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ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス) 単行本(ソフトカバー) – 2013/2/9
中島 義道
(著)
いまのニーチェブームに真っ向から「否」をとなえ、すべての価値あるものをなぎ倒す。「明るいニヒリズム」の哲学者がニヒリズムの元祖・ニーチェと向き合った究極のニーチェ論。
【目次】
はじめに
第1章 神は死んだ
第2章 ニヒリズムに徹する
第3章 出来事はただ現に起こるだけである
第4章 人生は無意味である
第5章 「人間」という醜悪な者
第6章 没落への意志
第7章 力への意志
第8章 永遠回帰
【目次】
はじめに
第1章 神は死んだ
第2章 ニヒリズムに徹する
第3章 出来事はただ現に起こるだけである
第4章 人生は無意味である
第5章 「人間」という醜悪な者
第6章 没落への意志
第7章 力への意志
第8章 永遠回帰
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2013/2/9
- ISBN-104309624529
- ISBN-13978-4309624525
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商品の説明
著者について
1946年生まれ。時間論、自我論、コミュニケーション論専攻。『私の嫌いな10の人びと』『カイン』『悪について』など数多くの著書で多くの読者の支持を集める。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2013/2/9)
- 発売日 : 2013/2/9
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 208ページ
- ISBN-10 : 4309624529
- ISBN-13 : 978-4309624525
- Amazon 売れ筋ランキング: - 615,230位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,842位哲学 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年6月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
内容は平易で誰にでも読める。哲学知識がなくても、ニーチェを知らなくても理解できるように優しく書かれている、、、と思ったのだが、最後の最後になってやっぱり煙に巻かれてしまった感がある。平易な箇所ではしつこいくらいに丁寧に解説しているのに、結末でこの突き放しはどうなんだろう?素人の私にはもう少し丁寧な説明がほしいと思った。ニーチェから人生訓を学ぶみたいな本は確かに多いですね。あれらはやっぱり気色悪いです。
2019年5月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まず、ニーチェについてそれなりの知識(著書を読むなど)がないと読み進めるのが難しいかと。私は一応著者(中島)のファンであるため興味本位で買いましたが、ニーチェについての知識がない(著書を一冊も読んだことがありません)ため、読み進めるのに苦労しました。と同時に、内容を完全には理解できませんでした(笑)
ただ改めて、著者も指摘するように、ニーチェの永遠(永劫)回帰という考えは、そこまで凄い考えなのかどうかという疑問は残りました…
ニーチェの思想や著書、表現の奥深さについて知るには良い本かなとは思いましたが、全くもって入門書ではありませんのでご注意を!
ただ改めて、著者も指摘するように、ニーチェの永遠(永劫)回帰という考えは、そこまで凄い考えなのかどうかという疑問は残りました…
ニーチェの思想や著書、表現の奥深さについて知るには良い本かなとは思いましたが、全くもって入門書ではありませんのでご注意を!
2013年3月23日に日本でレビュー済み
これまで数多く著者の作品に接してきた。カント哲学の研究家であることは以前より知っていたが、今回はニーチェを主題に取りあげていることから、ちょっとビックリした。でも著者は以前からニーチェとは接点を設けていたようだ。巻末には筆者主催による哲学塾にてニーチェを四年半に渡って読んできたことが説明されている。それから文中においてニーチェとカントは実は世間一般に思われているほど別個の視点ではなく、そもそもカントの哲学はニヒリズムが強力に打ち出されていることから始まっている点などを指摘している。
私がニーチェに関係する本を読むのは実質的に言ってこれが始めてだ。つまり全く素の状態から読み始めたのだが、どうも私にはやはり難しかった。フックをかけにくかったのだ。なので私はまず適当にパラパラとページをめくっていき、自分が取っ掛かりとして利用できる内容を探しつつ、そうしたところから読み始めた。そうして大体目を通した時点で、再び一から読み直してみると、これが案外接し易くなっているのだ。最初と最後のほうが最も難解と思われたので、初学者は中の方から読み込んで行くといいかもしれない。題名がニーチェなわけだが、カントやサルトル、パスカルにキルケゴールなどと、ニヒリズムの説明のために他者の様々な視点も併せて紹介されている。
読み易いけれども重厚な内容であるためか読了後にすっきり感はなく、どちらかというとモヤモヤした感じを自分のなかに残しての本書であった。それがニーチェの哲学、それがニヒリズムへのスタート地点なのかもしれない、と考えてみたり。著者のこれまでの本の多くには、面白おかしい内容が含まれている場合が多いが、今回はそうした「クスクス」と笑ってしまうような文面はなく、やはり虚無を扱うときには、そうしたアプローチはできないのかもしれない。
全体をつうじてある言葉が繰り返し使われていることに気がついた。本書を検索できればその単語がいかに多用されているのかを確認できようが、残念ながらそれは現在のところできない。案外その言葉が本書で扱われている内容を説明する標語、キーワードにように使えるかもしれないと思った。読む際にはみずからという言葉にそれなりに注意を払って目を通すと、著書やニーチェの主張の一端がより把握し易くなるのかもしれない。
私がニーチェに関係する本を読むのは実質的に言ってこれが始めてだ。つまり全く素の状態から読み始めたのだが、どうも私にはやはり難しかった。フックをかけにくかったのだ。なので私はまず適当にパラパラとページをめくっていき、自分が取っ掛かりとして利用できる内容を探しつつ、そうしたところから読み始めた。そうして大体目を通した時点で、再び一から読み直してみると、これが案外接し易くなっているのだ。最初と最後のほうが最も難解と思われたので、初学者は中の方から読み込んで行くといいかもしれない。題名がニーチェなわけだが、カントやサルトル、パスカルにキルケゴールなどと、ニヒリズムの説明のために他者の様々な視点も併せて紹介されている。
読み易いけれども重厚な内容であるためか読了後にすっきり感はなく、どちらかというとモヤモヤした感じを自分のなかに残しての本書であった。それがニーチェの哲学、それがニヒリズムへのスタート地点なのかもしれない、と考えてみたり。著者のこれまでの本の多くには、面白おかしい内容が含まれている場合が多いが、今回はそうした「クスクス」と笑ってしまうような文面はなく、やはり虚無を扱うときには、そうしたアプローチはできないのかもしれない。
全体をつうじてある言葉が繰り返し使われていることに気がついた。本書を検索できればその単語がいかに多用されているのかを確認できようが、残念ながらそれは現在のところできない。案外その言葉が本書で扱われている内容を説明する標語、キーワードにように使えるかもしれないと思った。読む際にはみずからという言葉にそれなりに注意を払って目を通すと、著書やニーチェの主張の一端がより把握し易くなるのかもしれない。
2014年2月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「私の嫌いな10の言葉」以来、久々に中島義道を読みました。
本家ニーチェを読まずして解説本を読むなんて美味しいとこどり
みたいな態度はいかがなものかと思いましたが、お手軽に読めて
よかったです。文章にくどいところもありますが、共感できるところも
多く面白かったです。
本家ニーチェを読まずして解説本を読むなんて美味しいとこどり
みたいな態度はいかがなものかと思いましたが、お手軽に読めて
よかったです。文章にくどいところもありますが、共感できるところも
多く面白かったです。
2013年5月5日に日本でレビュー済み
本書では、ニーチェの哲学についての解説がなされています。賛同できる箇所と異論がある箇所があるので、気になったところにコメントしていきます。
<p.6 はじめに>
『ツァラトゥストラ』は、超人(候補者)のための書なのであり、それを自覚している者にとってだけの書なのである。そんな強者は(ニーチェ自身を含めて)これまで地上にはいなかったし、これからもいないであろう。だから、誰のための書でもないのだ。
→ 中島は意外にも常識人であるため、ニーチェの意図から離れた地点で超人について語ってしまっています。ニーチェはある種の常識人ではなかったので、真剣に、大真面目に、超人を説いているのです。これは、実際に驚くべきことです。
ここを捉え損なうと、ニーチェを誤解するか、ニーチェに飲み込まれることになります。
<p.31 第2章 ニヒリズムに徹する>
ニヒリズムは、もっぱら「キリスト教の神が死んだ」すなわち「もともとキリスト教の神はいなかった」という衝撃に起因するはずなのだが、それを非キリスト教徒であるほとんどの日本人が大真面目に「われわれの問題」としてとらえ、しかもそこにほとんど疑いを抱かない。
→ まったくその通りです。〈われわれは「ニヒリズムの克服」などという軽口をたたくようになるのだ(p.42)〉という皮肉も正しいです。それゆえ、一部の保守主義者がいうように、保守主義によってニヒリズムを超えたり、そこから顔を出すといったことは、原理的に出来ないのです。そこが、ニーチェと対峙する際に、決定的に重要なポイントになります。
<p.33 第2章 ニヒリズムに徹する>
ニーチェを娯楽として、息抜きとして、生活の飾りとして、教養として、読むのもいっこうに構わないのだ。だが、そうなら「私はニーチェを単なる娯楽(生活の飾り、息抜き、教養)として読んだのであって、私の人生観はまったく変わらなかった」と語るべきであろう。
→ こういうことを言ってしまう人物、つまり中島は、強烈な娯楽は人生観を浸食してしまう可能性について極めて鈍感です。だから、私はこう言うのです。「私はニーチェを読み、それを娯楽の位置に留めた。よって、私の人生観は、ニーチェの哲学とは決定的に異なることを理解し、私の人生観はより良くなった(別の言い方をすれば、私の人生観はニーチェと異なることによって補強されたのだ)」と。
<p.52 第2章 ニヒリズムに徹する>
格率が定言命法に妥当するか否かは、間主観的妥当性を必要とせずたった一人で理性に問いかければいい。
→ ここは疑問が残ります。例えば、中央公論社『世界の名著39 カント』の『人倫の形而上学の基礎づけ』には、「道徳の原理を提示するための記述の三つの仕方」が以下のように示されています。
(1)汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ。
(2)汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。
(3)すべての人間意志がそれのすべての格率によって普遍的に立法する意志であるという原理
本件は、(1)だけなら間主観的妥当性は必要ありませんが、(2)と(3)を考慮すれば、間主観的妥当性は必要な条件になると思われます(この点は間違っていたら修正します)。
<p.87‾88 第4章 人生は無意味である>
「誠実」という言葉を金科玉条のように祭り上げるのはやめたい。だが、ニーチェの場合、「誠実」とは神の声(キリスト教)あるいは理性の声(カント)に従って生きるという意味(これが「誠実」の伝統的・正統的意味であろう)とはおよそ異なった響きを持っている。
→ 永井均の『これがニーチェだ』には、〈むしろ神など存在しないと信じることこそが、キリスト教的に誠実な態度なのである〉とあります。また、〈キリスト教によって育てられた敬虔な無神論が生まれる〉ともあります。その上で永井は、〈私は二つの問題を感じる〉と述べて、さらに哲学的思索を進めています。そこでの洞察も素晴らしいものです。
ここでの中島の哲学的感度は、残念ながら永井より少なくとも二段階は格下だと言わざるをえません。そもそも、本書そのものが、永井の『これがニーチェだ』と比較すると・・・。いや、これ以上は言う必要はないですね。
<p.100 第4章 人生は無意味である>
ツァラトゥストラが死ななければ、彼は永遠回帰を体現できないであろう。彼が死ぬことによって、彼は「一つの生」をまっとうし、それを永遠回繰り返すという世界に入る(それを認識する)ことができるのだ。
→ これは・・・、マジですか?
ここは、完全にニーチェを読みそこなっています。こういう風に永遠回帰を捉えてしまうと、ニーチェは「最後の審判」や「天国と地獄」と同じタイプの支配システムを構築したことになってしまいます。ですから、ニーチェの永遠回帰をこのように捉えることは、ニーチェへの誠実さのために、決してしてはならないのです。
<p.111 第5章 「人間」という醜悪な者>
「神は死んだ!」というニーチェの叫び声には「騙された!」というトーンが強烈に響き渡っている(これを聞き分けない、あるいは聞き分けようとしない研究者がいることが不思議である)。
→ たしかにそうなんですが、それだけだと足りないのです。再び永井の『これがニーチェだ』を引用しますが、ここでは〈神の死がどうにかしなければならない一大事として語られている〉のです。
色々と述べましたが、意見の相違によって自身の見解を補強できたという面で、本書は読むに値しました。中島や永井の意見を参考にしつつも、ニーチェとは、ある意味において、自分の意見を持って、一度対決しておく必要があると思います。
<p.6 はじめに>
『ツァラトゥストラ』は、超人(候補者)のための書なのであり、それを自覚している者にとってだけの書なのである。そんな強者は(ニーチェ自身を含めて)これまで地上にはいなかったし、これからもいないであろう。だから、誰のための書でもないのだ。
→ 中島は意外にも常識人であるため、ニーチェの意図から離れた地点で超人について語ってしまっています。ニーチェはある種の常識人ではなかったので、真剣に、大真面目に、超人を説いているのです。これは、実際に驚くべきことです。
ここを捉え損なうと、ニーチェを誤解するか、ニーチェに飲み込まれることになります。
<p.31 第2章 ニヒリズムに徹する>
ニヒリズムは、もっぱら「キリスト教の神が死んだ」すなわち「もともとキリスト教の神はいなかった」という衝撃に起因するはずなのだが、それを非キリスト教徒であるほとんどの日本人が大真面目に「われわれの問題」としてとらえ、しかもそこにほとんど疑いを抱かない。
→ まったくその通りです。〈われわれは「ニヒリズムの克服」などという軽口をたたくようになるのだ(p.42)〉という皮肉も正しいです。それゆえ、一部の保守主義者がいうように、保守主義によってニヒリズムを超えたり、そこから顔を出すといったことは、原理的に出来ないのです。そこが、ニーチェと対峙する際に、決定的に重要なポイントになります。
<p.33 第2章 ニヒリズムに徹する>
ニーチェを娯楽として、息抜きとして、生活の飾りとして、教養として、読むのもいっこうに構わないのだ。だが、そうなら「私はニーチェを単なる娯楽(生活の飾り、息抜き、教養)として読んだのであって、私の人生観はまったく変わらなかった」と語るべきであろう。
→ こういうことを言ってしまう人物、つまり中島は、強烈な娯楽は人生観を浸食してしまう可能性について極めて鈍感です。だから、私はこう言うのです。「私はニーチェを読み、それを娯楽の位置に留めた。よって、私の人生観は、ニーチェの哲学とは決定的に異なることを理解し、私の人生観はより良くなった(別の言い方をすれば、私の人生観はニーチェと異なることによって補強されたのだ)」と。
<p.52 第2章 ニヒリズムに徹する>
格率が定言命法に妥当するか否かは、間主観的妥当性を必要とせずたった一人で理性に問いかければいい。
→ ここは疑問が残ります。例えば、中央公論社『世界の名著39 カント』の『人倫の形而上学の基礎づけ』には、「道徳の原理を提示するための記述の三つの仕方」が以下のように示されています。
(1)汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ。
(2)汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。
(3)すべての人間意志がそれのすべての格率によって普遍的に立法する意志であるという原理
本件は、(1)だけなら間主観的妥当性は必要ありませんが、(2)と(3)を考慮すれば、間主観的妥当性は必要な条件になると思われます(この点は間違っていたら修正します)。
<p.87‾88 第4章 人生は無意味である>
「誠実」という言葉を金科玉条のように祭り上げるのはやめたい。だが、ニーチェの場合、「誠実」とは神の声(キリスト教)あるいは理性の声(カント)に従って生きるという意味(これが「誠実」の伝統的・正統的意味であろう)とはおよそ異なった響きを持っている。
→ 永井均の『これがニーチェだ』には、〈むしろ神など存在しないと信じることこそが、キリスト教的に誠実な態度なのである〉とあります。また、〈キリスト教によって育てられた敬虔な無神論が生まれる〉ともあります。その上で永井は、〈私は二つの問題を感じる〉と述べて、さらに哲学的思索を進めています。そこでの洞察も素晴らしいものです。
ここでの中島の哲学的感度は、残念ながら永井より少なくとも二段階は格下だと言わざるをえません。そもそも、本書そのものが、永井の『これがニーチェだ』と比較すると・・・。いや、これ以上は言う必要はないですね。
<p.100 第4章 人生は無意味である>
ツァラトゥストラが死ななければ、彼は永遠回帰を体現できないであろう。彼が死ぬことによって、彼は「一つの生」をまっとうし、それを永遠回繰り返すという世界に入る(それを認識する)ことができるのだ。
→ これは・・・、マジですか?
ここは、完全にニーチェを読みそこなっています。こういう風に永遠回帰を捉えてしまうと、ニーチェは「最後の審判」や「天国と地獄」と同じタイプの支配システムを構築したことになってしまいます。ですから、ニーチェの永遠回帰をこのように捉えることは、ニーチェへの誠実さのために、決してしてはならないのです。
<p.111 第5章 「人間」という醜悪な者>
「神は死んだ!」というニーチェの叫び声には「騙された!」というトーンが強烈に響き渡っている(これを聞き分けない、あるいは聞き分けようとしない研究者がいることが不思議である)。
→ たしかにそうなんですが、それだけだと足りないのです。再び永井の『これがニーチェだ』を引用しますが、ここでは〈神の死がどうにかしなければならない一大事として語られている〉のです。
色々と述べましたが、意見の相違によって自身の見解を補強できたという面で、本書は読むに値しました。中島や永井の意見を参考にしつつも、ニーチェとは、ある意味において、自分の意見を持って、一度対決しておく必要があると思います。
2020年5月8日に日本でレビュー済み
わたしはこの手の入門書は通常は読まないようにしている。入門書はその著者の解釈の押し付けに過ぎず、読んでもその哲学者の思想など理解できるわけないからだ(理解できるのはその著者の解釈のみ)。本書も然り。
本書はどちらかというと『ツァラトゥストラ』の解説本であり、あくまで著者の解釈にすぎない。だから本書を読んで、ニーチェについて理解したと勘違いする人はよほど哲学書を読みなれていない人かと思う。
本書は入門書の中でも最低に属するのではとわたしは考える。
『ツァラトゥストラ』に次いで本書で引用されているのが『力への意志』。著者は以下のようなことを言っておきながら、あちこちで引用をしている。まったく矛盾している。
「エリザベート・ニーチェが兄を天才に仕立て上げようというもくろみで編纂した、よってあまり資料的価値のない『力への意志』」(P39)
また哲学研究者をあちこちで批判している。ハイデガーをさえ、やれ「ニーチェの怒りが理解できていない」(P49)、やれ「ニーチェが人間的弱さを露にしているのを正確に読み取っていない」(P155)などと批判をしている。
著者は哲学研究者らを批判しているが、批判をしている本人も哲学研究者であり、有名な哲学者についてああだこうだと講釈しておまんまを食べているんだから、わたしにすれば同じだなと思う。しかも他の哲学研究者たちを寄生虫呼ばわりしている(P35)。では自分はどうかというと寄生虫ではないというよくわからない説明(P35)。
またニーチェを読むには誠実さが必要とのことだが、それも単なる著者の意見、解釈(P32)。ニーチェの怒りを自分の怒りとして引き受けなければニーチェは理解できないそうな(P50)。それも単なる著者の意見。で、ニーチェの怒りとは?著者はそれを理解している?その解釈が正しいという確証は?ありません。
わたしたちは受動ニヒリズムに徹底的に埋没しなければならないそうです(P43)。そこに超人に至る道があるそうです。本当ですか?受動だろうが能動だろうがニーチェはニヒリズムを批判しているはず。著者の解釈には苦しむところがある。
特に不快だったのが、ニーチェとは全然関係のない朝日カルチャーセンターの女性事務員への批判(P74)。女性事務員が仮にこの著者のために会社を敵にまわし、解雇になった場合、著者はその女性事務員に責任が取れるのだろうか?
「彼女たちにとっては、上からの指示が絶対であり、そうしなければ職を失うであろう。だが、それでも彼女たちが卑劣であることに変わりなく」(P74)
「彼女たちは、弱いがゆえに、不誠実の泥沼に落ち込まざるをえず、そこから抜け出せないのである」(P74)
ニーチェをマネして怒ってみても、ニーチェには及ばない。それが著者の言うニーチェの怒りを理解するということならば、まったく論理的でないし、哲学的でもない
本書はどちらかというと『ツァラトゥストラ』の解説本であり、あくまで著者の解釈にすぎない。だから本書を読んで、ニーチェについて理解したと勘違いする人はよほど哲学書を読みなれていない人かと思う。
本書は入門書の中でも最低に属するのではとわたしは考える。
『ツァラトゥストラ』に次いで本書で引用されているのが『力への意志』。著者は以下のようなことを言っておきながら、あちこちで引用をしている。まったく矛盾している。
「エリザベート・ニーチェが兄を天才に仕立て上げようというもくろみで編纂した、よってあまり資料的価値のない『力への意志』」(P39)
また哲学研究者をあちこちで批判している。ハイデガーをさえ、やれ「ニーチェの怒りが理解できていない」(P49)、やれ「ニーチェが人間的弱さを露にしているのを正確に読み取っていない」(P155)などと批判をしている。
著者は哲学研究者らを批判しているが、批判をしている本人も哲学研究者であり、有名な哲学者についてああだこうだと講釈しておまんまを食べているんだから、わたしにすれば同じだなと思う。しかも他の哲学研究者たちを寄生虫呼ばわりしている(P35)。では自分はどうかというと寄生虫ではないというよくわからない説明(P35)。
またニーチェを読むには誠実さが必要とのことだが、それも単なる著者の意見、解釈(P32)。ニーチェの怒りを自分の怒りとして引き受けなければニーチェは理解できないそうな(P50)。それも単なる著者の意見。で、ニーチェの怒りとは?著者はそれを理解している?その解釈が正しいという確証は?ありません。
わたしたちは受動ニヒリズムに徹底的に埋没しなければならないそうです(P43)。そこに超人に至る道があるそうです。本当ですか?受動だろうが能動だろうがニーチェはニヒリズムを批判しているはず。著者の解釈には苦しむところがある。
特に不快だったのが、ニーチェとは全然関係のない朝日カルチャーセンターの女性事務員への批判(P74)。女性事務員が仮にこの著者のために会社を敵にまわし、解雇になった場合、著者はその女性事務員に責任が取れるのだろうか?
「彼女たちにとっては、上からの指示が絶対であり、そうしなければ職を失うであろう。だが、それでも彼女たちが卑劣であることに変わりなく」(P74)
「彼女たちは、弱いがゆえに、不誠実の泥沼に落ち込まざるをえず、そこから抜け出せないのである」(P74)
ニーチェをマネして怒ってみても、ニーチェには及ばない。それが著者の言うニーチェの怒りを理解するということならば、まったく論理的でないし、哲学的でもない
2017年5月2日に日本でレビュー済み
ニーチェを読んでみたいと思い、書店でニーチェ入門書を紹介されたら、有名な竹田青嗣氏もあったのですがニーチェ自身が伝えたかった事をこちらの方が記述されていると感じたのでこちらを購入しました。
但し、他の書とは違いニーチェ本来の毒も含まれているので人を選ぶとは思います。
但し、他の書とは違いニーチェ本来の毒も含まれているので人を選ぶとは思います。