- Amazon.co.jp ・本 (197ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000058797
感想・レビュー・書評
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科学リテラシーを高めないと、陰謀論に絡めとられる。我々の日常には「科学の常識」が染み浸っているが、正確な理解に及ばず、なんとなくの知識で済ませている事も多い。本著は、サイエンスコミュニケーションという言葉で、社会と科学の関りをテーマに語るエッセイ本。サイエンスコミュニケーションという理念、言葉は、1990年代にイギリスを中心としたヨーロッパで登場したもののようだ。科学の専門家の側から一般の人との積極的な対話を心がける事で、科学技術が、社会に溶け込み、健全な発展が図られていくとする。
例えば、DNAという言葉を例にとる。〇〇の遺伝子、〇〇のDNAを引き継ぐのような言葉で、今では当たり前のように日常語として用いられるようになった。これも科学が社会に浸透した例だと本著はいう。しかし、DNAという言葉を正確に理解しているかは別だ。
― ファインマンは父の言葉を覚えている。あの鳥を見てごらん。スペンサー鳥だよ。父は本当の名前を知らなかったのだと思う。お前は世界中のあらゆる言葉であの鳥の名前を知ることができる。しかし、それを知ったところで、あの鳥については何一つ知っていることにはならない。いろいろな場所で人があの鳥を何と呼んでいるかがわかるだけだ。あの鳥をよく見て、何をしているかを見るんだ。それが大切なんだよ。
本著の中で、ファインマンの父子の会話が引かれる。言葉が無ければ浸透しないが、言葉は世界中で一つに定まらないので、機能や仕様、そのものの実態こそ大切だとする。この内容が示唆的に感じたのだが、社会に溶け込むための言語と実態の乖離を埋め、言語の正確な理解を促す事こそ、サイエンスコミユニケーションなのだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
シャンパンの泡がどうしてあんなに綺麗なのか知っていますか?
本書は今年本学にサイエンスコミュニケーターとして着任された渡辺政隆先生の著書です。
科学雑誌である「科学」にて連載していたエッセイを集めたもので、科学者のパブリックイメージから、博物館学、そしてテッポウエビの秘密など科学にまつわる話題は多岐にわたります。
冒頭の質問の答えを含む、日常生活において知っていたらちょっと面白いエピソードも、‘教養’としての科学リテラシーも、一冊の本を読むことやサイエンスカフェに参加しただけでは追い切れないほど世界に溢れています。その中でサイエンスコミュニケーションの果たす役割とは関心を持ってもらう入口となり、科学に対して疑問や好奇心を芽吹かせることではないでしょうか。
読後、あなたの中にもそんな科学の種がまかれているはずです。
(2012ラーニング・アドバイザー/生命MATSUMOTO)
▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1382716&lang=ja&charset=utf8 -
サイエンス
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父から長らく借りていた本。「愛の反対は無関心」というのをわかっているつもりでいたけれども、でもそれに応じた行動を今まで取れていたかな、と考えてみるとそんなことはなく。科学も身近になったけれど、まだまだ敷居が高いと思われてる節はある。職場でも、自分の部署は一番業務が謎だと言われてしまっている。科学と自分の職場の話を混ぜてはいけないのかもしれないけど、どちらもやっぱり「知ってもらうこと」「知りたいと思ってもらうこと」をきちんとやっていかないとなぁ、と思った。
文章のうまい科学者として何人かが文中で紹介されていたけれども、寺田寅彦すらきちんと本を読んだことはないような気がするので、巻末で紹介されていた文献には一通り目を通してみようと思った。 -
細かいところはともかく、「科学コミュニケーションって何だろう?」と迷った時、初心に帰るために読み返したい一冊。
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【つぶやきブックレビュー】9/11はサイエンスカフェ。科学者と市民をつなぐ。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA87128324 -
連れあい(理系)にこの本の図書館への返却を頼まれた。
持っていく間に、ぱらぱら見てみたら、ド文系の私にも面白くて…。
サイエンス・コミュニケーションの大切さは、科学者たちも認める所ながら、そういう啓蒙活動に長けた科学者を二流扱いする傾向があるとあった。
あのカール・セーガンに因み、「セーガン化」などという言葉まであるのだとか。
非専門家と、専門家とのコミュニケーションが達成されるのは、現在に於いてもまだまだ難しいということか?
扱われている材料のおもしろさにも目を惹かれる。
ミッキーマウスの「幼形進化」(グールド)からの連想で、アトムも、スヌーピーも、そしてシェル石油のマークも、同じ傾向が見えるといった指摘は、やはり楽しい。
また、科学を語る文体(!)として、どのようなものがふさわしいのか、という問題提起も、面白い。
結局、科学を語るべき固有の文体はない、ということらしいのだが、簡単に語ればよい、と釘を刺している。
よりよい「サイエンス・コミュニケーション」はどういうものなのか、今後議論が深まっていくといいな、と思う。 -
なんと気づけば半年ぶりです。今年度は4月から全学共通教育の講義「iPadが開く新しい学びの扉」に参加したりして,たくさん本を読んだのにまとめる時間がなかった・・・という自分の事情はさておき,この講義がきっかけで読むことになった本を紹介します。
タイトルは『一粒の柿の種』。ビールがおいしい季節だからではありません。
iPadの講義で,「フェイスブック連動ミニ読書会」を行ったのですが,その時にみんなで読んだのが寺田寅彦の『柿の種』でした。物理学者であり,かつ夏目漱石の弟子でもあった彼の文章は大変美しく,科学的でもあり哲学的でもある,というもので,「あ,これすごく好きな本」と感じました。
最近,何故か読んでいる本が「科学的なんだけど読み物としてもおもしろい」本に偏っていて,これはどういうジャンルなんだろう,と思っていたのですが,「ポピュラーサイエンス」というのだそうです。なるほど。
一般の人にもわかりやすく科学の面白さを説いた本,ということですね。
ということを『一粒の柿の種』で知りました。
『一粒の柿の種』は寺田寅彦の『柿の種』にことよせて書かれたものです。科学を語るサイエンスライターの草分けとして寺田寅彦を紹介しています。
最近だと,福岡伸一ハカセですね。『一粒の柿の種』でも文章がうまい科学者として紹介されています。
私もついこの間,福岡ハカセの『ルリボシカミキリの青』という本を読みましたが,彼の大好きな虫や風景の描写がとても美しくて繊細で驚きました。
福岡ハカセの本は、読むうちに自然と「科学を見る目で日常を見る楽しさ」を知るようになるのに対し,『一粒の柿の種』は、手を引かれて確実にその方向に連れて行ってもらう感じがします。
つまり,福岡ハカセの本は「ポピュラーサイエンス」であり,『一粒の柿の種』は「ポピュラーサイエンス」へのガイドブックといえます。
この本の中では,あの『種の起源』のダーウィンから始まって,『沈黙の春』のレイチェル・カーソン,ホーキング博士,アインシュタイン,『ご冗談でしょう,ファインマンさん』などのファインマンなど,科学を身近に感じさせてくれた数々の科学者が紹介されています。
ところで,大学図書館で働く者としては,本を読む=小説を読む,ばかりではないということを,知ってもらいたいという想いがあります。
当然,教科書を読む,ハウツー本を読む,ばかりでもありません。新明解国語辞典の「読書」の項によれば,後者の二つは読書ですらない,ということですし。
だからきっと「ポピュラーサイエンス」なんです。
自分の身の回りに起こっている何気ない出来事の裏には色んな法則があることの不思議。
それらの法則を探究してきた多くの先人たちの努力。
そういうことを考えるきっかけとなる本との出会いは,きっと読む人の世界を広げてくれます。
大学では,自分もその探究に参画するだってできます。
「科学=難しい勉強」ではなく,「科学=どうしてこの世界はこんな風にできているの?という謎を解き明かす」こと。
そのための手続きはやっぱり難しいかも知れないけど,自分の知りたいことがわかるなら,楽しくできる・・・と思うのだけど,どうでしょう?
そもそも知りたいことなんて思いつかない,という人。ぜひ,「ポピュラーサイエンス」の本を読んでみてください。
世界は謎と驚きに満ちています。
http://opac.lib.tokushima-u.ac.jp/mylimedio/search/search.do?materialid=209003080 -
レイチェルやダーウィン聞きなれた科学者ですが、科学は何か垣根が高くて・・と思われている方。この本は科学の種になったところや豊富な実例・エピソードなどがありワクワクさせてくれます。
親しみのある科学者の内容やお馴染みのミッキーマウスの幼形進化など身近なことが随筆を読むかのように、知らず知らずページをめくることのできる科学の本です。
文系の方にもぜひどうぞ。