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それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門 単行本 – 2013/8/5
古田徹也
(著)
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自然法則に支配され、運に翻弄されているかに見える人間。意のままにならないこの世界で、我々はどこまで自由なのか。「私」という不完全な行為者の意志、責任、倫理を問う。
- 本の長さ282ページ
- 言語日本語
- 出版社新曜社
- 発売日2013/8/5
- 寸法13.5 x 2 x 19.5 cm
- ISBN-104788513447
- ISBN-13978-4788513440
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登録情報
- 出版社 : 新曜社 (2013/8/5)
- 発売日 : 2013/8/5
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 282ページ
- ISBN-10 : 4788513447
- ISBN-13 : 978-4788513440
- 寸法 : 13.5 x 2 x 19.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 188,136位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 449位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 1,776位哲学 (本)
- - 32,826位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2019年1月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても興味深く読みました。表などでもまとめられており、理解が進みます。
2015年2月13日に日本でレビュー済み
第1章、第2章で行為に関する「哲学」について、第3章で「倫理学」の領域における行為の問題が議論される。
章立てと、短くまとめるのには無理があるのですが概要は以下の通り。
・「第1章 行為の意図をめぐる謎」・「第2章 意図的行為の解明」
始めに、ウィトゲンシュタインの問いを提示し、行為、意図、欲求、信念などの用語の確認をしていく。
次にライルの行動主義的な考え方に基づいた「物心二元論批判」を紹介・支持し、物的一元論(ここでは消去主義と呼ばれるものなのであるが)を日常的な実感からも受け入れがたいものであるとし、さらに決定論を「ミルグラム実験」、「監獄実験」、「リベットの実験」を批判的な立場から再検討・再評価し、“人間は必ずしも決定論により支配されているとは言えず、自由意志や意図、欲求、信念は否定できない”という、ある意味素朴な結論に立ち返ることになる。
次に哲学的大前提とも言える「一人称権威」を物的一元論によるのでもなく、物心二元論によるのでもなく、行動主義に陥らないようライルの延長線上にあるアンスコムの「観察によらない知識」とディヴィッドソンの「寛容の原則」の二つの行為論を用いて説明しようとする。
そしてその結果、「一人称権威」とは、行為者は自分がした行為の意図を観察や解釈をしなくても知っているが、それ以外の他者は行為者を観察し解釈することによってしかそれを知ることは出来ないのだとし、さらに、行為者の行った行為の意味は他者によって“推定”されており、その実際の意味が他者に示されるのは、理由への問いに対して行為者自身が答えて語ることによる。つまり意図するという心の働きは、コミュニケーションの中にあるのであり、“意図的行為とは、なぜそれをしたのか?という問いが受け入れられるような行為のことである”とする。そして引き続き最後に、“意図は虚構の存在ではなく、行為の実際の原因である”としている。
・「第3章 行為の全体像の解明」
過失という「意図せざる行為」をまず、義務、能力、道徳ないし法的責任、運、悲劇などの用語を確認しながらその特徴を説明し、さらに「意図的行為」を含めた「行為全体」を輪郭づけるものは、「責任概念の多様性」、「起こった出来事の重要性」、「意図的行為からその出来事に至る因果連鎖の単純さ」、「行為者的視点と傍観者的視点の置き換えのきかなさと割り切れなさ」、「個々人の生き方や価値観」、そして「世界のままならなさ」といったものなのだとする。
この世界がたとえさまざまにままならないものだとしても、それはわたしがしたことであり、そのわりきれなさこそが、行為者である我々が他者と置き換えの効かない存在であることの証なのだとしている。
その他、各章末にあるコラムと「エピローグ」。
特に第1章と第2章は言葉の言い回しに非常に気を配りながら論理を展開している。ただし、逆にそのために、文面を追っていくだけでは、どこまでが先達の主張でどこからが著者オリジナルのものなのか、さらには一連の文脈の中で否定・肯定・中立(保留)を繰り返すために、結局何が結論なのかが判りづらい。
また一部仮説を立てる上で微妙な論理のすり替え、あるいは言葉の言い換えを行い、それにより著者の意図するところだけが強調され、したがって例えば著者が言うところのパラドックスが明らかに解消不可能となり、一方的に近い論戦で終わらせるところもある。
さらに、何度も繰り返し行う定義などの中で一部キーとなる用語が抜け落ち、それによって読む側に不要な確認の労を強いる部分もある。
また、脳神経科学などの実験的根拠が無いために物的一元論を排斥しようとする傾向(あくまでも傾向であり、完全にではないところがみそ)があるのだが、そもそも科学と形而上学を同じ土俵上で議論するのは厳しいのではないかとも思う。
ただし非常に丁寧に章や節、さらには項を細かく分けて題名をつけ、用語や文献の解説も詳しく、脚注もその用語等が出てきた見開き左ページの最後に纏め、コラムも基本的で重要な内容を整理してくれている。また参考文献などもコラムや注に詳しく載せられていて、これから読もうと思う本を探すためにも非常にありがたい。
著者の趣旨とは異なるかもしれないが、行為論の哲学書として、さらには解説書として、非常に興味深く優れた一冊だと思います。
章立てと、短くまとめるのには無理があるのですが概要は以下の通り。
・「第1章 行為の意図をめぐる謎」・「第2章 意図的行為の解明」
始めに、ウィトゲンシュタインの問いを提示し、行為、意図、欲求、信念などの用語の確認をしていく。
次にライルの行動主義的な考え方に基づいた「物心二元論批判」を紹介・支持し、物的一元論(ここでは消去主義と呼ばれるものなのであるが)を日常的な実感からも受け入れがたいものであるとし、さらに決定論を「ミルグラム実験」、「監獄実験」、「リベットの実験」を批判的な立場から再検討・再評価し、“人間は必ずしも決定論により支配されているとは言えず、自由意志や意図、欲求、信念は否定できない”という、ある意味素朴な結論に立ち返ることになる。
次に哲学的大前提とも言える「一人称権威」を物的一元論によるのでもなく、物心二元論によるのでもなく、行動主義に陥らないようライルの延長線上にあるアンスコムの「観察によらない知識」とディヴィッドソンの「寛容の原則」の二つの行為論を用いて説明しようとする。
そしてその結果、「一人称権威」とは、行為者は自分がした行為の意図を観察や解釈をしなくても知っているが、それ以外の他者は行為者を観察し解釈することによってしかそれを知ることは出来ないのだとし、さらに、行為者の行った行為の意味は他者によって“推定”されており、その実際の意味が他者に示されるのは、理由への問いに対して行為者自身が答えて語ることによる。つまり意図するという心の働きは、コミュニケーションの中にあるのであり、“意図的行為とは、なぜそれをしたのか?という問いが受け入れられるような行為のことである”とする。そして引き続き最後に、“意図は虚構の存在ではなく、行為の実際の原因である”としている。
・「第3章 行為の全体像の解明」
過失という「意図せざる行為」をまず、義務、能力、道徳ないし法的責任、運、悲劇などの用語を確認しながらその特徴を説明し、さらに「意図的行為」を含めた「行為全体」を輪郭づけるものは、「責任概念の多様性」、「起こった出来事の重要性」、「意図的行為からその出来事に至る因果連鎖の単純さ」、「行為者的視点と傍観者的視点の置き換えのきかなさと割り切れなさ」、「個々人の生き方や価値観」、そして「世界のままならなさ」といったものなのだとする。
この世界がたとえさまざまにままならないものだとしても、それはわたしがしたことであり、そのわりきれなさこそが、行為者である我々が他者と置き換えの効かない存在であることの証なのだとしている。
その他、各章末にあるコラムと「エピローグ」。
特に第1章と第2章は言葉の言い回しに非常に気を配りながら論理を展開している。ただし、逆にそのために、文面を追っていくだけでは、どこまでが先達の主張でどこからが著者オリジナルのものなのか、さらには一連の文脈の中で否定・肯定・中立(保留)を繰り返すために、結局何が結論なのかが判りづらい。
また一部仮説を立てる上で微妙な論理のすり替え、あるいは言葉の言い換えを行い、それにより著者の意図するところだけが強調され、したがって例えば著者が言うところのパラドックスが明らかに解消不可能となり、一方的に近い論戦で終わらせるところもある。
さらに、何度も繰り返し行う定義などの中で一部キーとなる用語が抜け落ち、それによって読む側に不要な確認の労を強いる部分もある。
また、脳神経科学などの実験的根拠が無いために物的一元論を排斥しようとする傾向(あくまでも傾向であり、完全にではないところがみそ)があるのだが、そもそも科学と形而上学を同じ土俵上で議論するのは厳しいのではないかとも思う。
ただし非常に丁寧に章や節、さらには項を細かく分けて題名をつけ、用語や文献の解説も詳しく、脚注もその用語等が出てきた見開き左ページの最後に纏め、コラムも基本的で重要な内容を整理してくれている。また参考文献などもコラムや注に詳しく載せられていて、これから読もうと思う本を探すためにも非常にありがたい。
著者の趣旨とは異なるかもしれないが、行為論の哲学書として、さらには解説書として、非常に興味深く優れた一冊だと思います。