まず最初に、ぼくは医師からは「統合失調症と神経症の中間」、あるいは「統合失調症としては典型的ではない」と診断されているということをことわっておきます。
統合失調症の前駆期の時点で、抗精神病薬の服薬を始めていましたが、統合失調症の発症を食い止めることはできませんでした。幻覚妄想状態に陥るのかと思いきや、無気力の状態、感情のほとんど動かない状態、本を読めなくなったり、発話するときに言葉がまとまりを欠くというような状態に陥りました。つまり、前駆期から、急性期をすっ飛ばして、一気に消耗期に入った、というふうに説明できるかと思います。
前駆期の段階では、本に書いてあるとおり、教科書通りの症状を呈していたのですが(たとえば、妄想気分のようなもの、音や光に敏感になるなど、人々が自分ひとりに向けて演技をしているように見えたり、自分の筋肉がむき出しになっていて、世界のナイフに晒され、切り付けられるというような神経過敏状態、世界が不気味に見える、など)、目立った妄想もありませんでしたし(自覚している範囲内では、ということですが。前駆期的な妄想気分と、急性期的な妄想とをどのように区別するのかもわかりませんが)、幻聴も一度も体験していません。
自分は前駆期のころから、世界との親しみということをめぐって、格闘していたと言えると思います。統合失調症の発症前は、数年間、離人神経症を患っていました。そのころから、自分の問題にしていたのは、世界との親しみを感じることでした。また、世界と、深いところでつながっているという確信をめぐって、日々を過ごしていました。一日の大半は、現実感のない、自分自身も、他人も、世界も、いずれも現実感を欠いたものとしてしか感じられない状態で、しかし、一日のなかの短い時間、たとえば音楽を聴いているときなどに、ふと自分自身や、他人、世界などとの一体感、全一感を取り戻すことができていました。つまり、一日のなかで短い時間ではあれ、自分は世界との接触を保っていました。そうした短い時間に、「これが自分だ」とか、生きている実感のようなもの、これ以外にない、というような、寸分の疑いもはさむ余地のない、確信的な感覚を、感じていました。それは、絶対的な幸せと言えるものでした。
なので、ぼくはその「絶対的な幸せ」をめぐって、数年間を生きていました。それは、木村敏のいう「世界との親しさ」であり、ミンコフスキーのいう「現実との生ける接触」なのだと理解しています。ぼくは離人症だったころ、世界との親しさ、現実との生ける接触のことだけを考えていました。また、自分は一日のなかで、とても短い、かぎられた時間しか、世界の親しさや、現実との生ける接触、つまり上に書いたような、「絶対的な幸せ」、自分、他人、世界との一体感、全一感を感じることはできなかったので、いつそれを完全に失ってしまうか、とても怖くもありました。ぼくは統合失調症という病気を知りませんでしたし、自分には縁がないと思いつつも、なんとなく、自分は「それ」を失ってしまうのではないか、自分、他人、世界との一体感、全一感、それに伴う絶対的な幸福感を、永久に感じられなくなる、そんな破滅的な状態に陥るのではないか、という予感を感じていました。
その後、外界が自分に対して攻撃的に感じられるような、神経過敏の状態に陥り、そのとき医師に、「統合失調症の前駆期にある、しかしまだ発症していない」と言われました。抗精神病薬をそのころからのみはじめたのですが、自分はどんどん、発症に近づいているのがわかりました。それで、ぼくにとっては音楽がほとんど唯一の、ミンコフスキー的な「現実」と接触する方法だったのですが、ある日を境に、ついに「現実」との接触は、完全に断たれました。一日のあいだの短い時間に感じられていた、「絶対的に信頼できる感情」を失いました。それをもって、ぼくは「自分は統合失調症を発症したのだ」と、さとりました。
それで、このブランケンブルク『自明性の喪失』についてですが、なぜぼくが上に自分の病歴のようなものを書いたのかというと、ぼくが統合失調症を発症するまでのあいだに失うまいとしていたもの、それは世界との親しさであり、それはこのブランケンブルクの本の全体に流れているテーマでもあると思ったからです。世界との親しさを失った状態を、ブランケンブルクは「疎外(アリエナツィオーン)」と言っています。ぼくが自分の病気において問題にしていることの一つは、この世界との親しさを失われた状態、世界との感情的な通路を失われた状態、つまり「疎外」、ミンコフスキーのいう「現実との生ける接触の喪失」です。ぼくは、自分独自の造語で、「外界に対するデペイズマン的異化」などと言っています。要するに、「見当ちがい」ということです。
具体的にこの本を読み、とくにおもしろいと感じられたのは、現象学者においては、エポケーをいつでも取り消すことができるのに、分裂病者においては、エポケーを取り消すことができないということです。
「これに反して分裂病者の場合には、自明なものは随意に括弧に入れられるのではなくて、根底から奪い取られるのである。分裂病者はもともと自然な自明性の中に入りこむことができないでいたのであるから、それを括弧に入れることもできない。」(ブランケンブルク『自明性の喪失』)
おもしろいと感じたところをいちいち引用していると、あまりにも長くなってしまうので、引用はやめます。結局、この本を紹介するつもりが、ぼく自身の病歴の紹介になってしまったのは想定外でしたが、この本の内容と、そんなに無関係ではないんじゃないかな、と思っています。
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自明性の喪失―分裂病の現象学 単行本 – 1978/7/11
ここに登場するただ一つの症例はアンネ・ラウという女性で、睡眠薬自殺をはかり入院したのは20歳の時であった。
「あたりまえ」ということが彼女にはわからなくなった。「ほかの人たちも同じだ」ということが感じられなくなったのである。
彼女の自己表現は緻密で、豊かな内容をもっていた。この症例は大多数の臨床病像の基礎にある普遍的なものを、純粋な形で示していた。
人間には、もともと自明性と非自明性とのあいだの弁証法的な運動がそなわっている。
疑問をもつということは、われわれの現存在を統合しているひとつの契機である。ただしそれは適度の分量の場合にかぎられる。
分裂病者ではこの疑問が過度なものになり、現存在の基盤を掘り崩し、遂には現存在を解体してしまいそうな事態となって、
分裂病者はこの疑問のために根底から危機にさらされることになる。
分裂病者を危機にさらすもの、それは反面、われわれの実存の本質に属しているものである。
だからこそ分裂病はとりわけ人間的な病気であるように思われるのである。
著者は1928年、ドイツのブレーメンに生れた精神病理学者。
ビンスヴァンガーの現存在分析を継承しさらに幅広い哲学的考察をすすめる。
また新しい精神分析理論、社会精神医学、反精神医学にも深い関心をもつ。
テレンバッハと共に現代ドイツの精神病理学界を代表する一人である。
「あたりまえ」ということが彼女にはわからなくなった。「ほかの人たちも同じだ」ということが感じられなくなったのである。
彼女の自己表現は緻密で、豊かな内容をもっていた。この症例は大多数の臨床病像の基礎にある普遍的なものを、純粋な形で示していた。
人間には、もともと自明性と非自明性とのあいだの弁証法的な運動がそなわっている。
疑問をもつということは、われわれの現存在を統合しているひとつの契機である。ただしそれは適度の分量の場合にかぎられる。
分裂病者ではこの疑問が過度なものになり、現存在の基盤を掘り崩し、遂には現存在を解体してしまいそうな事態となって、
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分裂病者を危機にさらすもの、それは反面、われわれの実存の本質に属しているものである。
だからこそ分裂病はとりわけ人間的な病気であるように思われるのである。
著者は1928年、ドイツのブレーメンに生れた精神病理学者。
ビンスヴァンガーの現存在分析を継承しさらに幅広い哲学的考察をすすめる。
また新しい精神分析理論、社会精神医学、反精神医学にも深い関心をもつ。
テレンバッハと共に現代ドイツの精神病理学界を代表する一人である。
- 本の長さ280ページ
- 言語日本語
- 出版社みすず書房
- 発売日1978/7/11
- ISBN-104622021927
- ISBN-13978-4622021926
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商品の説明
著者について
1928年ドイツのブレーメンに生れる。フライブルク大学の文学部でハイデッガー、シラジ、フィンクらについて哲学を、R.ハイスについて心理学を学ぶ。のち医学部に転じ1955年に医師国家試験に合格、翌年「妄想型分裂病の一例についての現存在分析的研究」を学位論文として提出、学界の注目を浴びた。この論文は現存在分析の古典的業績の一つに数えられている。フライブルク大学、ハイデルベルク大学精神科、ブレーメン市立病院を経て、マールプルク大学名誉教授。2002年歿。
登録情報
- 出版社 : みすず書房 (1978/7/11)
- 発売日 : 1978/7/11
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 280ページ
- ISBN-10 : 4622021927
- ISBN-13 : 978-4622021926
- Amazon 売れ筋ランキング: - 474,759位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 18,969位医学・薬学・看護学・歯科学
- - 25,922位科学・テクノロジー (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年12月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
統合失調症と名称変更される以前の分裂病の理論が、どのような意味で人間存在の理解に貢献したかがあらためて示されている。
2017年2月16日に日本でレビュー済み
最近は、精神科医の杉山登志郎氏などが、「アンネ・ラウは統合失調症だったのか、
発達障碍だったのか」などと取り上げているが、そもそも母親が証言するように、
「父親からはボロ布のように扱われていて」という、極端に普通でない状況で暮らしてきて、
それを止めさせたりする親族も居ず、引き離す人も居ないという事であれば、
アンネにとっては普通でない暮らしが日常生活ということになるので、
アンネが「普通ということがわからない」「当たり前ということが解らない」と言うのは
当然なのではないのだろうか?
異常な親と暮らす子供のことについて考えたり想像するような能力が、
ほとんどの医師には欠け過ぎているのではないのだろうか。
家庭の中と外とがかけ離れていると、「当たり前」「普通」ということが
解らないというのは当然だろう。
自分の親が周囲の親のように子供をちゃんと世話をする、日常的な様々な事を教えるというのが
無ければ、「当たり前」「普通」などは解らないだろう。
様々な病理現象に関する研究や考察は在っても、それの基となる
生育歴、生育環境に関する知識が、医師には少なすぎるのだろう。
この著書の中で異常な父親に関する記述が殆ど無く、両親がどのような人物で、
どのような生育歴だったのかも触れられていないという事が、
時代や社会階級による、著者の社会に関する知識や関心の無さや、想像力の無さを示していると思う。
発達障碍だったのか」などと取り上げているが、そもそも母親が証言するように、
「父親からはボロ布のように扱われていて」という、極端に普通でない状況で暮らしてきて、
それを止めさせたりする親族も居ず、引き離す人も居ないという事であれば、
アンネにとっては普通でない暮らしが日常生活ということになるので、
アンネが「普通ということがわからない」「当たり前ということが解らない」と言うのは
当然なのではないのだろうか?
異常な親と暮らす子供のことについて考えたり想像するような能力が、
ほとんどの医師には欠け過ぎているのではないのだろうか。
家庭の中と外とがかけ離れていると、「当たり前」「普通」ということが
解らないというのは当然だろう。
自分の親が周囲の親のように子供をちゃんと世話をする、日常的な様々な事を教えるというのが
無ければ、「当たり前」「普通」などは解らないだろう。
様々な病理現象に関する研究や考察は在っても、それの基となる
生育歴、生育環境に関する知識が、医師には少なすぎるのだろう。
この著書の中で異常な父親に関する記述が殆ど無く、両親がどのような人物で、
どのような生育歴だったのかも触れられていないという事が、
時代や社会階級による、著者の社会に関する知識や関心の無さや、想像力の無さを示していると思う。