山極寿一さんと中沢新一さんの渾身の対談。人の未来を示す書籍。
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未来のルーシー: 人間は動物にも植物にもなれる 単行本(ソフトカバー) – 2020/2/22
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人類史のその先へ
出会うべくして出会った現代を代表するふたつの知性。
霊長類学、そして人類学はもとより、考古学、宗教学、生命科学、
AI、西田幾多郎、今西錦司など、森羅万象を縦横無尽に往還しながら、
閉塞した人類がまさにすすむべき未来を模索する。
世界とは何か、わたしたちとは何か。根源的問いに迫る究極の対談。
出会うべくして出会った現代を代表するふたつの知性。
霊長類学、そして人類学はもとより、考古学、宗教学、生命科学、
AI、西田幾多郎、今西錦司など、森羅万象を縦横無尽に往還しながら、
閉塞した人類がまさにすすむべき未来を模索する。
世界とは何か、わたしたちとは何か。根源的問いに迫る究極の対談。
- 本の長さ230ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日2020/2/22
- 寸法19 x 13 x 1.6 cm
- ISBN-104791772520
- ISBN-13978-4791772520
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登録情報
- 出版社 : 青土社 (2020/2/22)
- 発売日 : 2020/2/22
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 230ページ
- ISBN-10 : 4791772520
- ISBN-13 : 978-4791772520
- 寸法 : 19 x 13 x 1.6 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 101,785位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 208位文化人類学一般関連書籍
- - 233位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 20,073位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、多摩美術大学芸術人類学研究所所長。思想家。著書に『チベットのモーツァルト』(サ ントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(伊藤整文学賞)など多数ある(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『カイエ・ソバージュ』(ISBN-10:4062159104)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2023年12月9日に日本でレビュー済み
人類学者中沢新一、霊長類学者山極寿一の対談本。話は哲学者西田幾多郎や生態学者今西錦司などに及びそして、人類学はもとより、考古学、宗教学、生命科学、AI…と非常に広範囲な話となる。しかし、それらを横断的に語られることが本書の本質ではないだろうか。最後の方では中沢新一氏の「レンマ学」の話へと進んでいき、「華厳的進化」という言葉が現れる。レンマ的知性の観点から日本の知性を振り返りながら、今後の未来を模索する。
特に印象に残ったのは、数学者岡潔の理論が松尾芭蕉の俳句、つまりは東洋思想に似ているということを引き合いに出して話をしているところで、
山極 似たような話ですが、しばしば「生きる意味」ということが言われます。今西さんの自然観だと、「生きる意味」なんてないでしょう。自然というのは意味を持たないですから。西洋的な、因果論的に人間の行為や自然の現象を読み解こうとする思考の結果、初めて「意味」というものが出てきます。いま多くの人が「生きる意味」が無いと困っているわけです。そんなものは探さないほうがいいと私は思います。いま中沢さんがおっしゃった「秋深し 隣は何を する人ぞ」というのはまさに意味を消しているのですね。お互いに感じあって、みんなで共有し合うことの深さ、楽しさというものが、まさに生そのものであるということ。そこにはお互いに干渉しあわないけれど、お互いの存在を感じあえるような共存が語られています。
(『未来のルーシー 人間は動物にも植物にもなれる』中沢新一・山極寿一)
「『生きる意味』なんてないでしょう」と、それを芭蕉の俳句と照らし合わせているところが非常に面白い。僕は芭蕉のことも詳しくなければ、生態学にも詳しいわけでもなく、数学に詳しいわけでもない。しかし、この芭蕉の俳句から感じられるものがあり、そして山極氏の解釈も非常によくわかる感じがするのである。きっとそれは僕だけではないだろう。日本人の多くが言語化できていなくてもそのことを感じることができるのではないだろうか。きっとそういうことを感じながら生きているのではないだろうか。だから、江戸時代が終わって西洋化が始まってから何百年経っても、日本は完全に西洋化されることはなく、根底にこの松尾芭蕉の俳句のような感覚が今も残り続けているのではないだろうか。
だからこそ、「生きる意味」を探しても、見つからなくて困ってしまうというパラドックスに陥っている人がいるのではないだろうか。「生きる意味」なんてない、という考えの方が実は日本人にはしっくりとくるのかもしれない。ただそれが今はなんでも西洋的に考える癖がついている中で、それをうまく処理できていないから混乱するのであり、もともと日本人の根底にある考えに戻れば、ちゃんと落ち着くのではないだろうか。
芭蕉の俳句で生きる意味について語ること、語れることがまさにレンマ的知性だなと感じるのである。
特に印象に残ったのは、数学者岡潔の理論が松尾芭蕉の俳句、つまりは東洋思想に似ているということを引き合いに出して話をしているところで、
山極 似たような話ですが、しばしば「生きる意味」ということが言われます。今西さんの自然観だと、「生きる意味」なんてないでしょう。自然というのは意味を持たないですから。西洋的な、因果論的に人間の行為や自然の現象を読み解こうとする思考の結果、初めて「意味」というものが出てきます。いま多くの人が「生きる意味」が無いと困っているわけです。そんなものは探さないほうがいいと私は思います。いま中沢さんがおっしゃった「秋深し 隣は何を する人ぞ」というのはまさに意味を消しているのですね。お互いに感じあって、みんなで共有し合うことの深さ、楽しさというものが、まさに生そのものであるということ。そこにはお互いに干渉しあわないけれど、お互いの存在を感じあえるような共存が語られています。
(『未来のルーシー 人間は動物にも植物にもなれる』中沢新一・山極寿一)
「『生きる意味』なんてないでしょう」と、それを芭蕉の俳句と照らし合わせているところが非常に面白い。僕は芭蕉のことも詳しくなければ、生態学にも詳しいわけでもなく、数学に詳しいわけでもない。しかし、この芭蕉の俳句から感じられるものがあり、そして山極氏の解釈も非常によくわかる感じがするのである。きっとそれは僕だけではないだろう。日本人の多くが言語化できていなくてもそのことを感じることができるのではないだろうか。きっとそういうことを感じながら生きているのではないだろうか。だから、江戸時代が終わって西洋化が始まってから何百年経っても、日本は完全に西洋化されることはなく、根底にこの松尾芭蕉の俳句のような感覚が今も残り続けているのではないだろうか。
だからこそ、「生きる意味」を探しても、見つからなくて困ってしまうというパラドックスに陥っている人がいるのではないだろうか。「生きる意味」なんてない、という考えの方が実は日本人にはしっくりとくるのかもしれない。ただそれが今はなんでも西洋的に考える癖がついている中で、それをうまく処理できていないから混乱するのであり、もともと日本人の根底にある考えに戻れば、ちゃんと落ち着くのではないだろうか。
芭蕉の俳句で生きる意味について語ること、語れることがまさにレンマ的知性だなと感じるのである。
2020年4月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は放言癖で有名な著名人二人による対談を文字起こしたものだ。校閲的な作業が全くみられず、注釈ゼロ、文献ゼロで確からしさが全くない。せいぜい山極がゴリラに噛みつかれた話が事実なのだろう。したがって二人の発言の裏付けは読者に委ねられる。まれに書名が挙げられていることもあるが、それでも語られている内容については保留して、直接確認することを推奨する。
「そうなんだ。知らなかった」なる反応はこの本の読書体験としては全く正しくない。「そうやって話がトンでいくんだ」「思いつきの仕方がおもしろい」「噛み合ってないけどずっと話し続けているね」くらいの体験をしたい人向けである。それはファンとして正しいと思うし、非難されることはないだろう。
これだけではどの程度いい加減なのかわからないと思うので幾つか指摘する。
たとえば二人は今西錦司と西田幾多郎を接続しようと言葉を連ねるが、今西自身が「西田幾多郎には文恩はあるが学恩はない」と断言していることを無視している。これをちゃんと引き受ければ、講義に出たことがあるとか言い回しが似ている以上に主張が似ていることをもって今西の主張が嘘であることを示さねばならない。この場合似ているというのは、西田以外に似ているものがないということだ。同じものを参照していたら似るに決まっている。
山極の「今西のすべての著作を読んだ」は、中身を覚えていないだけかもしれないが怪しい。山極は今西がユクスキュルを参照しているが取り上げていない、などと書いているがそもそも今西が読んだとする記録はない。せめて対談などにおける言及や蔵書にないとどうしようもないだろう(日高の邦訳[1973年刊]が蔵書にあるので、それ以降の論考に絞れば可能性はあるが、今西の主張とされるものが何年に行われたものを山極語で語っているのかわからない)。さらに山極は、今西はエスピナスの社会有機体論を否定したとするが、否定したのは個体=細胞社会論(個体は細胞によって構成された一つの社会であるとする論)のほうだ。むしろ今西はエスピナスの社会進化観をかなり踏襲していてゴリラ型社会を人の祖型にするほど重視している。
中沢もいい加減だ。東北の漆器が北九州で発見されただけで、東北の縄文人が北九州を訪問していたと断言している。交易のネットワークがあったと推測できることと、実際にその土地の人間が直接移動したのかは別の話だ(なお板付遺跡から東北製漆櫛発見が事実かもわからない)。また南アフリカで発見された一つの人骨に13本ずつ2箇所刻み跡があったとするが、これはレボンボの骨ならヒヒの骨であるし、刻んだ数についても29だ(だからこそ月齢という説がある)。中沢がみたものは存在するのだろうか?これも参照元が示されていないのでいい加減なだけなのか存在しないのかもわからない。
レンマ学の話も、仏教思想を誤読したおかしな論理になっていて、東洋の話とされてもよくわからない。一即多、多即一の話をするのなら、ゲシュタルト心理学やモナドロジーなどふつうにヨーロッパと関わりのある話になり、東洋vs西洋みたいな雑な議論をすべきではないだろう。
まとめると本書は根拠のないアナロジーと思いつきで二人がダラダラ話をしており、出版社もそれをフォローしていない。
「そうなんだ。知らなかった」なる反応はこの本の読書体験としては全く正しくない。「そうやって話がトンでいくんだ」「思いつきの仕方がおもしろい」「噛み合ってないけどずっと話し続けているね」くらいの体験をしたい人向けである。それはファンとして正しいと思うし、非難されることはないだろう。
これだけではどの程度いい加減なのかわからないと思うので幾つか指摘する。
たとえば二人は今西錦司と西田幾多郎を接続しようと言葉を連ねるが、今西自身が「西田幾多郎には文恩はあるが学恩はない」と断言していることを無視している。これをちゃんと引き受ければ、講義に出たことがあるとか言い回しが似ている以上に主張が似ていることをもって今西の主張が嘘であることを示さねばならない。この場合似ているというのは、西田以外に似ているものがないということだ。同じものを参照していたら似るに決まっている。
山極の「今西のすべての著作を読んだ」は、中身を覚えていないだけかもしれないが怪しい。山極は今西がユクスキュルを参照しているが取り上げていない、などと書いているがそもそも今西が読んだとする記録はない。せめて対談などにおける言及や蔵書にないとどうしようもないだろう(日高の邦訳[1973年刊]が蔵書にあるので、それ以降の論考に絞れば可能性はあるが、今西の主張とされるものが何年に行われたものを山極語で語っているのかわからない)。さらに山極は、今西はエスピナスの社会有機体論を否定したとするが、否定したのは個体=細胞社会論(個体は細胞によって構成された一つの社会であるとする論)のほうだ。むしろ今西はエスピナスの社会進化観をかなり踏襲していてゴリラ型社会を人の祖型にするほど重視している。
中沢もいい加減だ。東北の漆器が北九州で発見されただけで、東北の縄文人が北九州を訪問していたと断言している。交易のネットワークがあったと推測できることと、実際にその土地の人間が直接移動したのかは別の話だ(なお板付遺跡から東北製漆櫛発見が事実かもわからない)。また南アフリカで発見された一つの人骨に13本ずつ2箇所刻み跡があったとするが、これはレボンボの骨ならヒヒの骨であるし、刻んだ数についても29だ(だからこそ月齢という説がある)。中沢がみたものは存在するのだろうか?これも参照元が示されていないのでいい加減なだけなのか存在しないのかもわからない。
レンマ学の話も、仏教思想を誤読したおかしな論理になっていて、東洋の話とされてもよくわからない。一即多、多即一の話をするのなら、ゲシュタルト心理学やモナドロジーなどふつうにヨーロッパと関わりのある話になり、東洋vs西洋みたいな雑な議論をすべきではないだろう。
まとめると本書は根拠のないアナロジーと思いつきで二人がダラダラ話をしており、出版社もそれをフォローしていない。
2021年8月20日に日本でレビュー済み
中沢は第二のジャポニズムと誇示しているが古典的な東洋対西洋の図式で日本の東洋的思考を持ち上げるおなじみの議論である。現代版京都学派の陳腐な議論といえる。
あいだの思想の事例とされるアニメもバンビも均質化した世界のグローバル商品に過ぎない今東洋的なゼロやらレンマも持ち出して東洋の優越性を主張することにいかなる意味があるのだろうか。
遺伝的多様性の延長線として文化的多様性が捉えられており、障害者に対する著者たちの偏見や固定観念が前面かしている。
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遺伝的多様性の延長線として文化的多様性が捉えられており、障害者に対する著者たちの偏見や固定観念が前面かしている。