タイトルは、出版社の営業政策によって付けられたものでしょう。
内容と乖離があります。
内容としては5大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、儒教)の「神」概念と天皇の比較が、テーマです。
小室直樹さんならではの幅広く深い知識がなければ書き表せない洞察力に富んだ一書です。
小室さんは、学問バカというのか、東大、ハーバード大学などで学んだ後も、いろんな大学を渡り歩いて、ひたすら学問に打ち込んだ極貧生活を続け、「ソビエト帝国の崩壊」などで夜に知られ始めたのは40才代担ってからです。
学んだ学問は、社会学、経済学、法学、歴史学、宗教学、人類学、統計学、政治学、物理学、数学、心理学などで、もうタジタジとなります。
「天皇の原理」は316ページの本ですが、前ぶりがおそろしく長くて、全体の75%の213ページまであります。
天皇が登場するのは、214ページからで、103ページしかありません。
各宗教の根本原理と神(仏・天)概念を説いていきます。
分類のモノサシは予定説と因果律です。
仏教、儒教は因果律の宗教です。
日本人にはおなじみの考え方です。
ある結果が生じるのは、必ず原因があり、それは法則性に基づいている、という考え方です。
なにか良くないことがあれば、「バチが当たった」と言いますが、それです。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」なんかで日本人にはお馴染みの考えです。
儒教も因果律の宗教です。
儒教では「天」の法則があり、この法則に則って良き政治を行えば天下は栄えると考えます。
天は王朝に地上を治めさせるが、飢饉、戦争、天変地異の災害、疫病などの世の中の乱れは徳を失った現在の王朝が原因だから天が見切りをつけ革命(天命を革める)が起きる。
これを易姓革命、湯武放伐といい中国の歴史を動かく原動力となっています。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、予定説の宗教です。
この考えは、神道・仏教・儒教が宗教的なベースの日本人とはまったく合いません。
予定説とは、神が予(あらかじ)め定める、を意味しています。
是非善悪は、すべて神が決める。
神は正しいことを決めるのではない。
神が正しいと決めたから、正しい。
神は天地万物を創造した。
正しいことも、また神が決める。
これは正しい、なぜか。
神がこれは正しいと決めたからである。
神が決定したことが正しく、そうでないことは正しくない。
神の恩恵が与えられたものは救済され永遠の生命を得る、そうでないものは永遠の死が待つ。
ここには輪廻転生がなく、神から給わった死が蘇生することはない。
神が救う人と救わない人を選別する。
その人の人徳、善行、評判などは何の関係もない。
神は、なぜ、このような不公正、身勝手な行いをするのか。
理由は簡単で、この世界と生きものを創ったのは神であり、煮て喰おうが焼いて喰おうが、神様の勝手だからです。
それに対して人間は神によって創られたの立場なので何も言うことは出来ません。
すべてを決めるのは神の命令であり、それは神との契約で法として社会規範となっています。
イスラム教徒、ユダヤ教徒が豚肉やイカを食べないのも神の命令が書かれている旧約聖書を厳守しているからです。
日本人には、とても受け入れられない屁理屈にしか聞こえません。
日本の天皇は、古代から長く予定説の神でした。
万葉集の柿本人麻呂の歌です。
「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」
神様として絶対者の如くです。
兼好法師の徒然草でも「天皇と皇族は神胤(しんいん)にして人間の種にあらず」と神様扱いです。
天皇は日本の正統であり、天皇の宣旨 は絶対的な力を持っていました。
天皇の絶対性が崩れたのは承久の変が原因です。
鎌倉幕府倒幕の宣旨に対して真っ向から異を唱え、鎌倉武士が朝廷を攻めるきっかけになったのは北条政子でした。
北条政子の一喝で武士は奮い立ち、承久の変の勝利へと導きました。
これは日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流されました。
以後、武士が天皇を支配下に置く時代が明治維新まで続きました。
承久の変は天皇の絶対権力である予定説を、善政主義の因果律に転覆させました。
天皇が、現人神として再登場するのは明治ですが、この予定説の絶対者としての昭和天皇の地位も太平洋戦争の敗北で消滅し、現在の因果律の立場の天皇に至ったようです。

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天皇の原理 単行本 – 1993/6/1
小室 直樹
(著)
- 本の長さ316ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日1993/6/1
- ISBN-104163477101
- ISBN-13978-4163477107
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (1993/6/1)
- 発売日 : 1993/6/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 316ページ
- ISBN-10 : 4163477101
- ISBN-13 : 978-4163477107
- Amazon 売れ筋ランキング: - 611,741位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 154位天皇制
- - 3,606位政治入門
- - 54,353位ビジネス・経済 (本)
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5 星
5大宗教との比較で説く天皇
タイトルは、出版社の営業政策によって付けられたものでしょう。内容と乖離があります。内容としては5大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、儒教)の「神」概念と天皇の比較が、テーマです。小室直樹さんならではの幅広く深い知識がなければ書き表せない洞察力に富んだ一書です。小室さんは、学問バカというのか、東大、ハーバード大学などで学んだ後も、いろんな大学を渡り歩いて、ひたすら学問に打ち込んだ極貧生活を続け、「ソビエト帝国の崩壊」などで夜に知られ始めたのは40才代担ってからです。学んだ学問は、社会学、経済学、法学、歴史学、宗教学、人類学、統計学、政治学、物理学、数学、心理学などで、もうタジタジとなります。「天皇の原理」は316ページの本ですが、前ぶりがおそろしく長くて、全体の75%の213ページまであります。天皇が登場するのは、214ページからで、103ページしかありません。各宗教の根本原理と神(仏・天)概念を説いていきます。分類のモノサシは予定説と因果律です。仏教、儒教は因果律の宗教です。日本人にはおなじみの考え方です。ある結果が生じるのは、必ず原因があり、それは法則性に基づいている、という考え方です。なにか良くないことがあれば、「バチが当たった」と言いますが、それです。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」なんかで日本人にはお馴染みの考えです。儒教も因果律の宗教です。儒教では「天」の法則があり、この法則に則って良き政治を行えば天下は栄えると考えます。天は王朝に地上を治めさせるが、飢饉、戦争、天変地異の災害、疫病などの世の中の乱れは徳を失った現在の王朝が原因だから天が見切りをつけ革命(天命を革める)が起きる。これを易姓革命、湯武放伐といい中国の歴史を動かく原動力となっています。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、予定説の宗教です。この考えは、神道・仏教・儒教が宗教的なベースの日本人とはまったく合いません。予定説とは、神が予(あらかじ)め定める、を意味しています。是非善悪は、すべて神が決める。神は正しいことを決めるのではない。神が正しいと決めたから、正しい。神は天地万物を創造した。正しいことも、また神が決める。これは正しい、なぜか。神がこれは正しいと決めたからである。神が決定したことが正しく、そうでないことは正しくない。神の恩恵が与えられたものは救済され永遠の生命を得る、そうでないものは永遠の死が待つ。ここには輪廻転生がなく、神から給わった死が蘇生することはない。神が救う人と救わない人を選別する。その人の人徳、善行、評判などは何の関係もない。神は、なぜ、このような不公正、身勝手な行いをするのか。理由は簡単で、この世界と生きものを創ったのは神であり、煮て喰おうが焼いて喰おうが、神様の勝手だからです。それに対して人間は神によって創られたの立場なので何も言うことは出来ません。すべてを決めるのは神の命令であり、それは神との契約で法として社会規範となっています。イスラム教徒、ユダヤ教徒が豚肉やイカを食べないのも神の命令が書かれている旧約聖書を厳守しているからです。日本人には、とても受け入れられない屁理屈にしか聞こえません。日本の天皇は、古代から長く予定説の神でした。万葉集の柿本人麻呂の歌です。「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」神様として絶対者の如くです。兼好法師の徒然草でも「天皇と皇族は神胤(しんいん)にして人間の種にあらず」と神様扱いです。天皇は日本の正統であり、天皇の宣旨 は絶対的な力を持っていました。天皇の絶対性が崩れたのは承久の変が原因です。鎌倉幕府倒幕の宣旨に対して真っ向から異を唱え、鎌倉武士が朝廷を攻めるきっかけになったのは北条政子でした。北条政子の一喝で武士は奮い立ち、承久の変の勝利へと導きました。これは日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流されました。以後、武士が天皇を支配下に置く時代が明治維新まで続きました。承久の変は天皇の絶対権力である予定説を、善政主義の因果律に転覆させました。天皇が、現人神として再登場するのは明治ですが、この予定説の絶対者としての昭和天皇の地位も太平洋戦争の敗北で消滅し、現在の因果律の立場の天皇に至ったようです。
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2018年8月30日に日本でレビュー済み
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タイトルは、出版社の営業政策によって付けられたものでしょう。
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内容としては5大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、儒教)の「神」概念と天皇の比較が、テーマです。
小室直樹さんならではの幅広く深い知識がなければ書き表せない洞察力に富んだ一書です。
小室さんは、学問バカというのか、東大、ハーバード大学などで学んだ後も、いろんな大学を渡り歩いて、ひたすら学問に打ち込んだ極貧生活を続け、「ソビエト帝国の崩壊」などで夜に知られ始めたのは40才代担ってからです。
学んだ学問は、社会学、経済学、法学、歴史学、宗教学、人類学、統計学、政治学、物理学、数学、心理学などで、もうタジタジとなります。
「天皇の原理」は316ページの本ですが、前ぶりがおそろしく長くて、全体の75%の213ページまであります。
天皇が登場するのは、214ページからで、103ページしかありません。
各宗教の根本原理と神(仏・天)概念を説いていきます。
分類のモノサシは予定説と因果律です。
仏教、儒教は因果律の宗教です。
日本人にはおなじみの考え方です。
ある結果が生じるのは、必ず原因があり、それは法則性に基づいている、という考え方です。
なにか良くないことがあれば、「バチが当たった」と言いますが、それです。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」なんかで日本人にはお馴染みの考えです。
儒教も因果律の宗教です。
儒教では「天」の法則があり、この法則に則って良き政治を行えば天下は栄えると考えます。
天は王朝に地上を治めさせるが、飢饉、戦争、天変地異の災害、疫病などの世の中の乱れは徳を失った現在の王朝が原因だから天が見切りをつけ革命(天命を革める)が起きる。
これを易姓革命、湯武放伐といい中国の歴史を動かく原動力となっています。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、予定説の宗教です。
この考えは、神道・仏教・儒教が宗教的なベースの日本人とはまったく合いません。
予定説とは、神が予(あらかじ)め定める、を意味しています。
是非善悪は、すべて神が決める。
神は正しいことを決めるのではない。
神が正しいと決めたから、正しい。
神は天地万物を創造した。
正しいことも、また神が決める。
これは正しい、なぜか。
神がこれは正しいと決めたからである。
神が決定したことが正しく、そうでないことは正しくない。
神の恩恵が与えられたものは救済され永遠の生命を得る、そうでないものは永遠の死が待つ。
ここには輪廻転生がなく、神から給わった死が蘇生することはない。
神が救う人と救わない人を選別する。
その人の人徳、善行、評判などは何の関係もない。
神は、なぜ、このような不公正、身勝手な行いをするのか。
理由は簡単で、この世界と生きものを創ったのは神であり、煮て喰おうが焼いて喰おうが、神様の勝手だからです。
それに対して人間は神によって創られたの立場なので何も言うことは出来ません。
すべてを決めるのは神の命令であり、それは神との契約で法として社会規範となっています。
イスラム教徒、ユダヤ教徒が豚肉やイカを食べないのも神の命令が書かれている旧約聖書を厳守しているからです。
日本人には、とても受け入れられない屁理屈にしか聞こえません。
日本の天皇は、古代から長く予定説の神でした。
万葉集の柿本人麻呂の歌です。
「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」
神様として絶対者の如くです。
兼好法師の徒然草でも「天皇と皇族は神胤(しんいん)にして人間の種にあらず」と神様扱いです。
天皇は日本の正統であり、天皇の宣旨 は絶対的な力を持っていました。
天皇の絶対性が崩れたのは承久の変が原因です。
鎌倉幕府倒幕の宣旨に対して真っ向から異を唱え、鎌倉武士が朝廷を攻めるきっかけになったのは北条政子でした。
北条政子の一喝で武士は奮い立ち、承久の変の勝利へと導きました。
これは日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流されました。
以後、武士が天皇を支配下に置く時代が明治維新まで続きました。
承久の変は天皇の絶対権力である予定説を、善政主義の因果律に転覆させました。
天皇が、現人神として再登場するのは明治ですが、この予定説の絶対者としての昭和天皇の地位も太平洋戦争の敗北で消滅し、現在の因果律の立場の天皇に至ったようです。
内容と乖離があります。
内容としては5大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、儒教)の「神」概念と天皇の比較が、テーマです。
小室直樹さんならではの幅広く深い知識がなければ書き表せない洞察力に富んだ一書です。
小室さんは、学問バカというのか、東大、ハーバード大学などで学んだ後も、いろんな大学を渡り歩いて、ひたすら学問に打ち込んだ極貧生活を続け、「ソビエト帝国の崩壊」などで夜に知られ始めたのは40才代担ってからです。
学んだ学問は、社会学、経済学、法学、歴史学、宗教学、人類学、統計学、政治学、物理学、数学、心理学などで、もうタジタジとなります。
「天皇の原理」は316ページの本ですが、前ぶりがおそろしく長くて、全体の75%の213ページまであります。
天皇が登場するのは、214ページからで、103ページしかありません。
各宗教の根本原理と神(仏・天)概念を説いていきます。
分類のモノサシは予定説と因果律です。
仏教、儒教は因果律の宗教です。
日本人にはおなじみの考え方です。
ある結果が生じるのは、必ず原因があり、それは法則性に基づいている、という考え方です。
なにか良くないことがあれば、「バチが当たった」と言いますが、それです。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」なんかで日本人にはお馴染みの考えです。
儒教も因果律の宗教です。
儒教では「天」の法則があり、この法則に則って良き政治を行えば天下は栄えると考えます。
天は王朝に地上を治めさせるが、飢饉、戦争、天変地異の災害、疫病などの世の中の乱れは徳を失った現在の王朝が原因だから天が見切りをつけ革命(天命を革める)が起きる。
これを易姓革命、湯武放伐といい中国の歴史を動かく原動力となっています。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、予定説の宗教です。
この考えは、神道・仏教・儒教が宗教的なベースの日本人とはまったく合いません。
予定説とは、神が予(あらかじ)め定める、を意味しています。
是非善悪は、すべて神が決める。
神は正しいことを決めるのではない。
神が正しいと決めたから、正しい。
神は天地万物を創造した。
正しいことも、また神が決める。
これは正しい、なぜか。
神がこれは正しいと決めたからである。
神が決定したことが正しく、そうでないことは正しくない。
神の恩恵が与えられたものは救済され永遠の生命を得る、そうでないものは永遠の死が待つ。
ここには輪廻転生がなく、神から給わった死が蘇生することはない。
神が救う人と救わない人を選別する。
その人の人徳、善行、評判などは何の関係もない。
神は、なぜ、このような不公正、身勝手な行いをするのか。
理由は簡単で、この世界と生きものを創ったのは神であり、煮て喰おうが焼いて喰おうが、神様の勝手だからです。
それに対して人間は神によって創られたの立場なので何も言うことは出来ません。
すべてを決めるのは神の命令であり、それは神との契約で法として社会規範となっています。
イスラム教徒、ユダヤ教徒が豚肉やイカを食べないのも神の命令が書かれている旧約聖書を厳守しているからです。
日本人には、とても受け入れられない屁理屈にしか聞こえません。
日本の天皇は、古代から長く予定説の神でした。
万葉集の柿本人麻呂の歌です。
「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」
神様として絶対者の如くです。
兼好法師の徒然草でも「天皇と皇族は神胤(しんいん)にして人間の種にあらず」と神様扱いです。
天皇は日本の正統であり、天皇の宣旨 は絶対的な力を持っていました。
天皇の絶対性が崩れたのは承久の変が原因です。
鎌倉幕府倒幕の宣旨に対して真っ向から異を唱え、鎌倉武士が朝廷を攻めるきっかけになったのは北条政子でした。
北条政子の一喝で武士は奮い立ち、承久の変の勝利へと導きました。
これは日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流されました。
以後、武士が天皇を支配下に置く時代が明治維新まで続きました。
承久の変は天皇の絶対権力である予定説を、善政主義の因果律に転覆させました。
天皇が、現人神として再登場するのは明治ですが、この予定説の絶対者としての昭和天皇の地位も太平洋戦争の敗北で消滅し、現在の因果律の立場の天皇に至ったようです。
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2016年2月23日に日本でレビュー済み
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社会科学者 小室直樹氏の著作
前半で種々の宗教の成り立ちや荒ましについてレクチャーし、それを踏まえた上で後半で天皇とキリストの類似性について述べています
氏の洞察力に感嘆です
日本書紀によると、皇孫瓊瓊杵尊を日本につかわされたとき、主神天照大神は、天皇と日本人に無条件に、彼らを末長く繁栄せしめると神勅を下されました
これに対し、ユダヤ教 預言者モーセの口そ通じた神の言葉では、契約を守れば、約束の地に入ってそこを所有することができるというものでありました
契約とは、「私以外のどんなものも、神とするな」(偶像崇拝の禁止)、「私以外の神々を礼拝してはならない」というもので、神から一方的な命令でありました(宗教の本源的根拠を偶像物に置いた場合、それが失われると当該宗教の正当性根拠が失われるが、偶像禁止はこれを防ぐことになり、また、他の神を信じることを禁じたのは、未開なイスラエルの民が文明の秀でた他の国の宗教に飲み込まれないためであった)
神はイスラエルの民の危機に際して奇跡を起こしてみせましたが、頑民であるイスラエルの民は何度も神との契約を破り神の怒りをかいました
ユダヤ人は本来ならば塵にされるべきところを不思議に生命ながらえて流浪の民となりました
ユダヤ教から分かれたキリスト教ですが、キリスト教における救済とは神の恩恵を与えられ永遠の生命を得ることであり、さらに予定説では天地創造がなされときに恩恵を与えられる人はすでに決まっていたとされ、選択は人の行いや人的属性と無関係になされるとされています
善きことをする人だから神が(永遠の生命を)予定するのではなく、神が予定した人だから善きことをするというのが予定説の神髄です
キリストは十字架の死によって全人類を神に対する罪(原罪: アダムは神の禁止命令を破ってエデンの園の林檎を食したことが罪で、その子孫たる人類に罰として死が与えられた)の状態からあながったのではなく、キリストの死は、ただ選ばれたものだけのためであり、選ばれたものために神は永遠の昔からキリストの贖罪を定められていたと述べています
ユダヤ教では、直接に個人を幸せにすることはできないのであり、イスラエル民族全体を単位としており、作動しているのは因果律(契約を守れば、約束の地に入ってそこを所有できるという条件付)の論理であるのに対し、キリスト教の宗教単位は個人で恩恵が無条件で与えられる予定説の理論であるとしています
キリスト教では、戒律がなく福音書も新約聖書のその他の部分も俗世の法の法源となりうるように作られていませんが、それを補うものとして、旧約聖書の中にあるユダヤ人の法とカトリック教会の中にあるローマ人の法があります
これ対し、日本においては仏教の戒律を抹殺したという歴史があり、それゆえ法不在となっていると述べています
日本書紀における天皇と日本人にを末長く繁栄せしめるとする神勅は無条件であるので、予定説的であり、モーセの預言は、契約を守れば、という条件付きなので因果律と言えます
また、この天皇予定説は儒教からも仏教からも決して出てくることはありません
天皇は神の直系の子孫であることが正当性の根拠であり、天皇の命令は絶対であり、天皇の行うことだから正しく、日本国は天皇の私有財産でありました
しかるに、承久の乱において後鳥羽上皇はあまり従順でない執権北条義時に対し幕府征伐を決意されましたが、後鳥羽上皇は敗れ天皇の地位は失墜しました
承久の乱で執権義時が勝利したのは、義時の姉北条政子の演説「頼朝は、良い政治をしたから正しい」という理論によるところが大きかったようです
これは「天皇は無条件に正しい」という予定説から因果律への変換であって、かくして承久の乱により古代天皇イデオロギーは死に、やがて孟子流の善政主義が支配的となり武士の世は完成(徳川幕府)をむかえました
江戸時代、朱子学者の山崎闇斎(崎門学)は「拘幽操」を編し、その中で何の罪科もなく君主の紂王に牢獄に入れられた西伯は恨むことなかったとし王のなすことはすべて正しいというテーマを現したことで、崎門の学の展開過程で承久の乱で死んだ天皇は現人神として復活したのでありました
神の直系の子孫で現人神とされる天皇とカルケドン信条において「真に神であり、真に人である」と宣言されたキリストとは、まさに同型で、神のとしての天皇の死と復活の過程もまさに同型であると喝破しています
氏の種々の著作の論理の中核にはキリスト教の予定説が必ず存在しています
氏に対するマックス・ウェーバーの影響力 すごいです
前半で種々の宗教の成り立ちや荒ましについてレクチャーし、それを踏まえた上で後半で天皇とキリストの類似性について述べています
氏の洞察力に感嘆です
日本書紀によると、皇孫瓊瓊杵尊を日本につかわされたとき、主神天照大神は、天皇と日本人に無条件に、彼らを末長く繁栄せしめると神勅を下されました
これに対し、ユダヤ教 預言者モーセの口そ通じた神の言葉では、契約を守れば、約束の地に入ってそこを所有することができるというものでありました
契約とは、「私以外のどんなものも、神とするな」(偶像崇拝の禁止)、「私以外の神々を礼拝してはならない」というもので、神から一方的な命令でありました(宗教の本源的根拠を偶像物に置いた場合、それが失われると当該宗教の正当性根拠が失われるが、偶像禁止はこれを防ぐことになり、また、他の神を信じることを禁じたのは、未開なイスラエルの民が文明の秀でた他の国の宗教に飲み込まれないためであった)
神はイスラエルの民の危機に際して奇跡を起こしてみせましたが、頑民であるイスラエルの民は何度も神との契約を破り神の怒りをかいました
ユダヤ人は本来ならば塵にされるべきところを不思議に生命ながらえて流浪の民となりました
ユダヤ教から分かれたキリスト教ですが、キリスト教における救済とは神の恩恵を与えられ永遠の生命を得ることであり、さらに予定説では天地創造がなされときに恩恵を与えられる人はすでに決まっていたとされ、選択は人の行いや人的属性と無関係になされるとされています
善きことをする人だから神が(永遠の生命を)予定するのではなく、神が予定した人だから善きことをするというのが予定説の神髄です
キリストは十字架の死によって全人類を神に対する罪(原罪: アダムは神の禁止命令を破ってエデンの園の林檎を食したことが罪で、その子孫たる人類に罰として死が与えられた)の状態からあながったのではなく、キリストの死は、ただ選ばれたものだけのためであり、選ばれたものために神は永遠の昔からキリストの贖罪を定められていたと述べています
ユダヤ教では、直接に個人を幸せにすることはできないのであり、イスラエル民族全体を単位としており、作動しているのは因果律(契約を守れば、約束の地に入ってそこを所有できるという条件付)の論理であるのに対し、キリスト教の宗教単位は個人で恩恵が無条件で与えられる予定説の理論であるとしています
キリスト教では、戒律がなく福音書も新約聖書のその他の部分も俗世の法の法源となりうるように作られていませんが、それを補うものとして、旧約聖書の中にあるユダヤ人の法とカトリック教会の中にあるローマ人の法があります
これ対し、日本においては仏教の戒律を抹殺したという歴史があり、それゆえ法不在となっていると述べています
日本書紀における天皇と日本人にを末長く繁栄せしめるとする神勅は無条件であるので、予定説的であり、モーセの預言は、契約を守れば、という条件付きなので因果律と言えます
また、この天皇予定説は儒教からも仏教からも決して出てくることはありません
天皇は神の直系の子孫であることが正当性の根拠であり、天皇の命令は絶対であり、天皇の行うことだから正しく、日本国は天皇の私有財産でありました
しかるに、承久の乱において後鳥羽上皇はあまり従順でない執権北条義時に対し幕府征伐を決意されましたが、後鳥羽上皇は敗れ天皇の地位は失墜しました
承久の乱で執権義時が勝利したのは、義時の姉北条政子の演説「頼朝は、良い政治をしたから正しい」という理論によるところが大きかったようです
これは「天皇は無条件に正しい」という予定説から因果律への変換であって、かくして承久の乱により古代天皇イデオロギーは死に、やがて孟子流の善政主義が支配的となり武士の世は完成(徳川幕府)をむかえました
江戸時代、朱子学者の山崎闇斎(崎門学)は「拘幽操」を編し、その中で何の罪科もなく君主の紂王に牢獄に入れられた西伯は恨むことなかったとし王のなすことはすべて正しいというテーマを現したことで、崎門の学の展開過程で承久の乱で死んだ天皇は現人神として復活したのでありました
神の直系の子孫で現人神とされる天皇とカルケドン信条において「真に神であり、真に人である」と宣言されたキリストとは、まさに同型で、神のとしての天皇の死と復活の過程もまさに同型であると喝破しています
氏の種々の著作の論理の中核にはキリスト教の予定説が必ず存在しています
氏に対するマックス・ウェーバーの影響力 すごいです
2015年9月22日に日本でレビュー済み
いつもの通りユダヤ教とキリスト教の解説が続き、いつになったら天皇の話が出てくるのかと思っていたら、終わりの7,8章から登場。
小室氏の主張は、南北朝合一の意義とは何かということである。論じ方の奇抜さはいつものことながら、なんとなくその意義が理解できてしまうのも不思議。山本七平氏との共作という感もある。
それはキリスト教の予定説、ユダヤ教の因果律を知れば深く理解することができるということだ。
こういう高邁なタイトルで本を出せる人はもういないであろう。
小室氏の本には「原理」と名のつくものが多いように思う。
これからも常に物事の本質を追いかけてきた人であるということがわかるだろう。戦後の学者でも最も異端であろうが、だからこそ正しいのであると私は確信している。
小室氏の主張は、南北朝合一の意義とは何かということである。論じ方の奇抜さはいつものことながら、なんとなくその意義が理解できてしまうのも不思議。山本七平氏との共作という感もある。
それはキリスト教の予定説、ユダヤ教の因果律を知れば深く理解することができるということだ。
こういう高邁なタイトルで本を出せる人はもういないであろう。
小室氏の本には「原理」と名のつくものが多いように思う。
これからも常に物事の本質を追いかけてきた人であるということがわかるだろう。戦後の学者でも最も異端であろうが、だからこそ正しいのであると私は確信している。