中盤から仏教の話になるから読むのに苦労するけどそれなりに面白い。
対談相手の評論家とは多分宮崎哲弥のことなんだろうな。

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賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話 単行本 – 2011/7/29
南 直哉
(著)
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永平寺で修行二十年、禅の鬼才・南老師が対話形式で不条理な現世を生き抜き、現代に仏教を再生するための思想的・実践的格闘を語る。
- 本の長さ276ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2011/7/29
- 寸法13.1 x 2.1 x 19.2 cm
- ISBN-104393133498
- ISBN-13978-4393133491
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登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2011/7/29)
- 発売日 : 2011/7/29
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 276ページ
- ISBN-10 : 4393133498
- ISBN-13 : 978-4393133491
- 寸法 : 13.1 x 2.1 x 19.2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 880,906位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年8月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
仮想対談のかたちをとりながら、現代の仏教と僧侶がかかえている問題を鋭くえぐりだし、多くの本質をついた言葉を発していく堂々とした作品。オウム問題は日本の仏教界の陰画であり現在なお問われるべき課題であると論じ、日本における出家の困難さの構造をリアルに分析し、十二支縁起の根本である「無明」とは言語作用に拘束されることであるという説を唱えたりする。スリリングかつ学ぶところ多大である。
ぶっちゃけ気味の発言もかなり痛快。
「別に誹謗しているわけではないが、巷間、宗教家が好きなことばは「こころ」と「いのち」。最近では「環境」。ならば、私は宗教家に訊きたい。あたなはそのことばを、あなたのどこに結びつけて言っているのか。」
「個人的に言うと、テーラワーダの人の話はつまらない。言語空間が閉じてしまっている。最初から行うことと言うことが決まっている。そこが「明快」なんだろうがね。私にはつまらない。」
あちこちから批判の矢が飛んできそうである。だが、本気度が段違いの著者には、そんな批判は痛くもかゆくもないだろう。問題は、自分が俗世のしがらみや矛盾を生き抜き、苦しみながら苦しみから少しでも自由であるための方法について思索していくことである。
そのためには、来世や霊魂がどうこうといったスピリチュアルな与太話など無意味である。
「来世があると言われても、ないと言われても、考えることは終わらない。死の不安や老いの不安はどうしても消えない。そういう人間のありようを確かに受けとめることのほうが、まちがいなく霊魂の話よりも大事なことなんだ。」
なお、「あとがき」に示唆されるように、本書は、宮崎哲弥氏との共著で出す予定だったが、氏の多忙のため原稿を再構成してできあがったようである。本書の仮想対談にみられる問いと答えの応酬は、非常に見事な感があるが、そういう成立の背景を知ると、なるほど、と納得の思いにさせられる。
ぶっちゃけ気味の発言もかなり痛快。
「別に誹謗しているわけではないが、巷間、宗教家が好きなことばは「こころ」と「いのち」。最近では「環境」。ならば、私は宗教家に訊きたい。あたなはそのことばを、あなたのどこに結びつけて言っているのか。」
「個人的に言うと、テーラワーダの人の話はつまらない。言語空間が閉じてしまっている。最初から行うことと言うことが決まっている。そこが「明快」なんだろうがね。私にはつまらない。」
あちこちから批判の矢が飛んできそうである。だが、本気度が段違いの著者には、そんな批判は痛くもかゆくもないだろう。問題は、自分が俗世のしがらみや矛盾を生き抜き、苦しみながら苦しみから少しでも自由であるための方法について思索していくことである。
そのためには、来世や霊魂がどうこうといったスピリチュアルな与太話など無意味である。
「来世があると言われても、ないと言われても、考えることは終わらない。死の不安や老いの不安はどうしても消えない。そういう人間のありようを確かに受けとめることのほうが、まちがいなく霊魂の話よりも大事なことなんだ。」
なお、「あとがき」に示唆されるように、本書は、宮崎哲弥氏との共著で出す予定だったが、氏の多忙のため原稿を再構成してできあがったようである。本書の仮想対談にみられる問いと答えの応酬は、非常に見事な感があるが、そういう成立の背景を知ると、なるほど、と納得の思いにさせられる。
2012年1月23日に日本でレビュー済み
「なぜ生きるか」と問わなければ生きていけないような人が人生に対してどう臨み得るのか、仏教をひとつのトリガーにしながら展開されるこの本は抽象的な題材を扱っているようで、非常にプラクティカルな示唆があります(特に「賭ける」という姿勢について)。そのような問いに実感がない人でも、このような先鋭的な仏教家が日本にいたのか、という驚きを得られるかと思います。
テーマは以下の6つに分かれてはいますが、1つ1つは関連しています。
1.オウム真理教は仏教か:21世紀の日本の仏教が答えなければいけない問いから始まるインパクトが大きい導入です。別の本ではオウムのことをばっさりと切り捨てていたように思えますが、この本ではその影響構造について論を進めています。
2.出家のいきさつ:これは南さんのインタビューや「語る禅僧」を読まれ方たには重なる部分も多いかと思います。言語的、論理的に世界を積み重ねるという行為は、少なくない若者が通る道のように思えますが、喘息の身体経験が南さんをユニークにしたのでしょうか。
3.仏教は何を問題にしているのか:「賭ける」という言葉が全面に出てきます。仏陀も道元も「生きる方に掛けた」という指摘は非常に面白い目ウロコでした。この章では、哲学の言語ゲーム的な議論が多くなりますのでウィトゲンシュタインが好きな方には刺さりがよいのではないでしょうか。
4.生命について:宗教家はあいまいな「いのちは大切」といった言説に逃げるのではなく、具体的な問いに即座に答えを出しその言説に責任を持たないといけないというスタンスは、確かに科学が残している(判断しない)倫理の分野における判断の役割を宗教家に与えるという観点で、21世紀の宗教家にとって極めて大事な指摘のように思えます。
5.修行と性欲について:修行による身体経験と、それらの「悟り」の後にどう生きるかという問題が本質的な問いだということ、そして触れにくい問題があけすけに書かれています。男性ならば面白おかしく読めるかと思います。
6.霊魂と因果について:「・・・無前提に断定するのではなく、目の前の人間との勝負で決めるしかないのだ」というところに、南さんの仏教観なり人生観が込められているように思えました。
なお、対話集の形式を取っていますが、文末に書いているようにとある評論家との対談の記録ベースに編集者が書きなおしているものだそうです。
テーマは以下の6つに分かれてはいますが、1つ1つは関連しています。
1.オウム真理教は仏教か:21世紀の日本の仏教が答えなければいけない問いから始まるインパクトが大きい導入です。別の本ではオウムのことをばっさりと切り捨てていたように思えますが、この本ではその影響構造について論を進めています。
2.出家のいきさつ:これは南さんのインタビューや「語る禅僧」を読まれ方たには重なる部分も多いかと思います。言語的、論理的に世界を積み重ねるという行為は、少なくない若者が通る道のように思えますが、喘息の身体経験が南さんをユニークにしたのでしょうか。
3.仏教は何を問題にしているのか:「賭ける」という言葉が全面に出てきます。仏陀も道元も「生きる方に掛けた」という指摘は非常に面白い目ウロコでした。この章では、哲学の言語ゲーム的な議論が多くなりますのでウィトゲンシュタインが好きな方には刺さりがよいのではないでしょうか。
4.生命について:宗教家はあいまいな「いのちは大切」といった言説に逃げるのではなく、具体的な問いに即座に答えを出しその言説に責任を持たないといけないというスタンスは、確かに科学が残している(判断しない)倫理の分野における判断の役割を宗教家に与えるという観点で、21世紀の宗教家にとって極めて大事な指摘のように思えます。
5.修行と性欲について:修行による身体経験と、それらの「悟り」の後にどう生きるかという問題が本質的な問いだということ、そして触れにくい問題があけすけに書かれています。男性ならば面白おかしく読めるかと思います。
6.霊魂と因果について:「・・・無前提に断定するのではなく、目の前の人間との勝負で決めるしかないのだ」というところに、南さんの仏教観なり人生観が込められているように思えました。
なお、対話集の形式を取っていますが、文末に書いているようにとある評論家との対談の記録ベースに編集者が書きなおしているものだそうです。