白洲さんの歩かれた場所はもう変わっているかもしれませんが、
白洲さんの足取りが知れて、おもしろかったです。
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私の古寺巡礼 単行本 – 1997/5/5
白洲 正子
(著)
若狭・熊野・近江・葛城など光と影が交錯し神と仏の混在する魅惑の地への誘い。永年にわたり古寺を訪ね続けた著者が、とぎすまされた感覚と思惟で日本人の信仰や美意識の深層におりてゆく。
- 本の長さ223ページ
- 言語日本語
- 出版社法蔵館
- 発売日1997/5/5
- ISBN-104831880809
- ISBN-13978-4831880802
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
若狭、熊野、近江など神と仏とが混在する魅惑の地を紀行するエッセイ集。とぎすまされた感性で、日本人の美意識の根源を探る。長く品切れの名著に3篇の増補を加えた新版。
登録情報
- 出版社 : 法蔵館; 新版 (1997/5/5)
- 発売日 : 1997/5/5
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 223ページ
- ISBN-10 : 4831880809
- ISBN-13 : 978-4831880802
- Amazon 売れ筋ランキング: - 332,725位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 235位寺院
- - 10,542位エッセー・随筆 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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(1910-1998)東京・永田町生れ。薩摩隼人の海軍軍人、樺山資紀伯爵の孫娘。幼時より梅若宗家で能を習う。14歳で米国留学、1928(昭和3)年帰国。翌年、白洲次郎と結婚。1943年『お能』を処女出版。戦後、小林秀雄、青山二郎らを知り、大いに鍛えられて審美眼と文章をさらに修業。1964年『能面』で、また1972年には『かくれ里』で、ともに読売文学賞を受賞している。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年7月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
説明は白洲ぶし炸裂で分かりやすく記述されているのだが、もう少し写真や図を使って解説していただいておれば、理解が進んだように思われます。ちょっとその点で理解の妨げになりました。それで星をひとつ減らしました。本当、文章だけで本書を理解するのは大変です。
2014年8月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
やはり白洲正子さんの作品を読んでいると、考えさせられます。何年経っても、土台がしっかりした作品です。
2012年1月5日に日本でレビュー済み
1982年に法蔵館から出た単行本の文庫化。
日本各地の寺を訪れた紀行文13篇が収められている。
室生寺、長谷寺、東大寺、平等院、葛城山などを歩き、感じたことを自由に綴っている。
福井県小浜市にある鵜の瀬から東大寺のお水取りに使われる水を送る「お水送り」の行事を見たり、室生口駅から室生寺までの道を歩いたり、長谷寺の巨大な仏像がつくられ継承されていく歴史を垣間見たり。
しかし、対象となる寺そのものというよりは、著者の内面が押し出された文章だった。いつもの白洲さんの調子である。
日本各地の寺を訪れた紀行文13篇が収められている。
室生寺、長谷寺、東大寺、平等院、葛城山などを歩き、感じたことを自由に綴っている。
福井県小浜市にある鵜の瀬から東大寺のお水取りに使われる水を送る「お水送り」の行事を見たり、室生口駅から室生寺までの道を歩いたり、長谷寺の巨大な仏像がつくられ継承されていく歴史を垣間見たり。
しかし、対象となる寺そのものというよりは、著者の内面が押し出された文章だった。いつもの白洲さんの調子である。
2018年1月13日に日本でレビュー済み
正月に何となく見ていたNHKの番組で、白洲正子が取り上げられていました。
それまで良いとこ育ちのお嬢さんとしか思っていなかったのですが、その伝統や文化に対する真摯な考え方に共感し、この本を手にしました。
この本を通して一番感じたことは、何と美しい日本語だろうと言うことです。
その美しい日本語で語られる「古寺巡礼」は、一切の予見を廃し、ただただ真っ直ぐに対象と向き合う姿勢でした。
この本の中では、「ただただ歩く」と言う言葉で語られますが、信仰も知識も廃し、ただ歩きに歩き、その先に見えるものをしっかりと心に刻むということです。
そんな中から語られることは、言葉で言えば「神仏混淆」と言うことになるのでしょうが、それは「自然」と外来宗教である「仏教」との一体化と言うことでしょう。
この本の中で、作者は様々な場所に出かけ、様々な仏像と出会い、更に名僧と語り合います。
そこで語られる言葉の重みは、現代社会に生きる私たちに人生訓を与えてくれる様です。
場所的にも、私自身訪れたところが沢山あります。
しかし、そこまで深く考えることもなく、通り過ぎてしまった様です。
この本を読んで、もう一度行きたい、或いは訪れてみたいという場所が沢山出来ました。
それまで良いとこ育ちのお嬢さんとしか思っていなかったのですが、その伝統や文化に対する真摯な考え方に共感し、この本を手にしました。
この本を通して一番感じたことは、何と美しい日本語だろうと言うことです。
その美しい日本語で語られる「古寺巡礼」は、一切の予見を廃し、ただただ真っ直ぐに対象と向き合う姿勢でした。
この本の中では、「ただただ歩く」と言う言葉で語られますが、信仰も知識も廃し、ただ歩きに歩き、その先に見えるものをしっかりと心に刻むということです。
そんな中から語られることは、言葉で言えば「神仏混淆」と言うことになるのでしょうが、それは「自然」と外来宗教である「仏教」との一体化と言うことでしょう。
この本の中で、作者は様々な場所に出かけ、様々な仏像と出会い、更に名僧と語り合います。
そこで語られる言葉の重みは、現代社会に生きる私たちに人生訓を与えてくれる様です。
場所的にも、私自身訪れたところが沢山あります。
しかし、そこまで深く考えることもなく、通り過ぎてしまった様です。
この本を読んで、もう一度行きたい、或いは訪れてみたいという場所が沢山出来ました。
2016年11月22日に日本でレビュー済み
「平等院のあけぼの」で、平等院は春の朝日の中で真の姿を現すと
刻々の景色の変化を語る言葉に「来迎」の夢をみました。
白洲正子が言い切るひとつひとつの言葉が小気味よく、
これがやがて快感となってしまいます。
現代人はとかく形式というものを軽蔑するが、精神は形の上にしか現れないし、
私たちは何らかのものを通じてしか、自己を見出す事も、語る事もできない。
やはり本当に美しい仏様は、ただ美しいというだけで、自然に拝みたくなる。
博物館に並んでいる仏像は、仏様ではなくオブジェに過ぎない。
外に目的を求めるから、人間は悩むのであって、
要するにそれは世間に甘えていることに過ぎない。
目的はいくら立派でも、何かのためにする修行も、勉強も、つまる所は私欲である。
・・・
白州正子の思考は、シモーニュ・ヴェイユに似ている様な気がしてきました。
刻々の景色の変化を語る言葉に「来迎」の夢をみました。
白洲正子が言い切るひとつひとつの言葉が小気味よく、
これがやがて快感となってしまいます。
現代人はとかく形式というものを軽蔑するが、精神は形の上にしか現れないし、
私たちは何らかのものを通じてしか、自己を見出す事も、語る事もできない。
やはり本当に美しい仏様は、ただ美しいというだけで、自然に拝みたくなる。
博物館に並んでいる仏像は、仏様ではなくオブジェに過ぎない。
外に目的を求めるから、人間は悩むのであって、
要するにそれは世間に甘えていることに過ぎない。
目的はいくら立派でも、何かのためにする修行も、勉強も、つまる所は私欲である。
・・・
白州正子の思考は、シモーニュ・ヴェイユに似ている様な気がしてきました。
2021年4月26日に日本でレビュー済み
すでに、1919(大正8)年に刊行された和辻哲郎博士の著作『古寺巡禮』があります。
私たちの世代の者には、ほかに亀井勝一郎氏の『大和古寺風物詩』があります。
思想家が、寺と寺を取り囲む自然、文物を眺めます。あとは、表現された結果、はじめてあらわになる、古寺に対するヒトの構える方法論です。帰納的に把握できることになります。
さて、その伝でいけば、本書の著者である白洲氏の手許にはいかなる方法が醸成されたのでしょうか?
私たちの世代の者には、ほかに亀井勝一郎氏の『大和古寺風物詩』があります。
思想家が、寺と寺を取り囲む自然、文物を眺めます。あとは、表現された結果、はじめてあらわになる、古寺に対するヒトの構える方法論です。帰納的に把握できることになります。
さて、その伝でいけば、本書の著者である白洲氏の手許にはいかなる方法が醸成されたのでしょうか?
2016年10月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
母へのプレゼントでした。コンディションも記述されたとおりで、大変喜んでくれました。