プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥2,000以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
新品:
¥900¥900 税込
無料お届け日:
3月30日 土曜日
発送元: Amazon 販売者: quickshop 横浜店
中古品: ¥1

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
思想地図β vol.2 震災以後 単行本 – 2011/9/1
購入オプションとあわせ買い
- 本の長さ252ページ
- 出版社合同会社コンテクチュアズ
- 発売日2011/9/1
- 寸法14.9 x 2 x 21 cm
- ISBN-104990524314
- ISBN-13978-4990524319
よく一緒に購入されている商品

この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
登録情報
- 出版社 : 合同会社コンテクチュアズ; A5判版 (2011/9/1)
- 発売日 : 2011/9/1
- 単行本 : 252ページ
- ISBN-10 : 4990524314
- ISBN-13 : 978-4990524319
- 寸法 : 14.9 x 2 x 21 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 449,895位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 503位近代西洋哲学
- カスタマーレビュー:
著者について
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。
ジャーナリスト/メディア・アクティビスト。「ポリタス」編集長。1973年生まれ。東京都出身。早稲田大学社会科学部卒。大阪経済大学客員教授。京都造形芸術大学客員教授。テレ朝チャンネル2「津田大介 日本にプラス+」キャスター。フジテレビ「みんなのニュース」ネットナビゲーター。 一般社団法人インターネットユーザー協会(MIAU)代表理事。株式会社ナターシャCo-Founder。メディア、ジャーナリズム、IT・ネットサービス、コンテンツビジネス、著作権問題などを専門分野に執筆活動を行う。ソーシャルメディアを利用した新しいジャーナリズムをさまざまな形で実践。 世界経済フォーラム(ダボス会議)「ヤング・グローバル・リーダーズ2013」選出。主な著書に『ウェブで政治を動かす!』(朝日新書)、『動員の革命』(中公新書ラクレ)、『情報の呼吸法』(朝日出版社)、『Twitter社会論』(洋泉社新書)、『未来型サバイバル音楽論』(中公新書ラクレ)ほか。2011年9月より週刊有料メールマガジン「メディアの現場」を配信中。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
詩なんて興味もないし、自己満足の世界だろ。と考えていたので、和合さんの詩
のページをうさんくさいという先入観で淡々と読んでいたのですが、後半にふと
気づいたら胸が熱くなり涙が出そうになっている自分に驚いた。とにかく被災地
で、故郷を失った人たちの絶望というか悲しみみたいなものが強烈に伝わった気がする。
今まではニュースを見ながら、「被災地の人たちは悲しいだろうなぁ〜」くらいに
思っていたが、詩を読むことで、その絶望や悲しみ、くやしみみたいなものの、
激しさというか熱さの様なものがガーッとなだれ込んできた。
被災地の人たちが悲しさや絶望の中にいるのはわかっていたけど、それらが自分の
中で熱さを持って、生きたものとして初めて感じられた。
これは、ニュースや新聞などの情報からは得られなかったであろうと思う。
この和合さんの詩を載せようと考えた東浩紀さんの感性というか文化人としての感覚?は
震災後の今、確実に必要とされると思う。
東浩紀さんの「震災でみんなバラバラになった」というのは、現代人はネットを介してみんな
ひとつになれる情報的な生き物だと思い込みがちな自分たちにとって、重要な警鐘だと感じた。
北野武もつい最近TVで「現代人はTwitterやらネットが出てきて、情報的な存在に進化したと勘違
いしてるけど、人は食べるしうんこもする。」みたいなことを言っていた。
ネットみたいなものでひとつになれても、放射能を含んだ食べ物を食べざるをえないか、
それとも安全なものを食べられるか、みたいな原始的なところで全て決まってしまう可能性を再認識させてくれた。
現に、九州に住む自分が持つ、東北の人たちの悲しみや絶望への認識が呆れるほど的外れだったことを
和合さんの詩を読んで初めて気づいた時、確かに自分たちはバラバラだったんだなぁとも思った。
とりあえず震災後の今、この本は読まれるべきであると強く思った一冊でした。
巻頭言の「震災でバラバラになってしまった」という表現は、震災直後は一致団結のまとまりを見せたかもしれないが、半年も経ってそれぞれの生活にも差が出始めた今では、震災以前の日常が取り戻されたように見え、それは、結局のところ東氏が言うようにそもそもバラバラだったことを示しているように感じている。
怪我をした時の細胞の動きと同じではないだろうか。そもそも個々に果たす役割は異なる訳だから「バラバラだった」ということ自体は分かる気がする。
個人的には、原発うんぬんの話よりも言論・思想で何ができるのかということへの話が興味深かった。
支援活動を続けていくなかで、少なからず情報開示を求められる。当然のことながら「言葉」を使った説明もするわけだが、言葉で伝えることに対して若干の違和感は抱いていた。被災地の現状は一概にまとめられるものではなく。言葉にした瞬間にこぼれてしまう何かがあると常に感じていたからだ。しかし、本書でも言われるように言葉でしか伝えられないこともあると思っている。
なぜ、そう思うのに語ることを憚ってしまうのか考えた時に、伝えられる側の存在、意識を考えた。
語る側も、これが全てである。という伝え方はよくないが、受け取る側も、それが全てなのだ。と安易に受入れ過ぎではないかと。本書でも、ちらっと指摘があったかと記憶しているが、読む側の姿勢も現代の社会においては重要なのではないだろうかと思う。発言する側の表層を捕まえて批判することよりも、真意をつかむ読み方、想像の仕方が大切なのだと気付かされた。
特に、私も含めた若年世代は言葉や知識について、これまであまりにも怠惰で、それでいい環境に身を置いてきたのかもしれないとも感じた。あまりにも考えなくてよい環境にいたのではないかとも思った。
「考えることが力を取り戻さんこと」とある。考えるというのは非常に辛いが今、それができなくていつするのか。そう思わせてくれた。
「考える」ことが「行動すること」へ繋がっていることを強く望む。
3月11日の震災以降に出てきた問題「復興」「メディア」「原発」「格差」「公共」といった様々な問題をそれぞれの専門家・評論家が精緻に調べ、真摯に考え、言葉を紡いでいる。
特に、この震災で一躍有名になった津田大介のルポタージュは、普段、旧来のマスメディアにしか触れることのない人にとっては大いに刺激的な内容だろう。被災地の本当の姿が垣間見れるはずだ。
この「震災」によって、何かが変わってしまった人、また何が変わったのかが判らない人には必読の書であることは間違いない。
しかし、私自身について言えば、この本を手にとった理由は別にある。
これは、もう恥ずかしいくらいに純粋な動機なのだ。
東浩紀のファンなのである。
それもごく最近になったので、ファンとしては新米もいいところだが、気持ちとしては、長年のファンとも対抗できるくらいには、真剣に著書を集め、読破してきた。
そんな「痛い」東浩紀の一ファンにとって、この本の意味するところは、一言でいえば、東浩紀の「ゼロ年代への決別」の書といえる。
この本の巻頭言のタイトルは「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」だ。
「ばらばら」とは私たちが「物語」を失い「確率的」な存在に変えられてしまうことだ。
簡単にいうと、ある人は被災し、ある人は被曝し、ある人はそれによって「死ぬ」が、それらは「確率的」であり「偶然的」であり「物語」は存在せず、そこに生じる「格差」が「ばらばら」ということだ。
日本はいつか財政破綻し、東海地震も確実にあり、さらに今回は放射線が飛び散り、近々「終わって」しまうが、そんな中で日本から脱出できるのは年収三億の人間だけで年収三百万の人間はそのまま残らざるを得ない。この、いかんともしがたい「格差」が今回の震災で眼に見えるようになってしまった、ということだ。
実に、実に、実に、素直かつ素朴な……。
一般の「東浩紀」を知らない読者ならば、この文章を見て、おそらく大きな感動を得るだろう。
きっと、「東浩紀」のことが好きになるはずだ。
しかし、今までの、「ゼロ年代の批評」を一身に背負ってきた「東浩紀」を知っている読者ならば大きな疑問を持つことだろう。
「本当に、こんなことが書かれているのか?いや、嘘だ。要約が下手クソすぎる」と私を大きく非難することだろう。
しかし、残念ながら書かれているのだ。間違いなく。
なぜ、旧来のファンが大きな疑問をここに持つのか。(持つ…よね?)
それは、今までの全ての「東浩紀」の論説、また著書では、こんなことは「前提」だったからだ。
誰もが信じる大きな「物語」が失効し、それによって私たちが「ばらばら」になっているのは「前提」で、それこそが小さな「物語」の連立する今の私たちの時代、つまりポストモダンだというのが、「東浩紀」が提唱していた理論だったはずだからだ。
人間は基本的に変わらない(誰もが絶対に「死ぬ」など)が、環境だけは時代と共に変わる。
それは、ネットであったり、グローバル化だったり、人間の進化と関係のない話だ。
環境が変わったために、今の人間はだんだんと確実に「動物化」(何も考えなくても衣食住が事足りるなど)している。
それが「いいこと」なのか「悪いこと」なのかはともかくとして、それは今の時代の「前提」なのだからしょうがないと考える。
だからこそ、そんな状況でもうまく「政治」や「経済」、「国」が機能するような新しい「システム」が必要になる。
それは、ネットを媒体とした「システム」になるだろう。
というのが、評論家「東浩紀」の理論だったはずだ。(間違っていたらすみません)
しかし、今の「東浩紀」はなぜかこの「前提」に「絶望」している。
「震災」の直後には日本人が「ひとつ」になれたことに「希望」を見出していたが、その後、また元通り「ばらばら」になってしまったことに。
なぜ、このような大きな転換が起こってしまったのかは、私には判らないが、この転換によって、「東浩紀」は普通の、言い方は悪いがどこにでもいるような……例えば「日本はもう終わりだ!!」とか言っている、よくわからない大人と同じになってしまった。
それは、正直に言って、残念なことだ。
代わりに、文学者「東浩紀」という観点から見てみると、これは大きな期待ができると思う。
この巻頭言も実に「文学的」なのだ。
対談でも「東浩紀」の感心は実質的な現実的な機能的な問題ではなく「文学」の問題を最も重要視している。
だからこそ、もう少し、日本人は「喪」に服すべきだ。
といったような、抽象的かつ、あまり意味のない「文学的」なことも言うのだ。
ここに、財政破綻の定義違くね?とか地震予測で確実とか言っちゃって大丈夫なんですか?とか、別に年収三百万以下でも海外行く奴は行くだろとか、そんな詰まらないツッコミは意味がない。なぜなら、これは文学者の言葉だからだ。一種の「たとえ」話なのだ。だから事実とか事実じゃないとかどうでもいいのである。
ただ、一つだけ言いたいのは、「文学者」は別にして普通の「一般人」はこれらのことに「絶望」する必要はないと思う。
なぜなら、「地震」も「格差」も「財政危機」も「確立的」も「ばらばら」も、全ては「前提」だからだ。
それこそ、考えても仕方がないし、考えたい人は考えればいいだろう。
別に「震災」で、判ったことでも何でもないのだ。
「ひとつ」になる必要なんて全くない。
むしろ、国難時に「ひとつ」になることは、今までの時代を振り返れば、逆に危険なことではないだろうか。
それこそ、関東大震災から学ぶべきことがあるはずだ。
ポップカルチャーの「連帯」?
そんなもの最初から幻想じゃないか。
『AIR』で泣くオタクと『木更津キャッツアイ』で泣くオタクは、もともと連帯してないだろう。
そして、どちらも観ない人間のなんと多いことか。
「考えない」ことが問題ではなく「考え」なければ生きていけなくなったときに本当に問題になるのではないだろうか。
しかし、この本の評価とこれらのことは一切関係がない。(これを書いたのは完全な自己満足だ)
それに、それはそれとして、私は「東浩紀」ファンであるのはこれからも当分、間違いないことだろう。
最初に書いたようにいい本だし、少し高いけど買って損はない。
是非、是非、読んでみて下さい。
(これは、もしかしたら、今までで最も長文かもしれない……失礼しました。)