子供の頃に漫画日本の歴史を読んでいると、なぜか
江戸時代の巻などに民衆の一揆がことさらに意義を
強調されて描かれているのが不思議でしたが、その背
景の一端が少し納得できました。

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日本近世の起源: 戦国乱世から徳川の平和へ (Modern Classics新書 30) 新書 – 2008/7/1
渡辺 京二
(著)
- 本の長さ332ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2008/7/1
- ISBN-104862482643
- ISBN-13978-4862482648
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年4月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
産経の記者の阿比留瑠比氏がそのブログで紹介していたのがきっかけでこの本を購入して読んだ。
氏の著書は「逝きし世の面影」を以前読んだことがある。「逝きし世の面影」では、江戸時
代そして明治期の現在では失われた日本のよい風俗、というよりむしろ民衆の間に生きていたいわば
「嗜み」のようなものを描いたが、この「日本近世の起源」もその系譜である。
まず 感銘をうけたのは、281頁の広島の爆心地の碑文の個所の批評である。
「…この文言は、広島の虐殺は軍国主義的支配者の誤った指導が招いたもので、そのような支配者にしたがう過ちは繰り返さないと言っているのだ…」
この文が最もあの碑文の批評として適切だと感じた。日本人全体の加害者的な懺悔とかで括るのでは
なく、過ちという言葉の正確な意味はまさにこの著者のいう意味合いで虎まえなくてはならないだ
ろう。
この本は左翼主義的な史観に対するアンチテーゼとしての意味合いが強い。実際説得的である。
網野善彦氏の議論が批判されているが、網野氏の著作は読んでいないが、表層的な印象ではあるが、
網野氏の議論は深みがなく、真実に到達するものではないようだ。
堺の都市を自由な市民の結合と捉える議論は昔きいた覚えがあるが、これも著者は批判する。本願寺
の一向一揆の動きも宗教戦争的な文脈で語られたが、著者は真実はそうではないと断ずる。
著者は味方は極めて常識的ではあるが、このような議論が出てくるまで、日本の歴史学会は左翼的
な味方に支配されていたのだ。
氏の著書は「逝きし世の面影」を以前読んだことがある。「逝きし世の面影」では、江戸時
代そして明治期の現在では失われた日本のよい風俗、というよりむしろ民衆の間に生きていたいわば
「嗜み」のようなものを描いたが、この「日本近世の起源」もその系譜である。
まず 感銘をうけたのは、281頁の広島の爆心地の碑文の個所の批評である。
「…この文言は、広島の虐殺は軍国主義的支配者の誤った指導が招いたもので、そのような支配者にしたがう過ちは繰り返さないと言っているのだ…」
この文が最もあの碑文の批評として適切だと感じた。日本人全体の加害者的な懺悔とかで括るのでは
なく、過ちという言葉の正確な意味はまさにこの著者のいう意味合いで虎まえなくてはならないだ
ろう。
この本は左翼主義的な史観に対するアンチテーゼとしての意味合いが強い。実際説得的である。
網野善彦氏の議論が批判されているが、網野氏の著作は読んでいないが、表層的な印象ではあるが、
網野氏の議論は深みがなく、真実に到達するものではないようだ。
堺の都市を自由な市民の結合と捉える議論は昔きいた覚えがあるが、これも著者は批判する。本願寺
の一向一揆の動きも宗教戦争的な文脈で語られたが、著者は真実はそうではないと断ずる。
著者は味方は極めて常識的ではあるが、このような議論が出てくるまで、日本の歴史学会は左翼的
な味方に支配されていたのだ。
2019年7月24日に日本でレビュー済み
江戸から明治に日本を訪れた外国人の記録を集めて、当時の日本の状況をあざやかに描いた「逝きし世の面影」を読んで渡辺京二ファンとなった。同じ著者が、戦国から徳川時代の日本社会を書いた本ということで本書を読んだ。他のレビュアーが書いているように、著者は歴史研究者ではなく、本書のほとんどが、歴史研究者の著作の引用でできているのは確かだが、著者は、その時々の学会やイデオロギーの流行にのるのではなく、先達の研究を渡辺流に十分に消化しながら、戦国から徳川時代の社会をいきいきと描きだしている。日本史の学校教科書だけではわからない、近世日本社会の状況とその成り立ちを知ることができる本だと評価したい。
2008年7月15日に日本でレビュー済み
冒頭、網野善彦を以て戦後歴史学を代表させようという時点で「この人はわかってないな」と感じました。マルクス主義史観についても全然わかっていません。網野善彦がそうだというのなら、ガチのマルクス主義者で、網野と論争を繰り返した安良城盛昭や永原慶次が異端になってしまうのですが……。著者は社会学が専門のようなので、まあ、この程度でしょうか。
本文については、普通。少なくとも、本気で勉強使用という人に薦められるレベルには達していません。
本文については、普通。少なくとも、本気で勉強使用という人に薦められるレベルには達していません。
2008年9月28日に日本でレビュー済み
渡辺京二氏といえば、江戸時代を独自の文明として捉えた「逝きし世の面影」、「江戸という幻景」で氏の見識の高さ、そして流麗でしっとりした文章にすっかり魅了されてしまった。本書は、独自の文明としての江戸時代が、戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)として出現する過程を描いたものである。
戦後左翼史学は中世末期(戦国乱世)を自立した民衆・農民が横に連携する西洋のルネッサンスにも擬せられる明るい時代であり、戦国時代とはそれを織豊政権が抑圧・骨抜きにしていく過程であるとしてきたようである。なるほど、手元にある少々古い「体系 日本の歴史 7戦国大名(小学館、1988)」をみると、この時代を「コミューンの世紀」として肯定的に取り上げている。著者は、最近の研究者たちの研究成果を踏まえ真っ向からこの見方に反撃を加えて「パックス・トクガワ」にいたる過程とその意義を明らかにする。
著者はあとがきで「どういうわけでこんなしんどい仕事をする羽目に陥ったのか、自分でもよくわからない」と述べているが、新書版であるにも関わらず、本書を読了するにはかなりの精神的格闘力を要しよう。覚悟をもって読み始めることが必要。尚、引用文献がすべて見開きの左頁左端に置かれているのが見やすくてよい。
戦後左翼史学は中世末期(戦国乱世)を自立した民衆・農民が横に連携する西洋のルネッサンスにも擬せられる明るい時代であり、戦国時代とはそれを織豊政権が抑圧・骨抜きにしていく過程であるとしてきたようである。なるほど、手元にある少々古い「体系 日本の歴史 7戦国大名(小学館、1988)」をみると、この時代を「コミューンの世紀」として肯定的に取り上げている。著者は、最近の研究者たちの研究成果を踏まえ真っ向からこの見方に反撃を加えて「パックス・トクガワ」にいたる過程とその意義を明らかにする。
著者はあとがきで「どういうわけでこんなしんどい仕事をする羽目に陥ったのか、自分でもよくわからない」と述べているが、新書版であるにも関わらず、本書を読了するにはかなりの精神的格闘力を要しよう。覚悟をもって読み始めることが必要。尚、引用文献がすべて見開きの左頁左端に置かれているのが見やすくてよい。
2018年1月22日に日本でレビュー済み
内容はいろいろな人の研究を俎上に挙げて評論するだけで、自分で史料を読まないというトンデモない代物。
2005年9月17日に日本でレビュー済み
木村尚三郎が『歴史の発見』(中公新書)で述べているように、歴史上のできごとには常にそれを成立させる背景が存在する、ということをあらためて認識させられます。例えば、戦国時代における農村の自律的な運営形態は、その時代の日本人が自由で独立志向だったとかいうことではなく、絶対的な法的権力の不在により自己防衛を余儀なくされた状況下で必然的に発生したものだった、という背景をくっきり描いています。現代に住む我々は、つい我々自身の置かれている状況を普遍化し、そこから色眼鏡をかけて歴史を眺めてしまうのではないか。偏った歴史観に立脚することにより自分の都合の良いように解釈し、都合の悪い事象を捨象してしまう、「確証バイアス」ともいっていい行為をついやってしまう。著者はそうした歪んだ姿勢に対して鋭い突っ込みを入れており、例えば中世史の権威である網野善彦のマルクス主義的な学説に真っ向から勝負を挑む姿勢、その小気味よさに興奮します。
今さらながら感じさせられるのは、日本人という存在が歴史上数度、思いっきり変わっている、という事実です。戦国時代の日本人は江戸時代の日本人とはまるで違う民族であり、ましてや現代に生きる我々ともまた全く異種の人々である、という指摘は(バイアスの少ない)傍証と論理に裏打ちされており、唸りました。だからこそ、日本人とは昔からこういう人種だ、と決めつけることの愚かさを認識できるし、これから我々は環境にどう規定され、それにどうチャレンジしていくべきなのかを考えさせてくれます。
今さらながら感じさせられるのは、日本人という存在が歴史上数度、思いっきり変わっている、という事実です。戦国時代の日本人は江戸時代の日本人とはまるで違う民族であり、ましてや現代に生きる我々ともまた全く異種の人々である、という指摘は(バイアスの少ない)傍証と論理に裏打ちされており、唸りました。だからこそ、日本人とは昔からこういう人種だ、と決めつけることの愚かさを認識できるし、これから我々は環境にどう規定され、それにどうチャレンジしていくべきなのかを考えさせてくれます。
2010年9月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
すでに指摘があるように、戦後歴史学の代表を網野善彦とするのは研究史を正確に把握していない証左である。確かに網野は最期を迎えるまで「マルキスト」を自称していた。しかし、戦後歴史学の中での彼の立場は主流ではない。網野批判の急先鋒である安良城盛昭の『無縁・公界・楽』批判があったから、増補版が出た(これは当時経済的に痛かった)事情を理解していない。私は安良城による網野批判をまず口頭報告で聞いた。参加者の中から擁護する意見も多く出されたが、理論家である安良城はすべて一蹴した。のち「網野善彦氏の近業に関する批判的検討」として学術雑誌に掲載され、その後単著にまとめられた。しかし批判点の多くは史料解釈の問題に集中しており、マルクス主義歴史学とはほとんど無関係であった。戦後歴史学の代表は安良城や永原慶二、そして何と言っても石母田正であろう。網野の自由論に批判的な研究者は決して少なくない。しかし、それは彼が戦後歴史学の異端児であったことと無縁ではない。もっといえば網野の功績は非農業民論・東西日本社会異質論・非単一民族国家論・天皇制論など多岐にわたっていて、それまでの戦後歴史学が見落としてきた点を拾い上げたところにある。『無縁・公界・楽』は確かに彼の代表作であり、出世作でもあるのだが、一作品に過ぎないこともまた事実である。こういった弁証法的表現を著者はマルクス主義的といって切り捨てるかもしれない。だが、著作集を全文読んで頂きたいと思う。死人に口無しで網野本人が反論することはもう不可能だから。