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期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉 単行本 – 2002/11/25
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- 本の長さ260ページ
- 言語日本語
- 出版社晶文社
- 発売日2002/11/25
- ISBN-104794965494
- ISBN-13978-4794965493
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
登録情報
- 出版社 : 晶文社 (2002/11/25)
- 発売日 : 2002/11/25
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 260ページ
- ISBN-10 : 4794965494
- ISBN-13 : 978-4794965493
- Amazon 売れ筋ランキング: - 459,360位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 514位近代西洋哲学
- - 7,518位近現代日本のエッセー・随筆
- - 10,931位日本文学
- カスタマーレビュー:
著者について
姜尚中(カン サンジュン)
1950年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。
東京大学大学院情報学環教授。専攻は政治学・政治思想史。
著書に『マックス・ウェーバーと近代』、『オリエンタリズムの彼方へ』、『ナショナリズム』、『東北アジア共同の家をめざして』、『日朝関係の克服』、『姜尚中の政治学入門』、『ニッポン・サバイバル』『悩む力』ほか。
共著回編者に『ナショナリズムの克服』、『デモクラシーの冒険』、『在日一世の記憶』ほか。
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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何か不幸な事態に見舞われたとき,その原因として誰か特定のものや人を標的にして,それを排除したり攻撃することで問題の解決を見たがる誘惑に,人間がどれほど染まりやすいかを,著者ほど雄弁に語る作家に出会ったことがありません。少なくとも浅学非才の小生は知る機会がありませんでした。
誤読をしているかも知れない恐れをいだきつつ,飽きもせず懲りもせず,著者の文章に触れながら,自らが陥りそうになる思考の陥穽に,絶えず警鐘を鳴らしてくれる機会に,この本でもまた出会うことができました。気持ちが萎えているときに,妙に勇気づけられる文体です。
日本には古来脈々と受け継がれた「『自分の外部にあるもの』によって支えられるという生き方が,あったはずです。著者は「『一人で生き,一人で運命と対峙し,一人で責任をとり,一人で問題を解決する』ことを強いられる状況」によって,人間が原子化され,多様性を失い,脆弱になっていく様を暴いています。「弱い酸のようにその人の生きる意欲をゆっくり蝕んでいく」ことを防ぐ,他者へのかかわり方を提唱しています。
さながら,思考の宝石箱といったかんじでしょうか。
「『仕事をする』というのは,『他者を目指して,パスを出す』という,ただそれ「だけ」のことである。私たちは,「自分のために」「自分に向けて」「自分に何かをもたらし来たすために」仕事をしているのではない」という文章が,今のお気に入りのアイテムです。
「大人であるということは、経験の豊かさとも識見の高さとも肚(はら)の出来具合とも関係がない。「大人にならなければならない」という当為をわが身に引き受けることによってのみ人は大人になるのである」内田樹「「大人」になること―漱石の場合」(『 「おじさん」的思考 』所収)
内田樹さんの一連の述作を読み続けてゆくと、いつしか“蟻地獄”に落ちた蟻みたいになってしまう(笑)。それはともかく、昨今、 文庫 や 漫画 で吉野源三郎さん(1899~1981)の『君たちはどう生きるか』がよく読まれているようだ。大変良い傾向だと思う。この著書の主人公は「コペル君」なのだが、陰の主人公は勿論「叔父さん」である。そして、今の日本で「コペル君」の生き方、考え方を整序する「叔父さん」の役割を果たしていそうなのが内田樹さんかな、と私は考えている。まあ、池田信夫あたりでは絶対に無理だろうな(笑)。
ところで、内田さんの言説について、私は概ね同意するところが多い訳だが、本書所載の文筆家、近代(こだい)ナリコさんのロングインタビュー「失われたおじさん像を求めて」の中で、内田さんは「僕の言うことに対して「まったく同じ意見です」という人が出てくると、なんとなく不安になりますね」「ある程度いろいろな考え方がばらけていたほうがいい、と直感的に感じるんです」などと語っている。この切言を踏まえ、敢えて本書に収められている「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」(2002/3)に関し、愚見を披陳したい。
この第2章「説教値千金」の論稿で、内田さんは議員・官吏の涜職、私曲に対して、タイトルともなっている古諺を引き、ざっくり言えば、公人には「疑わしきは罰せず」という法諺は適用されない、と断じている。つまり、政治家や官吏には「私権」がないこと、そして「疑われたらおしまい=いつでも容疑者(usually suspects)」ということだからである。まず、この点に関し、私も異議はない(その典型的な例が、今の安倍晋三らであろう)。確かに、近代法の法理等には反するであろうが、この辺りの論脈について、倫理的には正しい。
私が何を言いたいのか、というと、こうした公人の「倫理的な大原則(=疑われたらおしまい)」を、時の権力者が、例えば内閣情報調査室等を使嗾し、メディアを介在させて“政敵潰し”にも利用している実態がある。内田さんは「「公人」は「有能で清廉であると想定されること」、それが死活的に重要なのであり、爾余のことは論ずるに足りない」と結んでいるけれども、この“大原則”を悪用する「公人」もいる、という現実である。「そんなこと、分かっているさ」ということであれば、目くじらを立てる必要もないであろうが…。
本書は、単行本が2002年に出版され、一般的には“賞味期限切れ”といった感があるかもしれない。しかしながら、例を挙げれば、第2章にある「未来のない若者は「過去」に向かう」(2001/8)などを読むと、一部若者の“ネトウヨ化”という現象が理解できる。そう、「「未来のない若者」たちは「過去」を住みかとするようになる」。そして、彼らは「それぞれの知的感性的資質にしたがって、「ネコ化」「トリヴィアクイズ好き」「トラウマ探し」「原初の清浄説話」のいずれか(あるいはすべて)の道へ進んでゆく」との予想は的中した。
内容としては人生哲学をテーマごとに紐解くというもので、哲学系かつ保守系の大学教授らしい論点の提示、メッセージは参考になる。
内田樹の研究室という筆者が運営するBlogも合わせ読むと、筆者の伝えたいメッセージがより深く理解できるのではと読後に気が付いたので付記しておく。
読んできましたが、ここには、その原点があり、おもしろかったです。
そのテーマを自分なりの視点から
考えるための「方法」(=思想の使いかた)については
オトナはだれも教えてくれない。
(すくなくとも、今までの教育では)
先達の知恵から学ぶということはこういうことか
ということを、これでもかというくらいの視点で
知ることができる。
弱さ、自立、大人、仕事、権力・・・。
言葉の表面から、裏側を読み解き、
表裏の二項対立を越える論理展開を、
(期間限定で)思想というカタチで昇華している。
対話形式の巧みな文体で、読み手に迫る。
読後の充実感は、世の中を見る目を、
今までと切り替えていることを実感すること
また、そこから新たな一歩を踏み出すこと。