第一世代システム(物質代謝・定常的形態・関係の維持・動的平衡)…第二世代システム(秩序形成・動的非平衡・自己形成)と小難しい概説が続いてから、第三世代システム(オートポイエーシス)に論が進みますので予備知識が無くても読めるし、関連領域が概観できる(と思う)親切な構成になっています。
オートポイエーシス前史としてベルクソンとシェリングという人の思想が語られます。そんなもの今更読んでどうなるんだと思う人もいるかもしれませんが、どうしてそう考えるに至ったのかという時代を超えた「思考」のダイナミズムがあって面白いんです。
微分方程式は変化量については語れても、変化の機構そのものについては何も語っていませんでした。機械文明の進化に伴い機械論の説明力も発展しましたが生気論はその説明力の限界を示し続けていました(機械論と生気論)。オートポイエーシスは生気論の意図を継承しながら生気論が解明しきれなかった機構の実現を目指しました。
化学反応への理解も深まります。なぜこの反応はこれこれでなければならないのか…反応の必然性はどのへんにあるんだろうか…言われてみるとそうだよなということも説明されています。
最高度に自己言及的なものとして「心的システム」が語られます。自己を維持するために必要な適度な多様性はどのように実現されるんだろうか?…我々はなぜ多様性の洪水に押し流されずにやっていけるんだろうか?とりわけ言語・社会システムとのカップリング(相互浸透)により心的システムが作動安定する機構が語られます。
つながろう…だが一体何のために繋がるんでしょうか?生きることにおいて問題なのはつながるかどうかということじゃなくて、自己を維持する機構そのものが問題なんじゃないかという気がします。
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オ-トポイエ-シス: 第三世代システム 単行本 – 1995/7/17
河本 英夫
(著)
- 本の長さ340ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日1995/7/17
- ISBN-104791753879
- ISBN-13978-4791753871
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
ホメオスタシス、自己組織化を乗り越える第三世代のシステム論、オートポイエーシス。あらゆる分野の常識を覆すこの革命的システム論を初めて明確に定式化。
登録情報
- 出版社 : 青土社 (1995/7/17)
- 発売日 : 1995/7/17
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 340ページ
- ISBN-10 : 4791753879
- ISBN-13 : 978-4791753871
- Amazon 売れ筋ランキング: - 139,651位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
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2012年5月19日に日本でレビュー済み
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2020年4月16日に日本でレビュー済み
面白いとは思う。
この本で語られているオートポイエーシスというシステムは、自律性、固有性、自己再生産的に自分で勝手に境界を決定し、かつ、それゆえ外界(環境)に対して閉ざされたシステムであり、それはシステムの作動を通じてのみ表れる。
はじめて読んだ人は、システムとして閉じている、つまり入力も出力も受け付けない、とはどういうことだ? と思うだろうし、私も思った。だって入力も出力も伴わないのなら、私という心はこの本から一体何を学んで、一体こうして何を書いているんだ、となるからだ。ただ、この部分が何となくでも理解できれば、わりと興味をもって読むことはできる。結論から言うと、上記の入出力は、システムの作動そのものには決定性を持たないただの産物、もしくは廃棄物だといえる。オートポのシステムは作動を中心としたシステムである。それは先にあげた4つの特徴を同時に達成しているシステムであり、その構成素自体がそういう特徴をさらに備えていることで、自動で勝手に、しかも外界に関係なく(一応、相互浸透と撹乱によって、決定性は受けないものの、影響は受ける)、自己を産出していく、ということになる。なので、言ってみれば現在の私のこのような記述は私の心というシステムの作動自体にはなんの関係もないといえる。書いたものは、もし読まれれば、それ自体で勝手に話の内容を区分しているように見えるし、誰かのなかでは別の境界が勝手に決まって、勝手に解釈されるからだ。
は? となるかもしれない。私はなった。しかしおそらくそうなのである。が、やはりこの辺の解釈がとても難しい。難しいと感じる理由のひとつが、視点、である。私たちは普段から客観という言葉に慣れ、慣れることによって様々な先入観を持ってしまっているが、そのように観察者として外から眺めることを前提とした視点でのみ考えてしまうと、このあたりの理解がキツくなる。といってシステムそのもののキモチになっても盲目的に作動を反復するだけなので、イメージは持てこそすれ何もわからない。なので筆者の先生は現象学というモノの見方を考える考え方を利用して説明してく訳だが、はっきり言って、これはキツかった。30時間以上かけて本に線引きまくって、謎の包含図や矢印や円環をつくって(家族に、宇宙人と話してるの? といわれた)ようやく私は少しは理解できたのかな、くらいである。ただし、それでも筆者の先生の言ってることは面白いと思うのは、例えば自己組織化とかのモノの見方をどの領域で見るか、物質的な変化として見るか、それとも現象の不均衡で見るか、あるいは作動で見るか、など、やはり様々な範囲(位相というらしいです)での見方を提示してくれるからだろう。
モノの見方なんて、そんなの何の役にたつの? と思われるかもしれない。私は家族に思われた。
逆である。そういうモノにこそあらゆるモノに利用できる自在さがあるのではないかと私は思う。なので、忍耐のある人、既存のモノの見方を変えたいなと思う人、身近な人の偏見にさらされながらそれでも強くあれる人、にはお薦めしたい。さらっと教養が欲しいなという人にはあまりお薦めはしない。
この本で語られているオートポイエーシスというシステムは、自律性、固有性、自己再生産的に自分で勝手に境界を決定し、かつ、それゆえ外界(環境)に対して閉ざされたシステムであり、それはシステムの作動を通じてのみ表れる。
はじめて読んだ人は、システムとして閉じている、つまり入力も出力も受け付けない、とはどういうことだ? と思うだろうし、私も思った。だって入力も出力も伴わないのなら、私という心はこの本から一体何を学んで、一体こうして何を書いているんだ、となるからだ。ただ、この部分が何となくでも理解できれば、わりと興味をもって読むことはできる。結論から言うと、上記の入出力は、システムの作動そのものには決定性を持たないただの産物、もしくは廃棄物だといえる。オートポのシステムは作動を中心としたシステムである。それは先にあげた4つの特徴を同時に達成しているシステムであり、その構成素自体がそういう特徴をさらに備えていることで、自動で勝手に、しかも外界に関係なく(一応、相互浸透と撹乱によって、決定性は受けないものの、影響は受ける)、自己を産出していく、ということになる。なので、言ってみれば現在の私のこのような記述は私の心というシステムの作動自体にはなんの関係もないといえる。書いたものは、もし読まれれば、それ自体で勝手に話の内容を区分しているように見えるし、誰かのなかでは別の境界が勝手に決まって、勝手に解釈されるからだ。
は? となるかもしれない。私はなった。しかしおそらくそうなのである。が、やはりこの辺の解釈がとても難しい。難しいと感じる理由のひとつが、視点、である。私たちは普段から客観という言葉に慣れ、慣れることによって様々な先入観を持ってしまっているが、そのように観察者として外から眺めることを前提とした視点でのみ考えてしまうと、このあたりの理解がキツくなる。といってシステムそのもののキモチになっても盲目的に作動を反復するだけなので、イメージは持てこそすれ何もわからない。なので筆者の先生は現象学というモノの見方を考える考え方を利用して説明してく訳だが、はっきり言って、これはキツかった。30時間以上かけて本に線引きまくって、謎の包含図や矢印や円環をつくって(家族に、宇宙人と話してるの? といわれた)ようやく私は少しは理解できたのかな、くらいである。ただし、それでも筆者の先生の言ってることは面白いと思うのは、例えば自己組織化とかのモノの見方をどの領域で見るか、物質的な変化として見るか、それとも現象の不均衡で見るか、あるいは作動で見るか、など、やはり様々な範囲(位相というらしいです)での見方を提示してくれるからだろう。
モノの見方なんて、そんなの何の役にたつの? と思われるかもしれない。私は家族に思われた。
逆である。そういうモノにこそあらゆるモノに利用できる自在さがあるのではないかと私は思う。なので、忍耐のある人、既存のモノの見方を変えたいなと思う人、身近な人の偏見にさらされながらそれでも強くあれる人、にはお薦めしたい。さらっと教養が欲しいなという人にはあまりお薦めはしない。
2004年3月26日に日本でレビュー済み
従来のシステム論を超える第三世代のシステム論として「オートポイエーシス」が考察される。結論からいえば「オートポイエーシスは境界をみずから作り出すことによって、そのつど自己を制作する」と著者は考える。
そこでオートポイエーシスのなかでも最も複雑で典型的な自己言及システムである心的システムが考察される。心的システムの固有の特徴として観察システムの出現が指摘され、最終的な問題提起がなされていく。観察システムの本性として「自己を世界との関係で捉え」ることが論証され、ルーマンやドウルーズへの批判的な検討とともに無意識への否定が示され、システムの基本的定義に戻る....。
カフカの『審判』を題材にした終章は『審判』そのもののように開いたまま閉じられる。それは読者個別のそれぞれの現実に作動可能な一冊だということを示してるようだ。
本書は理論書だが、本書から大きな影響を受けた本として斎藤環の『文脈病』があり、斎藤の現在の批評活動そのものもシステム論との反復作動が目立つ。
またオートポイエーシスの最重要概念である「自己の境界を区切るというシステム-環境」を支える「位相学的座標軸」などは、ほとんど吉本隆明の『心的現象論序説』における基本概念の「原生的疎外」「純粋疎外」などの位相学的構成とオーバーラップする。
本書はさまざまな散種が期待される一冊だといえるだろう。
そこでオートポイエーシスのなかでも最も複雑で典型的な自己言及システムである心的システムが考察される。心的システムの固有の特徴として観察システムの出現が指摘され、最終的な問題提起がなされていく。観察システムの本性として「自己を世界との関係で捉え」ることが論証され、ルーマンやドウルーズへの批判的な検討とともに無意識への否定が示され、システムの基本的定義に戻る....。
カフカの『審判』を題材にした終章は『審判』そのもののように開いたまま閉じられる。それは読者個別のそれぞれの現実に作動可能な一冊だということを示してるようだ。
本書は理論書だが、本書から大きな影響を受けた本として斎藤環の『文脈病』があり、斎藤の現在の批評活動そのものもシステム論との反復作動が目立つ。
またオートポイエーシスの最重要概念である「自己の境界を区切るというシステム-環境」を支える「位相学的座標軸」などは、ほとんど吉本隆明の『心的現象論序説』における基本概念の「原生的疎外」「純粋疎外」などの位相学的構成とオーバーラップする。
本書はさまざまな散種が期待される一冊だといえるだろう。
2001年6月13日に日本でレビュー済み
システム論を歴史的に跡づけ、オートポイエーシスを解説した傑作である。「あとがき」からまとめると:「動き」という電源をいれると、「構造」(システム)が出現する。電源をきって動きが停止すると、それとともに構造は消滅し、構成素だけが残る。動いているかぎり構造ができて、構造と環境(構造の外)とに区別される。作動と構成素と構造と環境の四つの概念からなる。すると問題は作動がいかにして始まるかということに集中する。
作動が停止すると、構成素が残るといっているから、作動すると、構成素が構造を形成することになる。だが、作動するためには構成素が必要である。何もないところで「作動」が可能であろうか。不可能だ。なぜなら電源を入れるには、構成素や構造がなければならないから。!これは逆に、構成素や「細胞」(構造)があってもそれだけでは「生きた細胞」にはならないのと同じことである。生きた細胞になるためには「作動」が必要だ。だがその作動は構成素を必要とする。この事態をどのように説明するかにこの理論の生命がかかっている。
「本文」ではこういう。「システムは作動をつうじて構成素を産出し、現実の構造を形成する。」次に「オートポイエーシスの規定をみたすような構成素を見出すことができれば、ただちにシステムは作動を開始し」と上に述べたことに矛盾することを主張し、最後に「オートポイエーシス・システムは作動することによって現実の構成素を産出し、そのことをつうじて現実の位相空間(いろいろの空間)に存在する。」と最初の定義にもどっている。そして「システムにとって産出的作動という行為をおこなうことが、そのまま現実に存在することである。行為することがすなわち存在することであるような行為存在論である。」と結論する。著者はこのあたりの論理の矛盾ないしあいまいさを解決する必要がありそうだ。それは産出的作動の正確な定義にあるように思われる。
作動が停止すると、構成素が残るといっているから、作動すると、構成素が構造を形成することになる。だが、作動するためには構成素が必要である。何もないところで「作動」が可能であろうか。不可能だ。なぜなら電源を入れるには、構成素や構造がなければならないから。!これは逆に、構成素や「細胞」(構造)があってもそれだけでは「生きた細胞」にはならないのと同じことである。生きた細胞になるためには「作動」が必要だ。だがその作動は構成素を必要とする。この事態をどのように説明するかにこの理論の生命がかかっている。
「本文」ではこういう。「システムは作動をつうじて構成素を産出し、現実の構造を形成する。」次に「オートポイエーシスの規定をみたすような構成素を見出すことができれば、ただちにシステムは作動を開始し」と上に述べたことに矛盾することを主張し、最後に「オートポイエーシス・システムは作動することによって現実の構成素を産出し、そのことをつうじて現実の位相空間(いろいろの空間)に存在する。」と最初の定義にもどっている。そして「システムにとって産出的作動という行為をおこなうことが、そのまま現実に存在することである。行為することがすなわち存在することであるような行為存在論である。」と結論する。著者はこのあたりの論理の矛盾ないしあいまいさを解決する必要がありそうだ。それは産出的作動の正確な定義にあるように思われる。