- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000020152
作品紹介・あらすじ
我らが若き主人公・唯野仁。彼は早治大学英米文学科の名物教授にして、実は隠れて小説を発表している新進作家、何やら不穏な幕開きである。「大学」と「文学」という二つの制度=権力に挑んだ衝撃の長篇小説。
感想・レビュー・書評
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ベストセラーなのでいまさら何をか云わんなのですが一応粗筋を書くてぇと、とある大学の唯野教授周辺の大学内政治のありさまをコミカルに書く一方で、印象批評からポスト構造主義までの文芸批評論を網羅できるという学術小説です。学内政治パートと唯野教授の講義で二度楽しめるといった具合に考えるといいのではないかと思います。
文芸批評のさしあたったアウトラインを押さえられるので、ここから各方面、興味の向きに合わせて深化していけばいい。
文藝評論、えー学術。志す人にはふたつの方向性があって、最先端を切り開く人と、逆にどんどんどんどんとふもとの方に向かって、切り開いたものを分解していく人って、あると思うんです。これは「評論」というジャンルに携わる人間における「適正」と「興味」の問題でして、このふたつの極に同時に存在すると云うことは原則的にありえません。先駆者は切り開くことで精一杯だし、分解者は要素を把握して分解するので手一杯になるであろうからです。
本文にもあるんだけど、評論家の云っていることに反論できない作家が対抗策に一杯勉強して反論したので評論化がさらに難しいことを云うようになった、というあたりは、この『文学部唯野教授』を取り巻く感想とか批評の本質をつかんでいるなぁと思ったのです。あたらしい、革新的な理論を求める人にとって「分解」の作業というのは、そんなものわかりきっているから「本に中身がない」という批判が生じてくる。「衒学的だ」という批判も出てくる。
んだけれどもね、まったくの素人がだんだんとその道に入っていく状況において、しったかぶりでも「衒学おじさん」だの「面白おかしい学術小説」がどれだけありがたいか、という話なんだよねぇ。
記号論からはじめる構造主義入門の書として、いいんじゃないかと思います。
これだけ読んで満足しちゃうと心もとない気はしますけど。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
サブストーリーは余技。あくまで講義がメイン。
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仮にも文学部生なのに、作中の唯野教授の講義内容が、ぜんぜん、わからない やばい 勉強しよ
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唯野教授のコミカルで少し下品なお話と“教授”らしい大学での真面目な講義の2つのストーリーが展開される作品。目次を見る限りは講義がメインのように思えるが、どちらかというと講義の間にドタバタ喜劇がある感じだ。あっ、逆かも。ドタバタ喜劇の合間に講義があるのかも。
私は理系なので文系の講義は体験したことがない。でも、こんな劇のように面白おかしく話をしてもらえるのなら受講していて飽きないだろうなと思う。本格的に文学や批評をしている人には物足りないのかもしれないが、素人の私にとっては何かを分かって気にさせてくれた講義だった。これからの読書をさらに良いものにできそうだ。
あっ、あくまでもこれは感想だからね。批評じゃないよ。そんな畏れ多いことできないし。 -
2014/11/22 読了
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2012 6/26読了。筑波大学図書館情報学図書館で借りた。
多くの方から、この業界で生きていくなら一読しておくと良いよ、とおすすめいただいた本。
文学部の昇任したての教授・兼・覆面小説家、唯野仁の日々を描く。
常識に欠ける奇人・迷惑な人物のあふれる大学の中で、友人の就職工作や人付き合いに奔走しつつ毎週の講義もこなす・・・。
さすがに戯画化されているのでここまであれな大学というのはないだろうし、最近は業績についてもえらい厳しい世界になっているとか思いつつ、楽しんでいいんだか暗澹としていればいいんだか、とか考えながら読んだ。
それにしても、主人公の唯野先生が、某知人の大学教員に雰囲気似ている・・・彼の台詞もその声で再生されてしまった。 -
『工学部ヒラノ教授 / 今野浩著』で、紹介されていたので、読んでみました。
文学論の部分は、よくわかりませんでした…。 -
【推薦文】
文学批評とエンターテイメントを同時に味わえる稀有な小説です。
(推薦者:電気電子工学科 B3)
【配架場所】
大岡山:本館1F 一般和図書 913.6/Tu -
11月15日読了。早治大、なる大学の教授である唯野仁が下劣・低能なる大学教授たちの中、学内での出世と人気作家の両立を目指し奮闘する・・・という話ではあるが実際は主人公唯野が講義形式で語る文学批評の歴史、解説が最大の見もの。私にとっては2回目の読了だがこれは再読の価値あり。登場人物はいずれも幼稚で奇っ怪な人物ばかりだが、妙なリアリティがあり実際の大学内の政治とはこんなものかも・・・とも思わされる。文学であれ何事であれ、物事に絶対性やら「アウラ」やらを求めて神格化するのは正しい批評の態度とはいえないが、とは言え近代の批評は正しいものさし・権威ある価値基準を求めて随分迷走したものなのだな~事象は「差異の体系」によってのみ成り立つと言う構造主義と、事象自身には何もなく事象の周囲のことがらのみが事象を定義付けるとするポスト構造主義、についてちょっと理解がすすむ。