池田晶子さんの本は、瞑想の師匠がよく引用するので、それにひきづられて何冊か読みましたが、ひとつ隔靴痛痒のところがありました。ところが、旅の中で『さようならソクラテス』を読んで、テキストのいろいろな箇所で多くの感銘を受け、池田さんの本をもう一度読み返したいと思うようになりました。
それは私が学んでいる仏教の中で「カルマ」や「輪廻転生」をどのように考えるかという問題意識にも繋がっていきます。
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-確かに生死は現象であるが、同時に論理でもある。論理的には生死は存在せず、「現在」しか存在しない。「現在」において、「現在」から動かず、現象の側を眺めれば、過去も未来も「観念」である。前世も来世も「観念」である。「実際の」どこにも存在するものではない。いや「実際に」「ありありと」、前世や来世を「見る」のだと、そういう人は言うだろう。ならばなおのことそれは、観念としての「物語」である。ありありと視覚的に構成された一連の物語、それを「見る」のは現在でしかありえないのだから、前世や来世なんてものが、事実的に存在するわけがない。
(『人生は愉快だ』第1章 語り、騙り、物語る 「シュタイナー」)
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それは、池田さんの引用どおり、論理的には「とき」は「現在」しかありえないものです。従って「輪廻転生」は物語としてのみあるということもよく了解できます。
池田さんは瞑想もせずに、なぜこのことがわかるのだろうかと思いましたが、下記の池田さんの文は、まさに「瞑想」でしか発見できそうもない境地です。
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とは言え、「お前はいったい誰なのだ」とは、考えるほどに、不思議な問いである。じっさい、非常に不思議な感じになる。誰なのだ、どこから来たのだ、この不思議な感じを、人間の子供がいる人は(失礼)、どんなふうに納得しているものだろうか。向こうへ往く命、こちらへ来る命、人知には計り知れない命の循環連関において、その者がその者であるとは、本当にどういうことなのだろう。
この問いのもつ深い感覚を味わうことが、私にはとても気持ちがよい。 この問いのもつ深い感覚を味わうことが、私にはとても気持ちがよい。
(『人生は愉快だ』第3章 人生の味わい「再会」)
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きっと、池田さんは、上記の文のように存在の不思議に思いを馳せると同時に瞑想のある境地のような状態にすぐに入れたのだと確信しました。(別に、だからどうだってことになりませんが。)
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すなわち無時間的現在をひたすらに掘る道を採るならば、それは必ず超時間的な次元へと突き抜けてしまう。突き抜けたそこは、ものどもが無限に生死流転する光景である。言語同断の宇宙である。自分が自分であると いうことは、なんとこのようであったかと人は知る。
((『人生は愉快だ』第1章 語り、騙り、物語る 「ピュタゴラス」))
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この文章には驚きました。私が観た瞑想の瞬間を思い出す光景です。
上記の引用文で池田さんの説明が欠けているとすれば、「言語同断の宇宙である。自分が自分であると いうことは、なんとこのようであったかと人は知る。」という部分で、読者には、著者のこの感覚がおそらく十分に伝わっていないと思います。
私の解釈によれば、無限に生死流転する光景の世界が、ただ単に先験的にあるという「無我」の状態が世界と自分の本質であり、にもかかわらず、自分が「私」だと錯覚して思うのは、この無限に生死流転する光景の世界から捕まえてくる概念(=物語)を「私のもの」とした瞬間からであるとことではないかと思います。
この意味から「輪廻転生」もあるといえばあるし、ないといえばないと言えますね。「輪廻転生」の主体は自分ではなく、無限に生死流転する光景の世界ですから。ただ、それを「私のもの」にするときに、人は「私の輪廻転生」を信じるのです。
私も池田さんの文を以下に引用して発言を閉じます。
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46億年前の僕を思い出すなんてのは、昨日の僕を思い出すのと、思い出す仕方は何ひとつ変わらんのだ。つまり、それは、うそでもほんとでもない。あるといえばあるし、ないといえばないのだ。あるいは、あるといえばないし、ないといえばあるのだ。「前後ありといえども前後際断せり」とは、道元のヤツ、うまいこと言ったもんさ。そう、全存在は、電光石火で、僕なのだ。
(『さようならソクラテス』P15)
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人生は愉快だ 単行本 – 2008/11/7
池田 晶子
(著)
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- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社毎日新聞出版
- 発売日2008/11/7
- ISBN-104620319155
- ISBN-13978-4620319155
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- 出版社 : 毎日新聞出版 (2008/11/7)
- 発売日 : 2008/11/7
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 288ページ
- ISBN-10 : 4620319155
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著者について
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1960年(昭和35年)8月21日、東京生まれ。1983年(昭和58年)3月、慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を卒業。文筆家と自称する。池田某とも。「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。2007年(平成19年)2月23日死去(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『事象そのものへ!』(ISBN-10:4901510789)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年12月14日に日本でレビュー済み
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2015年3月13日に日本でレビュー済み
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「悲観も楽観もせずにいるのがいい、いいというのはそういう望みをもたないことが
結局一番いいということ、あれこれ思い煩うから人間は不幸になっている」池田さん
は正しく価値のある言葉を書くことに価値があるというように人間にとって本質的な
ことを大切なことを言葉で表現している、人生相談も池田さんならではの回答で共感
できる。
結局一番いいということ、あれこれ思い煩うから人間は不幸になっている」池田さん
は正しく価値のある言葉を書くことに価値があるというように人間にとって本質的な
ことを大切なことを言葉で表現している、人生相談も池田さんならではの回答で共感
できる。
2019年10月8日に日本でレビュー済み
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池田晶子さんのお陰で生きる喜びを感じれるようになった。
2013年2月11日に日本でレビュー済み
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評判ほどの物ではなかったですね。途中で読まずにおいています。
2008年11月18日に日本でレビュー済み
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将棋の17世永世名人の谷川さんの名言に「(どうしたら強くなれますか)と聞かれて、ちゃんとこたえると、質問者は満足しない。で、解ったんだけど、質問者は(どうしたら努力しないで強くなれますか)ってことを聞きたいらしい。そんな方法はありませんよ」と彼は笑います。彼のことばは、真実です。
しかし、入門書作家は、この真実の壁を越える課題を背負っている。
この壁を越えたと評されたのがソフィーの世界だが、西洋に偏っていて、しかもかなり厚い。
それを、わが国の入門書の大家は、最後の仕事として仕上げていた。
釈迦にはじまり老子も孔子もイエスも5頁。それも、小さな本に大きな字でスカスカの5頁。
名を挙げておく。
荘子、ソクラテス、プラトン、ピュタゴラス、ヘラクレイトス、エピクロス、デカルト、パスカル、スピノザ、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、マルクス、シュナイター、フロイト、ユング、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、西田幾太郎、臨済、空海、道元、親鸞、一休。
これら先哲を厚さ1cmと1mmの中に見事に詰め込んで見せた。
壮挙である。
本は後に人生相談、モノローグの小文が続き、クールダウンするにはいい構成になっている。
しかし、入門書作家は、この真実の壁を越える課題を背負っている。
この壁を越えたと評されたのがソフィーの世界だが、西洋に偏っていて、しかもかなり厚い。
それを、わが国の入門書の大家は、最後の仕事として仕上げていた。
釈迦にはじまり老子も孔子もイエスも5頁。それも、小さな本に大きな字でスカスカの5頁。
名を挙げておく。
荘子、ソクラテス、プラトン、ピュタゴラス、ヘラクレイトス、エピクロス、デカルト、パスカル、スピノザ、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、マルクス、シュナイター、フロイト、ユング、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、西田幾太郎、臨済、空海、道元、親鸞、一休。
これら先哲を厚さ1cmと1mmの中に見事に詰め込んで見せた。
壮挙である。
本は後に人生相談、モノローグの小文が続き、クールダウンするにはいい構成になっている。
2008年11月29日に日本でレビュー済み
第1章 過去の宗教、哲学の批評
第2章 人生相談
第3章 哲学的エッセイ
という構成なっていますが、私は第1章、特に各宗教の思想の批評に驚きました。
仏陀、老子、孔子、キリスト等が対象ですが、上から目線の批評のようにも感じます。
まさに『釈迦に説法』というスタンスのようです。(語義は違いますが)
私は読んでいるうちにドストエフスキーがイワン・カラマーゾフ(=大審問官)の口を借り
放った問いかけを思い出しました。
すなわち、「宗教から、奇蹟と、神秘と、権威を取り除き、残された論理は本当に絶対真理
といえるのか。」という問題です。
池田氏は、宗教について考察する際、慎重に、「奇蹟」「神秘」「権威」を取り除き、
論理だけで筆を進めています。今まで私が読んできた宗教の解説者は、全て下から目線
(=敬虔な信者としての立場)のものでしたので、非常に衝撃を受けました。
さて、宗教から「奇跡」「神秘」「権威」を取り除くと何が残るのでしょうか。
私にはあまりにも恐ろしい答なのでレビュー本文には書けませんでした。
池田氏の答を、今一度、本レビューの題名にてお確かめ下さい。
実はこの答は、イワン・カラマーゾフ自身が気づいていたものに他ならないのですが・・・・
第2章 人生相談
第3章 哲学的エッセイ
という構成なっていますが、私は第1章、特に各宗教の思想の批評に驚きました。
仏陀、老子、孔子、キリスト等が対象ですが、上から目線の批評のようにも感じます。
まさに『釈迦に説法』というスタンスのようです。(語義は違いますが)
私は読んでいるうちにドストエフスキーがイワン・カラマーゾフ(=大審問官)の口を借り
放った問いかけを思い出しました。
すなわち、「宗教から、奇蹟と、神秘と、権威を取り除き、残された論理は本当に絶対真理
といえるのか。」という問題です。
池田氏は、宗教について考察する際、慎重に、「奇蹟」「神秘」「権威」を取り除き、
論理だけで筆を進めています。今まで私が読んできた宗教の解説者は、全て下から目線
(=敬虔な信者としての立場)のものでしたので、非常に衝撃を受けました。
さて、宗教から「奇跡」「神秘」「権威」を取り除くと何が残るのでしょうか。
私にはあまりにも恐ろしい答なのでレビュー本文には書けませんでした。
池田氏の答を、今一度、本レビューの題名にてお確かめ下さい。
実はこの答は、イワン・カラマーゾフ自身が気づいていたものに他ならないのですが・・・・
2010年12月12日に日本でレビュー済み
ブッダ、イエス、親鸞などの宗教家、ヘーゲルなどの哲学者たち、ユング、フロイトなどの心理学者たち
それぞれへの辛口のコメントを残されています。
知っている名前のところだけ読みました。
そしてインドだかの偉い人との対談の中での「絶句」は笑えました。^^
池田晶子さんらしい、言葉のつむぎ方が、素敵です。
「14歳〜」で青年、「41歳からの哲学」で中年、そのほかの本が老年
など、ターゲットを網羅できたので、
『もう(書かなくても)いいのではないか。』などと漏らしておられる。
「死んでからでも、本は出る!」は印象に残るコピー。
それぞれへの辛口のコメントを残されています。
知っている名前のところだけ読みました。
そしてインドだかの偉い人との対談の中での「絶句」は笑えました。^^
池田晶子さんらしい、言葉のつむぎ方が、素敵です。
「14歳〜」で青年、「41歳からの哲学」で中年、そのほかの本が老年
など、ターゲットを網羅できたので、
『もう(書かなくても)いいのではないか。』などと漏らしておられる。
「死んでからでも、本は出る!」は印象に残るコピー。
2009年1月11日に日本でレビュー済み
2007年に病死した池田晶子さんの文章を「死」と「生」という切り口からまとめた本。
第1章では30人の哲学者、宗教者の「死」に関する見解を紹介し、それに対する池田さんの考えを述べている。あくまで「死」という切り口なので、これら30人の偉人たちの思想すべてがわかるわけではないが、どういう思考様式をもった人たちだったのか、という池田さんなりの解釈がわかり、ときおり「そういうことだったのか」と新鮮な発見をするところもある。難解な哲学書などには歯が立たない私からすれば驚異の理解力の人である。あと、池田さんは、世間一般では誇大妄想と避けられがちなヘーゲルを(少なくともカントよりは)評価しているらしい、というのがちょっとした発見。
第2章は人生相談という形式になっており、個人的には少々退屈であった。なんというか、私とは笑いのセンスがちょっと違うのかもしれない。(というか、そもそも笑いが目的ではないのか?)
第3章はエッセイ。哲学を語ることについてのスランプ感であるとか、ガダマー氏との対談で(柄にも無く?)緊張した話など、池田さんの人間味のあるところが披露されていて親近感を感じさせるものとなっている。
そもそも、もはや語りえないことについてどう語るか、という状況において、
「1.語りえないことを考えることをやめて食っていくための生産活動に戻る」
「2.何かを信じないと落ち着かないので宗教に行ってしまう」
「3.そもそも哲学的なことは考えたことが無い」
「4.しつこく考え続ける」
の4パターンがさっと思いつくのだが、大半の人(科学者も含めて)は1を選んでいるのに対し、池田さんは最後の4を選んだ(選んでも生きていける)稀有な人なのだろうと思う。
第1章では30人の哲学者、宗教者の「死」に関する見解を紹介し、それに対する池田さんの考えを述べている。あくまで「死」という切り口なので、これら30人の偉人たちの思想すべてがわかるわけではないが、どういう思考様式をもった人たちだったのか、という池田さんなりの解釈がわかり、ときおり「そういうことだったのか」と新鮮な発見をするところもある。難解な哲学書などには歯が立たない私からすれば驚異の理解力の人である。あと、池田さんは、世間一般では誇大妄想と避けられがちなヘーゲルを(少なくともカントよりは)評価しているらしい、というのがちょっとした発見。
第2章は人生相談という形式になっており、個人的には少々退屈であった。なんというか、私とは笑いのセンスがちょっと違うのかもしれない。(というか、そもそも笑いが目的ではないのか?)
第3章はエッセイ。哲学を語ることについてのスランプ感であるとか、ガダマー氏との対談で(柄にも無く?)緊張した話など、池田さんの人間味のあるところが披露されていて親近感を感じさせるものとなっている。
そもそも、もはや語りえないことについてどう語るか、という状況において、
「1.語りえないことを考えることをやめて食っていくための生産活動に戻る」
「2.何かを信じないと落ち着かないので宗教に行ってしまう」
「3.そもそも哲学的なことは考えたことが無い」
「4.しつこく考え続ける」
の4パターンがさっと思いつくのだが、大半の人(科学者も含めて)は1を選んでいるのに対し、池田さんは最後の4を選んだ(選んでも生きていける)稀有な人なのだろうと思う。