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天照大神は卑弥呼だった 邪馬台国北九州説の終焉 単行本 – 2017/6/12

3.7 5つ星のうち3.7 10個の評価

中国の史書『魏志倭人伝』が伝える情報と、『日本書紀』神代記が伝える情報を交差させながら、「天孫降臨」を主題にわが国の成り立ちと、古代史いちばんの人気テーマ「卑弥呼」の謎に挑戦する一冊。『魏志倭人伝』の伝える女王卑弥呼は、我々の祖先が長い間語り継ぎ、敬ってきた女神・民族の神、皇室の祖先神である天照大神(あまてらすおおみかみ)である。出雲大社は邪馬台国(やまと国=大和朝廷)の戦勝記念碑であり、天孫降臨は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の熊襲(九州南部)平定物語であった。邪馬台国北九州説は崩壊する。

序論 あざなえる『魏志倭人伝』と『日本書紀』神代記
第1章 天照大神と卑弥呼
第2章 全国統一(1) 中国平定・国譲り
第3章 全国統一(2) 天孫降臨
第4章 「日向三代」
第5章 彦火火出見尊と神武天皇と台与(トヨ・豊)
第6章 熊(襲)と隼人
第7章 「邪馬台国北九州説」の終焉──長い宴の終わり
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商品の説明

著者について

大平正芳記念財団理事長

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ PHP研究所 (2017/6/12)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2017/6/12
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 249ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4569838278
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4569838274
  • カスタマーレビュー:
    3.7 5つ星のうち3.7 10個の評価

著者について

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大平 裕
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大和朝廷の歴史と卑弥呼・魏志倭人伝の歴史の融合
5 星
大和朝廷の歴史と卑弥呼・魏志倭人伝の歴史の融合
古代史を眺めると、一方で魏志倭人伝と卑弥呼のお話、そして他方で大和朝廷の古代史とが並列して語られて、両者の歴史的な関係が良くわからない、両者のつながりはどういうものなのだろうか?と感じる人は多いと思います。僕もそうでした。邪馬台国の話はそれはそれで大いに興味がある、他方、神話の世界から始まる記紀の世界、日本の歴史の始まり、これも興味がある、それをある意味で体系的に一本にまとめて理解することはとても素晴らしいことだと思います。そのためには、記紀の神話の世界に年代を当てはめるという作業、その為にとても難しい暦の勉強をして崇神天皇からさかのぼり神武へ、そして瓊瓊杵尊へ、さらに忍穂耳命へ、そして天照へとさかのぼる歴史の旅、そこで時代的に卑弥呼と重なるという結論は目から鱗です。ロマンが溢れていますね。そして日本人なら誰しも思いをはせる、「日本人とは」「日本人のルーツとは」さらに「日本人の歴史における誇りとは」に考えを進めていける、そんな本です。邪馬台国が近畿にあった、と言うより纏向にあったとする考えは、纏向遺跡の発掘による時代考証からまさに卑弥呼の時代と合っているという事実から、かなり説得的です。東か南か、などの方向についての議論を進めるよりも、人口統計からのアプローチ、地理的アプローチなどで議論を展開しているのも斬新な印象を受けました。例えば奴国からそんなに近い場所に邪馬台国があったとするのは無理がある、更に山々に囲まれた地域が邪馬台国と言えるのか、確かに弥生初期には北九州に集落が生まれ、吉野ケ里のような魏志倭人伝的な環濠集落が存在したのことは確かだが年代的に卑弥呼時代と合わない、そういう説得的な議論が展開されています。話は戻りますが、邪馬台国と大和朝廷を一気通貫する史観、これは古代史に興味のある方々には、大いに参考になるのではないでしょうか?また次の御出版を期待しております。
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上位レビュー、対象国: 日本

2017年8月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大平 裕「天照大神は卑弥呼だった」を読みました。
大平さんは「古代史 正解」で、わが国の統一は機内のヤマト政権が出雲・中国平定して成し遂げたとします。
「天照大神は卑弥呼だった」はその中の邪馬台国(ヤマト国)畿内説と天照大神=卑弥呼説にフォーカスして詳細に検討して描いています。

出雲大社は邪馬台国(やまと国=大和朝廷)の戦勝記念碑であり、天孫降臨は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の熊襲(九州南部)平定物語であるとし、日本書紀、後漢書、魏志倭人伝、隋書倭国伝や纒向遺跡発掘調査、古墳分布図をベースに解き明かしていきます。

邪馬台国(ヤマト国)はどこにあったのかを巡っては、諸説ある中で九州説と畿内説が有力でした。
纒向遺跡の発掘調査結果から邪馬台国は畿内説が動かせないものになりつつあります。

邪馬台国(ヤマト国)の場所については何冊か読みましたが、畿内説だと考えます。
九州説は魏志倭人伝の記述をもとに九州だと主張しますが、魏志を素直に読めば邪馬台国は、球種を突き抜けて太平洋の中に位置することになります。
それを曲げてあれこれ解釈をして九州にあったとしますが、いかにもこじ付けで無理っぽい説ばかりです。

ポイントは当時、魏志倭人伝を書いた西晋の陳寿が日本列島の形をどう考えていたかです。
現在の日本地図のように東西に伸びている日本列島の姿だと思っていなかったようです。

朝鮮半島から海を隔てて日本は南に向けて長細く伸びていたと考えていたのでしょう。
そうすれば魏志の書かれた通りに地図をたどれば機内に邪馬台国が位置することになります。

卑弥呼は、長い間語り継ぎ敬ってきた皇室の祖先神である天照大神(あまてらすおおみかみ)であるるとします。
卑弥呼の統治期間は、180年から248年の68年間としていますが、ちょっと無理があると思います。
さらなる調査研究が必要と思います。

天孫降臨、日向三代、台与(トヨ・豊)、熊襲と隼人についても現地調査、遺跡、神社縁起などと日本書紀の照合から詳細に論考されています。

いつもながら謎解きの面白さ、エキサイティングを味わせてくれます。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年7月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 私が購入しようと思ったのは、副題の「邪馬台国北九州説の終焉」があったからです。何か新しい事実でもあったのかなと思い購入しました。
 この本の主な参考資料は記紀と魏志倭人伝です。そして瓊瓊杵尊や景行天皇、日本武の話が大半です。どのへんが邪馬台国なのでしょうか? 九州説終焉は主に安本さんの説に対する反論ですが、反論になっていません。全体的には30-40年前によくあった私の邪馬台国論的な印象です。
 今年(2017)の正月にNHKの古代史番組の中で、ズバリ邪馬台国はどこ?と質問する番組があり、色々な方面の人に質問をしていました。驚いたことに邪馬台国・近畿説の大御所の考古学者の方が、「岡山」と言っていました。いったい何があったのでしょう?驚きました。なぜですかという質問対し、最近新しい事実が増えたので、という趣旨の回答をしていました。考古学界では奈良から岡山へ後退したようです。(個人的には中途半端な西進です)
 現在、もし邪馬台国論を唱えるのであれば、纏向遺跡や庄内土器に関して詳細な考察が必要です。文献資料だけで邪馬台国は特定できません。三種の神器や銅鏡に触れることなく邪馬台国論は議論できません。なので記録資料に頼ったこの本の内容にはまったくがっかりです。
 ちなみに、この本の話に出てくる魏志倭人伝の「水行10日陸行1月」の最新の九州説では、起点を帯方郡と考えますので矛盾点はありません。
 私も昔は、三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡、卑弥呼の墓=箸墓古墳でしたが、調べれば調べるほど、知れば知るほど九州説に説得力があります。巻向遺跡、庄内土器、銅鏡、三種の神器などの考古学と文献を合わせて考えることが重要です。 纏向遺跡は間違いなく近畿ヤマト・古墳時代の始まりの遺跡ですし、重要であることは否定しません。しかし、卑弥呼の邪馬台国ではありません。主にトヨ以降の遺跡です。歴博の箸墓の土器を使った炭素年代測定が批判されましたが、これも補正すればトヨ以降を表しているでしょう、たぶん。 なぜ近畿で銅鐸文化が放棄され、鏡が主要な祭器になったことを考えましょう。 邪馬台国は、間違いなく今の天皇家につながり(血脈は別として)、武力で日本統一した最初の国と考えられ重要です。今後も皆で議論しましょう。邪馬台国議論は楽しいです。 
19人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年7月22日に日本でレビュー済み
「卑弥呼」が「天照大神」だったという話と、「邪馬台国」は「北九州には無かったんだぞ!」という話が、どう繋がるのかが結局良く分からなかった。ちなみに大平氏のいう「北」九州には「熊本」辺りは含まれるのだろうか? 氏の6冊目になる古代史の本との事だが、「安本美典氏」に何か恨みでもあるかのような、かなり乱暴な九州説潰しだと感じてしまった。
邪馬台国九州説にはさまざまな説があるので(著者は奇説・珍説と言っておられるが)それぞれ様々な比定地があり、一考に価するものも多い。また、最終的には帯方郡から1万2千里の彼方であると距離的に記しているのだから、日程を距離に置き換える時には要注意である。それは大平氏も文中で何度も九州を「山また山」と言って「大変な地理」であることを理解しているではないか。沢山の荷物を抱えながらの山歩きを平坦地の速度で進んでは行けまい。最終盤(p236)で、「古代の人が何故海路よりも苦労の多い陸路を行かねばならなかったのか」と疑問を呈しているが、それは目的地が陸路でなければ辿り着けない場所にあったから、と素直に考えるべきではないだろうか。その点「水行」を「川伝いに歩いてゆく事」と指摘する方もいらっしゃる。山中のけもの道より川沿いの方が比較的安全で歩きやすい、と云う。また、海上を行くなら「渡一海」と素直に表現を変えている点も見逃せない。
 個人的な経験だが、十数年前に上海に行った時、目的地をタクシーの運転手に伝えようと地図を見せたが全く理解してもらえなかった。地図を見るという訓練がなされておらず、視覚化された記憶の持ち主には、飽くまで正しい発音か文字で場所を伝えねば意思が通じなかったのである。また、たとえ地図上で目的地が仮に東側の目の前にあっても、川かあれば渡れる所(橋)まで北上するか南下するかしなければ辿り着けない。自明の理である。橋(道)がなければ一旦南(あるいは北)に進路を取れである。タクシーの運転手のように、その時々に応じ道筋を自ら判断し客に文句を言われないように(あるいは上手くぼったくれるように)路を選んで行くだけである。どだい、誰が元々の(魏志倭人伝の)漢文を本当の意味で正しく読んでいるのだろうか…と、またまた思ってしまった次第である。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2017年8月19日に日本でレビュー済み
古代史を眺めると、一方で魏志倭人伝と卑弥呼のお話、そして他方で大和朝廷の古代史とが並列して語られて、両者の歴史的な関係が良くわからない、両者のつながりはどういうものなのだろうか?と感じる人は多いと思います。僕もそうでした。邪馬台国の話はそれはそれで大いに興味がある、他方、神話の世界から始まる記紀の世界、日本の歴史の始まり、これも興味がある、それをある意味で体系的に一本にまとめて理解することはとても素晴らしいことだと思います。
そのためには、記紀の神話の世界に年代を当てはめるという作業、その為にとても難しい暦の勉強をして崇神天皇からさかのぼり神武へ、そして瓊瓊杵尊へ、さらに忍穂耳命へ、そして天照へとさかのぼる歴史の旅、そこで時代的に卑弥呼と重なるという結論は目から鱗です。ロマンが溢れていますね。そして日本人なら誰しも思いをはせる、「日本人とは」「日本人のルーツとは」さらに「日本人の歴史における誇りとは」に考えを進めていける、そんな本です。
邪馬台国が近畿にあった、と言うより纏向にあったとする考えは、纏向遺跡の発掘による時代考証からまさに卑弥呼の時代と合っているという事実から、かなり説得的です。東か南か、などの方向についての議論を進めるよりも、人口統計からのアプローチ、地理的アプローチなどで議論を展開しているのも斬新な印象を受けました。例えば奴国からそんなに近い場所に邪馬台国があったとするのは無理がある、更に山々に囲まれた地域が邪馬台国と言えるのか、確かに弥生初期には北九州に集落が生まれ、吉野ケ里のような魏志倭人伝的な環濠集落が存在したのことは確かだが年代的に卑弥呼時代と合わない、そういう説得的な議論が展開されています。
話は戻りますが、邪馬台国と大和朝廷を一気通貫する史観、これは古代史に興味のある方々には、大いに参考になるのではないでしょうか?
また次の御出版を期待しております。
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5つ星のうち5.0 大和朝廷の歴史と卑弥呼・魏志倭人伝の歴史の融合
2017年8月19日に日本でレビュー済み
古代史を眺めると、一方で魏志倭人伝と卑弥呼のお話、そして他方で大和朝廷の古代史とが並列して語られて、両者の歴史的な関係が良くわからない、両者のつながりはどういうものなのだろうか?と感じる人は多いと思います。僕もそうでした。邪馬台国の話はそれはそれで大いに興味がある、他方、神話の世界から始まる記紀の世界、日本の歴史の始まり、これも興味がある、それをある意味で体系的に一本にまとめて理解することはとても素晴らしいことだと思います。
そのためには、記紀の神話の世界に年代を当てはめるという作業、その為にとても難しい暦の勉強をして崇神天皇からさかのぼり神武へ、そして瓊瓊杵尊へ、さらに忍穂耳命へ、そして天照へとさかのぼる歴史の旅、そこで時代的に卑弥呼と重なるという結論は目から鱗です。ロマンが溢れていますね。そして日本人なら誰しも思いをはせる、「日本人とは」「日本人のルーツとは」さらに「日本人の歴史における誇りとは」に考えを進めていける、そんな本です。
邪馬台国が近畿にあった、と言うより纏向にあったとする考えは、纏向遺跡の発掘による時代考証からまさに卑弥呼の時代と合っているという事実から、かなり説得的です。東か南か、などの方向についての議論を進めるよりも、人口統計からのアプローチ、地理的アプローチなどで議論を展開しているのも斬新な印象を受けました。例えば奴国からそんなに近い場所に邪馬台国があったとするのは無理がある、更に山々に囲まれた地域が邪馬台国と言えるのか、確かに弥生初期には北九州に集落が生まれ、吉野ケ里のような魏志倭人伝的な環濠集落が存在したのことは確かだが年代的に卑弥呼時代と合わない、そういう説得的な議論が展開されています。
話は戻りますが、邪馬台国と大和朝廷を一気通貫する史観、これは古代史に興味のある方々には、大いに参考になるのではないでしょうか?
また次の御出版を期待しております。
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2017年8月25日に日本でレビュー済み
安本美典さんの九州説に対する愚痴と著者の妄想だけで学術的にも科学的にも論理的な説明や明瞭な回答が無い。
例えば『JRと甘木鉄道で八二十円、西鉄甘木線で七九〇円で、「奴国」から「北九州説」のいう邪馬台国まで到達できるのです。おかしいとおもいませんか?』と。邪馬台国が存在した時代に既に西鉄甘木線が通っていたのでしょうか?まるで子供の理論です説明になっていない。

他にも卑弥呼を天照大神だと言っておきながら奈良(大和)に卑弥呼と台与が居て、神武天皇の東征は饒速日と長髄彦の連合軍が占拠した事に対するものだと。記紀にはそんな事は一切記述していない。記紀には『神武天皇が「自分が統治するにふさわしい国を求め東征した』とあり、さらに『神武天皇が東征するより前に饒速日尊が先に大和に入っていた』とある。

これを裏付けるように大阪の石切神社の社伝には「天照大神の大和建国の命を受けて饒速日尊が高天原から宇佐で船団を組み出航した。饒速日尊が統治したのちに神武天皇が2度にわたり来襲してきた」とある。さらに記紀には外伝として『豊前の京都について「むかし天照大神がここから船で海を渡り大和へ行ったすなわち天照大神が住んでいた地である」とある。

饒速日尊が高天原から宇佐を経由して奈良(大和)へ、瓊瓊杵尊が高天原から日向の高千穂に天下り神武天皇が日向を出て奈良(大和)に向かったからこそ高天原が北九州にあり卑弥呼と台与が居た邪馬台国が北九州に存在したのでは?
九州説に対する明確な反論があるかと思いきや学説的な資料や根拠もなく、ただの妄想と九州説の愚痴だけでお金を出してまで買う必要はなかったです。
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