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「修養」の日本近代: 自分磨きの150年をたどる (NHKブックス 1274) 単行本 – 2022/8/25

4.1 5つ星のうち4.1 19個の評価

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購入オプションとあわせ買い

何が「働くノン・エリート」を駆り立てたのか?

明治・大正期に、旧制高校・帝国大学を出るようなエリートになれなかった多くの人々、昭和期にサラリーマンとして会社で「研修」に励んだ人々、平成以降の低成長期に、自己啓発産業やビジネス書の消費者となった人々―ー。彼らが拠りどころにしたのは、あくなき「自己向上」への意欲だった。
本書は、「教養」として語られがちな、自己成長のための営為が実は明治初頭から宗教の力を借りて社会に広く行きわたり、近代日本の社会を根底で支える水脈となっていたことを示す。時代ごとに違う形で花開いた、「自己向上」にまつわる大衆文化の豊かさ、切なさ、危うさに触れながら“日本資本主義の精神”の展開史を描き出す、気鋭の力作!

序章 「自分磨き」の志向
第一章 語られた修養 ――伝統宗教と〈宗教っぽい〉もの
第二章 Self-Helpの波紋 ――立身出世と成功の夢
第三章 働く青年と処世術 ――新渡戸稲造と『実業之日本』
第四章 「経営の神様」と宗教 ――松下幸之助の実践
第五章 修養する企業集団 ――ダスキンの向上心
終章 修養の系譜と近代日本――集団のなかで自分を磨く
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商品の説明

著者について

1986年、茨城県生まれ。お茶の水女子大学文教育学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了、博士(学術)。龍谷大学世界仏教文化研究センター、大谷大学真宗総合研究所博士研究員などを経て現在、日本学術振興会特別研究員(PD)・東北大学大学院国際文化研究科特別研究員。専門は宗教学、社会学、仏教文化史。
著書に『親鸞「六つの顔」はなぜ生まれたのか』(筑摩書房)、共著に『知っておきたい 日本の宗教』(ミネルヴァ書房)、『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館)、監修書に『親鸞文学全集 〈大正編〉』第1―8巻(同朋舎新社)、論文に「演じられた教祖――福地桜痴『日蓮記』に見る日蓮歌舞伎の近代」(『近代仏教』第29号)などがある。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ NHK出版 (2022/8/25)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2022/8/25
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 288ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 414091274X
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4140912744
  • 寸法 ‏ : ‎ 13 x 1.6 x 18.3 cm
  • カスタマーレビュー:
    4.1 5つ星のうち4.1 19個の評価

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上位レビュー、対象国: 日本

2023年6月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自分を高めようとする人にお薦めの良書。読んで非常にいい勉強になった。Self Cultivation を目的としている人対象。再読に値する本。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2023年8月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
近代日本における修養という発想とその有様を、具体例から追っています。現代の例として取り上げられているのは松下電器産業とダスキンです。正直京都セラミックスも取り上げて欲しかったところですが、企業、つまり日本的経営や日本の組織論における修養思想を見るには挙げられている例で十分ではあるでしょう。
本書の問題の一つして、記述に終わってしまっている点があります。著者が修養に感じたらしい違和感を解決できていません。この点で、1980年代あたりの佐高信氏あたりを中心とした日本企業の修養思想批判の方がラディカルであり、それで星一つ落とします。とはいえ判断を棚上げにして、修養思想がどのようなものでどのような背景を持って出てきて誰に支えられていったのか - それで誰が得をしたのか、損をしたのか、善なのか悪なのかは本書のテーマではありません - を見るのにはちょうど良いかもしれません。ボリューム相応の丁寧な記述と言ってよいと思います。
個人的には挙げられているような修養思想は非常に不気味に感じるわけですが、この思想はある意味江戸時代後期以降の日本社会を支える屋台骨のひとつと言っていいので、著者の表明している違和感と共感に、共感できる人は多いのだろうと思います。そこを消化不良と見るか距離感と見るかは、読み手の修養思想に対する立ち位置の問題なのでしょう。ついでに、修養思想を実践哲学界隈の「徳」や「正義」と突き合わせてみるのも面白いと思います。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2022年8月25日に日本でレビュー済み
自分を磨き、高めようとする。現代の自己啓発につながる流れは、明治時代から続いているという視点から、宗教学者が系譜を掘り起こした解説書である。働く人々それもノンエリートが何を夢見て修養し、新渡戸稲造や松下幸之助など指導者や経営者は何を目指して修養を説いたのか。修養は現在集団や職場を離れ、個人で求めるものとなって、オンラインサロンがその系譜を継いだが、日本人の修養好きと、あるいは修養嫌いは、これからどう進んでいくのか。西洋から宗教、あるいは宗教っぽいものを採り込んで始まった修養だが、著者はこれからも形を変えて続いていくだろうと結んでいる。

宗教は自らそうと名乗らずに近づいてくるが、否応なく自分を見つめ直させられる若者が少なからずある。大学で教鞭を取る著者は、若者に「宗教嫌いでも宗教を考えてもらいたい」との思いで書いたのかもしれない。自分探しに直面する若者にも薦めたい。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2023年5月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「修養」とは随分と古い概念をテーマにしましたねと言われるだろうから、著者は先回りして、
研究と修養から1字ずつ取って研修という新語が作られたんですよと指摘します。へ~

大変ユニークかつ興味深いテーマ選定です。それは誠に結構で、面白く読めました。
・・・のではありますが、ちょっと(というか、かなり)気になることがありました。

几帳面に註が付され、そのたびごとに(選んだ)先行文献の(多数の)参照箇所が明示されます。
既存文献を細かく砕いて、出所開示のうえで次々に繋ぎ合わせていくパッチワーク構造です。

読んでいて「どこまでが既存文献の紹介・引用・翻案で、どこからが著者の考えなのか」という
境界線は曖昧です。レビュー論文を集めて本にしたと思えばいいのでしょうか。

松下幸之助や鈴木清一のケーススタディは大変興味深く、書かれている内容にも注目すべき点が
あるのですが、依然としてどこからどこまでが著者独自の見解といえるのかが判然としないので、
面白い中に一抹の気持ち悪さが残ってしまいます。

一転して、近現代日本の企業内研修を扱った終章は単調でした。
そこよりも、オンサロのいかがわしさを、修養や(本書の中心概念である)「宗教っぽさ」の系譜
で斬る試みは、著者の独自性をもっとも発揮できそうな領域と思わせる萌芽と感じました。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2022年9月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
修養、教養や自己啓発のガイドの決定版的な存在で
良書です。歴史から紐解き自分の立ち位置を浮かび上がらせて
くれる労作です。個人から企業までの自己啓発の経緯が分かります。
闇雲に努力している方、成果が出ない方、トランキライザーを
求めている方に特にオススメです。

最後は結局、自分を磨くものか、摩耗してしまうものか自省を
促してくれていまして、その人自身が置かれている立場で
判断が決まってくるものだと感じました。

修養も行き過ぎるとカルトに繋がるし、効果も上限があり沼
に陥るだけなので自己啓発との程々の関係が大事あると感じました。
特に最近のサービス業に最適なマインドセットで現代の資本主義に適応
して駆動するのに重要な軸の一つであるのは間違いないのではと感じました。

またp111の新渡戸先生のオブラードに包んで伝えるには感銘を受けました。
今頃になって(旧)五千円札の意義を感じ取れるようになりました。

自己啓発で集団と個人の緩やかな幸せの関係を築けるかどうかがポイント
となりそうです。自己啓発の場は競争心を煽り易くなるので共存
していけるかが重要だと感じました。

歴史物を通して人間形成も見落とせない点であります。
求めることに夢中な昨今のエンタメ一辺倒の推し活とは訳が違います。

マクロ的な自助と非正規雇用を求める社会とそれに答えるミクロな
ロスジェネ世代の分断された人達がやっとの思いで応答している昨今で
すので自己の限界があるので万能薬では無く、環境によっては諦念せざる
負えないと感じました。

自己啓発周辺の事象を万弁なく記述しており、会社の成功例を
挙げていますので、やはり、なんだかんだで入社する会社や組織次第
になりそうです。ある程度の必要な条件ですが、外部要因や環境などを
鑑みると難しいので自分に出来ることとなると身を整えることしか出来なさそうです。

本書を通して自己啓発は偉大で西洋の考え方も取り入れて和洋折衷して
日本経済や社会を推進するのに重要なエンジンであることは間違いないと思われます。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2022年9月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
【☆5つの理由】
新人類と言われた私たちの世代も高齢者の仲間入りだ。
ずっと下の世代の著者が「修養」に着目したのが愉快であることと、
広範に及ぶであろう、これだけの材料を上手くまとめた著者の優秀さを感じたので、☆5つとした。

【本書と著者への関心(ダラダラ文)】
本が届く前に、なぜ著者は「修養」に関心を持ったのかが気になっていた。
何か宗教的な背景でもあるのだろうかと、考えもした。
あとがきを読んで、その理由を知った時、少し意外な気がした。

デール・カーネギーの『人を動かす』『道は開ける』は、一読目に興味深く読んでいる。
たまに開きたくなるが、心理状態によっては、「これでもか」という記述スタイルに、直ぐ閉じたくなることもある。

子どもから大人まで、中心的な悩みとして人間関係があげられるので、顧客との人間関係構築が重要な保険会社の執行役員が新入社員全員に『人を動かす』を配ったとしても不思議ではない。
著者の違和感を意外に感じたのは、自分が歳をとったせいかもしれない。

著者の「病弱だった」という言葉に自分を重ねた。
病弱者の常に健康状態を気にしながらの生活、
人並みの身体であったなら違う人生も、という思いは、他者には、なかなか分かりづらい。
もしかしたら、このことが著者の人生観に影響を与えているのかもしれないと想像した。

『フランクリン自伝』は、遥かな昔、街の本屋で購入した覚えがある。
確か旺文社文庫だった。
あの時代(1970年代)小さな本屋が修養への扉で、ワンダーランドであった。
シュリーマンやヘレン・ケラーの自伝も、ここで知った。

入手した、ほとんどが文庫か新書で、本書でも紹介されていた「カッパ・ブックス」も懐かしい。
小説はあまり読まないが、『日本沈没』や『砂の器』はカッパ・ブックスで読んだ。

先日、アシモフの古い科学エッセイ集『天文学入門』(カッパ・ブックス)を読み、アシモフの想像力や着想に感心していた。
そしてカッパ・ブックス「誕生のことば」を読んで、改めて感動した。

本書の紹介文「宗教の力、云々」で、倉田百三と、『死線を越えて』の賀川豊彦を思い出した。
手許にある古い『出家とその弟子』は角川文庫版で、ロマン・ロランが美しい序を寄せている。

『西国立志編』は、図書館の古い版(明治末の漢字・カナ組)で読んだ懐かしい本だ。
十代の頃から文語文に興味があり、聖書は文語文でも読んでいる。
幕末に教育を受けた、才能ある人々が、その日本語・漢語運用能力で、どこまで西洋の事情を記述できるのかという視点で読んでいた。
久米邦武の『米欧回覧実記』もそんな思いで読んだ。
天文少年だったので、フランスの天文台見学が印象に残っている。

修養的な本も、仕事や勉強に活かそうという気持ちはなく、好奇心だけで読んでいた。
直感と、面白いか否かという感情だけで生きてきてしまった気がする。

本書帯の特徴的な二宮尊徳は、内村鑑三の『代表的日本人』で知った。
内村を最期に看取った斎藤宗次郎とのエピソードが記された山折哲雄の『教えること裏切られること』(新書)も印象深かった。

以下、どんな分野の本を読んできたのか、大雑把にメモ書きする。

小学校    中学校  高校  大学  社会人  老人
(耳学問)①
 (深淵な夢想)②
    (天文学)③→  
      (相対論)(量子論)④→
      (超常現象)(心霊・UFO)⑤→
            (哲学・思想・宗教)⑥→
             (進化論・脳科学・生命科学)⑦→
             (心理学・教育学・社会学・経済学)⑧→
                      (また耳学問か)⑨→

昭和30年代の記憶があるのは嬉しい。
駅前の商店街や東京のデパートに行けば、今と同じように何でもあったが、戦争で焼けなかった古い平屋での生活は質素なものだった。
物心付いた頃の家電は、電灯、タンス上の大型ラジオ、アイロンだけだった。
壁にコンセントなどなく、本書でも紹介されている松下電器の「国民ソケット」を差し替えて、父のためにアイロンがけをする母の姿を思い出す。

東京近郊の街場でも田畑や雑木林が近くにあり、子どもの遊び場には困らなかった。
今思えば街並みは江戸時代風だし、肥桶を担ぐおじさんも歩いていた。
風呂は鉄砲風呂で、風呂焚きや薪割りも手伝っていた。
この頃、ガキ大将の異年齢集団が機能していて、危険な遊びの諸注意、動植物の名称、採取法、飼育法など全て「耳学問」①だった。

高学年になり単独行動を好むようになった。
縁側に寝そべって「夢想」②に耽るのも好きだった。
子ども時代から今に続く三大テーマ、
★万物がなぜ存在するのか、存在しない可能性もあったのではないか。
★全てが偶然だとする進化論、何かその方向性を決める力はないのか。
★物質の塊である身体になぜ意識が発生するのか、物質が入れ替わって大人になってもその意識は同じものか。
※3番目の問いに取り憑かれていた頃、日光へ修学旅行に行った。
中禅寺湖畔での集合写真の際、とっさに足元の石を拾ってカメラに向けた。
子どもであったその時の意識を、大人になった未来の自分のために残そうとしたのだ。
その写真を見つけて、少年時代の疑問を自分で確かめることができ、時の流れを感じている。

12歳の頃「天文学」③の本『宇宙』(タイムライフ社)を読んで、読書の面白さに目覚めた。
以後、ずっと日本語による読書と考え事で忙しかった。

中学生になり「相対論」や「量子論」④の本を夢中で読み、自分の人生観や世界観に決定的な影響を与えた。
学校の勉強には、ほとんど興味が持てず、いつもぼーっとしていた。
早い時期に、正統な科学にも驚くべき世界があることを知っていたので、
怪しい本⑤を楽しむ余裕がった。
宮城音弥の『神秘の世界 −超心理学入門−』(新書)を読み、超常現象に真摯に向き合っている学者がいることも知った。

妖しさを感じるユングやシュタイナーは好きだった。
大学でシュタイナー(教育)の思想を本気で講義したら、怪しい先生として問題になるのではないかと思ったこともある。
さらに量子力学と精神世界を結びつけるような(ボームやプリブラムが出てくるような本)発想は、まんざらでもないと思っている。

高校生になり、自然科学の根源的な問いから哲学的問題に関心が向いた。
哲学史⑥の本を読み「歴史の進歩とは何か」を真剣に考えていた。
それは、本書での「自分が高まったか否かを判断する基準はそもそも不確か」とする指摘・問題意識に通じる。

高校時代の愛読書として『私は信ずる(I believe)』(文庫)⑥を覚えている。
欧米の知識人が、短い内容で自身の信条を述べる凝縮した文章が好きだった。
この中で、人によっては「キリスト教」が軛となることを知った。
バートランド・ラッセルが『ミル自伝』を読み信仰を捨てたことを覚えている。

私の母は、神仏を敬い般若心経や祝詞を上手に唱えていた。
ただし宗教教義的には緩やかで、たまに「ご先祖様に挨拶は」とか、
酷い通知表であっても神棚にあげ「無事終えたお礼を言いなさい」と、注意された。
だから、ご先祖様や天が見守ってくれているという感情が育った。

カミ的な力を意識するのは「現代宇宙論・進化論・脳科学・生命科学」⑦の本を読み、そうした問題を考えている時だ。

大学と名のつく所に運よく入学できた。
中学校の級友から「そんな大学に行ってどうするんだ」と率直な言葉をもらった。
試験勉強やコツコツ努力することが出来ないのだから仕方がない。
むしろ、継続して読書生活を続けられることが嬉しかった。

神田の古本屋街には、大学より熱心に通った。
とにかく本はよく読んだ⑧。
未だ手許にあり、今読み直しても面白い『福翁自伝』は、表紙に赤い字で第〇〇回卒業記念とあるものだ。
一流大学を卒業した彼か彼女は手放し、○流大学卒業の私は手放さなかったわけだ。
『福翁自伝』は、勝海舟の『氷川清話』や、渋沢栄一の作品とともに愛読書になった。

実は卒業が危なかった。
成績は全く気にせず、単位が取れればよいという、世の中を甘くみる気質は子ども時代から変わっていなかった。
3年生の時に、必修科目の「教育史」を受講していた。
この分野は好きで、ロック・ルソー・ペスタロッチ・フレーベル、
コメニウスやモンテッソーリも読んでいた。
講義は全回出席し、答案用紙も全部埋めた。

ところが学年末の成績は不可(D)だった。
何かの間違いではと焦ったが、ただ一つ思い当たるフシがあった。
それはテストの際、先生の見解を記すだけでは芸がないと思い、全ての設問を他の(学者の)見解で解答してしまった。
それで、もう一度履修と、腹を括った。

4年時の初回(忘れもしない水曜5限で冬場は暗くなる)、教卓の真下に座った。
振り返ると、二、三列空けた後ろに3年生の知った顔が並んでいる。
男女ともニコニコしていた。(本書で紹介する新渡戸のチアフルcheerfullだ。本書奥付にある著者のcheerfullも素敵だ。)
冷笑でなく、温かい包み込むような笑顔だった。
その時は、この学校この学科で学べたのは良かったと心底感じた。

初回講義の後、私としては大胆な行動に出た。
研究室を訪ねたのである。
「昨年度履修して落とした4年の〇〇ですが(先生の顔色が変わったのは分かった)、本年度も受講しますので宜しくお願いします」と挨拶した。
それだけで、昨年度のことは一切口にしなかった。

「まあ座れ」ということで、先生は、学生時代の活動(東大セツルメント)や収監された体験談を話してくださった。
それで自分の履修のことはすっかり忘れ、いたく感動して部屋を後にしたことを覚えている(先生の作戦だったかな)。

人間の脳の働きは、トータルとして見たとき、たいして変わらないというのが長く生きてきた私の実感である。
つまり、ある部分を特化して働かせると他が抜け落ちるということだ。
ただし、まだ解明されていない未知の部分も多々あると思っている。

例えば夢。私は結構鮮明な夢を見る。夢の中で知らない人が出てきて、私の知らないことを教えてくれることがある。夢の中で、その事をメモしなければ、と思って目が覚めた瞬間は覚えているが、几帳面でないので、また直ぐ眠りにつくと忘れてしまう。

例えばサヴァン。山下清の残した文章(貼り絵だけでなく放浪初期の)を集中的に読んだことがある。
再構成された会話のやりとりを読むと、テープレコーダーで再生したかのようだ。

実は、生まれてから見聞きした情報の全てが動画のように脳に記録されているという仮説もある。
もっとも、三島由紀夫や山下清の写真記憶(瞬間記憶)を、この仮説で説明できても、サヴァンのカレンダー計算は、この仮説だけでは説明できない。

学生時代の古本屋巡りで、こんなことがあった。
ロンブローゾの『天才論』を手許に置きたくて(ドッグイアやマーカーの為)、古本屋街を毎日さまよっていた。
ある日、天井の高い古本屋の2階に上がる途中で、かなり離れた書架の上方にある本(背表紙)が目に飛び込んできた。
ロンブローゾの背表紙が大きく輝き、ここにあると教えてくれた不思議な感覚だった。

こんなこともあった。運転中、すぐ前を走る大型バイクが転倒した。
ハッとした瞬間からスローモーションになり、わずか数秒間に、ルームミラーを確認し、少しブレーキを踏み、バイクと人が左後方に流れてきて、ぎりぎり自分の車とぶつからないことを確認しながら走行を続けることができた。
この感覚の変化は、実験的に証明されたと以前読んだことがある。

おそらく、語学の天才シュリーマンも、『努力論』の幸田露伴も、気を散らさず、集中力と持続力で脳を天才的に活性化させる方法を会得していたのだろう。
色々言い訳をし、努力することが苦手だと避けてきた私は、天才になるチャンス(誰でもその可能性のある脳を持っているという意味で)を逸したことになる。

本書を知った頃、『淘宮術入門』というカッパ・ブックスのような体裁の新書を手にしていた。
江戸後期の横山丸三創始による淘宮術が現代にどのように受け入れていたのかと関心を持っていたからだ。

そうそう、修養の扉は、街の本屋から古本屋街へ、そして「アマゾン」や「日本の古本屋」というネット世界に広がった。
アマゾンでの入手困難本が「日本の古本屋」で見つかることがある。

PHPの『成功哲学ノート(図解)』という、よく出来たムック本がある。
成功には縁や関心がなかった人生なのに、面白いからと手許に置いていた。
この冊子は、「成功実業家」と「成功理論家」とに別けられ、
成功理論家として、日本人では「中村天風」「福沢諭吉」「本多静六」「安岡正篤」「横山丸三」の諸氏が取り上げられている。

本多静六の名は、林学関係の本を読んで知っていたが、『本多静六自伝−体験八十五年−』を読んだのは、この冊子がきっかけだった。
学僕時代の後見人が、「お前(本多青年)は頭もよく勉強もするが強情の癖が強い。この分では自分で自分の意地に食われていじけた変人になってしまう。俺の話を信じないお前を俺の力では直せない」として、天源淘宮術(観相・開運等)の先生に連れていくエピソードが好きだ。

後見人が連れて行った先生は、新家春三(にいなみはるみつ)氏で、創始者、横山丸三の高弟で免許皆伝者だった。
この話の顛末は面白いので、関心のある方は『本多静六自伝』でご確認を。

私が明治人の著作や伝記を好むのは、彼らを育てた幕末世代の価値観を知ることができるからだ。
近代的な教育を受けた世代より、幕末世代の方が人間観・教育観に奥深さを感じる。
個の才能に応じた人の育て方・人の生かし方を知っていたような気がする。

江戸後期の大坂における天文暦学者のサロンで、特異な記憶力を持った傘の紋がき職人が話題になった。
サロンでは、彼を資金的に援助し、蘭学修行のために江戸に遊学させることとした。
わずか数ヶ月で数万語を習得・帰郷し、彼ら天文暦学者を助け、後に蘭学者として身を立てることができたという。

ギフテッド(教育)という言葉を聞くようになった。
「天賦の才」と訳すのだろうか。
一方で、学生時代に熱心に読んでいた「ヴィッテの早教育」本も思い出す。
新渡戸の『修養』には、「納豆売りのオバサン」の話が出てくる。
これは意識的に気を散らす(気配り)の才をも讃えたエピソードだったと思う。

気配りできる人々がいなければ、人間社会は成立しない。
IQは、脳の働きの何かを測る指標であるだろうが、IQ130の人もいれば、129、128、127の人もいるといったグラデーション的なものだ。
つまり誰でも「天賦の才」を持つ、或いはその能力(技能・芸能も)を開花させる可能性を秘めているという意味で、全ての子どもは、社会として大切にされるべきだ。

【まとめにならないまとめ(政治と宗教・個と社会)】
先に紹介した淘宮術の本は、現代本といっても出版は昭和46年、著者は明治21年生まれの祖父母世代で、江戸もすぐそこだ。
裏表紙の著者略歴に、教化団体「使命社」を組織とあった。

人々が集い、学び合い助け合い、人を育てたいという気持ちは自然な願望なのであろう。
そこに「宗教っぽい(さ)」(←私が十代の頃は、自己啓発・スピリチュアルなどどいう言葉は聞かなかったので、本書の言葉は興味深い)が現れるのも自然だと思う。

日本には、権威と権力をわけ、政体を安定化させる皇室があり、
日本は、八百万の神、山川草木悉有仏性の国だと思ってきた。
だから、ある特定宗教団体の政治的影響力が増すのは好ましくないとも思っている。

天皇の神格化や国家神道がよいというのではない。
ただ、戦前の反省から「信仰の自由」「布教の自由」「政治活動の自由」を水戸黄門の印籠のようにしてしまった気がする。
今こそ、「精神の自由」「自律的な思考判断の自由」「自主的な意思表示の自由」も同等以上に重要であることをかみしめたい。

本書で紹介された、新渡戸稲造のキリスト教徒でありながら、各人の神仏・天を敬う気持ちを大切にする姿勢や、松下幸之助の特定の宗教に肩入れしない姿勢には共感する。

また、個人の修養・努力といっても限界がある。
その時、手がかりとなるのは「保守」の思考法だ。
ユートピアは、どこにもない。
エドマンド・バークの『フランス革命の省察』は読みにくい本だが、所々その「思慮深さ」に共感しながら読んだ。

この本は、フランスの若い紳士が、フランス革命賛同に期待して、バークに送った手紙に対する返書のつもりで成ったものだ。
英国と仏国のどちらが正しいかということではない。
英国国葬の様子、
ライシテの発想から「政治と宗教問題」に真摯に取り組む仏国の様子の、
どちらからも日本は学べる。

長い伝統を継承してきた、明治維新という生みの苦しみを乗り越えた日本は、日本独自に歩んでいけばよいと思う。
その際(「先人」→「現在の我々」→「後世の人々」)と意識することが大切だ。
修養や自己啓発は、個で完結するものでなく、先人の努力・知恵や、後世の人々をおもい、現代の我々が「どう生きるか」という問題につながる。
バトンを次の世代に渡すという発想・役割は、歴史に謙虚になることでもある。

現代人の浅知恵・頭の中だけの発想(机上プラン)で改革すると間違えるよ、という警告を感じる。
その仕組み・やり方の存在する理由がよく分からなくても、前例や伝統に従っておく方が、歴史のフルイにかけられた知恵・価値観の方が、間違えが少ないということだ。
もちろん改革を否定するものではない。
しかし改革は思慮深く慎重に、日々の「カイゼン」で少しずつ、というのが正統保守の発想だと思う。
修養が足りないリーダーの思いつきほど怖いものはない。

若い頃、仏教関係の本を熱心に読んでいた時期がある。
本書に、ラジオ草創期の「宗教の時間」を紹介した項があった。
その部分を読んで思い出した。
友松圓諦の『法句教講義』も読んだことがある。
その中で、この本はラジオ放送が元になっていると記してあった。
私は記憶力(向上の努力を全くしてこなかった)が悪く、昨日のことを忘れるのに、何十年も前の、こんなことを思い出す記憶のメカニズムは不思議で面白い。

記憶力がよければ、自分の思考活動も、もう少し充実したのではと考えるが、目が弱った今では、生きている生かされているだけでも運がよいと感じている。
身体の衰えに対応して、これからは子ども時代に帰って耳学問⑨(ラジオの宗教・教養番組等)に戻るかなと思っている。

もし大澤先生を受講し「修養について」何か記せという課題が出たら、上記を材料に、指定枚数の体裁を整えて提出する。
可(C)は、いただけるかな⁉
偉そうに記すと、本テーマに関心のある学生諸君において、本書は新渡戸のいう精読に値する「中心図書」となるだろう。
私は性分により速読で失礼した。以上。
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