とする580節。ウィトゲンシュタインは、感覚では内面を否定しないものの、信念や予期の心の状態は否定する。行動主義に近い。ただし、人物の状態を観察する点で、異なる。痛がっている人を慰める、その人の目を見る286節。
    有意味に発話するとき、「深さの次元」、「心の中で意味する」と哲学は考えるが、隠されたものなど何もなく435節、それは否定される。
    →文が使用されるのであり、心の中の意味で変換されるわけではない。
    ラッセル『心の分析』、なじみの感じfeeling of familiarity、想起の経験には単なる想像にはない過去性、独特の感じがある。見覚えのある、知っているイメージ。ウィトゲンシュタインは、これは、新しい、違和感、見慣れないといったなじみのない感じの欠如とする。ラッセルは、想起について、いま・私の経験として特徴づけるために、感覚を取り出そうとした。しかしそれは、哲学の典型的過ち。哲学は、生活をストップさせ、まじまじと見るとありもしないものが見える気がする。実践を離れた観想的態度。幻影。
    再認は比較を伴うというのは誤り。野矢の論、想起は現在からしか行えないので、過去と現在の比較を経ず、再認することになる。したがって比較はできない。記憶は、今現在の知覚に特定の相貌を与える。1週間前に会った人というのは、過去と現在の2つではなく、現在の知覚の1つしかない。
    雰囲気は、表れきっていない、捉えがたいという特徴がある。ウィトゲンシュタインは特別な言語使用609節という以外述べていないが、雰囲気とは物語を示唆するもの。演劇の舞台のはじめ、登場人物など物語や役どころを示唆する。有意味な発話は、経緯と展開がある。語りを促す漠然とした力が、雰囲気。内面の探究ではなく、経緯と物語の予感へ。
    痛みは心の状態と言ってよい。しかし、信念、予期、期待は、心の状態ではなく、人物の状態。なじみの感じ(想起)、再認は、説明のために心の状態が捏造される。雰囲気は、哲学者が表現に迷った何かとして挙げられると推察される。何かがあるのではなく、物語の方向性が雰囲気を形成する。これらはすべて「意味する」という概念の解明のための準備。
    ・14
    手を挙げることから手が上がることを差し引くなら何が残るか621節。意志の行為と、運動の描写。手を挙げようという意志だと答えたくなる。意志という心の状態が原因となって引き起こす行為。しかし、ウィトゲンシュタインは問いそのものを却下する。野矢の考えでは、微笑みから微笑んでない顔を差し引くと、顔のない微笑み、つまり顔を引いてしまうので、描くことは不可能。意志と行為も同様。手の運動のない意志を取り出すのは不可能。手を挙げようという意志が、意のままになるには、意志することを意志する「意志の意志」が必要。それを引き起こす「意志の意志の意志」が…と無限に続く。意志している心の状態は、確認できない。
    →手を上げることから、手が上がることを差し引くと、何も残らない。意志という心の状態は存在しない。
    意志するとは、行為そのもの。行為することが意志すること。意志とは身体運動がもつ「表情」の一種。ただし、〜をしよう、試みる、努力することは、意志すること615節。バーベルを持ち上げようと意志する。
    →行為できないという行為が、意志に現れる。決して内面の心的状態ではない。
    行為できないときに意志が説明されるので、独立した内的状態と誤解される。
    規則と同様。規則も、迷ったときに訂正の説明として現れるので、規範的な力が独立して、規則に従うことを常に支えているように感じられるが、あくまでも迷ったとき間違えたときにピンポイントで働く。そうでないときは、本性と訓練で従っている。
    意志は、失敗のときに試みや努力として現れるので、常に心的状態としてあるように感じるが、あくまでも失敗したときに説明される。そうでないときは行為そのものとしてある。意志的な動作は、驚きの欠如によって特徴づけられる628節。同様に、なじみの感じは、なじみのないことの欠如。
    未来の予知の可能性について語る場合、人々はいつも意志的動作の予言という事実を忘れている629節。薬を飲む、30分後に嘔吐するだろう631節。行為観察、因果関係の内外、予言の確実性は、説明にはならない。言語ゲームがこのように行われている。説明では確認。決意の表明から行動を予言できるという言語ゲーム。
    →飲むという決意の表明は、使用として確認できる。だろうという予測もまた、使用として確認できる。予言という効果は同じ。
    ここでは、未来に行う意志的行為の予言を「意図の

  • 独我論からわからなくなる

  • 意味を問う哲学の難問は意味があるのか?ということかな。

  • 何回行ったり戻ったりを繰り返したかわからないですが、ヴィトゲンシュタインの言葉を切り取って見てもわからない大きなものの表層を見た気がしました。そもそもどの時期の発言なのかと。
    論理哲学論考と哲学探求の主張の違い。使用自体、使えること自体が言語の意味であり言語の使用に論理や一般概念や心の働きやらを持ち出す必要はない(日常の中に存在しない)ということ…?
    論理空間、色空間あたりからきつくなり、意図、意味の否定あたりは飲み込み難い感覚がすごかったです。ちょっと何回かいろんな本を行ったり来たりしたら沼にはまりそうな気がしました。

  • 哲学は理解するか共感しないとそもぞか読み辛いか

  • 「心という難問」を読んだ直後ということもあって、全体を
    通して非常にわかりやすく、すんなりと読破できた。哲学を
    潜水に例えるのが印象に残る。潜りっぱなしだと窒息して
    しまうのだな。

    問題は、例によって原本、ウィトゲンシュタインの「哲学
    探究」をまだ読んでいないということだ(苦笑)。いつかは
    やっつけたいです、ハイ。

  • 東2法経図・6F開架:134.97A/N97w//K

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著者プロフィール

1954年(昭和29年)東京都に生まれる。85年東京大学大学院博士課程修了。東京大学大学院教授を経て、現在、立正大学文学部教授。専攻は哲学。著書に、『論理学』(東京大学出版会)、『心と他者』(勁草書房/中公文庫)、『哲学の謎』『無限論の教室』(講談社現代新書)、『新版論理トレーニング』『論理トレーニング101題』『他者の声 実在の声』(産業図書)、『哲学・航海日誌』(春秋社/中公文庫、全二巻)、『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(哲学書房/ちくま学芸文庫)、『同一性・変化・時間』(哲学書房)、『ここにないもの――新哲学対話』(大和書房/中公文庫)、『入門!論理学』(中公新書)、『子どもの難問――哲学者の先生、教えてください!』(中央公論新社、編著)、『大森荘蔵――哲学の見本』(講談社学術文庫)、『語りえぬものを語る』『哲学な日々』『心という難問――空間・身体・意味』(講談社)などがある。訳書にウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)、A・アンブローズ『ウィトゲンシュタインの講義』(講談社学術文庫)など。

「2018年 『増補版 大人のための国語ゼミ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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