戦後を代表する文芸評論家の最初期の傑作の文庫化。
ほぼ戦争終結後の作品、つまりは半世紀以上前の作品になるが、その到達水準は今なお高い。
自身が専門とする文学や演劇を基礎とし、そこから人間社会全般へと筆致を広げていくという、
筆者の基本姿勢がこの時点でほぼ確立しているのは流石というほかない。
内容は、題名の通り、藝術・呪術のもつ意味から始まり、人間社会の持つ藝術性=人為・擬制の意味を問うものとなっている。
この場合の呪術とは、当然ながらオカルト的なものではなく、人為や擬制、即ち社会や政治の持つある種の祭祀性や、
不可視の影響力のようなものを想定するべきであろう。
筆者は、芸術家と一般人との対立の構造を、近代における藝術の衰退の根源と見て容赦なく筆誅を下しているが、
もはや、その対立構造さえ成立しなくなりつつある現代の状況を、泉下でどうお考えなのであろうか。
なお、その内容から、後の傑作である『
人間・この劇的なるもの (新潮文庫)
』の、
前身というべき作品であるというのが一般的な理解なので、是非とも併読を勧めたい。

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藝術とは何か (中公文庫) 文庫 – 1977/9/10
福田 恆存
(著)
- 本の長さ150ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1977/9/10
- ISBN-104122004748
- ISBN-13978-4122004740
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1977/9/10)
- 発売日 : 1977/9/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 150ページ
- ISBN-10 : 4122004748
- ISBN-13 : 978-4122004740
- Amazon 売れ筋ランキング: - 576,204位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,816位中公文庫
- - 24,083位評論・文学研究 (本)
- - 30,176位アート・建築・デザイン (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2010年5月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2016年2月20日に日本でレビュー済み
続編の『人間・この劇的なるもの』のほうを先に読んだ。『劇的』のほうがよくまとまっている気がした。この本はくり返しが多い。というか、くどい。著者もあとがきに「悪口屋は例のごとくたった三十枚で書けることを二百枚にひきのばしただけのことじゃないか、というかもしれません。そのとおりです。ぼくのいいたいことは、三十枚どころか、たったの一行でことたりたでありましょう」と書いている。くり返しが多い一方で作品名、作家名などの具体がほとんどないので、「現代文明は才能を殺しつつあり、しかもその方向を正当化し合理化せんとして」いるという著者の危機感がいったい何のことなのかわかりにくい。
理解できているかどうかわからないけれども、こういうことになるだろうか。かつて――たとえばギリシャ悲劇の時代――人間は演じるということに対してより「自覚的」であった。その時代の人たちにとって「演戯しようという欲望は――自分自身になろうとする欲望は――ありのままの自分であるだけでは気に食わぬというところに発生します」と福田は言う。これは『人間、この劇的なるもの』でも繰り返される主張である。そこには呪術を呪術にすぎないと、仮面を仮面だとわかっていながらそこに没頭できる健全な「諧謔の精神」があった、と。しかし、ヨーロッパ中世においては神と教会が脚本家と演出家と主役を一手に引き受けるようになり、個々の人間は与えられた役割を演じることに甘んじるようになった。そこにはたんに生活だけがあり、芸術は影をひそめてしまった、と福田は論を展開していく。
そしてルネサンスの「人間が人間の主たる芝居を演じていた」時代を経て近代――19世紀――に至ると、こんどは科学が中世における聖職者のごとく振る舞うようになり、呪術や仮面には非科学的で迷信的なものとされ、「芸術さえも[実証科学の]実地検証に及第しなくてはならくなった」結果、よりリアルであることがよしとされ、「素面がそのまま仮面になって」しまった。そうなるとどうなるか。「演戯の迫真性は、それが演戯であるかぎりにおいてみごとなのであり、生活の迫真性にまでなれば、一種の堕落であります。生活の迫真性などというものはくだらない」。このあたりが福田が一番いいたかったことなのではないか。
そして、『人間、この劇的なるもの』でもさんざんやっているように、ここでも「個性」をこきおろす。「人間の――素面などというものは、目も鼻もない、まったくののっぺらぼうにすぎません。この世に個性などというものは存在しない」。近代ヨーロッパでは少なくともこのことに対する気づきがあり、素面を仮面とする演戯、つまり「芸術家が俗人を、あるいは芸術家の俗物性を演戯」するということが流行った。一方、日本の文学界ではそこまでの自覚はなく、自然文学主義や私小説というものにおいて「俗人が、あるいは鑑賞者としての文学青年が、芸術家の演戯」をするにとどまった。つまり楽屋芝居を客に見せるという「自意識(ナルシズム)の文学」であるところの私小説は、福田にとっては耐え難く「つまらない」ものなのだ。
「われわれは芸術家が演戯をすることと、芸術家の演戯をすることの相違を厳密に区別しなければなりません」と、どんどん言葉も強くなってくる。別のところでは「芸術めいた現実と現実めいた芸術」を混同してはならないとも言っている。「自我意識という病菌」が芸術を滅ぼすのだ、と。これを書いた当時の読者は「ああ、あの作家のあの作品のことを言っているのだな」ということが読み取れたのかもしれないが、それがわからないまま読むと言っていることはわかるけれどもうすこし例なんかも引いて具体的に書いてよ、という気持ちになる。そうすれば、又吉や村上春樹や西村寛太などの作品についてはどうなんだろう、という考察も可能だったかもしれないが、これだけ読むと「私小説っぽいものはけしからん」という説教を聞かされて終わり、になってしまう。
一億総表現社会のいまこそ改めて考えてみたい大事なことを言っている気がするのだけど、そこに飛べないのが残念。福田の言う芸術の意義が「現実とはべつの次元に真の空間を得る」ことで、その方法として演技ならぬ演戯があり、呪術があり、仮面があるのだとしたら、「匿名の素面」の跋扈するネット空間では芸術など生まれないという結論になるのだろうのか。教えて、福田先生!
理解できているかどうかわからないけれども、こういうことになるだろうか。かつて――たとえばギリシャ悲劇の時代――人間は演じるということに対してより「自覚的」であった。その時代の人たちにとって「演戯しようという欲望は――自分自身になろうとする欲望は――ありのままの自分であるだけでは気に食わぬというところに発生します」と福田は言う。これは『人間、この劇的なるもの』でも繰り返される主張である。そこには呪術を呪術にすぎないと、仮面を仮面だとわかっていながらそこに没頭できる健全な「諧謔の精神」があった、と。しかし、ヨーロッパ中世においては神と教会が脚本家と演出家と主役を一手に引き受けるようになり、個々の人間は与えられた役割を演じることに甘んじるようになった。そこにはたんに生活だけがあり、芸術は影をひそめてしまった、と福田は論を展開していく。
そしてルネサンスの「人間が人間の主たる芝居を演じていた」時代を経て近代――19世紀――に至ると、こんどは科学が中世における聖職者のごとく振る舞うようになり、呪術や仮面には非科学的で迷信的なものとされ、「芸術さえも[実証科学の]実地検証に及第しなくてはならくなった」結果、よりリアルであることがよしとされ、「素面がそのまま仮面になって」しまった。そうなるとどうなるか。「演戯の迫真性は、それが演戯であるかぎりにおいてみごとなのであり、生活の迫真性にまでなれば、一種の堕落であります。生活の迫真性などというものはくだらない」。このあたりが福田が一番いいたかったことなのではないか。
そして、『人間、この劇的なるもの』でもさんざんやっているように、ここでも「個性」をこきおろす。「人間の――素面などというものは、目も鼻もない、まったくののっぺらぼうにすぎません。この世に個性などというものは存在しない」。近代ヨーロッパでは少なくともこのことに対する気づきがあり、素面を仮面とする演戯、つまり「芸術家が俗人を、あるいは芸術家の俗物性を演戯」するということが流行った。一方、日本の文学界ではそこまでの自覚はなく、自然文学主義や私小説というものにおいて「俗人が、あるいは鑑賞者としての文学青年が、芸術家の演戯」をするにとどまった。つまり楽屋芝居を客に見せるという「自意識(ナルシズム)の文学」であるところの私小説は、福田にとっては耐え難く「つまらない」ものなのだ。
「われわれは芸術家が演戯をすることと、芸術家の演戯をすることの相違を厳密に区別しなければなりません」と、どんどん言葉も強くなってくる。別のところでは「芸術めいた現実と現実めいた芸術」を混同してはならないとも言っている。「自我意識という病菌」が芸術を滅ぼすのだ、と。これを書いた当時の読者は「ああ、あの作家のあの作品のことを言っているのだな」ということが読み取れたのかもしれないが、それがわからないまま読むと言っていることはわかるけれどもうすこし例なんかも引いて具体的に書いてよ、という気持ちになる。そうすれば、又吉や村上春樹や西村寛太などの作品についてはどうなんだろう、という考察も可能だったかもしれないが、これだけ読むと「私小説っぽいものはけしからん」という説教を聞かされて終わり、になってしまう。
一億総表現社会のいまこそ改めて考えてみたい大事なことを言っている気がするのだけど、そこに飛べないのが残念。福田の言う芸術の意義が「現実とはべつの次元に真の空間を得る」ことで、その方法として演技ならぬ演戯があり、呪術があり、仮面があるのだとしたら、「匿名の素面」の跋扈するネット空間では芸術など生まれないという結論になるのだろうのか。教えて、福田先生!
2022年2月21日に日本でレビュー済み
文章がくどいと言っている人もいるようだが、こういう文章は考えながら書かれている。小林秀雄とか、西田幾多郎とかもそうだろう。考えながら書く文章の意味とは何か。それは文章そのものが思考の緊張感に満ちているという事だ。今の人はよくわからないかもしれないが、わかりやすく書こうとして失われる物もある。
福田恆存に関しては保守思想家という漠然とした印象を持っていたが、本作などはまっとうな評論家としての姿勢を持っている。小林秀雄の後継と言っていい。自分の頭で考えるとはどういう事か。小林や福田の文章をたどりながら、文章と対話的に読むのが、読者にとってもいいだろうと思う。
小林秀雄との違いーーそれは福田が演劇関係者だった事で、演劇の観点で芸術を見ている。これが独自の視点を福田にもたらしている。福田の現代批判は他のインテリもやっている事で、教養ある人には粗雑な現代社会はくだらぬものに決まっている。問題はそれを「どういう角度」で批判するか、だ。
私は「劇」の視点に感銘を受けた。劇ーーギリシャ人には運命はあったのだろう。悲劇を見るギリシャ人は能動的に劇に参加していた。ギリシャ人にとって劇は「我々の劇」だった。運命の存在する民族ーー現代の我々となんと違った事か。
現代においては犯罪を犯した動機は「精神病」であり、道徳は「法律」を守ればそれでいいらしい。交通標識のようなものが物理的にも精神的に世界を区切っており、全ての答えは与えられている。何の運命もなく、抵抗もなく、ただ欲望を満たす為に市場で遊ぶバラバラの個人があるばかりーーこれらの人間に運命は存在しない。作家の才能のなさに全てを帰しても仕方ないではないか? 運命の存在しない人間を緩やかに肯定する、小さな物語を作家は作る。空っぽの、空虚な物語の数々を。
運命の不在は、民族の衰亡と関係しているかもしれない。ある種の民族は使命に駆られて、ある所に突進する。それは福田流に言えば自らを「演じる」という事だ。演じるとは何か。自分が真の自分になる事だ、と福田は言う。ありのままの自分をだらしなく肯定している現代人には、演じる事はない。ドラマは日常生活と連続している。だから、芝居はもう意味がない。目や耳を楽しませるだけの映画が全盛である。それは我々から運命が消えたからだ。
ーーというような事を、この著書を読んでいて考えた。ここから先は私自身の課題だ。それはさておき、こういう本を再刊してほしいと思う。私はたまたまブックオフで見かけた。くだらないベストセラーだけでなく、自分の頭で考える事を「強いる」好著も書店の前面に出して欲しい。……まあ無理だろうが。
福田恆存に関しては保守思想家という漠然とした印象を持っていたが、本作などはまっとうな評論家としての姿勢を持っている。小林秀雄の後継と言っていい。自分の頭で考えるとはどういう事か。小林や福田の文章をたどりながら、文章と対話的に読むのが、読者にとってもいいだろうと思う。
小林秀雄との違いーーそれは福田が演劇関係者だった事で、演劇の観点で芸術を見ている。これが独自の視点を福田にもたらしている。福田の現代批判は他のインテリもやっている事で、教養ある人には粗雑な現代社会はくだらぬものに決まっている。問題はそれを「どういう角度」で批判するか、だ。
私は「劇」の視点に感銘を受けた。劇ーーギリシャ人には運命はあったのだろう。悲劇を見るギリシャ人は能動的に劇に参加していた。ギリシャ人にとって劇は「我々の劇」だった。運命の存在する民族ーー現代の我々となんと違った事か。
現代においては犯罪を犯した動機は「精神病」であり、道徳は「法律」を守ればそれでいいらしい。交通標識のようなものが物理的にも精神的に世界を区切っており、全ての答えは与えられている。何の運命もなく、抵抗もなく、ただ欲望を満たす為に市場で遊ぶバラバラの個人があるばかりーーこれらの人間に運命は存在しない。作家の才能のなさに全てを帰しても仕方ないではないか? 運命の存在しない人間を緩やかに肯定する、小さな物語を作家は作る。空っぽの、空虚な物語の数々を。
運命の不在は、民族の衰亡と関係しているかもしれない。ある種の民族は使命に駆られて、ある所に突進する。それは福田流に言えば自らを「演じる」という事だ。演じるとは何か。自分が真の自分になる事だ、と福田は言う。ありのままの自分をだらしなく肯定している現代人には、演じる事はない。ドラマは日常生活と連続している。だから、芝居はもう意味がない。目や耳を楽しませるだけの映画が全盛である。それは我々から運命が消えたからだ。
ーーというような事を、この著書を読んでいて考えた。ここから先は私自身の課題だ。それはさておき、こういう本を再刊してほしいと思う。私はたまたまブックオフで見かけた。くだらないベストセラーだけでなく、自分の頭で考える事を「強いる」好著も書店の前面に出して欲しい。……まあ無理だろうが。
2014年12月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
恒という字体を、福田氏が見たら叱られるだろうと思うと忸怩たるものがありますが、仕方がないでしょう。名前と言う人にとって「根底的な」
出発点を、国語改革反対という氏の生涯の仕事を破壊する、忌むべき字体変更で、最初から氏の今尚古びない評論を紹介することは、
私にとって辛い体験です。しかし、本の内容はそれらをすべて乗り越えて、永遠に不滅であることは間違いないと信じます。
出発点を、国語改革反対という氏の生涯の仕事を破壊する、忌むべき字体変更で、最初から氏の今尚古びない評論を紹介することは、
私にとって辛い体験です。しかし、本の内容はそれらをすべて乗り越えて、永遠に不滅であることは間違いないと信じます。
2016年8月7日に日本でレビュー済み
シェイクスピアの翻訳でも知られる著者だけあって、演劇を中心に据えて「芸術」について述べている本。
「美は芸術家と作品のあいだに――あるいは作品と鑑賞者とのあいだに――成立するものであります。いいかえれば、物理的、普遍的な法則を芸術家がどう利用しているか、そしてかれの精神とどういう関係においてそれを位置づけているかによって、はじめて美が成立する。鑑賞者のばあいもおなじことです。(中略)芸術は根本において、われわれの理解と解脱とを拒絶している――それは人間の、個人の、生の秘密とおなじものであります。いや、そういうものをのみ、われわれは芸術作品と呼んでいるのです」
と一部分を抜き出し。原始社会の「呪術」から始まり、古代ギリシャの英雄劇、近代に入ってからの知識階級の自我意識から、現代のジャーナリズムまで含めて述べている。「芸術」というものの理解にいくらか助けになるかもしれない。
「美は芸術家と作品のあいだに――あるいは作品と鑑賞者とのあいだに――成立するものであります。いいかえれば、物理的、普遍的な法則を芸術家がどう利用しているか、そしてかれの精神とどういう関係においてそれを位置づけているかによって、はじめて美が成立する。鑑賞者のばあいもおなじことです。(中略)芸術は根本において、われわれの理解と解脱とを拒絶している――それは人間の、個人の、生の秘密とおなじものであります。いや、そういうものをのみ、われわれは芸術作品と呼んでいるのです」
と一部分を抜き出し。原始社会の「呪術」から始まり、古代ギリシャの英雄劇、近代に入ってからの知識階級の自我意識から、現代のジャーナリズムまで含めて述べている。「芸術」というものの理解にいくらか助けになるかもしれない。
2012年12月14日に日本でレビュー済み
劇作家、翻訳者、文芸批評家として名の高い福田恆存による、芸術と文明を問い直す論考。全十一章。まずは呪術についての読み解きからはじめ、演戯する精神を芸術を貫く基軸とし、その精神が変質し軽視されていくようすを、選民の芸術、弁証の芸術、意匠の芸術とそれぞれ読み込んで、芸術での視覚優位の現状と弊害を示したあとで芸術の持つ力としてのカタルシスについて、劇的精神をもとにして語り起こしていく。あとがきも全体をまとめる働きをしていて、うすい文庫だが内容は非常に濃い。
やはり、論じていく際の思考の振幅が広く、そしてやはり文明自体を批評する姿勢が非常に明らかだ。こんな風に文明自体に疑義を表して議論を深めていくやり方というのは、本人の生き方というかスタンスが確固としていなければ、そして自分に信念や自信がなければできないことだし、今やこんな風に議論を進めてしっくりくる論者などほとんどいないだろうから、読んでいくのが勿体無いぐらいいい。そしてここで論じられている現代文明の病巣はといえば、より隠微に複雑になりつつ生き延び、はびこっている。
一方で、この著書で示されている知識人批判は、もはや今の日本にはいない類の人々の批判になっている。そんな風に批判されるぐらいの知識人がいることの方がまだ幸せである気がする。
福田恆存の居ずまいをみると、そんな風に生きていたい美しさがある。
やはり、論じていく際の思考の振幅が広く、そしてやはり文明自体を批評する姿勢が非常に明らかだ。こんな風に文明自体に疑義を表して議論を深めていくやり方というのは、本人の生き方というかスタンスが確固としていなければ、そして自分に信念や自信がなければできないことだし、今やこんな風に議論を進めてしっくりくる論者などほとんどいないだろうから、読んでいくのが勿体無いぐらいいい。そしてここで論じられている現代文明の病巣はといえば、より隠微に複雑になりつつ生き延び、はびこっている。
一方で、この著書で示されている知識人批判は、もはや今の日本にはいない類の人々の批判になっている。そんな風に批判されるぐらいの知識人がいることの方がまだ幸せである気がする。
福田恆存の居ずまいをみると、そんな風に生きていたい美しさがある。