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先任将校: 軍艦名取短艇隊帰投せり (光人社NF文庫) 文庫 – 2009/7/1
松永 市郎
(著)
元海上自衛官の作家・時武里帆氏は、著著『就職先は海上自衛隊』の中で、幹部候補生学校の指定図書だった本書を絶賛している。
「27歳の先任将校の英知と決断、指揮官として学ぶところが大いにあった。部隊勤務で壁にぶつかったときも、この名著から受けた感銘が私を支えてくれた」
フィリピン沖三百マイルの太平洋上で、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて乗艦沈没の憂き目にあった軍艦名取短艇隊百九十五名の生還の記録。
食糧も、真水もなく、航海用具も持たず、十五日間も橈を漕ぎ続け、二十七歳の先任将校の決断、次席将校の補佐、隊員の団結で、死の運命を切りひらいた海の男たちの感動の物語。
「27歳の先任将校の英知と決断、指揮官として学ぶところが大いにあった。部隊勤務で壁にぶつかったときも、この名著から受けた感銘が私を支えてくれた」
フィリピン沖三百マイルの太平洋上で、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて乗艦沈没の憂き目にあった軍艦名取短艇隊百九十五名の生還の記録。
食糧も、真水もなく、航海用具も持たず、十五日間も橈を漕ぎ続け、二十七歳の先任将校の決断、次席将校の補佐、隊員の団結で、死の運命を切りひらいた海の男たちの感動の物語。
- 本の長さ329ページ
- 言語日本語
- 出版社潮書房光人新社
- 発売日2009/7/1
- 寸法15.2 x 10.5 x 1 cm
- ISBN-104769820038
- ISBN-13978-4769820031
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商品の説明
著者について
松永/市郎(まつなが・いちろう)
大正8年、佐賀県三養基郡に生まれる。昭和15年8月、海軍兵学校卒業。練習艦隊(香取)、「陸奥」「榛名」乗組。「古鷹」分隊長、第六艦隊司令部付、「那珂」「名取」「葛城」、内海航空隊の各通信長をへて、岩国航空隊通信長のとき終戦。海軍大尉(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
大正8年、佐賀県三養基郡に生まれる。昭和15年8月、海軍兵学校卒業。練習艦隊(香取)、「陸奥」「榛名」乗組。「古鷹」分隊長、第六艦隊司令部付、「那珂」「名取」「葛城」、内海航空隊の各通信長をへて、岩国航空隊通信長のとき終戦。海軍大尉(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年2月11日に日本でレビュー済み
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軍記物として読むより、リーダーとは何か?という心構えで読んだ方が良いと思います。だから題名も「先任将校」です。現代でも通じることだと思います。
2020年7月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自衛隊の教書にも採用されているだけあって、とても読みごたえのある、内容の濃い本です。
もし、海で遭難することになったら参考になりますね。
もし、海で遭難することになったら参考になりますね。
2021年2月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者、松永市郎大尉は、佐賀県三養基郡出身、父は松永貞市海軍中将。海軍兵学校68期(昭和15年8月卒)。重巡洋艦「古鷹」、軽巡洋艦「那珂」で撃沈経験を持つ。その後通信長として乗組んだ軽巡洋艦「名取」は、昭和19(1944)年8月18日0200、マニラ発、第3号輸送艦と共にカロリン諸島パラオへ緊急戦備物件輸送中、サマール島東300マイル(約600km)の海域で、米潜水艦ハードヘッド(USS Hardhead,SS-365)の雷撃を受け、右舷艦橋下に1本命中、航行不能となる。応急作業中の0330、2度目の雷撃を後檣付近に受け命中するが不発。老齢艦の為浸水が止まらず、6ノットの後進可能だった機関室が停止し総員退去発令。0700頃沈没した。艦長久保田智大佐は艦と運命を共にし戦死、副長宮本績少佐が指揮する第2内火艇は「名取」沈没時にスクリューに引っ掛けられ、約50名を乗せた儘海に引き摺り込まれ、艇員総員が戦死した。
生存者は航海長小林英一大尉を先任将校として、カッター3隻に分乗、定員を5割も上回る195名による「名取短艇隊」を編成、著者は次席将校として指揮を執る。沈没時海面は大時化で、手持ち用具でシーアンカー(浮錨)を作り動揺を抑えて転覆を凌いだが、それを作れなかった第1内火艇(燃料積載無し)は翌朝はぐれた。此の時点で艇内には僅かな食糧(乾パンなど)のみで、六分儀など初歩的な航海用具さえ積まれてなかった。
翌朝、味方中攻(761空山田一飛曹機)が短艇隊を発見、救助に向かいつつありと通信筒を落とすが、短艇隊は海流に流されていた為、救助に向かった駆逐艦3隻は短艇隊を発見出来なかった事を生還後に知る。また水泳が得意で泳いでいた者は誰も生還していない。非情な海の遭難を本文中以下の様に言う。
『陸地から数百マイル離れていなくても、わずか十マイル沖で撃沈された場合でも、被服を脱いで泳ぐつもりで泳いだ人は、助かっていないことが多い。泳ぎが下手で、陸岸に着くまで浮く物につかまって泳いだ者か、浮く物につかまって救助を待っていた者が助かっている。』
著者は幼い頃に聞いた、船の反乱の多くは、食糧問題から起こるという記憶から、僅かな食糧を厳重な配給制として階級の区別なく平等とし、盗難を防ぐ為就寝時は自ら食糧罐の上で寝た。此処で先任将校は自ら撓漕して生還する計画を立て、航海用具を持たない中、天測航法と海象や海流、ミクロネシア人の渡洋方法などの海洋知識のみでの航海を計画。比島が雨季に当たる事から飲料水となるスコールが期待出来(天の時)、海流及び貿易風が順風で(地の利)、人員は全員が「名取」乗組の現役兵である事から(人の和)可能と判断し、遂に自力での生還を下令、行動を開始した。当初兵員は反対したが、やがて全員が実行を決意した。著者は先任将校が航海術に精通した27歳の青年将校であり、優れた人格者であった事が幸し、もし中年以上であったら肉体的に早く衰え、精神的重圧に押し潰されて指揮統率能力を喪っていただろうと回想する。
『指揮官の中には、上級司令部をけなしたり、部下を叱ったりして、自分の威厳を示そうとする人もいた。が、先任将校は、救助艦が来ないと司令部をけなすこともなかったし、カッターの進み方が少ないと部下を叱ることもなかった。救助艦が来ないことも、カッターが進まないことも、それは自分にあたえられた条件と受けとめていた。そしてその条件の下で、自分は何をなすべきかと対処していた。』
短艇隊には漁師や漁村の出身者、星座や数学に抜群の知識を持つ予備士官などが様々な特技を持寄り、当初不慣れで進まなかったカッター撓漕も、不屈の海軍魂で克服し、帆走と併せて比島を目指した。航海中は酷暑の洋上の暑熱に苦しみ、夜のスコールでは男同士が抱き合わないと震えて暖が取れない程気温が低下した。幻覚の島を何度も見、火傷を負った者や筏で漂流した後救助された者が何人も力尽きた。兵員も初めは救助艦が来る事や、助かるだろうかと心配する声を漏らしたが、次第に『行方不明では、死んでも死にきれない。自分たちの力でフィリピンに行くんだ。』と結束し、自らの力を尽くす様に変わっていく。
8月30日朝、短艇隊は陸軍監視哨の焼玉船に遭遇し、ミンダナオ島東北端スリガオまで曳航され、沈没より13日目に生還を果たした。海上から見る島陰は、遠くからポツンと小さく見え、だんだん大きくなると思いがちだが、実際には『ビデオテープの巻き戻しのように、いきなり島の稜線が現れる』そうである。食事(1日1人乾パン2枚)も休養も十分に摂らず、毎日10時間カッターを漕ぎ続け、接岸時はほぼ全員が生命の限界に達していた。しかし彼等は軍人の誇りを忘れず、全員が自分の足で上陸した。その成功は、先任将校が早期に航海を計画し決断した事、また一度は救助を待つべし反対した短艇隊員も、下令されるや身命を懸けて撓漕を続けたからに他ならない。
その後、短艇隊は駆潜艇に便乗しマニラに到着。大尉以上は至急帰国命令を受け、大艇で内地へ帰った。ちなみに初日に行方不明になった内火艇の53名の兵員は、その後漂流し12名が死亡、遭難26日目の9月12日、41名が米駆逐艦に救助され、米本土ウィスコンシン州の収容所で終戦を迎えた。
本書は海難史上にも稀な生還記録であるが、終始士官の目線で語られ、また証言も士官中心であり、何より著者は最も辛い連日10時間の短艇撓漕はしていない。著者は戦後の戦友会で、隊員が先任将校殺害と叛乱を企図していた事を初めて知ったという。ならば一般兵員達が航海中にどの様な辛苦を重ね、何を思い、折角生還したものの、その後の悲惨な比島の地上戦やマニラの市街戦をどの様に生き延びて復員したのかを重厚に記述して欲しかったと思う。記述の何処かに、短艇隊の偉業を指揮し成功させたという意識が先に立ち、下士官兵の証言を殆ど採録しなかった事が片手落ちに感じられる。其処を補えば、手塚正巳著『軍艦武藏』に匹敵したであろうと思うと惜しい。評者は此処に帝国海軍の士官と下士官兵の越えられない意識の壁を感じるのである。
生存者は航海長小林英一大尉を先任将校として、カッター3隻に分乗、定員を5割も上回る195名による「名取短艇隊」を編成、著者は次席将校として指揮を執る。沈没時海面は大時化で、手持ち用具でシーアンカー(浮錨)を作り動揺を抑えて転覆を凌いだが、それを作れなかった第1内火艇(燃料積載無し)は翌朝はぐれた。此の時点で艇内には僅かな食糧(乾パンなど)のみで、六分儀など初歩的な航海用具さえ積まれてなかった。
翌朝、味方中攻(761空山田一飛曹機)が短艇隊を発見、救助に向かいつつありと通信筒を落とすが、短艇隊は海流に流されていた為、救助に向かった駆逐艦3隻は短艇隊を発見出来なかった事を生還後に知る。また水泳が得意で泳いでいた者は誰も生還していない。非情な海の遭難を本文中以下の様に言う。
『陸地から数百マイル離れていなくても、わずか十マイル沖で撃沈された場合でも、被服を脱いで泳ぐつもりで泳いだ人は、助かっていないことが多い。泳ぎが下手で、陸岸に着くまで浮く物につかまって泳いだ者か、浮く物につかまって救助を待っていた者が助かっている。』
著者は幼い頃に聞いた、船の反乱の多くは、食糧問題から起こるという記憶から、僅かな食糧を厳重な配給制として階級の区別なく平等とし、盗難を防ぐ為就寝時は自ら食糧罐の上で寝た。此処で先任将校は自ら撓漕して生還する計画を立て、航海用具を持たない中、天測航法と海象や海流、ミクロネシア人の渡洋方法などの海洋知識のみでの航海を計画。比島が雨季に当たる事から飲料水となるスコールが期待出来(天の時)、海流及び貿易風が順風で(地の利)、人員は全員が「名取」乗組の現役兵である事から(人の和)可能と判断し、遂に自力での生還を下令、行動を開始した。当初兵員は反対したが、やがて全員が実行を決意した。著者は先任将校が航海術に精通した27歳の青年将校であり、優れた人格者であった事が幸し、もし中年以上であったら肉体的に早く衰え、精神的重圧に押し潰されて指揮統率能力を喪っていただろうと回想する。
『指揮官の中には、上級司令部をけなしたり、部下を叱ったりして、自分の威厳を示そうとする人もいた。が、先任将校は、救助艦が来ないと司令部をけなすこともなかったし、カッターの進み方が少ないと部下を叱ることもなかった。救助艦が来ないことも、カッターが進まないことも、それは自分にあたえられた条件と受けとめていた。そしてその条件の下で、自分は何をなすべきかと対処していた。』
短艇隊には漁師や漁村の出身者、星座や数学に抜群の知識を持つ予備士官などが様々な特技を持寄り、当初不慣れで進まなかったカッター撓漕も、不屈の海軍魂で克服し、帆走と併せて比島を目指した。航海中は酷暑の洋上の暑熱に苦しみ、夜のスコールでは男同士が抱き合わないと震えて暖が取れない程気温が低下した。幻覚の島を何度も見、火傷を負った者や筏で漂流した後救助された者が何人も力尽きた。兵員も初めは救助艦が来る事や、助かるだろうかと心配する声を漏らしたが、次第に『行方不明では、死んでも死にきれない。自分たちの力でフィリピンに行くんだ。』と結束し、自らの力を尽くす様に変わっていく。
8月30日朝、短艇隊は陸軍監視哨の焼玉船に遭遇し、ミンダナオ島東北端スリガオまで曳航され、沈没より13日目に生還を果たした。海上から見る島陰は、遠くからポツンと小さく見え、だんだん大きくなると思いがちだが、実際には『ビデオテープの巻き戻しのように、いきなり島の稜線が現れる』そうである。食事(1日1人乾パン2枚)も休養も十分に摂らず、毎日10時間カッターを漕ぎ続け、接岸時はほぼ全員が生命の限界に達していた。しかし彼等は軍人の誇りを忘れず、全員が自分の足で上陸した。その成功は、先任将校が早期に航海を計画し決断した事、また一度は救助を待つべし反対した短艇隊員も、下令されるや身命を懸けて撓漕を続けたからに他ならない。
その後、短艇隊は駆潜艇に便乗しマニラに到着。大尉以上は至急帰国命令を受け、大艇で内地へ帰った。ちなみに初日に行方不明になった内火艇の53名の兵員は、その後漂流し12名が死亡、遭難26日目の9月12日、41名が米駆逐艦に救助され、米本土ウィスコンシン州の収容所で終戦を迎えた。
本書は海難史上にも稀な生還記録であるが、終始士官の目線で語られ、また証言も士官中心であり、何より著者は最も辛い連日10時間の短艇撓漕はしていない。著者は戦後の戦友会で、隊員が先任将校殺害と叛乱を企図していた事を初めて知ったという。ならば一般兵員達が航海中にどの様な辛苦を重ね、何を思い、折角生還したものの、その後の悲惨な比島の地上戦やマニラの市街戦をどの様に生き延びて復員したのかを重厚に記述して欲しかったと思う。記述の何処かに、短艇隊の偉業を指揮し成功させたという意識が先に立ち、下士官兵の証言を殆ど採録しなかった事が片手落ちに感じられる。其処を補えば、手塚正巳著『軍艦武藏』に匹敵したであろうと思うと惜しい。評者は此処に帝国海軍の士官と下士官兵の越えられない意識の壁を感じるのである。
2017年8月17日に日本でレビュー済み
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父は終戦のとき旧制中学の学生であったがまだ出征できる年齢ではなかった。軍記物を読むのが好きで、読み終わった物の中から、これは、と思うものを私にくれたりした。最近のものでは半藤一利の現代史ものをくれ、実証的なものを好んでいたように思う。新聞でこの『先任将校』を知り、亡父の蔵書にないか、調べてもらったがなかったので、電子版を買った。読後感としては、父に読んでもらいたかったと思った。
2019年1月21日に日本でレビュー済み
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リーダーとして部下を統率することを学ぶことができました
窮地の際にはこれを思い出し強い自分になりたいと思いました
窮地の際にはこれを思い出し強い自分になりたいと思いました
2014年2月17日に日本でレビュー済み
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フィリピンサマール島沖で沈没した軍艦名取の乗組員195名が漂流し、食料が一人1日乾パン2枚で180名が13日間をのりきった。飢餓の極限状態の中、これを統率する上官の指揮は素晴らしい!上にたつ者はこうあるべきだと考えさせられる一冊である。
2013年1月11日に日本でレビュー済み
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どんな困難に巻き込まれようとも各々が与えられた立場で最高の仕事をした結果をだせば必ず報われるという、まるでハリウッド映画のような実話です。
No.2の立場から上官への気遣い、自分の置かれている立場を考えての立ち居振る舞い、下士官への対応など心が打たれる内容ばかり。
今20代でこんな考えを持って企業に就職すれば上司が馬鹿でない限り必ず出世するでしょう。
No.2の立場から上官への気遣い、自分の置かれている立場を考えての立ち居振る舞い、下士官への対応など心が打たれる内容ばかり。
今20代でこんな考えを持って企業に就職すれば上司が馬鹿でない限り必ず出世するでしょう。
2023年11月24日に日本でレビュー済み
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電子版を購入しました。が、ところどころ文章がつながらない所があります。落丁本を買わされた気分です。