表題のとおり,「人間にとって科学とは何か」という古くて新しい,しかも厄介な難題に具体例を紹介しながら平易に解説した好著。われわれ人間社会の存続にとって不可欠な科学の意義を一般市民にも開かれたもの(ないしは開かれるべきもの)として語ってゆく姿勢に敬意を示したい。第9章「私たちにとって科学とは何か」などには,新政権の目玉となった「事業仕分け」への論評もある。この論評から著者自身の科学観が鮮明になっている。
一連の諸問題に科学史から紐解く姿勢はさすがだが,そもそも科学は一部の専門家のみが研究してその内容を理解していればよいというものではなさそうだ。「トランス・サイエンス」という言葉があるように(著者によれば,「トランス」は「超えた」よりは「広がった」と把握したほうがいい),科学にもとづく論理から導かれる合理性(科学的合理性)とは異なる,「社会的合理性」もが尊重される時代であることを明確に認識しなければならない。生命倫理,環境・エネルギー問題など,科学の見識だけでは決着のつかないものがあまりにも多い。だからこそ,「市民参加型技術評価」のような新たな制度的枠組みへの関心が高まるのだろう(138頁)。科学リテラシーの鍛錬が必要だ。
著者は最後に「科学教育の必要」と題し,現在の専門家養成カリキュラムから教養教育に方向転換する時期に来ていると述べている。リベラル・アーツとしての教育の志向なのかもしれないが,興味深い。「新しい教養教育は,現代に即した現実的テーマを,分野横断的に取り扱う必要があります。・・・これからの時代は,理系でも法律や倫理の知識は欠かせませんし,同じように文系でも,科学や技術の影響を理解し,判断し,意思決定する能力が,読み書き能力と同様に大切なのです」(182頁)。本書を手がかりに,表題に対して自分なりに考えてみること,その一歩が切実に求められている。貴重な問題提起の書だ。
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
新品:
¥1,320¥1,320 税込
ポイント: 40pt
(3%)
無料お届け日:
4月5日 金曜日
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
新品:
¥1,320¥1,320 税込
ポイント: 40pt
(3%)
無料お届け日:
4月5日 金曜日
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
中古品: ¥209
中古品:
¥209

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
人間にとって科学とは何か (新潮選書) 単行本(ソフトカバー) – 2010/6/25
村上 陽一郎
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,320","priceAmount":1320.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,320","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"zrrIi6vcti3659Eq8%2BDFMd5WhQp9USbLGzzaDv%2BdKg4iNQXF3%2FMqqHROI6vwTB6bgz4TPDWwMwHzIne6P88Exoj1wBec81lWcnSfPqVcfkv%2Br4eKqdx8DaSqjuP%2FukXzvcwJAgLvfAU%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥209","priceAmount":209.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"209","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"zrrIi6vcti3659Eq8%2BDFMd5WhQp9USbLbZxIV6BmQFb%2FV97Oo7c0psfhrW0BnyogJNz4MNf5ee2UPv8X3Ca0W8aK40mZek%2F8Ebubpe%2FEvLVHnYzQHyzuRK%2BT1bNaGLAB5b1e49Bn2%2Ba5GJdGFjh7bNms5E9ay%2F1dX8GTCObjzhtYdYv%2FMfRPRQ%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
純粋な知的探究として発して二百年、近代科学は社会を根底から変え、科学もまた権力や利潤の原理に歪められた。人類史の転換点に立つ私たちのとるべき道とは? 地球環境、エネルギー問題、生命倫理----専門家だけに委ねず、「生活者」の立場で参加し、考え、意志決定することが必要だ。科学と社会の新たな関係が拓く可能性を示す。
- ISBN-104106036622
- ISBN-13978-4106036620
- 出版社新潮社
- 発売日2010/6/25
- 言語日本語
- 寸法13 x 1.7 x 19.1 cm
- 本の長さ206ページ
よく一緒に購入されている商品

対象商品: 人間にとって科学とは何か (新潮選書)
¥1,320¥1,320
最短で4月5日 金曜日のお届け予定です
残り5点(入荷予定あり)
¥924¥924
最短で4月4日 木曜日のお届け予定です
残り15点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
出版社より
![]() |
![]() |
|
---|---|---|
科学者とは何か | 人間にとって科学とは何か | |
カスタマーレビュー |
5つ星のうち3.6
22
|
5つ星のうち3.8
25
|
価格 | ¥1,650¥1,650 | ¥1,320¥1,320 |
【新潮選書】村上陽一郎 作品 | 19世紀にキリスト教の自然観の枠組からはなれて誕生した科学者という職能。閉ざされた研究集団の歴史と現実。その行動規範を初めて明らかにする。 | 純粋な知的探究から発して二百年、近代科学は社会を根底から変え、科学もまた権力や利潤の原理に歪められた。人類史の転換点に立つ私たちのとるべき道とは? 地球環境、エネルギー問題、生命倫理――専門家だけに委ねず、「生活者」の立場で参加し、考え、意志決定することが必要だ。科学と社会の新たな関係が拓く可能性を示す。 |
商品の説明
出版社からのコメント
学生の科学離れが言われ、研究予算の削減が取りざたされ、国際間では技術競争の優位を保てなくなった現代日本。まさに「必読の書」。
著者について
1936年東京生まれ。科学史家、科学哲学者。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。上智大学、東京大学先端科学技術研究センター、国際基督教大学、東京理科大学大学院などを経て、東洋英和女学院大学学長。著書に『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全と安心の科学』ほか。訳書にシャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』など。編書に『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』など。
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2010/6/25)
- 発売日 : 2010/6/25
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 206ページ
- ISBN-10 : 4106036622
- ISBN-13 : 978-4106036620
- 寸法 : 13 x 1.7 x 19.1 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 317,527位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 50,299位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2010年9月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2012年10月4日に日本でレビュー済み
1.本書の構成について
全体的に冗長でかつ雑な印象を受ける。もう少し丁寧に構成を組んで欲しい。話が飛んだり戻ったり、脇道にそれたりして読みにくい。これらは、著者のせいなのか編集者のせいなのかは分からない(語りおろしにより原稿を作成したとのことである)。また、一応章立てされてはいるが、章のタイトルとその内容はあまり関連のないものがある。
2.著者の主張について
「科学技術と社会STS」に関する話題であるが、あくまで科学(科学者)の立場におり、擁護するスタンスをとっている。
著者は科学および科学者に対してはきわめて寛大であり、美化し過ぎている部分さえある。すべての科学者が純粋な憧れや好奇心・探究心だけで突き進んでいるのではない。成果を上げやすい分野、注目を浴びやすい分野に大挙して押し掛けている現実に目を向けていない。
また、「科学は人間の価値観には立ち入らないという信念」を肯定しているが、果してそれで良いのか? アメリカのガンロビーのスローガンの一つ「Guns don't kill people, people kill people (people do).」(銃は人を殺さない、人が殺す)を連想させ、そら恐ろしくなる。科学者の責任放棄ともとれるし、“われわれは社会に立ち入らないから、あなたがたも科学には立ち入らないでください、ただしお金だけは出してください”と言っているように聞こえる。
一般市民に対して「科学のための科学」や「社会のための科学」に対し理解を示して欲しい、科学リテラシーを上げるべきだと主張するのは結構である。しかし、科学者に対し、社会リテラシーを上げるよう強く主張していただきたい。一方的な要求は虫がよすぎるし、一般市民はそれほどお人よしではない。科学はもはや科学者だけのものではなく、科学と社会の両方の歩み寄り・協力がなければ、この複雑化した世界はよいものにならないのだから。
今度は、科学ではなく社会の方に軸足を置いた著作を読んでみたいと思う。
全体的に冗長でかつ雑な印象を受ける。もう少し丁寧に構成を組んで欲しい。話が飛んだり戻ったり、脇道にそれたりして読みにくい。これらは、著者のせいなのか編集者のせいなのかは分からない(語りおろしにより原稿を作成したとのことである)。また、一応章立てされてはいるが、章のタイトルとその内容はあまり関連のないものがある。
2.著者の主張について
「科学技術と社会STS」に関する話題であるが、あくまで科学(科学者)の立場におり、擁護するスタンスをとっている。
著者は科学および科学者に対してはきわめて寛大であり、美化し過ぎている部分さえある。すべての科学者が純粋な憧れや好奇心・探究心だけで突き進んでいるのではない。成果を上げやすい分野、注目を浴びやすい分野に大挙して押し掛けている現実に目を向けていない。
また、「科学は人間の価値観には立ち入らないという信念」を肯定しているが、果してそれで良いのか? アメリカのガンロビーのスローガンの一つ「Guns don't kill people, people kill people (people do).」(銃は人を殺さない、人が殺す)を連想させ、そら恐ろしくなる。科学者の責任放棄ともとれるし、“われわれは社会に立ち入らないから、あなたがたも科学には立ち入らないでください、ただしお金だけは出してください”と言っているように聞こえる。
一般市民に対して「科学のための科学」や「社会のための科学」に対し理解を示して欲しい、科学リテラシーを上げるべきだと主張するのは結構である。しかし、科学者に対し、社会リテラシーを上げるよう強く主張していただきたい。一方的な要求は虫がよすぎるし、一般市民はそれほどお人よしではない。科学はもはや科学者だけのものではなく、科学と社会の両方の歩み寄り・協力がなければ、この複雑化した世界はよいものにならないのだから。
今度は、科学ではなく社会の方に軸足を置いた著作を読んでみたいと思う。
2013年4月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
科学を俯瞰して解説している本は意外と少ないようです。執筆者の膨大な知識をベースに哲学が明確に述べられており、科学と人間との関係が判り易く記述されています。この考え方に賛同するかしないかは別にしても自分の考えを整理するのに大変役立つ本でした。
2018年12月6日に日本でレビュー済み
著者は、科学哲学者で、専門は物理学史。
本書に収められているのは、科学者の置かれた苦境、科学者の倫理、および複雑化する現代社会における科学者のあるべき姿などに関する論考である。
科学者ひとりひとりが、確固とした個人的な倫理観をもつことを著者は重視している。
印象に残った箇所を記し、コメントする。
かつて社会の中で孤立し、自己完結的であった科学が、現代社会の中で果たす役割がきわめて多様化し、複雑化しています。
それに対して、社会の仕組みは事態に見合うよう整備されていないことが、いやでも目に付くことになります。
コメント:
つまり、「社会変化の速度に、社会が追いつけていない」。
私たちに出来ることのひとつは、<みんなで怠けて「変化の速度」を遅らせる>ことではないだろうか。
不真面目だと思われるかもしれない。
しかし私は、「どこに向かっているかも分からずに猛スピードを出している車」のブレーキを、そろそろ踏んではどうかと思っているだけである。
数学者ロトフィ・ザデーの論文(Lotfi Asker Zadeh)のファジィ論理学は1が真で0が偽だとすると、1/0の論理学ではないんです。
いわゆる二値論理学(真か偽に必ず定まる)というのがヨーロッパの論理学です。
それに対して、ザデーは、一つの命題の真理値を1と0の間のどの値をとってもいい、という論理学を作りました。
この論理学は、最初はアメリカでは全く受け入れられなかった。
まず飛びついたのは日本人で、学会ができるのですが大半を日本人が占めて、論文の著者も七割が日本人。
私は本田財団に関わっていまして、ザデーに本田賞を差し上げたら、日本人は自分の理論の最初の理解者であってこんな賞まで頂けてどれだけ光栄であるかと、切々と訴えてくれました。
(略)
黒白をはっきりさせずグレーゾーンにことを落ち着ける方法というのを、日本は、文化的な価値観として持っているのかもしれません。
そうであれば、日本から発信するひとつの社会的な価値として、「状況的倫理観による紛争解決の方法」で貢献できるのかもしれません。
コメント:
そもそも黒か白かが仮に成り立つとしても、単一の属性に注目した場合にしか成り立たない場合が多い。
世界は、複雑である。
考慮する変数を増やせば、黒白に分類できはたずのものでさえ、どんどんグレーになる。
ハーバード大学のサンデル教授が著書『Justice』で述べているように、正義に関しては、「美徳」、「最大多数の最大幸福」、そして「自由」という相反する三つの属性が矛盾し合う。
そして、人々を少数の属性[信仰など]のみに基づいて「敵・味方」に分類することこそが、あらゆる暴力的紛争の元凶である。
ゆえに「状況的倫理観による紛争解決」は、正しい態度である。
社会的な科学のあり方を考える場合、日本の「公」ということばに問題があります。
公というのは、およそパブリックとはちがう意味、「お上」でしかないことです。「お上」とはいったいなんでしょうか。
「公(おおやけ)」は「大きな家」を意味します。
大和朝廷時代、一番大きい家は天皇家だった。
だから本来、公は天皇家のことなんです。
だから天皇家に勤める人たちは公の人で公家なんです。
そこで公という言葉が少しだけ広がります。
つまり個人的に天皇家だけではなくてその周辺領域に広がった。
江戸時代になって天皇家が架空の為政者になって、実権が征夷大将軍たる将軍家に移ったので、公は将軍家になりました。
現代では、政治家、それをとりまく官僚組織のことをお上といいますが、これは明治以降だと思います。
パブリックが「公」や「お上」ではないとしたら、訳すとすればなにか。
近頃少し定着してきた言葉が、「公共圏」ということばで、これは”public sphere”という英語をもとにしています。
それで相変わらず「公」はついていますが。
なかなか私たちの感覚の中に、パブリックという言葉のもつ本質的な意味合いが浸透してきません。滅私奉公という言葉もあります。今では死語なのかもしれませんが、感覚としては日本人の中に残ってしまっている。
「公」と「私」の間にとても大きな距離があるのです。
自分個人ではなくて、自分と手を結んでいる多くの他者との間に作られる空間のことが「公」なのです。
だからそういう意味で常に自分(「私」)を超えた何ものかへの感覚というものが、絶対に必要です。
だから公の世界にコミットするときは自分の私権をなにほどかは斟酌しなければならない必然性が出てきます。
コメント:
要するに、ここで著者は「日本人には、パブリックという概念がない。
なので、自己犠牲により公に奉仕するという発想にも乏しい」と述べている。
ただし、日本には「世間」という概念があるので、治安は悪くないし、人々も礼儀正しい。
ゆえに、おそらく日本社会は村上氏が思っているほど悪くない。
問題の本質はむしろ、<「世間」の範囲は「自分の知り合いの範囲」、すなわち「国家」よりはるかち小さい>という点、すなわち「日本人の心の中おける<公>の範囲の狭さ」にあるのではないか。
もともと哲学と科学は原点は同じです。
つまり、ものを考えるということがすべての原点になっているからです。
知は、自分を知り、他者を知ることの大きな助けとなる。
だから、科学に限らず、どんな知識も、人間にとって役立つのです。
経済にとって役立つかは別にして人間にとって役立つのです。
コメント:
一般的に「それが何の役に立つか」に答えることは、難しい。
そもそも私たちは、生きていて「何の役に立つ」のか。
冷静に考えてみると、よく分からない。
本書に収められているのは、科学者の置かれた苦境、科学者の倫理、および複雑化する現代社会における科学者のあるべき姿などに関する論考である。
科学者ひとりひとりが、確固とした個人的な倫理観をもつことを著者は重視している。
印象に残った箇所を記し、コメントする。
かつて社会の中で孤立し、自己完結的であった科学が、現代社会の中で果たす役割がきわめて多様化し、複雑化しています。
それに対して、社会の仕組みは事態に見合うよう整備されていないことが、いやでも目に付くことになります。
コメント:
つまり、「社会変化の速度に、社会が追いつけていない」。
私たちに出来ることのひとつは、<みんなで怠けて「変化の速度」を遅らせる>ことではないだろうか。
不真面目だと思われるかもしれない。
しかし私は、「どこに向かっているかも分からずに猛スピードを出している車」のブレーキを、そろそろ踏んではどうかと思っているだけである。
数学者ロトフィ・ザデーの論文(Lotfi Asker Zadeh)のファジィ論理学は1が真で0が偽だとすると、1/0の論理学ではないんです。
いわゆる二値論理学(真か偽に必ず定まる)というのがヨーロッパの論理学です。
それに対して、ザデーは、一つの命題の真理値を1と0の間のどの値をとってもいい、という論理学を作りました。
この論理学は、最初はアメリカでは全く受け入れられなかった。
まず飛びついたのは日本人で、学会ができるのですが大半を日本人が占めて、論文の著者も七割が日本人。
私は本田財団に関わっていまして、ザデーに本田賞を差し上げたら、日本人は自分の理論の最初の理解者であってこんな賞まで頂けてどれだけ光栄であるかと、切々と訴えてくれました。
(略)
黒白をはっきりさせずグレーゾーンにことを落ち着ける方法というのを、日本は、文化的な価値観として持っているのかもしれません。
そうであれば、日本から発信するひとつの社会的な価値として、「状況的倫理観による紛争解決の方法」で貢献できるのかもしれません。
コメント:
そもそも黒か白かが仮に成り立つとしても、単一の属性に注目した場合にしか成り立たない場合が多い。
世界は、複雑である。
考慮する変数を増やせば、黒白に分類できはたずのものでさえ、どんどんグレーになる。
ハーバード大学のサンデル教授が著書『Justice』で述べているように、正義に関しては、「美徳」、「最大多数の最大幸福」、そして「自由」という相反する三つの属性が矛盾し合う。
そして、人々を少数の属性[信仰など]のみに基づいて「敵・味方」に分類することこそが、あらゆる暴力的紛争の元凶である。
ゆえに「状況的倫理観による紛争解決」は、正しい態度である。
社会的な科学のあり方を考える場合、日本の「公」ということばに問題があります。
公というのは、およそパブリックとはちがう意味、「お上」でしかないことです。「お上」とはいったいなんでしょうか。
「公(おおやけ)」は「大きな家」を意味します。
大和朝廷時代、一番大きい家は天皇家だった。
だから本来、公は天皇家のことなんです。
だから天皇家に勤める人たちは公の人で公家なんです。
そこで公という言葉が少しだけ広がります。
つまり個人的に天皇家だけではなくてその周辺領域に広がった。
江戸時代になって天皇家が架空の為政者になって、実権が征夷大将軍たる将軍家に移ったので、公は将軍家になりました。
現代では、政治家、それをとりまく官僚組織のことをお上といいますが、これは明治以降だと思います。
パブリックが「公」や「お上」ではないとしたら、訳すとすればなにか。
近頃少し定着してきた言葉が、「公共圏」ということばで、これは”public sphere”という英語をもとにしています。
それで相変わらず「公」はついていますが。
なかなか私たちの感覚の中に、パブリックという言葉のもつ本質的な意味合いが浸透してきません。滅私奉公という言葉もあります。今では死語なのかもしれませんが、感覚としては日本人の中に残ってしまっている。
「公」と「私」の間にとても大きな距離があるのです。
自分個人ではなくて、自分と手を結んでいる多くの他者との間に作られる空間のことが「公」なのです。
だからそういう意味で常に自分(「私」)を超えた何ものかへの感覚というものが、絶対に必要です。
だから公の世界にコミットするときは自分の私権をなにほどかは斟酌しなければならない必然性が出てきます。
コメント:
要するに、ここで著者は「日本人には、パブリックという概念がない。
なので、自己犠牲により公に奉仕するという発想にも乏しい」と述べている。
ただし、日本には「世間」という概念があるので、治安は悪くないし、人々も礼儀正しい。
ゆえに、おそらく日本社会は村上氏が思っているほど悪くない。
問題の本質はむしろ、<「世間」の範囲は「自分の知り合いの範囲」、すなわち「国家」よりはるかち小さい>という点、すなわち「日本人の心の中おける<公>の範囲の狭さ」にあるのではないか。
もともと哲学と科学は原点は同じです。
つまり、ものを考えるということがすべての原点になっているからです。
知は、自分を知り、他者を知ることの大きな助けとなる。
だから、科学に限らず、どんな知識も、人間にとって役立つのです。
経済にとって役立つかは別にして人間にとって役立つのです。
コメント:
一般的に「それが何の役に立つか」に答えることは、難しい。
そもそも私たちは、生きていて「何の役に立つ」のか。
冷静に考えてみると、よく分からない。
2013年12月26日に日本でレビュー済み
林修先生が著者を推薦されていたので読んでみました。あわせて、「あらためて学問のすすめ」、「安全と安心の科学」、「科学するまなざし」、「やりなおし教養講座」などにも目を通しました。著者は人文科学系の科学史家です。ですからここでは、科学にまつわる歴史や、科学についての単語、今日的課題が述べられています。
林修氏はテレビの番組で、現代文の問題になるような作家の文章は、海老が小さくて衣ばかりの海老天であると表現されていました。大変失礼ですが、私も人文・社会科学系の作家の本は、海老が小さくて衣ばかりの海老天のような文章が多いと思う。
この本は科学の話題を幅広く扱っている本です。
林修氏はテレビの番組で、現代文の問題になるような作家の文章は、海老が小さくて衣ばかりの海老天であると表現されていました。大変失礼ですが、私も人文・社会科学系の作家の本は、海老が小さくて衣ばかりの海老天のような文章が多いと思う。
この本は科学の話題を幅広く扱っている本です。
2011年5月11日に日本でレビュー済み
全体にぼやっとしているというのが読後の正直な印象だ.
結論は,「トランスサイエンス」と同じで,北欧で先進している「サイエンスカフェ」「コンセンサス会議」というような手法を広げていくことで,非専門家と専門家の溝を埋めていくということになる.けれど,むしろ,この本の要点はまえがきに集約されているように思う.
それは科学を定義する4つの位相
1.知識の進歩のための科学
2.平和実現のための科学
3.持続的発展のための科学
4.社会のための,社会の中の科学
とくに現代において軽視されがちな「知識のための科学」とは,人間を定義する好奇心を満たすための本能として不可欠な性質であって,経済原理や効率ではかるべきものではない.これはフィランソロピー(人間愛)の精神に支えられたプロトタイプの科学である.しかし,どんな科学研究でも社会への説明は必要だ.そのとき,この観点で社会を説得すべき研究もあるだろう.それでも社会の合意が得られないのであれば,それを甘受しなければならない.
内容的には,多方面に議論がわたり,それぞれとても興味深いが,そのために若干ぼやっとしているように感じてしまうのは,私だけだろうか.
それでも,今問題となっている科学・技術のあり方を考える上で参考になる1冊です.ご一読をおすすめします.
結論は,「トランスサイエンス」と同じで,北欧で先進している「サイエンスカフェ」「コンセンサス会議」というような手法を広げていくことで,非専門家と専門家の溝を埋めていくということになる.けれど,むしろ,この本の要点はまえがきに集約されているように思う.
それは科学を定義する4つの位相
1.知識の進歩のための科学
2.平和実現のための科学
3.持続的発展のための科学
4.社会のための,社会の中の科学
とくに現代において軽視されがちな「知識のための科学」とは,人間を定義する好奇心を満たすための本能として不可欠な性質であって,経済原理や効率ではかるべきものではない.これはフィランソロピー(人間愛)の精神に支えられたプロトタイプの科学である.しかし,どんな科学研究でも社会への説明は必要だ.そのとき,この観点で社会を説得すべき研究もあるだろう.それでも社会の合意が得られないのであれば,それを甘受しなければならない.
内容的には,多方面に議論がわたり,それぞれとても興味深いが,そのために若干ぼやっとしているように感じてしまうのは,私だけだろうか.
それでも,今問題となっている科学・技術のあり方を考える上で参考になる1冊です.ご一読をおすすめします.
2011年3月19日に日本でレビュー済み
民主党への事業仕分けへの批判をも含んだ本です。
特に原子力保安委員を務める著者にとっては、
原子力施設等防災対策等委託費(うち環境放射能水準調査等委託費)と
原子力施設等防災対策等委託費(うち防災訓練実施調査)を
削られたのではたまったものではないでしょう。
後の世で人々がどう評するのか。それを検討するにはまだ早いので
しょうけれども。
特に原子力保安委員を務める著者にとっては、
原子力施設等防災対策等委託費(うち環境放射能水準調査等委託費)と
原子力施設等防災対策等委託費(うち防災訓練実施調査)を
削られたのではたまったものではないでしょう。
後の世で人々がどう評するのか。それを検討するにはまだ早いので
しょうけれども。