漱石が房総を旅して、“漢文”の紀行を残していたとは知りませんでした。
23歳の頃だそうです。
友人の子規に宛てた戯作のようなものですが、借り物である中国語を用いて思考しようという“離れ業”について、考えることが出来ました。
もともと中国語は“音声言語”であって、その音調を離れては意味を成さないものであるにもかかわらず、字面をもって思考(もどき)を行うのは、かなり怪しい行為と思われます。
恋を囁き、感情を伝えるのは、やはり“声(言葉の響き)”でありましょう。
「異性ひとりを口説けないで、他の人を納得させることはありえない。」というのが持論ですから、言葉の響きを無視した文章には我慢なりません(笑)。
そのような“漢文”による思考を批判するのと同時に、「しかし、まったくむだであったわけではない。自分たちとは無縁の生活に根をもち、自分たちの知らない言語で書かれた書物をよんで理解する、さらにその文章をまねして書くためには、つよい知的腕力を要する。日本人の、こどものころからのその訓練が、日本人の頭脳をきたえた。そうやって代々きたえたあたまで、日本人は幕末維新をのりきり、西洋の文化をうけいれ、あるいはたちむかった。」というくだりもあって、うならされました。
他国の人に“日本の文化”をかたるとき、参考になるのではないでしょうか。

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漱石の夏やすみ: 房総紀行木屑録 単行本 – 2000/2/1
高島 俊男
(著)
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- 本の長さ329ページ
- 言語日本語
- 出版社朔北社
- 発売日2000/2/1
- ISBN-104931284485
- ISBN-13978-4931284487
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
夏目漱石23歳のとき友人正岡子規に宛てた漢文による房総旅行記「木屑録」の味わいやおかしみを、自在な訳文で明らかにしながら、漱石と子規の友情に説き及ぶ。また日本人と漢文の奇妙な関わりについてわかりやすく解説。
登録情報
- 出版社 : 朔北社 (2000/2/1)
- 発売日 : 2000/2/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 329ページ
- ISBN-10 : 4931284485
- ISBN-13 : 978-4931284487
- Amazon 売れ筋ランキング: - 713,891位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 117,503位文学・評論 (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2016年5月20日に日本でレビュー済み
高島さんでなければ書けない名著です。漱石の木屑録を読もうと思っても、文庫に入っているわけではない。たとえ文庫に入っていても、簡単な訳注をつけ読み方を伝授しただけでは、さっぱり中身もわからないはずです。ましてや、これを書いた時の漱石の高揚した気分、得意満面の表情などを伺い知ることなどできません。高島さん以前の現代日本語訳と、高島さん自身の訳を比べてみて、初めて、そうか、漱石はこんなに面白おかしく書いたのか、これを読んだ正岡子規はどんなに喜び、かつ仰天しただろうか、と感心します。
出だしの1節だけで笑ってしまいます。「余児時、誦唐宋數千言、喜作為文章。或極意彫琢、経旬而始成、或咄嗟衝口而發、自覚澹然有樸気。」を、以前は「余児たりし時、唐宋の數千言を誦し、文章を作り為すを喜ぶ。或いは意を極めて彫琢し、旬を経て始めて成り、或いは咄嗟に口を衝いて發し、自ら澹然として樸気あるを覚ゆ」などと読ませたそうです。これについて高島さんは「いったい、なんだろね、これは。チンプン漢文とはこのこと、ばかばかしいものなのだ」と評しています。
高島さんの訳はこうです。「吾輩ガキの自分より、唐宋二朝の傑作名篇、よみならつたる数千言、文章つくるをもつともこのんだ。精魂かたむけねりにねり、十日もかけたる苦心の作あり。時にまた、心にうかびし名文句、そのままほれぼれ瀟洒のできばえ」。以下は(原文を省略しますが)、「むかしの大家もおそるるにたらんや、お茶の子さいさいあさめしまへ、これはいつちよう文章で、身を立てるべしと心に決めた」となっています。―なるほど、そんなジマンで始まるのですね。
後年「猫」を書きあげた漱石自身、草稿を弟子に読ませて、自分で吹き出したそうです。その時と同じように、若き漱石もプッと吹き出しながら、「子規のヤツも吹き出すだろうな」と想像して書いたのでは、と高島さんは書いています。
出だしの1節だけで笑ってしまいます。「余児時、誦唐宋數千言、喜作為文章。或極意彫琢、経旬而始成、或咄嗟衝口而發、自覚澹然有樸気。」を、以前は「余児たりし時、唐宋の數千言を誦し、文章を作り為すを喜ぶ。或いは意を極めて彫琢し、旬を経て始めて成り、或いは咄嗟に口を衝いて發し、自ら澹然として樸気あるを覚ゆ」などと読ませたそうです。これについて高島さんは「いったい、なんだろね、これは。チンプン漢文とはこのこと、ばかばかしいものなのだ」と評しています。
高島さんの訳はこうです。「吾輩ガキの自分より、唐宋二朝の傑作名篇、よみならつたる数千言、文章つくるをもつともこのんだ。精魂かたむけねりにねり、十日もかけたる苦心の作あり。時にまた、心にうかびし名文句、そのままほれぼれ瀟洒のできばえ」。以下は(原文を省略しますが)、「むかしの大家もおそるるにたらんや、お茶の子さいさいあさめしまへ、これはいつちよう文章で、身を立てるべしと心に決めた」となっています。―なるほど、そんなジマンで始まるのですね。
後年「猫」を書きあげた漱石自身、草稿を弟子に読ませて、自分で吹き出したそうです。その時と同じように、若き漱石もプッと吹き出しながら、「子規のヤツも吹き出すだろうな」と想像して書いたのでは、と高島さんは書いています。