人間社会に関わる学問とはどうあるべきなのかを明瞭に分析してみせた快著。
ヒュームの学問論(哲学)と、日本の伊藤仁斎や荻生徂徠の学問の在り方が同じであるという
大変な発見には目からウロコが落ちる思いがした。
学問とは・・・・である。
政治とは・・・・である。
いずれにおいても、明確な定義を見出した著者の洞察力は実に眼を見張るものがある。
これがイギリスの名門大学院(マスター・ドクター)で、知識量ではなく肝心なのは
洞察力(読みの深さ)なのだというアメリカとは全く別の学問世界で鍛えてきた人物の
力なのだと、誠に分かりやすい文章でまざまざと示してくれる。
著者はTPPの問題指摘で一躍注目を浴びたが、本当の地はこちらの洞察力を導き出した
哲学思想の方にこそあるのではないかと思われる。
それは、独立心を持って自分の頭で常識に基いて考えるという、この小林秀雄の「考えるヒント」の姿勢
こそが、保守思想的精神の本質なのだ基本認識は、保守思想に興味がある方々には必読の部分として
おすすめしたい。今まで、バークなどの知識や思考をたどることを保守主義を学ぶことと思っていたが、
この自分の頭で常識に基いてという視点こそ、今後の日本の保守主義の基盤となるであろう。
というわけで、ぜひ保守思想に関心がある方、そしてこれから学問に関わるすべての高校生・大学生に
必読の書としてお勧めしたい。

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考えるヒントで考える 単行本 – 2010/4/1
中野 剛志
(著)
- 本の長さ204ページ
- 言語日本語
- 出版社幻戯書房
- 発売日2010/4/1
- ISBN-104901998579
- ISBN-13978-4901998574
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登録情報
- 出版社 : 幻戯書房 (2010/4/1)
- 発売日 : 2010/4/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 204ページ
- ISBN-10 : 4901998579
- ISBN-13 : 978-4901998574
- Amazon 売れ筋ランキング: - 798,398位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 98,847位ノンフィクション (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年3月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2016年4月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まずは小林秀雄の著作が矛盾だらけ、むちゃくちゃな代物で、読む価値なんぞないことを言っておく。もちろんこの部分で首をかしげる人が多かろうが、納得してもらうだけの文章を書き連ねると一冊の本になってしまうので、一例だけを挙げる
小林は価値のある人間とない人間を分ける根拠を、どう置いているのか、自覚していなかった。これは私小説論のことだ。答えは、あまりに通俗的な偉さと言うものである。実体のない、社会的名声と言うものである
もちろん、偉いとされる人の本にはそれだけの理由があったはずだが、小林にはその一つ一つを分析するだけの真摯さがなかった。いや、もしその仕事に取り組んだとしても答えにはたどり着けなかっただろう。なぜなら偉いとされるものを偉いと肯定するのは、小林の中のsnobbishnessにほかならないからだ
女を楽しみ、美食を愛したモーパッサンを、絶望から生活へ袂別したと言い、隠者の生活を送るプルーストや引きこもりの生活破綻者ジッドを成熟した近代的自我であるなどと評価し、金持ちの余技にすぎぬ志賀直哉の作品を日常の芸術化などとほめる理論に、一貫したものなどあるはずもない。いや、個々の評言は当たっていないわけではない、かもしれないが、それは単に日本の、主として自然主義の群小作家をくさすためなのだ。そして群小な作家が小林に嫌われるのは、要するに群小だからである
私は三島や小林を持ち上げる自称保守を全く信用しない。三島の小説はいい出来だが、文化防衛論は西尾幹二の言うとおり、支離滅裂だ
で、話は全く変わるが、欧米のエリートの結構な割合が、大学の哲学科を出ている。それは教養を積むとかではなく、ましてや政治やビジネスにニーチェやスコラ哲学が生かせるなどということでもなく、その時は無駄と思えるいろいろな頭の使い方が、結局は役に立つこともあるということで、はやりの地政学の言葉で累積戦略みたいなものが働くからではなかろうか(詳しくは奥山真司さんあたりの本を見てください)
だから別にいいのだよ、ヒュームや小林を読んで、いろいろな感想を持つのは。でもこんなものは「プラトン思想と波動方程式の関係」みたいなもので、教室内で完結させておくべき、幼稚な練習問題に過ぎないんだよ。わざわざ本にしたってことは、そうではなくて、本気で価値があると思ってるんだろうな
こんな辛い点をつけることはないのだ。でもわたしはこの男が京都大学へ執行中に書いた、藤井聡とやらとの共同論文をアーカイブで読み、その頭の悪さに本当に怒りがわいた。中の一遍は、なんでもいろいろなものに物語の構造を見る、というものだったが、世界に存在するものはすべて何らかの構造を持っているはずで、それをただ単に「物語」と一括して言い換えるだけのつまらん言葉遊びだった。興味のある人はネットで読めるよ。ばかじゃねえの、って本気で思うから(笑)。官僚に高い給料を保証しながらこんな幼稚な論文を書かせて遊ばせてんのかよ。いいご身分なんだね
小林は価値のある人間とない人間を分ける根拠を、どう置いているのか、自覚していなかった。これは私小説論のことだ。答えは、あまりに通俗的な偉さと言うものである。実体のない、社会的名声と言うものである
もちろん、偉いとされる人の本にはそれだけの理由があったはずだが、小林にはその一つ一つを分析するだけの真摯さがなかった。いや、もしその仕事に取り組んだとしても答えにはたどり着けなかっただろう。なぜなら偉いとされるものを偉いと肯定するのは、小林の中のsnobbishnessにほかならないからだ
女を楽しみ、美食を愛したモーパッサンを、絶望から生活へ袂別したと言い、隠者の生活を送るプルーストや引きこもりの生活破綻者ジッドを成熟した近代的自我であるなどと評価し、金持ちの余技にすぎぬ志賀直哉の作品を日常の芸術化などとほめる理論に、一貫したものなどあるはずもない。いや、個々の評言は当たっていないわけではない、かもしれないが、それは単に日本の、主として自然主義の群小作家をくさすためなのだ。そして群小な作家が小林に嫌われるのは、要するに群小だからである
私は三島や小林を持ち上げる自称保守を全く信用しない。三島の小説はいい出来だが、文化防衛論は西尾幹二の言うとおり、支離滅裂だ
で、話は全く変わるが、欧米のエリートの結構な割合が、大学の哲学科を出ている。それは教養を積むとかではなく、ましてや政治やビジネスにニーチェやスコラ哲学が生かせるなどということでもなく、その時は無駄と思えるいろいろな頭の使い方が、結局は役に立つこともあるということで、はやりの地政学の言葉で累積戦略みたいなものが働くからではなかろうか(詳しくは奥山真司さんあたりの本を見てください)
だから別にいいのだよ、ヒュームや小林を読んで、いろいろな感想を持つのは。でもこんなものは「プラトン思想と波動方程式の関係」みたいなもので、教室内で完結させておくべき、幼稚な練習問題に過ぎないんだよ。わざわざ本にしたってことは、そうではなくて、本気で価値があると思ってるんだろうな
こんな辛い点をつけることはないのだ。でもわたしはこの男が京都大学へ執行中に書いた、藤井聡とやらとの共同論文をアーカイブで読み、その頭の悪さに本当に怒りがわいた。中の一遍は、なんでもいろいろなものに物語の構造を見る、というものだったが、世界に存在するものはすべて何らかの構造を持っているはずで、それをただ単に「物語」と一括して言い換えるだけのつまらん言葉遊びだった。興味のある人はネットで読めるよ。ばかじゃねえの、って本気で思うから(笑)。官僚に高い給料を保証しながらこんな幼稚な論文を書かせて遊ばせてんのかよ。いいご身分なんだね
2012年1月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小林秀雄はよくわからない。読みにくくて、文芸批評の巨人といわれる、その偉さがわからない。講演の録音を聴いても、古今亭志ん生にそっくりといわれる甲高い声で、いらだっているような、怒っているような口調で話し続けて、最後には演壇を「どんどんどんどん!」と叩きながらなにかわめいて、突然に話しが終わる。おかしな、気難しそうなじいさんだなあ、という感想しか持っていなかった。
この本は、小林秀雄のエッセイや講演を集めた『考えるヒント』の記述をきっかけに、学問、知性、時代、政治、職業について論じたものである。
著者は、経産省に身分を置きながら、京都大学の准教授として主に経済ナショナリズムを研究している。昨年、政官財界およびマスコミが、「日本も環太平洋経済連携協定(TPP)に参加すべきだ」との論調で一色に染まった中、いち早く『TPP亡国論』を著し、ほとんど孤軍奮闘、しかし、最後には、民主党がふたつに割れるかと思われるまでに反対論を盛り上げた論客である。
私は、『TPP亡国論』を読んで、数値に裏付けられた実証的な議論に感心し、日本という国に根付いて生活する人々の実感を大切にする姿勢に共感し、官僚でありながらためらいなく政府の方針に反する論を張る独立自尊ぶりに感激した。そして、この著者の作物はぜんぶ読んでみようと思って、この本を手に取ったのだった。
その結果は予想以上に豊かなものだった。
著者は、二〇〇〇年代最初の三年間、スコットランドのエディンバラ大学で政治思想を研究していた。小泉純一郎政権に国民が熱狂する中、これから政治はどう動くのか、どこへ進むべきかの羅針盤を求めてのことであったという。その留学に際して、スーツケースに入れた何冊かの日本語の本の中に『考えるヒント』があった。
スコットランド訛りの英語に苦しみながら、息抜きに読んだ中江藤樹、荻生徂徠、本居宣長らについてのエッセイを読んで、近代西洋思想、とりわけデイヴィッド・ヒュームと共通するものを見いだし、目から鱗が落ちるような啓示を受けたという。
その共通するものとは、生活常識の中に真理を探り、常識からかけ離れた奇説・新説や壮大な理論体系に懐疑の矢を放つ姿勢である。傲慢との謗りをおそれず「天地の間に己一人生きて有る」との精神を持ち、実践することである。
なるほど、中野剛志は、小林秀雄とヒュームからできあがっていたのだった。
高校生の頃、小林秀雄の書くものが、さっぱりわからなかったのは著者も同じだったらしい。これを機会に、小林秀雄をもう一度読み返してみることにしよう。
この本は、小林秀雄のエッセイや講演を集めた『考えるヒント』の記述をきっかけに、学問、知性、時代、政治、職業について論じたものである。
著者は、経産省に身分を置きながら、京都大学の准教授として主に経済ナショナリズムを研究している。昨年、政官財界およびマスコミが、「日本も環太平洋経済連携協定(TPP)に参加すべきだ」との論調で一色に染まった中、いち早く『TPP亡国論』を著し、ほとんど孤軍奮闘、しかし、最後には、民主党がふたつに割れるかと思われるまでに反対論を盛り上げた論客である。
私は、『TPP亡国論』を読んで、数値に裏付けられた実証的な議論に感心し、日本という国に根付いて生活する人々の実感を大切にする姿勢に共感し、官僚でありながらためらいなく政府の方針に反する論を張る独立自尊ぶりに感激した。そして、この著者の作物はぜんぶ読んでみようと思って、この本を手に取ったのだった。
その結果は予想以上に豊かなものだった。
著者は、二〇〇〇年代最初の三年間、スコットランドのエディンバラ大学で政治思想を研究していた。小泉純一郎政権に国民が熱狂する中、これから政治はどう動くのか、どこへ進むべきかの羅針盤を求めてのことであったという。その留学に際して、スーツケースに入れた何冊かの日本語の本の中に『考えるヒント』があった。
スコットランド訛りの英語に苦しみながら、息抜きに読んだ中江藤樹、荻生徂徠、本居宣長らについてのエッセイを読んで、近代西洋思想、とりわけデイヴィッド・ヒュームと共通するものを見いだし、目から鱗が落ちるような啓示を受けたという。
その共通するものとは、生活常識の中に真理を探り、常識からかけ離れた奇説・新説や壮大な理論体系に懐疑の矢を放つ姿勢である。傲慢との謗りをおそれず「天地の間に己一人生きて有る」との精神を持ち、実践することである。
なるほど、中野剛志は、小林秀雄とヒュームからできあがっていたのだった。
高校生の頃、小林秀雄の書くものが、さっぱりわからなかったのは著者も同じだったらしい。これを機会に、小林秀雄をもう一度読み返してみることにしよう。
2010年8月28日に日本でレビュー済み
普通のサラリーマンが小林秀雄を読むことなどあるのだろうか?
小林秀雄は試験問題に出る難解な文章を書く人で、何を言っているのかよくわからないと思い込み、敬遠したまま、ついに読むことなく社会人になってしまった、という人たちが多いのではないか。
しかし、この本を読むと、小林秀雄に急接近できるだろう。
すでにエッセンスを簡潔にまとめた素晴らしいレビューが掲載されていた。内容の重複を避けるため、そちらを参照してもらいたい。
小林は、思想や理論をかかげ生活実感のない頭でっかちを批判し続けた。だから論理や分析で頭をいっぱいにした人たち、特に戦前のマルクス主義文学者たちからは、(例えば、反論理主義者と言われ、)批判された。だが、この批判は必ずしも当たっていないと思う。
小林は思想を軽視している訳ではない。むしろ、思想のない実行家に対しては容赦ない。これに関連し、本書とは別に、小林の「無私の精神」から一部引用する。
「考えることが不得手で、したがってきらひで、止むを得ず
実行家になっている種類の人が一番多いのだが、また、
そういう実行家が、実行家らしい実行家の風をしてみせる
ものだ。この種の退屈な人間ほど、理屈など何の役にも
立たぬ、といつも言いたがる。偶然と好運による成果を
大言壮語したがる」
(小林秀雄全集<第12巻> p.105より)
著者は文学者ではないので「文芸に疎い」という謙虚なスタンスで本書を書いたようだが、「日常の経験を何よりも尊重」していた小林のスタイルをそのまま受け入れ、「文芸に疎いから小林秀雄について沈黙するということこそが、小林が最も嫌ったことではないか」(P.203)と語る。
私は、思春期の感受性の強い中学生時代にベートーベンの音楽に出会った。当然、ベートーベンを演奏するオーケストラの団員や指揮者のようにベートーベンの音楽を理解しているはずがない。指揮者だって、作曲家ほどには曲を理解できてはいないかもしれない。
しかし、中学生の私は、音楽を聞くことが生活の一部となっていた。生きていることを実感した。
小林秀雄は今でも理解できたなどとは到底言えない。でも、小林を読むと生きる手ごたえを感じる。理解を超えた何かを感じる。茂木健一郎のいう「クオリア」かもしれない。
文学とは縁のない一社会人にすぎない私も、「考えるヒントで考える」という本に出会い、また、一味違う演奏家による小林秀雄を知り、理解を深めた。
著者は、「教科書や参考書に出てきた小林秀雄に閉口した経験のある高校性や大学生に読んでもらえたら、と願っている」(P.204)ようである。しかし、付け加えたい。
日々の生活に流され、生き甲斐を感じることなく自己を見失ってしまった社会人、さらには気概を喪失してしまったかに見える多くの日本人にこそ、この本を読ませたい。
小林秀雄は試験問題に出る難解な文章を書く人で、何を言っているのかよくわからないと思い込み、敬遠したまま、ついに読むことなく社会人になってしまった、という人たちが多いのではないか。
しかし、この本を読むと、小林秀雄に急接近できるだろう。
すでにエッセンスを簡潔にまとめた素晴らしいレビューが掲載されていた。内容の重複を避けるため、そちらを参照してもらいたい。
小林は、思想や理論をかかげ生活実感のない頭でっかちを批判し続けた。だから論理や分析で頭をいっぱいにした人たち、特に戦前のマルクス主義文学者たちからは、(例えば、反論理主義者と言われ、)批判された。だが、この批判は必ずしも当たっていないと思う。
小林は思想を軽視している訳ではない。むしろ、思想のない実行家に対しては容赦ない。これに関連し、本書とは別に、小林の「無私の精神」から一部引用する。
「考えることが不得手で、したがってきらひで、止むを得ず
実行家になっている種類の人が一番多いのだが、また、
そういう実行家が、実行家らしい実行家の風をしてみせる
ものだ。この種の退屈な人間ほど、理屈など何の役にも
立たぬ、といつも言いたがる。偶然と好運による成果を
大言壮語したがる」
(小林秀雄全集<第12巻> p.105より)
著者は文学者ではないので「文芸に疎い」という謙虚なスタンスで本書を書いたようだが、「日常の経験を何よりも尊重」していた小林のスタイルをそのまま受け入れ、「文芸に疎いから小林秀雄について沈黙するということこそが、小林が最も嫌ったことではないか」(P.203)と語る。
私は、思春期の感受性の強い中学生時代にベートーベンの音楽に出会った。当然、ベートーベンを演奏するオーケストラの団員や指揮者のようにベートーベンの音楽を理解しているはずがない。指揮者だって、作曲家ほどには曲を理解できてはいないかもしれない。
しかし、中学生の私は、音楽を聞くことが生活の一部となっていた。生きていることを実感した。
小林秀雄は今でも理解できたなどとは到底言えない。でも、小林を読むと生きる手ごたえを感じる。理解を超えた何かを感じる。茂木健一郎のいう「クオリア」かもしれない。
文学とは縁のない一社会人にすぎない私も、「考えるヒントで考える」という本に出会い、また、一味違う演奏家による小林秀雄を知り、理解を深めた。
著者は、「教科書や参考書に出てきた小林秀雄に閉口した経験のある高校性や大学生に読んでもらえたら、と願っている」(P.204)ようである。しかし、付け加えたい。
日々の生活に流され、生き甲斐を感じることなく自己を見失ってしまった社会人、さらには気概を喪失してしまったかに見える多くの日本人にこそ、この本を読ませたい。