この小説を以前読んだ時にはただ好色な作家の作品としか思わず、見過ごしていたのでしょう。
例えば『ペレアスとメリザンド』のように夫と妻、その愛人として描かれる物語、或いはロシア作家が表現する現実は、
戦争や社会体制の為に別離を余儀なくされたが、その彼らの間の深層に通底する想いと身体感覚、ヒューマニズムの一側面でしょうか?
その社会的な表現が秘められているのだろうと思うようになりました。
ロシアの映画監督ズビャギャンツェフ『エレナの惑い』を思い出してから、ふと考えた事です。
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鍵 単行本 – 1977/6/1
谷崎潤一郎
(著)
- 本の長さ235ページ
- 出版社中央公論新社
- 発売日1977/6/1
- ISBN-104120000915
- ISBN-13978-4120000911
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1977/6/1)
- 発売日 : 1977/6/1
- 単行本 : 235ページ
- ISBN-10 : 4120000915
- ISBN-13 : 978-4120000911
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上位レビュー、対象国: 日本
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2016年8月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
映画を見て、原作を読みたくて買いました。
本の方が(夫を嫌い殺害しようと思う心)が強いのだと感じました。
現在ではこのようなことが現実にもあるので、やはり古い時代だったのだと思いました。
本の方が(夫を嫌い殺害しようと思う心)が強いのだと感じました。
現在ではこのようなことが現実にもあるので、やはり古い時代だったのだと思いました。
2022年2月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
谷崎は私生活もさる事ながら、谷崎本人の欲望をそのまま映し出した作品。ほんとに、もう...。
そして、やっぱり棟方志功の版画が挿絵として掲載されている中公文庫さんがお薦めです。
白と黒。どの画もモダンです。
そして、やっぱり棟方志功の版画が挿絵として掲載されている中公文庫さんがお薦めです。
白と黒。どの画もモダンです。
2021年9月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
もっと読みたくなりました、
2018年6月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
棟方志功の装丁ということでジャケ買いしました。
やはりこの装丁は素晴らしい!
中身は名作!
やはりこの装丁は素晴らしい!
中身は名作!
2016年11月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まあ想像した通りでした。まあ想像した通りでした。まあ想像した通りでした。
2021年2月9日に日本でレビュー済み
若い時、『鍵』(谷崎潤一郎著、中公文庫)を読むのを途中で止めて放り出したのは、56歳の夫が妻に盗み見されることを想定しながら綴った日記も、交互に示される、これまた夫に盗み見されることを想定しながら書き継いだ45歳の妻の日記も、性的生活の微に入り細に入る描写が何とも赤裸々で、辟易してしまったからです。
夫のカタカナ表記の日記は、こう始められています。「一月一日。・・・僕ハ今年カラ、今日マデ日記ニ記スコトヲ躊躇シテキタヤウナ事柄ヲモ敢テ書キ留メルヿニシタ。僕ハ自分ノ性生活ニ関スルヿ、自分ト妻トノ関係ニツイテハ、アマリ詳細ナヿハ書カナイヤウニシテ来タ。ソレハ妻ガ此ノ日記帳ヲ秘カニ読ンデ腹ヲ立テハシナイカト云フヿヲ恐レテヰタカラデアツタガ、今年カラハソレヲ恐レヌヿニシタ。妻ハ此ノ日記帳ガ書斎ノ何処ノ抽出ニ這入ツテヰルカヲ知ツテヰルニ違ヒナイ」。
これに続く妻の1月4日の日記には、こういう一節があります。「実は私も、今年から日記をつけ始めてゐる。私のやうに心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向つて語つて聞かせる必要がある。但し私は自分が日記をつけてゐることを夫に感づかれるやうなヘマはやらない。私はこの日記を、夫の留守の時を窺つて書き、絶対に夫が思ひつかない或る場所に隠しておくことにする。私がこれを書く気になつた第一の理由は、私には夫の日記帳の所在が分つてゐるのに、夫は私が日記をつけてゐることさへも知らずにゐる、その優越感がこの上もなく楽しいからである。・・・一昨夜は年の始めの行事をした。・・・あゝ、こんなことを筆にするとは何と云ふ耻かしさであろう」。「年の始めの行事」とは、姫始めを意味しています。
この夫婦に、一人娘の敏子と、その求愛者・木村が絡んできます。
1月13日の夫の日記。「アノ晩僕ハ、木村ニ対スル嫉妬ヲ利用シテ妻ヲ喜バスヿニ成功シタ。僕ハ今後我々夫婦ノ性生活ヲ満足ニ続ケテ行クタメニハ、木村ト云フ刺戟剤ノ存在ガ欠クベカラザルモノデアルヿヲ知ルニ至ツタ」。
4月17日の妻の日記。「私は、今日の日曜日をいかにして過すかは前から極めて置いたのであるから、その通りにして過した。私は大阪のいつもの家に行つて木村氏に逢ひ、いつものやうにして楽しい日曜日の半日を暮らした。或はその楽しさは、過去の日曜日のうちでは今日が最たるものであつたかも知れない。私と木村氏とはありとあらゆる秘戯の限りを尽して遊んだ。私は木村氏がかうじて欲しいと云ふことは何でもした。何でも彼の注文通りに身を捻ぢ曲げた。夫が相手ではとても考へつかないやうな破天荒な姿勢、奇抜な位置に体を持つて行つて、アクロバツトのやうな真似もした(いつたい私は、いつの間にこんなに自由自在に四肢を扱ふ技術に練達したのであらうか。自分でも呆れる外はないが、これも皆木村氏が仕込んでくれたのである)。・・・私は『夫』を心から嫌つてゐるには違ひないが、でも此の男が私のためにこんなにも夢中になつてゐるのを知ると、彼を気が狂ふほど喜悦させてやることにも興味が持てた。つまり私は、愛情と淫慾とを全く別箇に処理することが出来るたちなので、一方では夫を疎んじながら、――何と云ふイヤな男だらうと、彼に嘔吐を催しながら、さう云ふ彼を歓喜の世界へ連れて行つてやることで、自分自身も亦いつの間にかその世界へ這入り込んでしまふ」。
夫の死後に書かれた、6月9日、6月10日、6月11日の妻の日記には、実に恐ろしいことが書かれています。
今回、最後まで読み通して感じたことは、『鍵』は、谷崎潤一郎が渾身の力を込めて書いた推理小説なのではないか、ということです。私の妄想に過ぎないかもしれませんが。
夫のカタカナ表記の日記は、こう始められています。「一月一日。・・・僕ハ今年カラ、今日マデ日記ニ記スコトヲ躊躇シテキタヤウナ事柄ヲモ敢テ書キ留メルヿニシタ。僕ハ自分ノ性生活ニ関スルヿ、自分ト妻トノ関係ニツイテハ、アマリ詳細ナヿハ書カナイヤウニシテ来タ。ソレハ妻ガ此ノ日記帳ヲ秘カニ読ンデ腹ヲ立テハシナイカト云フヿヲ恐レテヰタカラデアツタガ、今年カラハソレヲ恐レヌヿニシタ。妻ハ此ノ日記帳ガ書斎ノ何処ノ抽出ニ這入ツテヰルカヲ知ツテヰルニ違ヒナイ」。
これに続く妻の1月4日の日記には、こういう一節があります。「実は私も、今年から日記をつけ始めてゐる。私のやうに心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向つて語つて聞かせる必要がある。但し私は自分が日記をつけてゐることを夫に感づかれるやうなヘマはやらない。私はこの日記を、夫の留守の時を窺つて書き、絶対に夫が思ひつかない或る場所に隠しておくことにする。私がこれを書く気になつた第一の理由は、私には夫の日記帳の所在が分つてゐるのに、夫は私が日記をつけてゐることさへも知らずにゐる、その優越感がこの上もなく楽しいからである。・・・一昨夜は年の始めの行事をした。・・・あゝ、こんなことを筆にするとは何と云ふ耻かしさであろう」。「年の始めの行事」とは、姫始めを意味しています。
この夫婦に、一人娘の敏子と、その求愛者・木村が絡んできます。
1月13日の夫の日記。「アノ晩僕ハ、木村ニ対スル嫉妬ヲ利用シテ妻ヲ喜バスヿニ成功シタ。僕ハ今後我々夫婦ノ性生活ヲ満足ニ続ケテ行クタメニハ、木村ト云フ刺戟剤ノ存在ガ欠クベカラザルモノデアルヿヲ知ルニ至ツタ」。
4月17日の妻の日記。「私は、今日の日曜日をいかにして過すかは前から極めて置いたのであるから、その通りにして過した。私は大阪のいつもの家に行つて木村氏に逢ひ、いつものやうにして楽しい日曜日の半日を暮らした。或はその楽しさは、過去の日曜日のうちでは今日が最たるものであつたかも知れない。私と木村氏とはありとあらゆる秘戯の限りを尽して遊んだ。私は木村氏がかうじて欲しいと云ふことは何でもした。何でも彼の注文通りに身を捻ぢ曲げた。夫が相手ではとても考へつかないやうな破天荒な姿勢、奇抜な位置に体を持つて行つて、アクロバツトのやうな真似もした(いつたい私は、いつの間にこんなに自由自在に四肢を扱ふ技術に練達したのであらうか。自分でも呆れる外はないが、これも皆木村氏が仕込んでくれたのである)。・・・私は『夫』を心から嫌つてゐるには違ひないが、でも此の男が私のためにこんなにも夢中になつてゐるのを知ると、彼を気が狂ふほど喜悦させてやることにも興味が持てた。つまり私は、愛情と淫慾とを全く別箇に処理することが出来るたちなので、一方では夫を疎んじながら、――何と云ふイヤな男だらうと、彼に嘔吐を催しながら、さう云ふ彼を歓喜の世界へ連れて行つてやることで、自分自身も亦いつの間にかその世界へ這入り込んでしまふ」。
夫の死後に書かれた、6月9日、6月10日、6月11日の妻の日記には、実に恐ろしいことが書かれています。
今回、最後まで読み通して感じたことは、『鍵』は、谷崎潤一郎が渾身の力を込めて書いた推理小説なのではないか、ということです。私の妄想に過ぎないかもしれませんが。
2017年5月20日に日本でレビュー済み
私は、五十六歳の夫が、四十五歳の妻に、ここまで惚れ込んでいることが、スゴ過ぎると感じました。
日食や月食のような、大変めずらしい自然現象を目の当たりににした時の感動とでも言うべきか。
なぜなら、私もそうだけど、長年連れ添ってきた夫婦って、夫婦仲はけっこう良好でも、さすがにあっちの方は新婚時代とは違い、ややご無沙汰ぎみ、というのが普通ではないかと。
夫婦生活で大事なのは「会話」とはよく言ったもので、本作の中年夫婦も、日常生活では会話が無さそうに見えて、秘密の交換日記(?)でしっかり会話して、お互いのことについて理解を深めようとしています。
それにしても、四十を過ぎてもキレイな妻が、若い男と浮気をしている場面を想像して性的興奮を得ている夫は、多くの読者から変態と誤解されても仕方がないかも知れません。
でも、私には愛する妻に対する究極の愛の表現と読めました。
もしかしたら、嫉妬という「人の幸福を羨ましく思う感情」の中には、否定的な面ばかりではなく、本作が表現したような、肯定的な面もあるのかも知れない。
つまり、二十代の娘の婚約者である男から、娘以上に愛されている、そんな美しい妻を愛することが出来る自分(夫)は、男冥利に尽きる果報者というわけです。
ようするに、娘の婚約者の青年から熱愛されているということは、妻が四十五歳の今もなお性的魅力に溢れていることの何よりの証しであり、その妻を愛する夫に取っては、自分の妻が女としていかに優れているかの何よりの証しなのです。
さらに、この夫の愛は、若い男と不倫をさせてでも自分の妻を性的に満足させたいという究極の「利他愛」であると同時に、不倫恋愛によって、より一層美しくなった妻を、自分の思い通りに愛玩したいという究極の「自己愛」でもある。
本作の夫の行動からは、そんな愛の二面性が見えてきて興味深かったです。
結果的に一番の悪党(?)は淫蕩な妻・郁子(45歳)でも小悪魔的な策略家の娘・敏子(25歳)でもなく、ジェームズ・スチュアートばりの美貌と勘の鋭さを武器に、婚約者の敏子のみならずその母親の郁子まで虜にした木村です。
大筋において、敏子嬢は、自分よりも20も年上の母親に思いを寄せがちな婚約者・木村を嫌っているように見えますが、じつは母親の郁子に劣らず彼を深く愛していたことが、最後の方で分ります。
主人公の夫の腹上死後、世間体に配慮して当初の予定通り木村と敏子が結婚し、母の郁子ともども3人ひとつ屋根の下で肉体的に親密な関係を保ちつつ暮らす予定というラストは、いかにも谷崎潤一郎的であまりにも不道徳であり、読者によって好悪の分れるところだと思います。
本作は、熟年夫婦の在り方について、いろいろと考えさせられる一冊でした。
究極の愛の姿とは、という重い問いを読者に投げかけているにもかかわらず、本作はその表面的な書きぶりから変態小説だと、昔から誤解されているのかも知れません。
私には、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」や、サガンの「悲しみよこんにちは」、「ブラームスはお好き」、トルストイの「アンナ・カレーリナ」、ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」、「エマ」、スタンダールの「赤と黒」、「パルムの僧院」、バルザックの「谷間の百合」、D・H・ローレンスの「チャタレィ夫人の恋人」などと同様に、男女の愛について追求した傑作であり、それら海外の名作とはまた違った切り口で男女の愛 (性愛含む) を見事に解明して見せた傑作だと感じられました。
日食や月食のような、大変めずらしい自然現象を目の当たりににした時の感動とでも言うべきか。
なぜなら、私もそうだけど、長年連れ添ってきた夫婦って、夫婦仲はけっこう良好でも、さすがにあっちの方は新婚時代とは違い、ややご無沙汰ぎみ、というのが普通ではないかと。
夫婦生活で大事なのは「会話」とはよく言ったもので、本作の中年夫婦も、日常生活では会話が無さそうに見えて、秘密の交換日記(?)でしっかり会話して、お互いのことについて理解を深めようとしています。
それにしても、四十を過ぎてもキレイな妻が、若い男と浮気をしている場面を想像して性的興奮を得ている夫は、多くの読者から変態と誤解されても仕方がないかも知れません。
でも、私には愛する妻に対する究極の愛の表現と読めました。
もしかしたら、嫉妬という「人の幸福を羨ましく思う感情」の中には、否定的な面ばかりではなく、本作が表現したような、肯定的な面もあるのかも知れない。
つまり、二十代の娘の婚約者である男から、娘以上に愛されている、そんな美しい妻を愛することが出来る自分(夫)は、男冥利に尽きる果報者というわけです。
ようするに、娘の婚約者の青年から熱愛されているということは、妻が四十五歳の今もなお性的魅力に溢れていることの何よりの証しであり、その妻を愛する夫に取っては、自分の妻が女としていかに優れているかの何よりの証しなのです。
さらに、この夫の愛は、若い男と不倫をさせてでも自分の妻を性的に満足させたいという究極の「利他愛」であると同時に、不倫恋愛によって、より一層美しくなった妻を、自分の思い通りに愛玩したいという究極の「自己愛」でもある。
本作の夫の行動からは、そんな愛の二面性が見えてきて興味深かったです。
結果的に一番の悪党(?)は淫蕩な妻・郁子(45歳)でも小悪魔的な策略家の娘・敏子(25歳)でもなく、ジェームズ・スチュアートばりの美貌と勘の鋭さを武器に、婚約者の敏子のみならずその母親の郁子まで虜にした木村です。
大筋において、敏子嬢は、自分よりも20も年上の母親に思いを寄せがちな婚約者・木村を嫌っているように見えますが、じつは母親の郁子に劣らず彼を深く愛していたことが、最後の方で分ります。
主人公の夫の腹上死後、世間体に配慮して当初の予定通り木村と敏子が結婚し、母の郁子ともども3人ひとつ屋根の下で肉体的に親密な関係を保ちつつ暮らす予定というラストは、いかにも谷崎潤一郎的であまりにも不道徳であり、読者によって好悪の分れるところだと思います。
本作は、熟年夫婦の在り方について、いろいろと考えさせられる一冊でした。
究極の愛の姿とは、という重い問いを読者に投げかけているにもかかわらず、本作はその表面的な書きぶりから変態小説だと、昔から誤解されているのかも知れません。
私には、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」や、サガンの「悲しみよこんにちは」、「ブラームスはお好き」、トルストイの「アンナ・カレーリナ」、ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」、「エマ」、スタンダールの「赤と黒」、「パルムの僧院」、バルザックの「谷間の百合」、D・H・ローレンスの「チャタレィ夫人の恋人」などと同様に、男女の愛について追求した傑作であり、それら海外の名作とはまた違った切り口で男女の愛 (性愛含む) を見事に解明して見せた傑作だと感じられました。