お届け先を選択
Kindleアプリのロゴ画像

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません

ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。

携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。

KindleアプリをダウンロードするためのQRコード

ひとさらい (光文社古典新訳文庫 Aシ 2-2) 文庫 – 2013/11/8

4.8 5つ星のうち4.8 8個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 光文社 (2013/11/8)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2013/11/8
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 247ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4334752802
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334752804
  • 寸法 ‏ : ‎ 10.7 x 1 x 15.2 cm
  • カスタマーレビュー:
    4.8 5つ星のうち4.8 8個の評価

カスタマーレビュー

星5つ中4.8つ
5つのうち4.8つ
8グローバルレーティング

この商品をレビュー

他のお客様にも意見を伝えましょう

上位レビュー、対象国: 日本

2014年1月16日に日本でレビュー済み
古典新訳文庫のコンセプト「いま、息をしている言葉で」を体現した訳。原文を読んだことがないので客観的な評価はできないけれども。

あなたが四十代男性で、十代女子と同居することになったら?
主人公のビグア大佐は、大柄な引き締まった体つきをしている。動作もきびきびと軍人らしいのだろう。ミシン仕事とギター演奏が得意。マテ茶を愛飲する。

妻あり、子供なしだが、貧困、ネグレクト、愛情飢餓の状況に置かれていたよその子供たちを自宅に連れてきて一緒に暮らしている。心優しい人物だ。
ところが、あるとき十代の少女を引き取ることになり、四十代男、悩ましい日々が始まる。

その懊悩ぶりの描写を、永田訳と澁澤訳で比べてみる。ちなみに、澁澤訳は→
澁澤龍彦訳 暗黒怪奇短篇集 (河出文庫)

大佐は部屋に入ると内側から鍵を締める。ポケットからセーム革を出すと、家具や置物をこっそりふきはじめた。(永田訳)

彼は部屋に鍵をかけると、ポケットから取り出した羚羊の皮で、そこらの家具やこまごました品物を、ひそかに愛撫しはじめるのだった。(澁澤訳)

同居している十代少女が出かけている間に彼女の部屋の中をあちこち撫でている主人公四十代男の、密やかなフェティシズムの場面。
「愛撫」という訳語はちょっと押しつけがましい気もする。
ただ、主人公が手にしている薄いなめし革のヌメッとした感触を読者が思い浮かべられるかどうかを考えると、「愛撫」と訳すのもあながちやり過ぎとはいえない。永田訳だとうかつな読者は清掃の場面と勘違いするだろう…そんな人いないか_m(_ _)m

って顔文字を使っておいてあれだけど、

大佐は言葉の最後に「?」をつけたらいいのか「!」をつけたらいいのか、わからなくなってしまった。(永田訳)

やりすぎでは?
〈原文もこうなの?〉
澁澤訳の方が落ち着いた感じ。

彼はこの言葉に疑問詞のアクセントを付けるべきか、それとも詠嘆の調子を与えるべきか、思案に迷うのだった。(澁澤訳)

永田訳の平易さを印象づける部分を比べてみる。

まったく素の顔というのは、すぐに見ているのがつらくなるものである。(永田訳)

顔というものは、それも特にまったくの素顔というやつは、容易に猥褻なものになり変るのではなかろうか?(澁澤訳)

さらに、

少女のまだ小さくいびつな魂は自分にふさわしい大きさ、そして品格を求めていた。そんな魂を乗せ、タクシーはすいすいと十五区を横切っていく。(永田訳)

まだ成熟しきらない、ほんの小さな彼女の魂は、いま、快足を駆って十五番区を走っているこのタクシーのなかに、その真の次元と性能とを探しているかのようであった。(澁澤訳)

環境が変わることへの期待を抱いているであろう少女の心理なのだが、次元と性能…? 澁澤訳は昭和30年頃のものらしいのだが、その時代には次元と性能という語が何らかの象徴的な意味を持っていたのだろうか?

そして次に、2つの訳を比べて不思議に感じ、また翻訳で読むことのある種の恐さも感じさせる個所。

食事に出たグリュイエール・チーズを大佐が皮ごと食べたときは、皆、ぞっとしたものだ。あんなに堅い部分、皆が捨てる皮の部分まで食べるなんて、いったいどういう人なんだろう!(永田訳)

食卓に出されたチーズをパンの皮などにつけて食べたりしている大佐を見ると、子供たちはほんのすこし彼が怖くなるのだった。あんな、人の食べない堅いものなんかを、なぜわざわざ食べたりするんだろう?(澁澤訳)

「堅い皮」を永田はチーズの皮とし、澁澤はパンの皮にしている。これはニュアンスの問題ではなく、事実に関する食い違い。単なる想像だが、たぶん原文には「グリュイエール・チーズ」も「パンの皮」も出てこないのではないだろうか。
おそらく澁澤訳の時代は現在と違ってグルメ情報が容易に入手できず「堅い皮を持つチーズ」自体が知られてなくて、パンの皮が堅くなることからパンの皮としたのではないか(文法的にどうなるのかわかりませんが)。そんなふうに時代を反映しているような気がするのですが、どうなんでしょう?

それにしても、本書を読んで改めて思うのは『海に住む少女』で、孤独や暴力を淡々としたですます体で訳していたのは童話の残酷性に通じる戦略的な訳だったのかなということです。。
梅崎春生が賢治童話のですます体で作品を書いてスランプを脱したという話を思い起こさせます。
35人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2016年1月19日に日本でレビュー済み
ストーリーがまったく読めない。
タイトルは「ひとさらい」。最初ホラーかと思った。けど読んでみると作者が詩も描いてるからか、なかなか面白い文章を書かれている。
例えば、金持ちの子であるアントワーヌが大佐に攫われる場面
1人ぼっちになったアントワーヌにひとさらいの大佐が手を差し伸べるけど

アントワーヌのなかにあった里心、女中を捜そうとする気持ちは荷造りをはじめ、さっさと出て行ってしまった。

こういうわかりやすくてどこかポップで懐かしいような優しい表現がところどころにある。
だけど物語はマルセルが登場してから少しづつ変わっていくんだけど。
マジで面白い。こういう小説どんどん読みたい。光文社に感謝。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2014年3月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は、ジュール・シュペルヴィエルの作品はこの本以外に、『海に住む少女』(こちらも古典新訳)という短篇集を読んだことがある。
その短篇集と『ひとさらい』を読んで、私は同じことを感じた。それは「どちらでもない」ということ。
私が感じたこの気持は、訳者曰く「複眼的」というらしい。
そこで、私には高尚すぎる語彙ではありながら、訳者に倣ってここからは複眼的という言葉を使うことにする。

さて、先に彼の作品全体に言えることは、複眼性だと述べた。
例えば『海にい住む少女』は、少女とは言いながらも大人になりつつある多感な様子で、かつアイデンティティが脆い。(ネタバレを避けるために、生暖かい表現を使ってしまうことがあります。)
また同短篇集の中の『セーヌ河の名なし娘』や『空のふたり』は、もっぱら死者の世界であり、死んだ身でありながら色々に物を感じ、考えてしまう無力と切なさを描いている。

では『ひとさらい』における複眼的な要素とはなんだろうか。
それは物語の主観である、ビグア大佐だ。(まあ、複眼性のシュペルヴィエルなので、物語の核がそれであることは必然と言えるが。)
彼を一言で表すなら、石橋を叩いて渡らない、といったところだろう。
確かに彼は、他人の子供を育てているので優柔不断とは真逆のような印象を得てしまうが、じつは彼の生活の多くは不断の連続である。
彼は一日中、苦悩している。家にいる時は一人で考え事をしてばかりで、出かけるような身なりになっていても家の中をウロウロして、物思いにふけることが多い。
大佐にとって物事は白か黒かではない。いや、グレーということではなく、ただどちらか決めるのに多くの思弁力と時間を費やすということ。これが大佐の複眼性だと私は感じた。
そしてこの複眼性こそ、彼の人間らしさでもある。
これは私だけかもしれないが、物語を進めていくに連れて私は彼の思考に共感を深めていった。むしろ自分の半生を見ているような気がした。
人の中には日々の生活において決断の早い人もいれば、遅い人もいて様々かもしれない。でも真に大きな決断事に直面した時、我々は人生について初めて考察を重ねることとなる。
進学先や就職先、夢を実現すること、諦めること。
ビグア大佐も我々と同じく人生に苦悩する人、そして彼は決断の遅い人なのだ。この物語において、その結果が何を招くことになるか・・・。

『海にい住む少女』よろしく、ジュール・シュペルヴィエルの作品には新奇さを見出すことが多い。
しかし、彼の複眼性とは目新しいことばかりでなく、生きることに対する内的な葛藤、まさにこれだと私は思う。
『ひとさらい』では、ジュール・シュペルヴィエルのそんな一面を発見できる。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年11月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
"南米に帰るなら、どうしてもパリの女の子を連れてゆきたい。パリじゅうの少女から私の娘を選び出すのだ。"1926年発刊の本書は、フランスとウルグアイの複眼的な視点で知られる著者による"擬似家族"を築き、愛すれば愛するほどに孤独になる心優しい誘拐犯の悲哀を描いた一冊。

個人的には本好きの友人にすすめられて、著者の作品を初めて手にとったのですが。

まず印象に残るのは、やはり【一人称と三人称が混然と溶け合う文体】でしょうか。著者自身が後年になって本書の続編もあわせて戯曲化、こちらも成功を収めたことも納得させられる【童話のようで、群像劇のように流れていく】本書はポエティックな言葉遣い"ふたりのあいだに沈黙が広がるのが聞こえてきた。ふたりは深く見つめ合うために、沈黙しているのだ。"もあって、イメージが湧き上がってくるような不思議かつ独特な読み心地でした。

また、本書の主人公の『ビグア大佐の行為』社会的には成功をおさめ、何不自由なく暮らしているにも関わらず【ただ子供が欲しい】その欲求のままに子供たちを次々に誘拐し、出産時の逸話をでっちあげてでも【妻との間に愛情溢れる擬似家族をつくりあげていく】姿は、悪人なのか?善人なのか?それとも単なる変わり者なのか?誘拐された子供たちは不孝なのか?幸福なのか?【様々に価値観を揺さぶり、判断を混乱させてくる】感覚があって、とても考えさせられました。

フランスと南米の魅力が溶け合ったような不思議な物語が好きな人へ、またポエティックに読みやすい独特な文体が好きな人にもオススメ。
2024年1月12日に日本でレビュー済み
こんなに平易な文章でなまめかしい小説は書けるんですね。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート