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14歳の君へ―どう考えどう生きるか 単行本 – 2006/12/23
池田 晶子
(著)
確かな言葉でつづられた<人生の教科書><
前著『14歳からの哲学』では、かなり原理的なところから、ものごとの考え方を
説き起こしたので、本書は、もう少しやわらかく、ある意味では読みやすく、エッセ
イふうに書いてみました。(「あとがき」より)
なぜ人は生きるのか? 何のために、生きるのか? 混乱しきったこの世界で、君
はどうやって生きていけばいいだろう。「友愛」「個性」「社会」「戦争」「言
葉」……いま、考えておきたい16のこと。迷っている心に、自ら考える力を。確か
な言葉でつづられた<人生の教科書>
前著『14歳からの哲学』では、かなり原理的なところから、ものごとの考え方を
説き起こしたので、本書は、もう少しやわらかく、ある意味では読みやすく、エッセ
イふうに書いてみました。(「あとがき」より)
なぜ人は生きるのか? 何のために、生きるのか? 混乱しきったこの世界で、君
はどうやって生きていけばいいだろう。「友愛」「個性」「社会」「戦争」「言
葉」……いま、考えておきたい16のこと。迷っている心に、自ら考える力を。確か
な言葉でつづられた<人生の教科書>
- 本の長さ192ページ
- 言語日本語
- 出版社毎日新聞出版
- 発売日2006/12/23
- ISBN-104620317888
- ISBN-13978-4620317885
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登録情報
- 出版社 : 毎日新聞出版 (2006/12/23)
- 発売日 : 2006/12/23
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 192ページ
- ISBN-10 : 4620317888
- ISBN-13 : 978-4620317885
- Amazon 売れ筋ランキング: - 66,904位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 80位ノンフィクション・伝記 (本)
- - 159位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 467位倫理学入門
- カスタマーレビュー:
著者について
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1960年(昭和35年)8月21日、東京生まれ。1983年(昭和58年)3月、慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を卒業。文筆家と自称する。池田某とも。「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。2007年(平成19年)2月23日死去(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『事象そのものへ!』(ISBN-10:4901510789)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年5月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は85歳の老人、「戦争」「宗教」の項目に線引きが多いです。孫が女子で高校1年生、
彼女は片道一時間かけて都会の高校に通学。レベルの違いで、悩んでいます。
彼女は片道一時間かけて都会の高校に通学。レベルの違いで、悩んでいます。
2024年3月18日に日本でレビュー済み
いわゆる"普通の人"がこの本を読んだところで、
「まわりくどい」「何が言いたい?」
「これは子供向けなのか??」
と感じるだけでしょう。実際にそういうレビューがありますね。
この本は敏感・多感すぎるがゆえに生きづらさを抱えた10代を対象にした本であると思います。
特別な悩みのない"普通の人"が読んで「良かった!」と思うような本ではないと思います。
そんな私はこの本が大好きです。
「まわりくどい」「何が言いたい?」
「これは子供向けなのか??」
と感じるだけでしょう。実際にそういうレビューがありますね。
この本は敏感・多感すぎるがゆえに生きづらさを抱えた10代を対象にした本であると思います。
特別な悩みのない"普通の人"が読んで「良かった!」と思うような本ではないと思います。
そんな私はこの本が大好きです。
2018年1月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中学生の甥っ子に読んでもらう本を探しており、まずは自分が読んでみました。
生き方、正しさ、幸福などについて、自分で考え選択するよう導く本なのだと思います。
多感な年ごろの少年少女が、偏った思想や多数派の意見に流されないよう、また、物事の本質を追い求められるよう問いかけをしており、子供に読ませたいところもあります。
しかし、それらを求めることをはずのこの本自身が「現代社会」「宗教」「〇〇をしている人たち」といった対象に、著者自らがレッテル貼りをしているようにも見受けられます。
「一般的にはこう言われているよね。だけど本当はどうなんだろう?」と問いかけ、物事の前提に疑問を持たせようとしているのですが、この本自身に書いてあることも疑わなければ、中道に見せかけた特定の思想にもなりえるのでは、と感じました。
結論として、題材や構成は良いと思うのですが、この本いいよ!と手放しに勧めることは出来ません。
この本に対し意見を言い合えるような読み手との関係あれば良いと思います。
生き方、正しさ、幸福などについて、自分で考え選択するよう導く本なのだと思います。
多感な年ごろの少年少女が、偏った思想や多数派の意見に流されないよう、また、物事の本質を追い求められるよう問いかけをしており、子供に読ませたいところもあります。
しかし、それらを求めることをはずのこの本自身が「現代社会」「宗教」「〇〇をしている人たち」といった対象に、著者自らがレッテル貼りをしているようにも見受けられます。
「一般的にはこう言われているよね。だけど本当はどうなんだろう?」と問いかけ、物事の前提に疑問を持たせようとしているのですが、この本自身に書いてあることも疑わなければ、中道に見せかけた特定の思想にもなりえるのでは、と感じました。
結論として、題材や構成は良いと思うのですが、この本いいよ!と手放しに勧めることは出来ません。
この本に対し意見を言い合えるような読み手との関係あれば良いと思います。
2019年8月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
再掲 2007
2005-2006に毎日中学生新聞に連載したものと、新聞が廃刊になったため、半分は書き下ろし。
あとがきにあるように、14歳からの哲学がかなり原理的なところから、ものごとの考え方を説き起こしているのに対し、本書はもう少し柔らかく、ある意味で読みやすく、エッセイふうに書いているそうです。
そして、受験への役には立ちませんが、人生の役には必ず立ちます。皆様への信頼とともに。と閉じています。(2006、11月)
47歳のオヤジが読んでも新鮮で心が洗われるようです。そして是非とも多くの方に読んでもらいたい。知ることや記憶することよりも考えること、そして思い込む事よりも考える事の重要性を考えることができます。
あとがきを書かれた時はすでに自分の死を受け入れていたのでしょうか。合掌
備忘録(書いていたら、やたら長くなった。是非とも借りるなり買って読んでみてください)
個性
「本当にすきなこと」「ほんとうの自分」というのがどこかにあって、それを探さなくちゃいけないのだと、最近は大人から思い込んでいる。 中略 この時は好きだったけど、今は好きでないというのは、本当に好きではないということだ。でも、本当に好きなものが、きっとどこかにあるに違いないと探し続けて、結局何が好きだったのか分からずに終わる人生というものは、何だか空しい人生じゃないかな。たくさんの若者や大人が落ち込んでいる「自分さがし」というのは、こういう不毛なものなんだ。
最近は誰もがネットで人と交流しているけど、あの「ブログ」というのが、現代ふう自己顕示の典型だね。お互いにいっせいに、「私は」「俺は」と、誰だか知れない誰かに向かって主張している。誰でもいいからとにかく他人に認めて欲しい。他人に認められなければ、自分を自分と認められないんだ。他人がいなければ、自分であることができないんだ。だとしたら、いったいどこが「自分らしい」ことなんだろう。他人の中に消えてしまって、その人の「自分」なんか、どこにもないじゃないか。
「自(みずか)ら」ということと「自(おの)ずから」ということは違うことだ。「自ら」は、自分の意図でどうこうしようとすることで、「自ずから」は、自分の意図によらずに自然にそういうふうになることだ。君は、自ずから、そうなる人になればいい。自らなろうとなんかしなくていい。そしたら君は、必ず個性的な人になる。
勉学
今の学校の勉強の方法では、学んで知ることの本当の面白さは、なかなかわからない。だから君は、学校の勉強は学校の勉強として、自分ひとりで考えることの面白さを追求してゆくのがいいだろう。本を読むのが一番いい手だ。試験問題集なんかいくら数をこなしても、賢くなるのはあんまり期待できないね。 成績を気にせずに、自分の頭で考えよう、とは、あんまり大きな声では言えないな。 まあ要領だね。本当に大事なことは、試験や受験の先にこそあるということを、忘れないでいましょう。人生にとって本当に大事なことは何なのかということこそ、自分で考えて知らなければならない問いだ。「知る」ということが、自分が賢くなって、賢い人生を生きるために知ることでなければ、知るなんてことに、いったい何の意味があるだろう。中略 今の学校でのつまらない勉強も、そういう素晴らしい学問の世界の一端だと、そのはじっこの部分に触れているのだと、こう思って、今はこの先に期待しよう。
社会
大勢の人間が集まって社会というものを形成すると、その社会というものは、確かにどうも悪い方向へと向かう。それで昔から人々は、理想社会(ユートピア)というものの形を思い描いたわけだが、でもこれは良く考えると、その発想の仕方がすでに間違っている。必要なのは、理想的な社会でなくて、理想的な人間だ。社会を構成する一人一人が理想的な人間になる以外に、理想社会の実現なんか不可能だということに、どういうわけか、人間が気づかないんだね。
戦争
しかし、いやなことが悪いことだとは限らない。確かに、家族が殺されたり自分が傷ついたりするのは、自分にとってはいやなことだ。しかし、そのいやなことが、よいものとしての平和、平和という善を守るためのものだとしたら、どうだろう。戦争は、必ずしも悪ではない。いや平和のための戦争は、むしろ善だと言ってもいいのじゃないか。 だいいち、平和が平和だとわかるのは、戦争というものがあるからだ。戦争があるから平和があるのは、悪があるから善があるのと同じことだ。そんなふうに一方がある他方がるようなものの一方だけを絶対だと思うのは、間違っているのじゃないか。中略 人間の考え方は、立場や思想によって、全然違うものなんだ。だからこそ、君たちは、立場や思想によって違わない考え、誰にでも同じ本当のことを考える仕方をしらなければならない。自分の立場や感情から、いいか悪いか、賛成か反対かではなく、戦争とは、本当は、何なのか。それがわかるのでなければ、立場や思想の違いによって戦争するのと、結局同じことだと思わないか。
戦争それ自体に正しいも間違っているもあったのだろうか。なぜなら、戦争というのは一律に、共同体を自分だと思い込む根本的な勘違いから起こるのだからだ。
戦争に反対すると、口で言うのは簡単だ。起こっている戦争に加担するのも簡単だ。難しいのは、そもそも戦争とは何なのか、なぜ人は戦争するのかということについて、どこまでも深く見抜いてゆくことだ。考えることだ。それで、いいんだ。それは、平和は善で、戦争は悪だと思い込んでいるよりも、はるかに賢いことなんだ。
自然
人間は人間であって、自分を取り巻く自然環境とは別のものだと思ってしまう。自然とは自分の外側にあるものだと、どうしても思いやすいんだ。たぶんそれは、環境としての自然が、目に見える対象としてあるからだろう。人間はどうしても、目に見えるものだけが存在すると思いやすい。だけど、目に見えない自然もまた存在する。いや目に見えてはいるのだけど、近すぎて見えていない、近すぎるから忘れてしまう自然のことだ。人間は、自分に最も身近な自然、いや、それなしでは自分が存在していないはずの自然のことを、見事に忘れてしまっているんだ。何だと思う?それは、体だ。人間の体、君のその体のことだ。君は、自分のその体が自然だということに気がついているだろうか。自然というのは、自分の外側の自然環境のことを言うのであって、自分の体が自然の存在なんて、思ってもみなかったのじゃないだろうか。だけど、こんこと、説明するまでもない。君が今まさに生きているその体は、人工物じゃない、自然のものだ。人間が作ったものじゃない。自然が作ったものだ。
自然は人間の意志を越えているという、ものすごく当たり前で、ものすごく不思議なことへの驚きを忘れると、次に人間は、これを支配しようとし始める。自然を人間の意志でどうこうしようと考え始める。しれが、現代の科学技術と、それによる自然破壊の現状というわけだ。体や命が自然のものだということを忘れ、それを自分のものだと思うところに、もう間違いは始まっているということだ。中略 自然を守ろう、自然と共生しようと本当にいうのなら、同時に、自然と共死しようとも言えるということだ。 中略(臓器移植やクローン技術のはなしがあり) こういう愚かしくも不自然なことをする人間は、はたして自然なんだろうか、不自然なんだろうか。宇宙という自然における人間という存在とは何だろう。人間の体は自然だけれど、人間の欲望が不自然なんです、と言う人がいるかもしれない。おそらくそれは正しいだろう。そして、この不自然な欲望を作り出しているのは、人間の脳だ、と、現代科学に明るい人なら言うかもしれない。けれど、ここで気がつかないか。その不自然な欲望を作り出す人間の脳を作ったのは、しかし人間じゃない、自然だ。人間の脳を作ったのは決して人間じゃないんだ。
宗教
でも、そんなふうな、「信じる」という仕方での宗教は、人類はそろそろ終わりにする時代なんだ。宗教そのものは、人間がこの夜に存在する限り、終わりになることはないだろう。苦しみの意味、人生の意味、死後の行方や道徳を求める気持ちに、変わりはないからだ。ただ、それを、絶対的で超越的な神を「信じる」という仕方で求めるのは、もうおしまいだ。もう人々は、そんな仕方では信じない。人類はそれなりに賢くなっているからだ。
言葉
「初めに言葉ありき」。これは聖書の言葉だ。言葉の奇跡に気がついた昔の人は、やっぱりそんなふうに言っている。「言葉は神であった」。つまり、言葉が世界を創ったんだとね。現代人は、考えることをしないから、こういう考え方がほとんど理解できなくなっている。世界とは物質であり、目に見える世界だけを世界だと思っているんだ。だけど目に見える物より前に、目に見えない意味があるのでなければ、どうして世界が意味あるものになるだろう。言葉こそが世界を創っているということを理解出来なくなっている現代人は、言葉は人間の道具であって、人間が言葉を使っているのだと思う事になる。これは完全な勘違いだ。
だから、もし君が自分の人生を大事に生きたいと思うなら、言葉を大事に使うことだ。世界を創った言葉は人間を創るということを、よく自覚して生きることだ。つまらない言葉ばかり話していれば、君は必ずつまらない人間になるだろう。つまらない人間の、つまらない人生、そんなのでもいいのかな? メールでおしゃべりばかりしてちゃダメだと、いっとう最初に言ったのは、こういうわけだ。話された言葉は残らないけど、書かれた言葉は残っている。真実を語る言葉は、必ず残るものなんだ。何百年も前に書かれた言葉が残っていて、今それを読んで「わかる」というのは、言葉の奇跡そのものだ。そういう言葉に触れるだけ、それだけ君は賢くなれるんだ。だからこそ、本を、古典を読みましょう。
お金
むろん、生きてゆくために、お金はやっぱり必要だ。やっぱりお金は欲しいと思う。なんだか自信がなくなったら、こう自問してみるといい。私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか。生きるためなら、何のために生きているのか。
幸福
そうだ。「幸福」だ。すべての人が共通して求めているものは幸福だ。素晴らしい楽しいことを求めるということは、幸福を求めるということなんだ。素晴らしい楽しいと思われるそのことは、人によってそれぞれ違う。だけど素晴らしい楽しいことを求めるということは、そのことによって幸福を求めているということに他ならない。すべての人は幸福になることを必ず求めている。幸福になることを求めない人、幸福を求めない人は一人としていない。どうだ、君は幸福になりたいと思っていないか。 中略 さて、そうやって考えてくると、幸福になるということは、決して遠い「人生の目標」ではなかったということに、君は気がついただろうか。幸福になるために、幸福な心になるために、遠い先まで待つ必要なんかない。だって、君の心は、今ここにあるからだ。人生はもう始まっているからだ。
人生
ものを考えるということは、人間の特権だ。動物はものを考えない。人生とは何か、宇宙とは何かなんて考えることはしない。考えないウソの人生を生きている人は、その意味では人間でなくて動物だといっていい。でも考えない動物は死の不安もないから幸福だけど、考えない人間は死の不安だけは知っているから不幸だ。ものを考えないということは、不幸なことなんだ。そして、その不幸をまぎらわすために、その場の楽しみを求めるけど飽きる。その繰り返しで、その人の人生は終わってしまうんだ。
2005-2006に毎日中学生新聞に連載したものと、新聞が廃刊になったため、半分は書き下ろし。
あとがきにあるように、14歳からの哲学がかなり原理的なところから、ものごとの考え方を説き起こしているのに対し、本書はもう少し柔らかく、ある意味で読みやすく、エッセイふうに書いているそうです。
そして、受験への役には立ちませんが、人生の役には必ず立ちます。皆様への信頼とともに。と閉じています。(2006、11月)
47歳のオヤジが読んでも新鮮で心が洗われるようです。そして是非とも多くの方に読んでもらいたい。知ることや記憶することよりも考えること、そして思い込む事よりも考える事の重要性を考えることができます。
あとがきを書かれた時はすでに自分の死を受け入れていたのでしょうか。合掌
備忘録(書いていたら、やたら長くなった。是非とも借りるなり買って読んでみてください)
個性
「本当にすきなこと」「ほんとうの自分」というのがどこかにあって、それを探さなくちゃいけないのだと、最近は大人から思い込んでいる。 中略 この時は好きだったけど、今は好きでないというのは、本当に好きではないということだ。でも、本当に好きなものが、きっとどこかにあるに違いないと探し続けて、結局何が好きだったのか分からずに終わる人生というものは、何だか空しい人生じゃないかな。たくさんの若者や大人が落ち込んでいる「自分さがし」というのは、こういう不毛なものなんだ。
最近は誰もがネットで人と交流しているけど、あの「ブログ」というのが、現代ふう自己顕示の典型だね。お互いにいっせいに、「私は」「俺は」と、誰だか知れない誰かに向かって主張している。誰でもいいからとにかく他人に認めて欲しい。他人に認められなければ、自分を自分と認められないんだ。他人がいなければ、自分であることができないんだ。だとしたら、いったいどこが「自分らしい」ことなんだろう。他人の中に消えてしまって、その人の「自分」なんか、どこにもないじゃないか。
「自(みずか)ら」ということと「自(おの)ずから」ということは違うことだ。「自ら」は、自分の意図でどうこうしようとすることで、「自ずから」は、自分の意図によらずに自然にそういうふうになることだ。君は、自ずから、そうなる人になればいい。自らなろうとなんかしなくていい。そしたら君は、必ず個性的な人になる。
勉学
今の学校の勉強の方法では、学んで知ることの本当の面白さは、なかなかわからない。だから君は、学校の勉強は学校の勉強として、自分ひとりで考えることの面白さを追求してゆくのがいいだろう。本を読むのが一番いい手だ。試験問題集なんかいくら数をこなしても、賢くなるのはあんまり期待できないね。 成績を気にせずに、自分の頭で考えよう、とは、あんまり大きな声では言えないな。 まあ要領だね。本当に大事なことは、試験や受験の先にこそあるということを、忘れないでいましょう。人生にとって本当に大事なことは何なのかということこそ、自分で考えて知らなければならない問いだ。「知る」ということが、自分が賢くなって、賢い人生を生きるために知ることでなければ、知るなんてことに、いったい何の意味があるだろう。中略 今の学校でのつまらない勉強も、そういう素晴らしい学問の世界の一端だと、そのはじっこの部分に触れているのだと、こう思って、今はこの先に期待しよう。
社会
大勢の人間が集まって社会というものを形成すると、その社会というものは、確かにどうも悪い方向へと向かう。それで昔から人々は、理想社会(ユートピア)というものの形を思い描いたわけだが、でもこれは良く考えると、その発想の仕方がすでに間違っている。必要なのは、理想的な社会でなくて、理想的な人間だ。社会を構成する一人一人が理想的な人間になる以外に、理想社会の実現なんか不可能だということに、どういうわけか、人間が気づかないんだね。
戦争
しかし、いやなことが悪いことだとは限らない。確かに、家族が殺されたり自分が傷ついたりするのは、自分にとってはいやなことだ。しかし、そのいやなことが、よいものとしての平和、平和という善を守るためのものだとしたら、どうだろう。戦争は、必ずしも悪ではない。いや平和のための戦争は、むしろ善だと言ってもいいのじゃないか。 だいいち、平和が平和だとわかるのは、戦争というものがあるからだ。戦争があるから平和があるのは、悪があるから善があるのと同じことだ。そんなふうに一方がある他方がるようなものの一方だけを絶対だと思うのは、間違っているのじゃないか。中略 人間の考え方は、立場や思想によって、全然違うものなんだ。だからこそ、君たちは、立場や思想によって違わない考え、誰にでも同じ本当のことを考える仕方をしらなければならない。自分の立場や感情から、いいか悪いか、賛成か反対かではなく、戦争とは、本当は、何なのか。それがわかるのでなければ、立場や思想の違いによって戦争するのと、結局同じことだと思わないか。
戦争それ自体に正しいも間違っているもあったのだろうか。なぜなら、戦争というのは一律に、共同体を自分だと思い込む根本的な勘違いから起こるのだからだ。
戦争に反対すると、口で言うのは簡単だ。起こっている戦争に加担するのも簡単だ。難しいのは、そもそも戦争とは何なのか、なぜ人は戦争するのかということについて、どこまでも深く見抜いてゆくことだ。考えることだ。それで、いいんだ。それは、平和は善で、戦争は悪だと思い込んでいるよりも、はるかに賢いことなんだ。
自然
人間は人間であって、自分を取り巻く自然環境とは別のものだと思ってしまう。自然とは自分の外側にあるものだと、どうしても思いやすいんだ。たぶんそれは、環境としての自然が、目に見える対象としてあるからだろう。人間はどうしても、目に見えるものだけが存在すると思いやすい。だけど、目に見えない自然もまた存在する。いや目に見えてはいるのだけど、近すぎて見えていない、近すぎるから忘れてしまう自然のことだ。人間は、自分に最も身近な自然、いや、それなしでは自分が存在していないはずの自然のことを、見事に忘れてしまっているんだ。何だと思う?それは、体だ。人間の体、君のその体のことだ。君は、自分のその体が自然だということに気がついているだろうか。自然というのは、自分の外側の自然環境のことを言うのであって、自分の体が自然の存在なんて、思ってもみなかったのじゃないだろうか。だけど、こんこと、説明するまでもない。君が今まさに生きているその体は、人工物じゃない、自然のものだ。人間が作ったものじゃない。自然が作ったものだ。
自然は人間の意志を越えているという、ものすごく当たり前で、ものすごく不思議なことへの驚きを忘れると、次に人間は、これを支配しようとし始める。自然を人間の意志でどうこうしようと考え始める。しれが、現代の科学技術と、それによる自然破壊の現状というわけだ。体や命が自然のものだということを忘れ、それを自分のものだと思うところに、もう間違いは始まっているということだ。中略 自然を守ろう、自然と共生しようと本当にいうのなら、同時に、自然と共死しようとも言えるということだ。 中略(臓器移植やクローン技術のはなしがあり) こういう愚かしくも不自然なことをする人間は、はたして自然なんだろうか、不自然なんだろうか。宇宙という自然における人間という存在とは何だろう。人間の体は自然だけれど、人間の欲望が不自然なんです、と言う人がいるかもしれない。おそらくそれは正しいだろう。そして、この不自然な欲望を作り出しているのは、人間の脳だ、と、現代科学に明るい人なら言うかもしれない。けれど、ここで気がつかないか。その不自然な欲望を作り出す人間の脳を作ったのは、しかし人間じゃない、自然だ。人間の脳を作ったのは決して人間じゃないんだ。
宗教
でも、そんなふうな、「信じる」という仕方での宗教は、人類はそろそろ終わりにする時代なんだ。宗教そのものは、人間がこの夜に存在する限り、終わりになることはないだろう。苦しみの意味、人生の意味、死後の行方や道徳を求める気持ちに、変わりはないからだ。ただ、それを、絶対的で超越的な神を「信じる」という仕方で求めるのは、もうおしまいだ。もう人々は、そんな仕方では信じない。人類はそれなりに賢くなっているからだ。
言葉
「初めに言葉ありき」。これは聖書の言葉だ。言葉の奇跡に気がついた昔の人は、やっぱりそんなふうに言っている。「言葉は神であった」。つまり、言葉が世界を創ったんだとね。現代人は、考えることをしないから、こういう考え方がほとんど理解できなくなっている。世界とは物質であり、目に見える世界だけを世界だと思っているんだ。だけど目に見える物より前に、目に見えない意味があるのでなければ、どうして世界が意味あるものになるだろう。言葉こそが世界を創っているということを理解出来なくなっている現代人は、言葉は人間の道具であって、人間が言葉を使っているのだと思う事になる。これは完全な勘違いだ。
だから、もし君が自分の人生を大事に生きたいと思うなら、言葉を大事に使うことだ。世界を創った言葉は人間を創るということを、よく自覚して生きることだ。つまらない言葉ばかり話していれば、君は必ずつまらない人間になるだろう。つまらない人間の、つまらない人生、そんなのでもいいのかな? メールでおしゃべりばかりしてちゃダメだと、いっとう最初に言ったのは、こういうわけだ。話された言葉は残らないけど、書かれた言葉は残っている。真実を語る言葉は、必ず残るものなんだ。何百年も前に書かれた言葉が残っていて、今それを読んで「わかる」というのは、言葉の奇跡そのものだ。そういう言葉に触れるだけ、それだけ君は賢くなれるんだ。だからこそ、本を、古典を読みましょう。
お金
むろん、生きてゆくために、お金はやっぱり必要だ。やっぱりお金は欲しいと思う。なんだか自信がなくなったら、こう自問してみるといい。私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか。生きるためなら、何のために生きているのか。
幸福
そうだ。「幸福」だ。すべての人が共通して求めているものは幸福だ。素晴らしい楽しいことを求めるということは、幸福を求めるということなんだ。素晴らしい楽しいと思われるそのことは、人によってそれぞれ違う。だけど素晴らしい楽しいことを求めるということは、そのことによって幸福を求めているということに他ならない。すべての人は幸福になることを必ず求めている。幸福になることを求めない人、幸福を求めない人は一人としていない。どうだ、君は幸福になりたいと思っていないか。 中略 さて、そうやって考えてくると、幸福になるということは、決して遠い「人生の目標」ではなかったということに、君は気がついただろうか。幸福になるために、幸福な心になるために、遠い先まで待つ必要なんかない。だって、君の心は、今ここにあるからだ。人生はもう始まっているからだ。
人生
ものを考えるということは、人間の特権だ。動物はものを考えない。人生とは何か、宇宙とは何かなんて考えることはしない。考えないウソの人生を生きている人は、その意味では人間でなくて動物だといっていい。でも考えない動物は死の不安もないから幸福だけど、考えない人間は死の不安だけは知っているから不幸だ。ものを考えないということは、不幸なことなんだ。そして、その不幸をまぎらわすために、その場の楽しみを求めるけど飽きる。その繰り返しで、その人の人生は終わってしまうんだ。
2020年8月19日に日本でレビュー済み
息子の誕生日にいただいた本です。他の方で書かれてましたが、まあ否定的なところからスタートするので(社会は面白くないという決めつけ)、今とっても生き生きしてる息子にはマイナスだと思いました。マイナスイメージ植え付けのオンパレード。
今思春期で色々悩んでいる子にとってはよいのかもしれない。でもそうでない子には、逆効果。
また、「生きてゆく」を繰り返し強調されてるのですが、「ゆく」が酔ってる感じがして、気持ち悪く感じました。「生きていく」「生きて行く」でよかったんじゃないかな。
いじめる側といじめられる側どっちを選ぶ?→いじめるよりいじめられる側がよいと言い切っているのもどうかと。両方ともにならないという選択肢はなかったのか?そういう前提なら、逃げるという選択肢を出すぐらいしたらよかったのでは?
レビューで見て、この本を鵜呑みにされてもと思い、子供より一度先に読んでおかないとなと思い読んだ次第です。
今思春期で色々悩んでいる子にとってはよいのかもしれない。でもそうでない子には、逆効果。
また、「生きてゆく」を繰り返し強調されてるのですが、「ゆく」が酔ってる感じがして、気持ち悪く感じました。「生きていく」「生きて行く」でよかったんじゃないかな。
いじめる側といじめられる側どっちを選ぶ?→いじめるよりいじめられる側がよいと言い切っているのもどうかと。両方ともにならないという選択肢はなかったのか?そういう前提なら、逃げるという選択肢を出すぐらいしたらよかったのでは?
レビューで見て、この本を鵜呑みにされてもと思い、子供より一度先に読んでおかないとなと思い読んだ次第です。
2020年2月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
気に入ったこと
●世代を問わず、考えさせられる内容
●世代を問わず、考えさせられる内容