大晦日の「ベートーベンは凄い 全交響曲連続演奏会」で、隣に座った人が腕を振るのが気になって困った、という書き込みをSNSにしたら、友人から勧められたので読んでみた。
もともとはクラシック音楽も王侯貴族のサロンミュージックで、食べたり飲んだり喋ったりしながら聴くものだったのが、ベートーベンの登場を境に「芸術」として確立し、作曲家のコンセプトを読み取ることが聴衆ミッションとなるようなコンサートが生まれた。
つまり、聴衆が誕生したのである。
このコンセプトでは、音楽家のコンセプトを読み取ることを妨げる雑音はすべて排斥される。
ぼくが、大晦日に感じた不快感は、こうしたパラダイムの上に成立しているのだという自覚は、そもそも持っていた。
ここまでは、ぼくの理解とほぼ同じでもある。
本書は、そこから、現代がこのパラダイムの脱構築の時代だと説く。
といっても、この書籍自体が30年以上前の、ニューアカ、ポストモダン全盛期のものだから、「差異の戯れを愉しむ時代」と言われても、古すぎるという感覚も残ってしまうのだがw
それはともかく、この著者は、大衆ではなく分衆の時代であるとして、音楽をさまざまな聴き方がをする人たちが併存する時代になっているのだという。
それはある程度首肯できるのだが、ぼくなりの解釈を言えば、時代はもっと進んでいて、文衆ではなく一人の人間が状況に応じてさまざまに音楽に対する「として」を使い分けているというのが、現在の状況ではないかと思ったりする。
ベートーベン第九を、年末に自分がコーラスに参加するものとして向き合う人もいれば、コンサートで聴く人もいる、という区分ではなく(それは分衆なのだが)、たとえばぼくは第九を正しく聴くときもあれば、BGMのように聴くこともある、というように一人の個人の中で多様な「として」が併存するというのが「今」の音楽状況なのではないか、と思う。
もっとも、これは自分にひきつけすぎているのかもしれないが・・・。
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聴衆の誕生 - ポスト・モダン時代の音楽文化 (中公文庫 わ 22-1) 文庫 – 2012/2/23
渡辺 裕
(著)
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クラシック音楽はいつから静かに真面目に聴くものになったのか? 文化的、社会的背景と聴衆の変化から読み解く画期的音楽史。サントリー学芸賞受賞作。
- 本の長さ325ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2012/2/23
- ISBN-104122056071
- ISBN-13978-4122056077
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2012/2/23)
- 発売日 : 2012/2/23
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 325ページ
- ISBN-10 : 4122056071
- ISBN-13 : 978-4122056077
- Amazon 売れ筋ランキング: - 169,287位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2021年1月20日に日本でレビュー済み
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2020年9月27日に日本でレビュー済み
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”学び直しの教養!フェア”で推薦されていたので読みました。
いやー,ホントに面白かった。
他のレビュアーが指摘している通り,読みやすい,今や少し古臭い,が名著と思います。
古いので補章があり,さらに増補版あとがき,文庫版あとがきと
言い訳が続きますが,真理を突いていて,圧巻は三浦雅士氏の解説で,
この解説込みでメビウスの輪に入り込んだような感覚に囚われます。
いやー,ホントに面白かった。
他のレビュアーが指摘している通り,読みやすい,今や少し古臭い,が名著と思います。
古いので補章があり,さらに増補版あとがき,文庫版あとがきと
言い訳が続きますが,真理を突いていて,圧巻は三浦雅士氏の解説で,
この解説込みでメビウスの輪に入り込んだような感覚に囚われます。
2015年7月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この渡辺裕という著者の生業がなんなのか、わたしは知らない。本の中に「生徒たちが」といった言い回しがあるから、教師であろう。
この本の文章は、練れていて読みやすい。これは教師だから、と云うこととはあまり関係がない。大学教授が論文ならまだしも交友録、自伝などで難渋にして文法の間違いだらけの文章を書くことがあるのは周知の事実だ。
しかし渡辺裕の文章がやさしいからといって、正しいとはかぎらない。構造主義という単語が書名に入っているだけでわたしは危険を感ずる。わたしには、構造主義やポスト・モダンが何なのか、本をいくら読んでも、わからないのだ。アラン・ソーカル事件のときはすこし嗤ったが。
しかしまあ、そこまで勘ぐる必要のない本であった。過去において聴衆というものがいかなる様相でなにを求め、演奏会においてどのように振る舞ったか。それが19世紀後半からどのように変わってゆき、現代(著作時1989年)においてどう定着したか。著者は1989年において「聴衆というものの先祖返り」が散見せらるると述べており、事例として「ブーニン・シンドローム」を挙げている。
ここからが著作の眼目なのだが、著者は最近の「モーツァルトもベートーヴェンも知ったことでなく(本当に知らないのだ)、興味があるのはブルックナーとマーラーだけ」という20代の学生を目にして「彼らには、たとえばブーニンが『何を表現したかったのか』を推定する欲求がまったく、ないのだ」と述べている。
ここに被さるように「サティ」と「マーラー」が登場する。このふたりが出てくるところで、ははあ、構造主義だな、と読める。サティから派生するミニマル・ミュージックやマーラーの用いたコラージュ書法は「全体」ではなく「部分」に注目していくことを重要視する。
実はわたしは、1989年にこの本を読んでいる。著者は「エリアフ・インバルのマーラー:交響曲第5番」の第4楽章〈アダージェット〉について「他の指揮者たちが慣例的に採っているテンポ、アゴーギグ、ダイナミックスからきれいさっぱり手を洗って、楽譜そのものに語らせた演奏」と称揚し、「きいてなにか拍子抜けするような感想があるならば、それもマーラーの意図するところなのだ」と述べる。
わたしは一度売り払ったインバル/フランクフルト放送交響楽団のマーラー・交響曲第5番を買い戻して、きいてみた。
結論.インバルのマーラーは、わたしには駄目です。
この本の文章は、練れていて読みやすい。これは教師だから、と云うこととはあまり関係がない。大学教授が論文ならまだしも交友録、自伝などで難渋にして文法の間違いだらけの文章を書くことがあるのは周知の事実だ。
しかし渡辺裕の文章がやさしいからといって、正しいとはかぎらない。構造主義という単語が書名に入っているだけでわたしは危険を感ずる。わたしには、構造主義やポスト・モダンが何なのか、本をいくら読んでも、わからないのだ。アラン・ソーカル事件のときはすこし嗤ったが。
しかしまあ、そこまで勘ぐる必要のない本であった。過去において聴衆というものがいかなる様相でなにを求め、演奏会においてどのように振る舞ったか。それが19世紀後半からどのように変わってゆき、現代(著作時1989年)においてどう定着したか。著者は1989年において「聴衆というものの先祖返り」が散見せらるると述べており、事例として「ブーニン・シンドローム」を挙げている。
ここからが著作の眼目なのだが、著者は最近の「モーツァルトもベートーヴェンも知ったことでなく(本当に知らないのだ)、興味があるのはブルックナーとマーラーだけ」という20代の学生を目にして「彼らには、たとえばブーニンが『何を表現したかったのか』を推定する欲求がまったく、ないのだ」と述べている。
ここに被さるように「サティ」と「マーラー」が登場する。このふたりが出てくるところで、ははあ、構造主義だな、と読める。サティから派生するミニマル・ミュージックやマーラーの用いたコラージュ書法は「全体」ではなく「部分」に注目していくことを重要視する。
実はわたしは、1989年にこの本を読んでいる。著者は「エリアフ・インバルのマーラー:交響曲第5番」の第4楽章〈アダージェット〉について「他の指揮者たちが慣例的に採っているテンポ、アゴーギグ、ダイナミックスからきれいさっぱり手を洗って、楽譜そのものに語らせた演奏」と称揚し、「きいてなにか拍子抜けするような感想があるならば、それもマーラーの意図するところなのだ」と述べる。
わたしは一度売り払ったインバル/フランクフルト放送交響楽団のマーラー・交響曲第5番を買い戻して、きいてみた。
結論.インバルのマーラーは、わたしには駄目です。
2021年3月1日に日本でレビュー済み
今でも新鮮であり、渡辺裕の感性が研ぎ澄まされている
2015年12月8日に日本でレビュー済み
この著作の内容は、ある視点からのクラシック受容史の記述として概ね納得できるものである。もちろん近現代音楽史として完全なもわけではない。例えば西洋音楽の歴史とは、Jazz もこの点は同様なのであるが、調性の確立と崩壊の歴史として語ることができるのだが、それについては全く言及がない。また、中心的な論点の精神性の有無による高級音楽と大衆音楽の二分論であるが、精神性というのがなにか納得いく形では示されていない。精神性が単なる歴史的なイデオロギーだとしても、それによって偉大な達成がなされたのに。
私の思うところ精神性うんぬんよりも前に、高級音楽と大衆音楽は手触りが違う。前者に通底するのは究極の点に向けての果てしない努力なのだが、後者を特徴づけるものは気楽さである。大衆音楽の気楽さは新たな価値観の主張として「中学生にもわかるように(GLAY)」という主張にもつながるが、時には技の欠陥に対する免罪符となることもある。(紅白ですらキーを半音ほども外す歌手がいるのだ。1hzの調律が大問題になるクラシックではこんなことはありえない。)
が、これらの問題は実は大きな問題ではない。この著作がかかれて20年、ある面ではポストモダン状況は一層深化したといえるが、逆にそれは極めて限られた現象であることもはっきりしてきたのである。ポストモダン状況とは先進国の消費生活のそのごく一部、社会の表層面ありていに言えば風俗にかかわる側面に限られることがそれである。その部分においては確かにカタログ化は進行している。しかし、先進国においても、生産現場では決してポストモダン状況にない。例えばポストモダン的な働き方として導入された派遣制度は、結局のところいっそうの搾取と従属を生んだだけだった。そして世界においてはむき出しの利潤追求であるグローバル資本主義が支配している。さらに、宿痾のような南北問題を背景に、それを新しい大きな物語である「文明の衝突」と解釈し、先進国支配体制に挑戦する勢力も不気味に力を伸ばしている。つまり、現代の世界がポストモダン状況にあるというのは相当に能天気な考えであるといえ、むしろいまだにプレモダンとモダンの悪しき結婚の場であるという方がより実態に近いであろう。
それゆえ、ソーカルの批判は重要である。古来、進歩は真理や正義に基づいた批判を通してなされてきた。ところがポストモダン派はすべてを相対化することで、悪しき権力を許容しまたそこに確かに存在する問題を隠ぺいしてしまっている、と。これらの結果、思想の世界においては脱構築派は力を失い、公共性や正義や真理などの理念的な概念を定義しなおそうとする努力が主流となっている。
本書は以上の限界を理解して読まないと、足をとられることになるだろう。
私の思うところ精神性うんぬんよりも前に、高級音楽と大衆音楽は手触りが違う。前者に通底するのは究極の点に向けての果てしない努力なのだが、後者を特徴づけるものは気楽さである。大衆音楽の気楽さは新たな価値観の主張として「中学生にもわかるように(GLAY)」という主張にもつながるが、時には技の欠陥に対する免罪符となることもある。(紅白ですらキーを半音ほども外す歌手がいるのだ。1hzの調律が大問題になるクラシックではこんなことはありえない。)
が、これらの問題は実は大きな問題ではない。この著作がかかれて20年、ある面ではポストモダン状況は一層深化したといえるが、逆にそれは極めて限られた現象であることもはっきりしてきたのである。ポストモダン状況とは先進国の消費生活のそのごく一部、社会の表層面ありていに言えば風俗にかかわる側面に限られることがそれである。その部分においては確かにカタログ化は進行している。しかし、先進国においても、生産現場では決してポストモダン状況にない。例えばポストモダン的な働き方として導入された派遣制度は、結局のところいっそうの搾取と従属を生んだだけだった。そして世界においてはむき出しの利潤追求であるグローバル資本主義が支配している。さらに、宿痾のような南北問題を背景に、それを新しい大きな物語である「文明の衝突」と解釈し、先進国支配体制に挑戦する勢力も不気味に力を伸ばしている。つまり、現代の世界がポストモダン状況にあるというのは相当に能天気な考えであるといえ、むしろいまだにプレモダンとモダンの悪しき結婚の場であるという方がより実態に近いであろう。
それゆえ、ソーカルの批判は重要である。古来、進歩は真理や正義に基づいた批判を通してなされてきた。ところがポストモダン派はすべてを相対化することで、悪しき権力を許容しまたそこに確かに存在する問題を隠ぺいしてしまっている、と。これらの結果、思想の世界においては脱構築派は力を失い、公共性や正義や真理などの理念的な概念を定義しなおそうとする努力が主流となっている。
本書は以上の限界を理解して読まないと、足をとられることになるだろう。
2013年11月9日に日本でレビュー済み
1989年に出版された「サントリー学芸賞」受賞作。有名な本(らしい)。
簡単に言うと、クラッシク音楽に典型的な、外部から隔絶された暗いコンサート・ホールに息をひそめて音を立てることなく座り、偉大なる芸術家(モーツアルト、ベートーベン等々)が作り上げた「精神的作品」を集中して「聴取」し、これを統一した作品として「解釈」し、「理解」するという聴衆の態度は、19世紀に作られたものに過ぎない。このような態度の背景にあるのは、19世紀に確立したロマン主義的な「精神性」の重視と「偉大なる芸術家」像であって、それ以前、例えば、モーツアルトやベートーベンの時代にはこんな音楽の聴かれ方はされず、途中で拍手が入ったり、雑談したり、食事までしたり、音楽会のプログラムもそのような聴衆を校了した雑多なものだった。この19世紀に確立した音楽の聴き方は、「高級音楽」と「通俗音楽」の区別を含め、現代(つまりこの本でいう80年代)には大きく変化しつつあるという。一種の音楽における「近代化」批判、(副題にもあるような)ポストモダン論、近代音楽のデコンストラクションである。
このように書いてみると、さすが20年以上に書かれた本の古さを感じることは否めない。
芸術作品を畏まって静聴する態度は、いまだ残っているとはいえ、もう必ずしも一般的ではない。
私自身そんな聴き方をしていないし、忌避してきた。
その意味では著者は、私より古い世代に属する。
また、著者自身が捕章やあとがきで認めている通り、ポストモダンという言葉自体が時代を感じさせる。
新しい聴衆、「軽やかな聴取」として挙げられている例自体、バブル期のことであり、今の若者にとっては、どちらも昔の歴史的事象にすぎない。
ただ、この本の面白さは、解説で三浦雅士が書いているように、そんな古さも相対化してしまえる視点を持っていることである。
つまり、彼が指摘している新しい「軽やかな聴取」の在り方も、その時代の産物であり、その時点での技術の進歩の産物でもある。
「正しい」音楽の聴き方、接し方、演奏の仕方があるわけでない、ということである。
温雅に対する考え方は、著者と私ではかなり違う気がするけど、この点は同感できる。
ただ、ここまで鬱陶しいことを考えなくても音楽は聴けるし楽しめるわけだが、たまにクラッシックのコンサートに行って周囲の聴衆からプレッシャーを感じたり、訳知りの「解釈」を拝聴しなければならなくなって違和感を感じたりするとき、この本の議論は密かに溜飲をさげてくれる。
内容は重いが、筆致は軽い。
でも意外にどんどんとは読み進めなかった。
簡単に言うと、クラッシク音楽に典型的な、外部から隔絶された暗いコンサート・ホールに息をひそめて音を立てることなく座り、偉大なる芸術家(モーツアルト、ベートーベン等々)が作り上げた「精神的作品」を集中して「聴取」し、これを統一した作品として「解釈」し、「理解」するという聴衆の態度は、19世紀に作られたものに過ぎない。このような態度の背景にあるのは、19世紀に確立したロマン主義的な「精神性」の重視と「偉大なる芸術家」像であって、それ以前、例えば、モーツアルトやベートーベンの時代にはこんな音楽の聴かれ方はされず、途中で拍手が入ったり、雑談したり、食事までしたり、音楽会のプログラムもそのような聴衆を校了した雑多なものだった。この19世紀に確立した音楽の聴き方は、「高級音楽」と「通俗音楽」の区別を含め、現代(つまりこの本でいう80年代)には大きく変化しつつあるという。一種の音楽における「近代化」批判、(副題にもあるような)ポストモダン論、近代音楽のデコンストラクションである。
このように書いてみると、さすが20年以上に書かれた本の古さを感じることは否めない。
芸術作品を畏まって静聴する態度は、いまだ残っているとはいえ、もう必ずしも一般的ではない。
私自身そんな聴き方をしていないし、忌避してきた。
その意味では著者は、私より古い世代に属する。
また、著者自身が捕章やあとがきで認めている通り、ポストモダンという言葉自体が時代を感じさせる。
新しい聴衆、「軽やかな聴取」として挙げられている例自体、バブル期のことであり、今の若者にとっては、どちらも昔の歴史的事象にすぎない。
ただ、この本の面白さは、解説で三浦雅士が書いているように、そんな古さも相対化してしまえる視点を持っていることである。
つまり、彼が指摘している新しい「軽やかな聴取」の在り方も、その時代の産物であり、その時点での技術の進歩の産物でもある。
「正しい」音楽の聴き方、接し方、演奏の仕方があるわけでない、ということである。
温雅に対する考え方は、著者と私ではかなり違う気がするけど、この点は同感できる。
ただ、ここまで鬱陶しいことを考えなくても音楽は聴けるし楽しめるわけだが、たまにクラッシックのコンサートに行って周囲の聴衆からプレッシャーを感じたり、訳知りの「解釈」を拝聴しなければならなくなって違和感を感じたりするとき、この本の議論は密かに溜飲をさげてくれる。
内容は重いが、筆致は軽い。
でも意外にどんどんとは読み進めなかった。
2018年10月21日に日本でレビュー済み
19世紀とそれ以降の音楽聴取態度を近代ドイツ哲学とフランス現代思想になぞらえており、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』よろしく「精神的な高尚性」を要求するクラシック音楽世界の企みを暴露したものだった。しかし、増補版における「補章」では、本書の言説自体がそもそも19世紀的であると認め、文化とはその時代に動的に存在するものであり、「オリジナル」な音楽を復刻はしても理解する方法は無いと主張している(往年のアニメのリメイクやお菓子の復刻版はさっぱりヒットしない)。印象派に属するサティやマーラーがモネらの絵画と同様の精神を碇石とした等の記述がないからと言って、本書の重要性が聊かも貶められるものではなく、真に重要なのは、近代だのポストモダンだのといった主張の裏には今日に対する不満の原因を過去に求めたがる悪癖があること指摘している点であろう。半藤一利らの昭和軍人に対する指弾に、何もかも貧しい「日本」が職業軍人に期待していたことを予断的に省略したこと、現代の政治不信への短絡的な象徴などを見るに、本書の価値は、物事を相対的にみることの「謙虚さ」を説いている。