今年で19年目を迎えた高校教員です。教育者という観点から、この書籍を読んで感じたことを書きます。
私は、山内さんにより幾度となく本書において紹介されている、南三陸町(旧志津川町)で、教員生活をスタートしました。この町にある高等学校は、現在勤務している茨城県の状況から考えると想像もつかない貴重な教育環境が残っています。おそらく現在もあまり状況は変わっていないのではないかと思います。
佐藤学氏が「習熟度別指導の何が問題か」などにおいてトラッキングによる教育を批判して久しいですが、この学校では競争原理の働いた資本主義的な輪切り教育が成り立たない状況が残存しています。平たく言えば、成績上位者から最下位の生徒までがひとつの高等学校の中に共存しています。ここで培われる人間関係はさまざまであり、そのまま地域のコミュニティを形成していきます。学校は実社会に出る前段階の擬似的なコミュニティであるといわれます。現在日本国内の多くの高等学校では、成績で輪切りされたり、さらにそのなかで選別されクラスわけされてしまっているためリーダー不在の集団が生じ、本来の社会性を学ぶ機会が学校から奪われています。それぞれの役者が別々の社会に分けられてしまう環境であるというわけです。
本題です。本書では東日本大震災の被災地、とりわけ東北の再生において、巨大資本と自由主義経済に基づいた復興計画が進んでいくことを大きく危惧しています。合理化と利益追求型の巨大資本が、陸の孤島と呼ばれているような、無垢な東北の一角に入っていくことによって、これまで生き延びてきた地域の特殊性やそこに住む人々のコミュニティ、そして言語や文化、産業などが失われる可能性を孕んでいます。本書を読むにつれ、産業革命と都市の肥大化による個人のアトム化が進行した今、このような地域の文化とそこに住む人々の暮らしを大切にしながら復興を進めることが必要であると強く感じさせられました。この山内氏を育んだ現地の教育環境もまた、その文化の一つであると感じています。現代の教育において目標とされる「学びの共同体」のプロトタイプが、南三陸にはあります。このような環境で培われた地域のコミュニティを壊さないような復興を切に願っています。
余談です。教員人生のスタートにあたり、ほんの僅かではありますが、現地で貴重な時間と場所を共有できたことをうれしく感じております。
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「東北」再生―その土地をはじまりの場所へ 単行本(ソフトカバー) – 2011/7/1
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「東北学」提唱者・復興構想会議委員、近代日本への大胆かつ緻密な論証で知られる社会学者、南三陸町出身の研究者によるエキサイティングな鼎談と論考。戦後社会の社会構造そのものを見据え、日本という国における「生のあり方」を問い直す。岩手出身の漫画家・吉田戦車による装画。
- 本の長さ141ページ
- 言語日本語
- 出版社イースト・プレス
- 発売日2011/7/1
- 寸法13 x 1.3 x 18.8 cm
- ISBN-104781606539
- ISBN-13978-4781606538
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登録情報
- 出版社 : イースト・プレス (2011/7/1)
- 発売日 : 2011/7/1
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 141ページ
- ISBN-10 : 4781606539
- ISBN-13 : 978-4781606538
- 寸法 : 13 x 1.3 x 18.8 cm
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2011年8月12日に日本でレビュー済み
本書は、「フクシマ」後の日本への、希望の書である。
主に立場も世代も違う三者の鼎談で構成された140ページ程の薄い本ではあるが、
都合の良い美談や「がんばれニッポン」といった空疎な言葉ではもはや覆いきれなくなった
「東北」という土地の歩んできた過酷な道程、都市と地方の断絶を
それぞれの言葉によって白日の下に晒している。
東北は、兵隊も、コメも、労働者も、電力も、全て都市に捧げてきた植民地であった。
都市に住むわたしは、何をもってそれに応えることができるのだろうか。
壊滅的な打撃を被った南三陸町出身の山内氏の農業や漁業への視点、
小熊氏の鋭い現状分析と大局的な問題解決への見通しもさることながら、
民俗学者であり「東北学」の提唱者であり「東日本大震災復興構想会議」のメンバーでもある
赤坂氏の大胆な復興ビジョンは一読の価値がある。
夢物語と言う向きもあろうが、いま必要なのは誰かの足を引っぱる批判ではなく、未来を語ることではないだろうか。
生き残ってしまった私たちができることは、そのことでしか喪われたものたちに報いることができない、そんな気がしている。
追記:
本書での赤坂氏の発言は、「鎮魂と再生のために―――復興構想会議2011.4.30発表メモ」
([...])
をベースに発展させたものと思われる。
主に立場も世代も違う三者の鼎談で構成された140ページ程の薄い本ではあるが、
都合の良い美談や「がんばれニッポン」といった空疎な言葉ではもはや覆いきれなくなった
「東北」という土地の歩んできた過酷な道程、都市と地方の断絶を
それぞれの言葉によって白日の下に晒している。
東北は、兵隊も、コメも、労働者も、電力も、全て都市に捧げてきた植民地であった。
都市に住むわたしは、何をもってそれに応えることができるのだろうか。
壊滅的な打撃を被った南三陸町出身の山内氏の農業や漁業への視点、
小熊氏の鋭い現状分析と大局的な問題解決への見通しもさることながら、
民俗学者であり「東北学」の提唱者であり「東日本大震災復興構想会議」のメンバーでもある
赤坂氏の大胆な復興ビジョンは一読の価値がある。
夢物語と言う向きもあろうが、いま必要なのは誰かの足を引っぱる批判ではなく、未来を語ることではないだろうか。
生き残ってしまった私たちができることは、そのことでしか喪われたものたちに報いることができない、そんな気がしている。
追記:
本書での赤坂氏の発言は、「鎮魂と再生のために―――復興構想会議2011.4.30発表メモ」
([...])
をベースに発展させたものと思われる。
2011年7月29日に日本でレビュー済み
震災にあった東北がかかえているさまざまな問題がとりあげられている. 岩手や宮城とちがって福島では復興プロジェクトがでてこないこと,震災前から人口がどんどんへっていること,などなど. しかし,この本でとりあげている話題のほとんどは,単なる感想の域をでていないようにおもう. 「震災が起きても変わらない知識人」 を問題視していたりするが,その理由は明確でない. この本が建設的なうごきにむすびつくかどうかは,はなはだ疑問だ.
2011年7月17日に日本でレビュー済み
三者の鼎談に加え各氏のエッセイからなる本。政府の復興構想会議のメンバーでもある赤坂氏が現場のリアルな知見を活かしつつ東北の未来のかたちを語り、壊滅的な打撃を被った南三陸町出身の山内氏が主に農と漁の生業の観点から当地のダメージの深刻さと立ち直りのビジョンを述べ、小熊氏が社会科学者の立場から現状の問題の構造と大局的な見通しを示す、といった役割分担である。
地元民の生活圏に対する愛情と欲望、「爆心地の政治学」の構造、「がんばれ日本」という掛け声の東京中心主義、改めて露呈した中央と地方の断絶ぶり、過疎化が進む地域社会における復興の困難、原発と民主主義の関係、自然エネルギーへの転換の可能性、等々、140ページほどの小さな本ながら東北と日本の将来のための重要な論点が凝縮されて指摘されている感があり、時宜を得た一冊だと思う。
地元民の生活圏に対する愛情と欲望、「爆心地の政治学」の構造、「がんばれ日本」という掛け声の東京中心主義、改めて露呈した中央と地方の断絶ぶり、過疎化が進む地域社会における復興の困難、原発と民主主義の関係、自然エネルギーへの転換の可能性、等々、140ページほどの小さな本ながら東北と日本の将来のための重要な論点が凝縮されて指摘されている感があり、時宜を得た一冊だと思う。
2014年8月5日に日本でレビュー済み
震災直後、人文学者らが各々の人間観・歴史観・文明観を再考して心境を表現した書。歴史的証拠として価値が認められる。
人文学者であるが故にエスノロジーやノスタルジーが色濃く現れている。震災からしばらく経った時代の私たちは、震災直後の人々がつかんでいた「東北」についてのこれらの観点の問題意識を再び思い起こす必要があるだろう。
ただし著者らはあくまでステレオタイプに基づいた「東北」像にこだわっているような帰来がある。歴史的には東北は被征服地であり植民地であったが、その実京都や東京を相手にした巧みな商いも行ってきた(山形の紅花や佐藤錦はその代表例と言えよう)。そういったポテンシャルに着目せず、ただただ愚直たる被害者・敗者としての「東北」像の域を出ないのは惜しいところだ。
人文学者であるが故にエスノロジーやノスタルジーが色濃く現れている。震災からしばらく経った時代の私たちは、震災直後の人々がつかんでいた「東北」についてのこれらの観点の問題意識を再び思い起こす必要があるだろう。
ただし著者らはあくまでステレオタイプに基づいた「東北」像にこだわっているような帰来がある。歴史的には東北は被征服地であり植民地であったが、その実京都や東京を相手にした巧みな商いも行ってきた(山形の紅花や佐藤錦はその代表例と言えよう)。そういったポテンシャルに着目せず、ただただ愚直たる被害者・敗者としての「東北」像の域を出ないのは惜しいところだ。