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状況に埋め込まれた学習: 正統的周辺参加 単行本 – 1993/11/12
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- 本の長さ203ページ
- 言語日本語
- 出版社産業図書
- 発売日1993/11/12
- ISBN-104782800843
- ISBN-13978-4782800843
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商品の説明
商品説明
著者は学習の新たな概念を明らかにする試みの中で、「学習とは社会的実践の統合的かつそれと不可分の側面であるという考え方」に到達したという。その新しい考え方を“正統的周辺参加”という標語で捉えた。その正統的周辺参加による学習の例として、仕立屋や海軍の操舵手、肉加工職人など5つの徒弟制度の研究を分析し、学習とは共同体への参加の過程であり、その場合の参加とは、初めは正統的で周辺的なものだが、次第に関わりを深め、複雑さを増してくるものだとした。そして、「学習者としての個人から社会的な世界への参加としての学習に分析の焦点を移したこと」と「認知過程の概念から社会的実践のより総括的な見方に分析の焦点を移したこと」に大きな意義があったと結論づけている。
学習を、教育とは独立した営みとみなすとともに、社会的な実践の一部、「参加」、アイデンティティーの形成過程、などであるとした“正統的周辺参加”論的学習観は、教育実践の場にもさまざまな示唆を与えるのではないだろうか。(清水英孝)
内容(「MARC」データベースより)
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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カリキュラム編成のスパイスにいかが?
上下関係や権威に縛られずに、創発性のある教えと学びの場、そして職能の場が出来ないのだろうかと思っていた矢先にこの本を読んでみた。これは教師と生徒という垣根が厳密な意味で存在せず、徒弟制の様な親方と弟子との親近性もあるが、この本では古来からの徒弟制を見直しにかかっている。「教え方」と「学び方」が分断しておらず現「場」全体が生命体の様に機能している状況が理想であるが、それは本当に可能なのだろうか?
例えば、企業「文化」という無意識的なシステムというのは、レヴィ=ストロースの言う「構造」というより、ピエール・ブルデューの言う「ハビトゥス」が近いのだろうか?
マルセル・モースは「 社会学と人類学Ⅱ 」で身体技法という論文がある(弘文堂がこの本を再版しないので「身体技法」の内容はあまり専門家以外では知られていない)。モースが協調したのは、我々の文化的な特性というのは、なによりもまずそれぞれの身体にたたき込まれているという点であり、イギリス兵とフランス兵の独特の行進の仕方の違いや、世代における水泳の仕方の違いといった例を挙げている。
徒弟制には限界や問題もあり、パワハラやモラハラも引き起こす場合もある(あのトヨタの現場でも、悪い意味でこれが残っていて、一向に無くならない)。私もそういう「徒弟制」が嫌いで何度か逃げ出した経験がある。
私も、この本の存在を全く知らなかった。丁度出版された時期が、大学で社会学の勉強をしていたにも関わらずである。解説はその時期と重なるので懐かしい。レヴィ=ストロースやマルセル・モースなどは勉強していたので違和感が無かった。但しピエール・ブルデューの言う「ハビトゥス」については勉強してなかったので、その用語の解説は助かった。
こういう職能のことについては、マイケル・ポランニーの著書「 暗黙知の次元 」や「 個人的知識 」が実は結構参考になる。実際、あるビジネス書で「暗黙知」が持てはやされた時期があるが、暗黙知は、思索や仕事や制作のある時点で創発されてきた知なので、「無意識的な認識」と混同されやすく誤解も広まっていた。この解説を書いた福島真人氏もそのことを承知しているにも関わらず書き方に齟齬が見受けられる。だからといってこの解説は読んでからの方が読みやすいことは言える。
この本の中で感心したのは、集団の中でのアイデンティティの問題を追及したことだ。「もし人が共同体の成員であり且つ行為者であるとすると、人というのは、世界における意味と行為を結びつけるものである」と著者は結論づけている。マイケル・ポランニーならば「知」と「存在」結びつけるものという言い方をするだろう。これは環境的世界を認知し、その中で選択し行為して思考することが存在を決定つけているという言い方もできる。
体で分かるというのは、確かに一理あるのだが、鵜呑みは出来ない。この本の内容からすると、実は辛口の評価をしたい気持ちのあるが、あるレビューである通り、「職場の分業化と効率化の結果、徒弟や職人が一つの作業に固定され、生産作業の全領域を学ぶことが稀有な場合、徒弟制は機能しない」という現代の大企業の仕組みが跋扈するご時世は重々承知のことだ。だから「好意的」に解釈をしている。この本の出た90年代ではまだ「意識で無意識のシステムを制御出来る」と思っていた人の方が大半だったのだ。
けれどそれは21世紀に入ってから「不可能」とわかってきた。発達障害や、サイコパスなどの先天的な精神障害の問題も筆頭に、少数とはいっても、決して社会に打ち解けることが出来ない人々がいるとわかったことが大きい。
それに無意識の認知科学は、これ以後に急速に発達して、行動経済学の著書や、トール・ノーレットランダーシュ「 ユーザーイリュージョン―意識という幻想 」、デイヴィッド・イーグルマン「 あなたの知らない脳 意識は傍観者である 」、レナード・ムロディナウ「 しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する 」などが立ち並ぶことになる。これらのエビデンスが無かった90年代の著書であることを忘れがちになる。意識で「無意識の認識」を食い止めることはもはやできないのだ。現代ではこの本の内容をそのまま適応は出来ない。そのことは厳重に指摘しておきたい。以上の理由により★4にした。
現代のコロナ禍で面倒なことや原則や基礎に戻って新たに小規模でも、上下関係も無く、ゆるやかで創発的な徒弟制のようなものが理想ではあるし、グローバル経済から背を向けて愉快な少数派を考えた方が有益かと思える。
この本の解説を読んでいると、マイケル・ポランニーの兄、カール・ポランニー「 経済と文明 」を思い出す。この本では、18世紀西アフリカのダホメ王国が無文字社会であったことが驚く。この経済社会を生み出したのは恣意的にしても「無意識のシステム」によるものなのは明らかだ。
今回のレビューしたこの本でも丁度西アフリカの徒弟制が事例に上がっているが、この職能集団もその無意識の「組織」化によるものなのだろう。
この集団の擦り合わせによる、無意識のシステムの構造化は現代の学校や企業でもリアルに考えなくてはいけない課題を孕んでいる。イヴァン・イリイチは、「 脱学校の社会 」で学校という「価値」の制度化に猛然と批判する。こういう本も読んでみると良いかもしれない。
私には難しかったです。なんとなく意図しているところはつかめたのですが、しっかりと腑には落ちませんでした。
最後の訳者あとがきを読んで初めて「なるほど」と思えた気がします。ちなみに私は教育の研究はしておりませんが、いくつかの本はこれまでに読んできています。認知心理学のことをもう少し勉強してからこの本を読めばいいのかなあ、と感じています。
「正統的周辺参加」「実践共同体」などのキーワードを用いながら、徒弟制
における学習の特徴とその普遍性について議論している。学習理論において、
学校教育のような近代的学習法(教授法的学習)に対して顧みられることが
少なかった徒弟制学習の意義を指摘している。特に、教授法的学習は文化的
所与の内化という観点と強く結びついており、学習が本来持つはずの集合的
社会実践が無視されていると批判している。学習は単に教わる側と教える側
が知識を受け渡すような過程ではなく、学習という社会実践を共有する場
(実践共同体)において、参加の程度が深まっていく過程であると著者らは
主張する。
本書の面白いところは、学習過程と集団参加を重ねて論じている、あるいは
学習過程を参加過程と読み替えているところであろう。そうすることで、学
習を普遍的な営みとして位置付けることができ、学習過程におけるダイナミ
クス(集団内における関係性の変化や知識や技術の意味づけの変化)の把握
を可能にしている。
「正統的周辺参加」は、日本の伝統芸能、伝統工芸、手工業をテーマとする
研究で参照されることが多い。「実践共同体(コミュニティオブプラクティ
ス)」については、著者のひとりであるウェンガーがより議論を進めた本を
出版している。本書では「正統的周辺参加」と「実践共同体」の2つの概念が
理論的に分かちがたく結び付けられているのに対して、後のウェンガーの
実践共同体はより広義に「学習の場を構成する単位」程度の緩やかな定義に
なっている。
本論のほうは100ページほどのコンパクトな論考ではあるものの、密度が高く
理解するのに時間がかかった。扱われている学術用語がある程度理解できな
いと誤った理解をすることになるだろう。例えば、本書では「実践」と訳さ
れているが単に「実際にやってみること」を意味してはいない。もとは、
「プラティーク(プラティック)」であり、解説にあるとおりブルデューや
ギデンズにおける「実践」概念を理解していないと本来の意味からズレて受け
取ってしまう。本書末には福島真人氏の解説があり、非常にわかりやすく、
本書の位置付けと意義がまとめられていてとても良かった。本論の内容にい
まいちついていけない場合は解説を先に読むのもひとつの手だろう。
周辺参加から十全的参加にむけて「変わり続ける参加の位置と見方こそが、行為者の学習の軌道(trajectories)であり、発達するアイデンティティであり、また成員性の形態でもある。P.11」。
アイデンティティとは「人間と、実践共同体における場所およびそれへの参加との、長期にわたる生きた関係である。P.30」
実践のない学校による教え込み型の教育では「質問すること−学校でうまく「やっていく」ことを学ぶこと-が学校が教えることの主要な部分になってP.92」しまっている。「要するに、他者のパフオーマンスを複製して学習するとか、あるいは教授(instruction)で伝達される知識を獲得するとかで学習するよりも、学習は取り巻く共同体の学習のカリキュラムでの向心的(centripetal)参加を通して生じるということである。P.83」
「共同体の実践は最も広い意味での潜在的な「カリキュラム」-新参者が正統的周辺でのアクセスによって学習できること-を創り出す。・・学習には強烈な目標がある。なぜなら、学習者は、周辺的な参加者として、全体の構図がどういうことについてなのか、またそこではどんなことを学ぶべきなのかについての自分の考えを発展させることができるからである。学習それ自体が即興で生み出される実践なのである。すなわち、学習のカリキュラムは実践への関わりに対する機会の中で展開するのである。それは正しい実践への一群の指図として規定されているわけではない。p.74」
「共同体と学習者にとっての参加の価値のもっと深い意味は、共同体の一部になるということにある。P.97」
私たちは実践を通じ社会の周辺部分へ参加していくことを通じて自己(アイデンティティ)を形成していく。技術・技能の習得は自己の形成・社会化と一体なのである。徒弟制度やon the job trainig といったものが実は本来の教育・学習なのだということと同時に、「自分」とは他者とのつながりによって形成される存在なのだと改めて深く感じることができた。
「学習」は自らの好奇心により能動的に知識を得ること、「教育」は構造化されたルールに従い学生を理解させることであり本質的に違うものという指摘が爽快です。
社会人になって日々勉強と思うことが多々ありますが、個と場について考え直すきっかけになる良書だと思いました。
ちなみに本書の副題にあります「正統的周辺参加」とは、ある目的を持った企業、組織、コミュニティなどに属していると認識しており(正統的)、誰が中心人物というわけでもなく新参者と古参者が渾然一体となり(周辺)、実践共同体を形作るという参加形態のことです。