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虹の階梯 改稿: チベット密教の瞑想修行 (中公文庫 な 5-4) 文庫 – 1993/5/10

4.1 5つ星のうち4.1 18個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 中央公論新社 (1993/5/10)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1993/5/10
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 633ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 412201994X
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122019942
  • カスタマーレビュー:
    4.1 5つ星のうち4.1 18個の評価

著者について

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中沢 新一
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1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、多摩美術大学芸術人類学研究所所長。思想家。著書に『チベットのモーツァルト』(サ ントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(伊藤整文学賞)など多数ある(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『カイエ・ソバージュ』(ISBN-10:4062159104)が刊行された当時に掲載されていたものです)

カスタマーレビュー

星5つ中4.1つ
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上位レビュー、対象国: 日本

2018年1月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
初めは本の厚さにビックリしましたが、ゾクチェンの事がとても解りやすく簡単に読めました。
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年12月14日に日本でレビュー済み
私の仏教の師がネパールのチベット仏教専門書店で”The Words of My Perfect"を購入しようとしたところ、店主のチベット人からこの本はチベット仏教の真髄を説いているからと非常に喜ばれたといういう話をしてくれた。ダライ・ラマやチベットの高僧も推薦をしている書物らしい。この話にはまだ先がある。彼が読み進みにつれどこかで読んだことがあると思い、思い巡らしてやっと中沢新一の『虹の階梯』だと思い当たったという。ざっと見たところほぼ同じ内容であることにびっくりしたというのである。

チベット人から大変信頼され敬われている本の翻訳が、やはり『虹の階梯』だったのかと私が思う暇もなく、私の仏教の師は、そのこと自体が許せないような口ぶりでさらに話し続ける。というのは『虹の階梯』はオーム真理教の教義に大きな影響を与えたとうわさされていて、そのうわさが一人歩きし、一般には忌み嫌われている本であるからである。
(私もこの本を持っているのだが、まだ表紙や裏表紙の中沢新一とケツン・サンポの写真を眺めるぐらいであった。)

師は、”The Words of My Perfect"と『虹の階梯』の違いを見出したようで、さらに語る。それは”The Words of My Perfect"の各章の終わりに掲げた詩にあるという。その詩にはいかに精進を怠けてふがいないか等の自省がこめられてい、これがあるかないかで違うというのである。また、そのような詩を入れたときに、日本のマーケットで売れるかを考えると、自省の詩は格好が悪く、『虹の階梯』は格好をつけてしまったのではないかと断じた。それは、少しの違いであるが、大きな違いであると。

これから書くことは、この師の話に触発されている。つまり、『虹の階梯』を読む準備のために周辺情報を整理してみたいと思ったのである。

まず、師の話したことはどこまで信憑性があるかをネットで確認することにする。すると、東京ゾクチェンセンター(ゾクチェン・ドガク・ダルジ・リン)のサイトに突き当たった。
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パトゥル・リンポチェ1世の著作。ゾクチェンの体系の1つロンチェン・ニンティクでは、加行の部分は同著を元に伝授され
るのが普通です。日本では『虹の階梯』が同著を元に著されています。現在では、4つの宗派すべてで、チベット仏教の入門書として重要視されています。  (http://www11.plala.or.jp/patrulrinpoche/Kunsan.html)
--------
知るところではすでに知られ、このサイトでは"The Words of My Perfect"と『虹の階梯』は2冊並べて掲げられている。

しかし、島田祐巳『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』を読むと『虹の階梯』の原本のひとつとして "Tantric Practice in Nyking-ma"(Khetsun Sanpo Rinbochay)を挙げている。中沢新一もタイトルこそ挙げていないが同じ本の翻訳者名、出版社名を『虹の階梯』の文庫版の前書きの中であげている。
島田祐巳に言わせればケツン・サンポの"Tantric Practice in Nyking-ma"は、中沢新一が翻訳の参考にしたという以上に目次の構成から似ているという。(amazon.comで目次を見るとなるほど似ている。)
それでは、"Tantric Practice in Nyking-ma"と"The Words of MyPerfect"の違いは何かというと、Joe Wilsonというチベット学者が、amazon.comで"The Words of My Perfect"を書評する中でケツン・サンポの英訳本をあげてこちらの方がintroductionになると言っている。(http://www.amazon.com/Perfect-Teacher-Kunzang-Shelung-Literature/dp/0060664495/ref=sr_1_4ie=UTF8&s=books&qid=1195970155&sr=1-4)
なるほどページ数を比較すると"The Words of My Perfect"が512ページ、"Tantric Practice in Nyking-ma"が233ページである。

中沢新一が、『虹の階梯』を書いたときには、おそらく"The Words of My Perfect"の英訳本は出ていなかったろう。amazon.comで調べると1994年発行であるとわかるからだ。一方、"The Words of My Perfect"の初版は1981年である。では、"The Words of My Perfect"のチベット語版『クンサン・ラマの教え』を中沢新一は参考にしたのだろうか。『虹の階梯』の原著まえがきにはケツン・サンポの録音テープを『クンサン・ラマの教え』の原テキストに照らせあわせながら翻訳したと書いてある。中沢新一にとってはグルの口伝が第一義であったのである。確かに中沢の原著まえがきでもロンチェン・ニンティクの教えをグルが弟子に口伝するときに『クンサン・ラマの教え』を下敷きにするのが普通であると書いてある。つまり下敷きにするけれども、グルと弟子の間での口伝伝授の場合はグルの言葉が第一義なのである。『虹の階梯』は他の書物を参考にしたとはいえ、グルの口伝伝授を翻訳したものであると言えるだろう。
 
それでは、私の仏教の師が言った「少しの違いであるが、大きな違い」の部分は本当に問題になるのであろうか。というよりも、そもそも『虹の階梯』は忌み嫌われるような本なのだろうか。"The Words of My Perfect"を評価し、敬うなら、『虹の階梯』も同様評価されていいのではないか。そして、オーム真理教は本当に『虹の階梯』から教義を得たのであろうか。.....という疑問が立ち上がって来るのである。
43人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2014年11月19日に日本でレビュー済み
中沢新一の密教本にはどこにも空海とラピスラズリ(瑠璃)の関係を直接にも間接にもふれていない。中沢は密教の本質を知らないのではないか? ましてや、フェルメールと密教の関係なんて知る由もない。それらを知りたかったら、次の三冊の本を順に読むことだ。「縄文人の能舞台」、「宇宙に開かれた光の劇場」、「宇宙に開かれた光の劇場 2 」。いずれも著者・上野和男。少なくともこの三冊を読めば間接的に述べていることがわかる。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2014年6月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
前書きから素晴らしいです。自らチベットで修業されたのでダイレクトに伝わります。しかも分かり易い。後半はかなり専門的な教えになるので、その辺りは在家には知識として読んでおきました。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2013年11月17日に日本でレビュー済み
一、

 中沢氏は、95年12月の日本テレビのインタビューで、次のように語っております。

「僕は麻原彰晃とオウム真理教というのが、まあ『虹の階梯』という本の根本的な精神

というものを、まあ、全く見誤っていたんじゃないかって、結論せざるを得ないと思います。」

ところが、中沢氏は、89年の『週間スパ』紙における麻原彰晃との対談において次のようなことを語っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(中沢) 日本のインテリの多くは、自分の今ある生をつくりなしているカルマの論理が見えていませ

んから、麻原さんたちがそうやって、

「このままでは大変なことになってしまうことになりますよ。

地獄へ堕ちてしまうことになりますよ」

と警鐘を鳴らしても、内心怖いものですから、それだけでビビッて猛烈な反発を始めるんですね。

(『週間スパ』 1989年12月6日号) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 つまり89年12月の第一回中沢・麻原対談において、麻原はもうすでに殺人犯(坂本弁護士殺人事件)であったわけですから、

「根本的精神をまったく見誤っていた」ことは明々白々であったわけです。ところが中沢氏は、地下鉄サ

リン事件(95年3月)が発覚するまでは、全く見抜くことができなかったのです。

むしろ殺人犯・麻原彰晃と対談して、「チベット仏教という同じ世界観を持ち、高度な精神状態を体験し

た」修行者同士として、意気投合していたのです。

ということは、中沢氏自身が、密教修行者として、『虹の階梯』の根本的精神について、まだまだ十分な

理解ができていなかったことを意味しております。つまり見誤ったのは、麻原だけではなく、中沢氏自身

が「仏教の根本的精神」を見誤っていたのです。                    

むしろ「オウムという地獄」から人々を救い出そうとした坂本弁護士の方が、はるかに大乗仏教の菩薩道

を実行していたということなのです。

 『虹の階梯』を口頭伝授された中沢氏は、ケツン・サンポ師の指導を受けて、急激な成長を遂げるにい

たったが、その習熟度においては、密教修行者としてはまだまだであったということになるわけです。

別な言い方をすれば、サンポ師からの受け売りの智慧の段階で、中沢氏自身の内から湧き出づる智慧のレ

ベルには至っていなかったのだと思うわけです。

二、

その「仏教の根本的な精神」について述べいるのが、『改稿・虹の階梯』(1993年)の以下の文章です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            『〔改稿〕虹の階梯』

                〈発菩提心〉

'A.“菩提心”が欠けていると、どんなに浄化の修行を積んで、どんなに瞑想に巧みであったとしても、

生者ばかりか死者にとっても、なんの助けにもならないのだ。

本当に、心の底から愛と慈悲の感情がわいてくるようでなければならない。

優しい表情をして、優しい言葉をかけて、いかにもそれらしいムードを出していても、

その人の心の奥底から、強烈な愛と慈悲の感情がほとばしってくるのでなけらば、

そんなものはただのいやらしい偽善にすぎない。

'B.鳥のように空中へ浮遊したり、岩を通り抜けたり、千里眼を持っているという修行者はたくさんいる。

しかし、もしもそれらの「超人」に、“菩提心”が欠けていれば、そんなものはただの見せ物で、

人々を本当に救う力などは持たないのだ。

「超人」は、並みの人を超えて菩薩へ向かうかわりに、ヨーガ修行を積んで「魔物」にたどりついてい

く。そういう「超人」は、人であることを越えようとして、人として生まれたことの持つ、もっとも貴重

な宝をむしろ失っていくのだ。そんな力がなんだというのだ。

たとえそんな力を持たなくても、“菩提心”が豊かに芽生えている人には、豊かな実りがもたらされる。

宝はすべて、内側に隠されてあるものだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

三、

以上の『〔改稿〕虹の階梯』の記述を読んで、思い出されることは、新約聖書の使徒・パウロによる次

の言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      使徒・パウロ〈コリントの信徒への手紙〉 12章31b節〜13章13節

 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、

愛がなければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、

たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、

愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。

 愛は情け深い。ねたまない。

 愛は自慢せず、高ぶらない。

 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。

 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。

成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることに

なる。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。

その中で最も大いなるものは、愛である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 四、

宗教の根本的精神は、仏教もキリスト教も同じだと思います。

オウム真理教では、サンポ師・中沢共著の『虹の階梯』が非常に大きな影響を与えてきたと言われてい

ますが、その教えの核心が“菩提心〈愛と慈悲〉”にあることがまるで分かってはいなかったということ

になります。

中沢氏には、〈宗教の本質〉は、仏教においては“菩提心〈愛と慈悲〉”であることがわかって

いなかったのだろうか。        

また中沢新一氏と麻原彰晃との対談も、互いに宗教者(修行者)同士の対談であるというのなら、

“菩提心”において心が通い合った対談とならなければならないはずではないか。

ところが、中沢氏と麻原彰晃との第一回目の対談(89年12月・週間スパ)は、坂本弁護士家族・拉致殺害

事件の直後になされたものであった。麻原がすでに殺人行為を指令・実行していた直後なのだから、

“菩提心”の一片もない、地獄的な心の状態にあったことは確かなのだ。
 
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