知的好奇心を存分に満たしてくれる本
内田さんは私のよき師となった
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呪いの時代 単行本 – 2011/11/1
内田 樹
(著)
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巷に溢れる、嫉妬や妬み、焦り―すべては自らにかけた「呪い」から始まった。他者へ祝福の言葉を贈ることこそが、自分を愛することになる―呪いを解く智恵は、ウチダ的“贈与論”にあり。まっとうな知性の使い方と時代を読む方程式を考える一冊。
- ISBN-104103300116
- ISBN-13978-4103300113
- 出版社新潮社
- 発売日2011/11/1
- 言語日本語
- 本の長さ285ページ
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2011/11/1)
- 発売日 : 2011/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 285ページ
- ISBN-10 : 4103300116
- ISBN-13 : 978-4103300113
- Amazon 売れ筋ランキング: - 439,716位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,079位哲学 (本)
- - 64,817位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年11月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
信仰や文化的観点から、現代人の凝り固まった思考について語っていると自己解釈しました。
スピリチュアルな内容を期待して購入したので、「知りたいこと」に関しては、この本から読み取れることはあまりありませんでした。しかし、内容はとても興味深く魅力的なものばかりでしたので、買って損をしたとは露ほども思っていません。
スピリチュアルな内容を期待して購入したので、「知りたいこと」に関しては、この本から読み取れることはあまりありませんでした。しかし、内容はとても興味深く魅力的なものばかりでしたので、買って損をしたとは露ほども思っていません。
2021年8月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白かったです。
『「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。けれども、彼らはそれらの言葉が他者のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように思われます。』p-18
『呪いを解除する方法は祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。多くの人が誤解していることですが、僕たちの時代にこれほど利己的で攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまりに愛している」からではありません。逆です。自分を愛するということがどういうことかを忘れてしまったせいです。僕たちはまず「自分を愛する」というのがどういうことかを思い出すところからもう一度始めるしかないと僕は思います。』 p-47
『「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。けれども、彼らはそれらの言葉が他者のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように思われます。』p-18
『呪いを解除する方法は祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。多くの人が誤解していることですが、僕たちの時代にこれほど利己的で攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまりに愛している」からではありません。逆です。自分を愛するということがどういうことかを忘れてしまったせいです。僕たちはまず「自分を愛する」というのがどういうことかを思い出すところからもう一度始めるしかないと僕は思います。』 p-47
2022年11月11日に日本でレビュー済み
本書の著者紹介によれば,著者は1950年生まれ,すなわち「団塊の世代」の1歳下の世代で,東大文学部卒.
フランス現代思想,武道論,映画論,教育論などの専門家.
したがって,その専門分野では「なるほど」と思えることが多いものの,専門外の分野に関する記述では,疑問点も多し.
あとがきによれば「口述」.
さらにネットで調べると,どうやら著者のブログを本に纏めただけらしい.
専門外の分野に関する床屋政談が比較的多いのも,そのせいであろうと納得.
▼
頷ける点としては,
・「そこで論じられていないこと」を持ち出して,「こんなことも知らない人間に,この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る,「学者の腐ったような奴」(p.11-14)
「こんなことも知らない人間に,この論件について語る資格はない」という言葉は,ネット上の論争においてもしばしば散見.
学檀がその発祥だったとは.
・学者というのは「知識を持つ人間」ではなく,「自分の持つ知識についての知識を持っている人間」(p.12)
・自分は何故,あることを知っていて,それとは違うこと(=他の知識,筆者注)を知らないのか? 私が何かを「知りたい」と思い,また,別の何かについては「知るに値しない」と思うのは,どのような選別の基準に従っているのか? その選別基準には一般性があるのか? あるとしたら,その一般性はどのように学的に基礎づけられるのか?などなど.そうした一連の問いは,「私の知の成り立ち方」について考究する事へ,僕たちを導きます.それが「知識についての知識」を形作ります(p.12)
・自分が仕入れた知識の価値を,「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を持たない人にとっては,どれほどトリヴィアルな知識を収集しても,それは学的には無価値だという事は忘れないほうがいいと思います(p.13)
・「長く生きてきて分かったことの一つは,『現実を変えよう』と叫んでいるときに,自分がモノを壊しているのか,作り出しているのかを吟味する習慣を持たない人は,殆どの場合『壊す』ことしかしない,ということです(p.16)
・あるものを破壊するのに要するエネルギーは,それを作り出すために要したエネルギーの数百分の一,場合によっては数百万分の一で済みます.ですから,身の丈に合わない自尊感情を持ち,癒されない全能感に苦しんでいる人間は,創造的な仕事を嫌い,それよりは何かを破壊する生き方を選択します.必ずそうなります.(p.18)
・全能感を求める人は,モノを作ることを嫌います.想像すると,自分がどの程度の人間であるかが,あからさまに暴露されてしまうからです.だから,全能感を優先的に求めるものは,自分に「力がある」ことを誇示したがるものは,何も「作品」を示さず,他人の創り出したものに無慈悲な批評を下していく生き方を選ぶようになります.自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり,その批評は残忍なものになるのは,そのせいです(p.19)
そして,その破壊にしか繋がらない論難を,著者が指して言うのが本書タイトルの「呪い」.
言うまでもないことだが,魔術の「呪術」,陰陽道の「呪」などオカルティズムとは無関係なので注意.
・現在の教育現場では,「君たちには無限の可能性がある」という激励は許容されても,「身の程を知れ」「分をわきまえろ」というアナウンスに対しては,強い抵抗を覚悟しなければなりません.(p.21)
・教育の場では,「君には無限の可能性がある」という言明と,「君には有限の資源しか与えられていない」という言明は,同時に告げられなければならない(p.22)
・「自分らしさ」というのは,「今の自分は"本当の自分"ではない」という否定形でしか存在しない(p.41)
・現代人が自我の中心に置いている「自分らしさ」というのは,実はある種の欠如感,承認欲求.「私はこんなところにいる人間ではない」「私に対する評価は,こんな低いものであってよいはずがない」「私の横にいるべきパートナーは,こんなレベルのものであるはずがない」というような,自分の正味の現実に対する,身もだえするような違和感,乖離感,不充足感,それが「自分らしさ」の実体(p.40-41)
・「"私だけが正解を語っている"という主張をなすことは,それ自体が原理的に間違っている.そう主張する人は,彼の『正解』に背馳するデータを過小評価するか,無視するか,悪意ある捏造だと見做すようになる.必ずそうなります.そうやって,知的な"遮眼帯"を自分で自分に装着してしまう.人間である以上仕方がない.それは"私だけが正解を語っている"という言明から始めたことの,論理的な帰結なのです.だったら,そういうピットフォールに落ち込まないように,自説の正しさに常に留保をつけておく節度が必要だと僕は思います."私はとりあえず手持ちのデータに基づいて,正しいことが事後的に明らかになる蓋然性が高い見通し"を述べている.しかし,私は全てのデータを網羅したわけではなく,これから起きる出来事の全てを予見できるはずもないので,私の見通しは誤る可能性がある"という宣言を,議論の出発点に置くべきなのです」(p.83)
・「ここに腕力の強い人間がいて,己の力を誇示し,他人を威嚇して,金品を奪っていたとする.これは許しがたいことだと誰でも思います.逆に,その例外的な筋骨の力を使って,足弱な人の荷物を代って持ってあげるとか,道に倒れている木や岩を取り除いている人がいれば,"正しい使い方をしている"と思う.単純な理屈です」「知力だって筋力と同じだと僕は思います.たくさんある人はそれを使って,困っている人の荷物を代わりに持ってあげればいい.それが知性の一番真っ当な使い方ではないですか.己の知力を使って人を圧倒したり,論破したり,揚げ足を取ったり,あるいは鮮やかな弁舌やトリッキーな議論を駆使して,自己利益を増大させるのは,知性の人間的な使い方ではないと僕は思います」(p.187)
▼
ただ,
・「朝生」のようなTV番組により,他人の話は聞かない,自分の意見だけを言いつのり,どれだけ反証が示されても自説を絶対に撤回しないという風儀のことを「ディベート」と呼ぶのだという事が,僕たちの社会の常識になった(p.16-17)
…それはどうかと.
「ディベート」という言葉こそなかったものの,「他人の話は聞かない,自分の意見だけを言いつのり,どれだけ反証が示されても自説を絶対に撤回しないという風儀」は,学生運動⇒連合赤軍や日本赤軍の一連のテロ事件に至る,新左翼運動の風儀そのものではなかったかと.
・「呪い」がこれほどまでに瀰漫(びまん)したのは,人々が自尊感情が満たされることを過剰に求め始めたからです(p.20)
・若者に限らず,現代日本人の多くは,自己評価と外部評価の落差が,次第に拡大しつつあります(p.20)
これらは何か統計的事実をもって裏づけられているのだろうか?
コリン・ウィルソン『現代殺人百科』(青土社)によれば,その手の,能力に比べて自尊感情がやたら高い人間は,昔から一定の割合で存在するそうだが.
「若者の○○離れ」論に見られるように,その手の論は,「ただの著者の印象/偏見」でしかないことが余りにも多いので,注意しておきたいところ.
▼
政治談義;
・「責任を先送り」できるのは,自分が現在起きているシステム上の不備を補正する「メンテナンス」の当事者であるという認識がないから(p.24)
…まあ,そういう場合もあるだろう(特に民主党政権の与党政治家には顕著であった)が,もっと直接に,喩え当事者と認識していても,「責任を取らされたくない」という心理のほうが大きいのではないだろうか.
そういうペナルティ回避の心理は,殆どの人間にあると思うのだが.
さもなければ,たとえば怖くて逃げてしまう轢き逃げ犯など存在しやしないだろう.
・「とりあえず現状をまともに機能させている」現場の努力を軽く見るのが,当今の公人たちの通弊です(p.24)
そう述べておきながら,その最たるものであったルーピー鳩山を,支持している姿勢(p.159-161)が理解不能.
もし,今は支持していないというのであれば,何らかの釈明が必要だろう.
・アメリカ人は「ありあわせのものでなんとか辻褄を合わせる」という発想をしない.政治的システム不調を,「建国の父」たちによる,理想国家のための「最初の設計図通りに作り直す」というエクスキューズで処理をする.(p.64-65)
・丸山真男『日本の思想』によれば,ポツダム宣言受諾の時に及んでも,それが「究極的に何を意味するのか」について,日本帝国の最高首脳部においても,遂に一致した見解が得られなかった,国家の基軸である「国体」という概念(p.67)
ソースが丸山真男であることに不安もなくはないが,もしそれが本当だとしたら,ぜひとも現代の極右にも「国体とは何か?」をしつこく問いただしてみたいところ.
・「自分で与えた憲法の理念と背馳する命令が下せるほど強大な国には,従属するしかない」という経験則が,戦後日本の国是(p.68-69)
・戦後日本は,とにかくアメリカに従属しなければ生き残れないという「やむを得ない実証性」に基づいて,その都度最適解で応じている,というだけ.日本の政治家のマインドは,「受験生マインド」とあまり変わらない(p.69-70)
確かにそれもあるのかもしれないが,では,四海を見渡して,同盟を組んで日本にもメリットが一番ある国と言えば,まあ,アメリカしかないだろうな,というのは現実的選択ではないのだろうか?
「ほんとうの日本はこんなものじゃないはず」という,ある種の「自分探し」めいたものが,本書のこのくだりからは窺えるのだが.
・「『出方』を待つという外交戦略の不利は,常に後手に回るという事です.日本の政治が三流であるというのは,そういうことです.国家像が描けない,統治原理が語れない,外交戦略を起案できないというのは,個別的な知性の不調なのではなくて,日本人全員が罹患している国民的な病なのです」(p.70-74)
▼
犯罪談義;
・秋葉原の無差別殺傷事件の,本当の犯人は,殺害者自身が「本当の私」だと思っている肥大した自尊感情そのもの(p.28)
・7人の死者は,「この殺人事件の意味は何だと思う?」という,殺害者からの「キリング・メッセージ」(p.28)
・「加藤はある日,何かを『呪った』のだと僕は思います.呪いの標的となったものは,具体的な誰かやなにかではなく,加藤が妄想し,『ほんとうの加藤智大が所有しているべきもの,占めているべき地位』を不当に簒奪している『誰か』でした」(p.30)
これらは,犯罪学的な同事件解釈とは乖離がかなりあるので,注意が必要.
・秋葉原の無差別殺傷事件や元厚生次官殺人事件を見ていると,犯人たちは自らの行為が,少なくとも数十万,数百万レベルの「支持者」を得られることを期待して,そのような行為を選択しているように思われます.彼らはおそらく,自分の苦しみや嫉妬やそこから生まれる憎悪や殺意には,「汎用性」があると信じている.その憎悪や殺意には,乾電池やカセットテープのような「汎用性」があって,誰にでも装着可能であると,彼らは信じている.彼と記号的殺意を共有する人々は,別に捕えられた彼のために助命嘆願するわけでもないし,殺人行為そのものを手助けしてくれるわけでもないけれど,「観客席」から「よくやった」と拍手喝采する.記号的な殺意を,自分と共有している人間ば,何十万人もいるという確信があるからこそ,それを推力にして現実の殺人にまで暴走する(p.52-53)
…と,ここまではいいとしても,
・そのような確信をもたらしたのはメディアの論調であり,ネット上の言論です
と断定してしまうのは,何か客観的根拠があってのことなのか?
記号的殺意による現実の殺人なら,テロリズムという形で,ネットよりも古くから存在するものではないだろうか?
・凶悪犯罪が心神耗弱で繰り返し免責されると,様々なペルソナを取り揃えて,タフな人間関係に対応できるような「複雑な私」を作り上げようとする努力への,動機付けそのものが損なわれてしまう.手間暇かけて市民的に成熟するという,社会的圧力そのものが減殺されてしまう.結果的にますます乖離的な人格の人間が増えていく――という悪循環に陥り始めているのではないか?(p.133-134)
▼
英語教育談義;
・日本は,英語が出来なくとも知識人であることが可能な,アジアでは例外的な国(p.87)
・漢字を使えないばかりに,歴史的文献資料が殆どの国民にとって,解読不能なロゼッタ・ストーンと化している韓国(p.97)
・英仏語の教育の代償として,自国の伝統文化に対するアクセスを放棄することになった東南アジア諸国の,いわゆる「植民地マインド」(p.99-100)
まあ,その通りでもあるんだが,他方で,海外への発信/自己主張を考えた場合,英語ができないよりはできた方がいいよね.
皆が皆,通訳を雇える環境にあるとは限らないのだから.
・英語力が下がり続けているのは,教育プログラムなどの問題ではなく,もっと根の深い,国民的な規模での無意識のブレーキがかかっていること(p.88-90)
といったあたりから,オカルト臭が漂ってくるので,ソースを映画などに求めるのではなく,もっと客観的論拠を提示なされたほうが宜しいかと.
▼
経済談義;
・苅谷剛彦さんが『階層化日本と教育危機』で指摘したように,階層社会は,努力することに対するインセンティヴの有無に基づいて二極化します.どれほど能力があろうとも,素質に恵まれていようとも,自分の能力や資質は「決して適切には評価されないだろう」と確信している人は努力しない.ですから,努力する事へのインセンティヴを傷つけるというのが,社会的差別の最も邪悪かつ効果的な部分なのです(p.33-34)
そういう側面もあるだろうが,経済学では,二極化の原因は他に求められるとしている.
トマ・ピケティ『21世紀の資本論』によれば,先進国は労働分配率が長期的に低下し,資本の蓄積が増えるほうが国民の所得の伸びよりも速いため,格差が固定化するということを,過去200年の統計データから実証して見せている.
すなわち,「自助努力で乗り越えられない格差は存在しない」は,幻想である可能性が高い.
・「とりあえず何かをぐるぐる回す,それ自体を目的する経済活動こそが,経済の本来の姿である――と,そんなふうに考えている(p.149)
そういう活動は確かに存在するだろうが,「本来の姿」とまで言われることには,違和感を感じざるを得ず.
▼
・就職情報産業にとって,「適職イデオロギー」を深く内面化した若者は,エンドレスの顧客(p.108)
・「適職イデオロギー」と類似したものが「赤い糸イデオロギー」(p.110)
・「あなたは普通の人である.それゆえ,普通の人と結婚すればよい.そうすれば普通の幸福が得られるであろう――という,あまり夢のないワーディングで結婚に追い込んでいた,小津安二郎の時代(p.115)
・社会的に非力な若い夫婦にとって,権力を持つ人に仲人になってもらうことは,貴重な安全保障(p.118)
それは間違いではないのかもしれないが,フィクションが「その論拠である」とされると,一挙に信頼性が下がるわけで…
・結婚が必要とするのは,他者と共生する力.日本社会の深刻な問題は,他者との共生能力が劣化していること(p.120)
▼
・現代人が「利己的」だと思っているふるまいの殆どは,利己的ではなく,あえて言えば「利脳的」(p.39)
・利己的にふるまうことが許されている社会では,最強の一人以外は,誰一人自己利益を安定的に確保できない(「最強の一人」にしても,病気になったり,けがをしたり,居眠りをしている間に寝首をかかれる不安からは,生きている限り逃れられない)(p.39)
▼
数値データ万能主義に対する批判(p.50-51)は,それは確かにその通りなのだが,本書のように,客観的根拠らしいものが殆ど挙げられずに論を推し進めているのを見ると,非常に危ういものを感ず.
著者の「こう思う」に対し,反論者が「いや,そうは思わない」と応えたら,そこで議論は停止してしまうだろう.
それは意見の対立者相互の交流を途絶させ,他者との共生能力の劣化を招くと思うのだが.
▼
・「権利請求」戦略として常態化している,「まず被害者の名乗り」(p.126)
・その起源はマルクス主義.もともとは,おのれが「不当に社会的資源を占有している強者」であるという疚しさの自覚を持った人々が,「資源の返還とフェアな配分」を提唱したところから始まったものだが,その運動がいつの間にか,「不当に社会的資源を収奪されている弱者」の倫理的優位性を足場に,「資源返還」を要求するものに変わった.(p.126-127)
・ポスト・コロニアリズムや後期フェミニズムの言説の中では,「疚しさ」の感情は遥かに後退し,専ら「弱者の立場から強者に対して,非寛容に権利請求する」言葉が氾濫するようになった.「被抑圧者の告発の前で,強者たちは疚しさを覚えて,うなだれなければならない」という,それなりに倫理的な命題が,「とりあえず弱いふりをすると,他人を屈服させることができる」という世渡り術にまで頽落するまでに,それから長い時間はかからなかった(p.127)
・左翼の社会改革論は原則的に,「個人的な善意による,局所的なフェアネスの実現」を批判し続けてきた.そんな中途半端な善意は,体制の延命に加担することに過ぎない.矛盾は隠蔽されてはならず,社会的に不幸な人々は,中途半端な救済を拒否して,極限まで不幸にならなくてはならないという不思議な理屈が,ずっとさよくてきな常識」だった.「全ての救いのチャンスから見捨てられた人間」「鉄鎖の他に失うべきものを持たないプロレタリアート」をどうやって立ち上がらせるかが,喫緊の政治課題である時に,個人的善意で中途半端な救いなんか提供されて,腰を折られては困る.「窮民革命論」が典型的だが,要するに,その社会で最も収奪され最も抑圧されている人間が,革命の主体になるべきだ,と左翼的には考える.でも,そうなると,世界的な貧困の水準から見たら,日本のプロレタリアなんか殆どブルジョアだから,窮民革命論者たちは革命の主体を探して,世界のあちこちを訪ね歩き,「世界で最も収奪され,抑圧されている人」を探し出し,その同伴者になろうとした.このロジックの難点は,そうやって革命の主体となる権利を持つ人を,厳しく条件づけていくと,遂にこの世に「革命の主体」の条件を満たす人が,一人もいなくなってしまうこと.どんなに収奪されているプロレタリアも,下を見れば下がいる」から(p.156-158)
・ラディカルすぎる政治的主張は,一回りして現状肯定に行きついてしまう(p.158)
・強者たちは「強者連合」を形成し,様々な利権をお互いに融通し合って「共存共栄」している.一方,弱者はどんどん孤立する(p.161)
・弱く幼い人間が,連帯の技術を知らぬままに,誰の支援もなしに「自分らしさ」なんか追及していたら,社会的に下降する以外に道はない(p.161-164)
▼
・ホロコーストから生き残ったユダヤ人の多くは,彼らの神が彼の民を救うことなく,虐殺されるに任せたことを理由に,信仰に背を向けた.そのときエマニュエル・レヴィナスは,こう言って,その背教をなじった.「あなたがたはいったい,どのような幼児的な神をこれまで信じていたのか.「善行を成した者には報償を与え,過ちを犯した者を罰し,あるいは赦し,その善性ゆえに人間たちを永遠の幼児として扱うもの」を,あなた方は神だと信じてきたのか.だが,よく考えてほしい.ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である.人間が人間に対して犯した罪は,人間によってしか購うことはできない.それは神の仕事ではなく,人間の果たすべき仕事である.人間たちの世界に人間的価値を根付かせるのは人間の仕事である.「私たちの力だけでは,この世界を公正で慈愛に満ちたものにすることができません.神様,何とかしてください」と泣訴するような幼児的な人間を,神がわざわざ創造するという事があり得ようか.神がその名にふさわしい威徳と全能を備えたものであるならば,神は必ずや神の支援抜きで,この地上に正義と自愛の世界を作り出すことのできる人間を創造されたはずである.だから,成人の信仰は,神が世界を負託できるものたることを,自らの責務として引き受ける人間の出現によって証しなされるのである」 レヴィナスはホロコーストの時間における「神の沈黙」を,人間に対する絶対的な信頼に基づいて,召命を負託されたことと解釈することによって,崩れかかったユダヤ人共同体を瀬戸際で支え,虚無的になりかけたユダヤ人たちを,再び律法の学習と戒律の遵守の,静かな信仰生活へと戻した(p.204-206)
▼
原発問題論議に関しては,著者のように宗教にすがっている限り,事故学的な解決は到底望めず,かえって事故再発防止を妨げるのではないか?,としか.
▼
以上,主なものを列挙したように,「確かにそういうこともあるのだろうが,さほど正しいとも言えない」ような記述が,特に著者の専門外分野において目立つ.
▼
著者の専門分野の記述だけ拾い読みするのが吉か?
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フランス現代思想,武道論,映画論,教育論などの専門家.
したがって,その専門分野では「なるほど」と思えることが多いものの,専門外の分野に関する記述では,疑問点も多し.
あとがきによれば「口述」.
さらにネットで調べると,どうやら著者のブログを本に纏めただけらしい.
専門外の分野に関する床屋政談が比較的多いのも,そのせいであろうと納得.
▼
頷ける点としては,
・「そこで論じられていないこと」を持ち出して,「こんなことも知らない人間に,この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る,「学者の腐ったような奴」(p.11-14)
「こんなことも知らない人間に,この論件について語る資格はない」という言葉は,ネット上の論争においてもしばしば散見.
学檀がその発祥だったとは.
・学者というのは「知識を持つ人間」ではなく,「自分の持つ知識についての知識を持っている人間」(p.12)
・自分は何故,あることを知っていて,それとは違うこと(=他の知識,筆者注)を知らないのか? 私が何かを「知りたい」と思い,また,別の何かについては「知るに値しない」と思うのは,どのような選別の基準に従っているのか? その選別基準には一般性があるのか? あるとしたら,その一般性はどのように学的に基礎づけられるのか?などなど.そうした一連の問いは,「私の知の成り立ち方」について考究する事へ,僕たちを導きます.それが「知識についての知識」を形作ります(p.12)
・自分が仕入れた知識の価値を,「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を持たない人にとっては,どれほどトリヴィアルな知識を収集しても,それは学的には無価値だという事は忘れないほうがいいと思います(p.13)
・「長く生きてきて分かったことの一つは,『現実を変えよう』と叫んでいるときに,自分がモノを壊しているのか,作り出しているのかを吟味する習慣を持たない人は,殆どの場合『壊す』ことしかしない,ということです(p.16)
・あるものを破壊するのに要するエネルギーは,それを作り出すために要したエネルギーの数百分の一,場合によっては数百万分の一で済みます.ですから,身の丈に合わない自尊感情を持ち,癒されない全能感に苦しんでいる人間は,創造的な仕事を嫌い,それよりは何かを破壊する生き方を選択します.必ずそうなります.(p.18)
・全能感を求める人は,モノを作ることを嫌います.想像すると,自分がどの程度の人間であるかが,あからさまに暴露されてしまうからです.だから,全能感を優先的に求めるものは,自分に「力がある」ことを誇示したがるものは,何も「作品」を示さず,他人の創り出したものに無慈悲な批評を下していく生き方を選ぶようになります.自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり,その批評は残忍なものになるのは,そのせいです(p.19)
そして,その破壊にしか繋がらない論難を,著者が指して言うのが本書タイトルの「呪い」.
言うまでもないことだが,魔術の「呪術」,陰陽道の「呪」などオカルティズムとは無関係なので注意.
・現在の教育現場では,「君たちには無限の可能性がある」という激励は許容されても,「身の程を知れ」「分をわきまえろ」というアナウンスに対しては,強い抵抗を覚悟しなければなりません.(p.21)
・教育の場では,「君には無限の可能性がある」という言明と,「君には有限の資源しか与えられていない」という言明は,同時に告げられなければならない(p.22)
・「自分らしさ」というのは,「今の自分は"本当の自分"ではない」という否定形でしか存在しない(p.41)
・現代人が自我の中心に置いている「自分らしさ」というのは,実はある種の欠如感,承認欲求.「私はこんなところにいる人間ではない」「私に対する評価は,こんな低いものであってよいはずがない」「私の横にいるべきパートナーは,こんなレベルのものであるはずがない」というような,自分の正味の現実に対する,身もだえするような違和感,乖離感,不充足感,それが「自分らしさ」の実体(p.40-41)
・「"私だけが正解を語っている"という主張をなすことは,それ自体が原理的に間違っている.そう主張する人は,彼の『正解』に背馳するデータを過小評価するか,無視するか,悪意ある捏造だと見做すようになる.必ずそうなります.そうやって,知的な"遮眼帯"を自分で自分に装着してしまう.人間である以上仕方がない.それは"私だけが正解を語っている"という言明から始めたことの,論理的な帰結なのです.だったら,そういうピットフォールに落ち込まないように,自説の正しさに常に留保をつけておく節度が必要だと僕は思います."私はとりあえず手持ちのデータに基づいて,正しいことが事後的に明らかになる蓋然性が高い見通し"を述べている.しかし,私は全てのデータを網羅したわけではなく,これから起きる出来事の全てを予見できるはずもないので,私の見通しは誤る可能性がある"という宣言を,議論の出発点に置くべきなのです」(p.83)
・「ここに腕力の強い人間がいて,己の力を誇示し,他人を威嚇して,金品を奪っていたとする.これは許しがたいことだと誰でも思います.逆に,その例外的な筋骨の力を使って,足弱な人の荷物を代って持ってあげるとか,道に倒れている木や岩を取り除いている人がいれば,"正しい使い方をしている"と思う.単純な理屈です」「知力だって筋力と同じだと僕は思います.たくさんある人はそれを使って,困っている人の荷物を代わりに持ってあげればいい.それが知性の一番真っ当な使い方ではないですか.己の知力を使って人を圧倒したり,論破したり,揚げ足を取ったり,あるいは鮮やかな弁舌やトリッキーな議論を駆使して,自己利益を増大させるのは,知性の人間的な使い方ではないと僕は思います」(p.187)
▼
ただ,
・「朝生」のようなTV番組により,他人の話は聞かない,自分の意見だけを言いつのり,どれだけ反証が示されても自説を絶対に撤回しないという風儀のことを「ディベート」と呼ぶのだという事が,僕たちの社会の常識になった(p.16-17)
…それはどうかと.
「ディベート」という言葉こそなかったものの,「他人の話は聞かない,自分の意見だけを言いつのり,どれだけ反証が示されても自説を絶対に撤回しないという風儀」は,学生運動⇒連合赤軍や日本赤軍の一連のテロ事件に至る,新左翼運動の風儀そのものではなかったかと.
・「呪い」がこれほどまでに瀰漫(びまん)したのは,人々が自尊感情が満たされることを過剰に求め始めたからです(p.20)
・若者に限らず,現代日本人の多くは,自己評価と外部評価の落差が,次第に拡大しつつあります(p.20)
これらは何か統計的事実をもって裏づけられているのだろうか?
コリン・ウィルソン『現代殺人百科』(青土社)によれば,その手の,能力に比べて自尊感情がやたら高い人間は,昔から一定の割合で存在するそうだが.
「若者の○○離れ」論に見られるように,その手の論は,「ただの著者の印象/偏見」でしかないことが余りにも多いので,注意しておきたいところ.
▼
政治談義;
・「責任を先送り」できるのは,自分が現在起きているシステム上の不備を補正する「メンテナンス」の当事者であるという認識がないから(p.24)
…まあ,そういう場合もあるだろう(特に民主党政権の与党政治家には顕著であった)が,もっと直接に,喩え当事者と認識していても,「責任を取らされたくない」という心理のほうが大きいのではないだろうか.
そういうペナルティ回避の心理は,殆どの人間にあると思うのだが.
さもなければ,たとえば怖くて逃げてしまう轢き逃げ犯など存在しやしないだろう.
・「とりあえず現状をまともに機能させている」現場の努力を軽く見るのが,当今の公人たちの通弊です(p.24)
そう述べておきながら,その最たるものであったルーピー鳩山を,支持している姿勢(p.159-161)が理解不能.
もし,今は支持していないというのであれば,何らかの釈明が必要だろう.
・アメリカ人は「ありあわせのものでなんとか辻褄を合わせる」という発想をしない.政治的システム不調を,「建国の父」たちによる,理想国家のための「最初の設計図通りに作り直す」というエクスキューズで処理をする.(p.64-65)
・丸山真男『日本の思想』によれば,ポツダム宣言受諾の時に及んでも,それが「究極的に何を意味するのか」について,日本帝国の最高首脳部においても,遂に一致した見解が得られなかった,国家の基軸である「国体」という概念(p.67)
ソースが丸山真男であることに不安もなくはないが,もしそれが本当だとしたら,ぜひとも現代の極右にも「国体とは何か?」をしつこく問いただしてみたいところ.
・「自分で与えた憲法の理念と背馳する命令が下せるほど強大な国には,従属するしかない」という経験則が,戦後日本の国是(p.68-69)
・戦後日本は,とにかくアメリカに従属しなければ生き残れないという「やむを得ない実証性」に基づいて,その都度最適解で応じている,というだけ.日本の政治家のマインドは,「受験生マインド」とあまり変わらない(p.69-70)
確かにそれもあるのかもしれないが,では,四海を見渡して,同盟を組んで日本にもメリットが一番ある国と言えば,まあ,アメリカしかないだろうな,というのは現実的選択ではないのだろうか?
「ほんとうの日本はこんなものじゃないはず」という,ある種の「自分探し」めいたものが,本書のこのくだりからは窺えるのだが.
・「『出方』を待つという外交戦略の不利は,常に後手に回るという事です.日本の政治が三流であるというのは,そういうことです.国家像が描けない,統治原理が語れない,外交戦略を起案できないというのは,個別的な知性の不調なのではなくて,日本人全員が罹患している国民的な病なのです」(p.70-74)
▼
犯罪談義;
・秋葉原の無差別殺傷事件の,本当の犯人は,殺害者自身が「本当の私」だと思っている肥大した自尊感情そのもの(p.28)
・7人の死者は,「この殺人事件の意味は何だと思う?」という,殺害者からの「キリング・メッセージ」(p.28)
・「加藤はある日,何かを『呪った』のだと僕は思います.呪いの標的となったものは,具体的な誰かやなにかではなく,加藤が妄想し,『ほんとうの加藤智大が所有しているべきもの,占めているべき地位』を不当に簒奪している『誰か』でした」(p.30)
これらは,犯罪学的な同事件解釈とは乖離がかなりあるので,注意が必要.
・秋葉原の無差別殺傷事件や元厚生次官殺人事件を見ていると,犯人たちは自らの行為が,少なくとも数十万,数百万レベルの「支持者」を得られることを期待して,そのような行為を選択しているように思われます.彼らはおそらく,自分の苦しみや嫉妬やそこから生まれる憎悪や殺意には,「汎用性」があると信じている.その憎悪や殺意には,乾電池やカセットテープのような「汎用性」があって,誰にでも装着可能であると,彼らは信じている.彼と記号的殺意を共有する人々は,別に捕えられた彼のために助命嘆願するわけでもないし,殺人行為そのものを手助けしてくれるわけでもないけれど,「観客席」から「よくやった」と拍手喝采する.記号的な殺意を,自分と共有している人間ば,何十万人もいるという確信があるからこそ,それを推力にして現実の殺人にまで暴走する(p.52-53)
…と,ここまではいいとしても,
・そのような確信をもたらしたのはメディアの論調であり,ネット上の言論です
と断定してしまうのは,何か客観的根拠があってのことなのか?
記号的殺意による現実の殺人なら,テロリズムという形で,ネットよりも古くから存在するものではないだろうか?
・凶悪犯罪が心神耗弱で繰り返し免責されると,様々なペルソナを取り揃えて,タフな人間関係に対応できるような「複雑な私」を作り上げようとする努力への,動機付けそのものが損なわれてしまう.手間暇かけて市民的に成熟するという,社会的圧力そのものが減殺されてしまう.結果的にますます乖離的な人格の人間が増えていく――という悪循環に陥り始めているのではないか?(p.133-134)
▼
英語教育談義;
・日本は,英語が出来なくとも知識人であることが可能な,アジアでは例外的な国(p.87)
・漢字を使えないばかりに,歴史的文献資料が殆どの国民にとって,解読不能なロゼッタ・ストーンと化している韓国(p.97)
・英仏語の教育の代償として,自国の伝統文化に対するアクセスを放棄することになった東南アジア諸国の,いわゆる「植民地マインド」(p.99-100)
まあ,その通りでもあるんだが,他方で,海外への発信/自己主張を考えた場合,英語ができないよりはできた方がいいよね.
皆が皆,通訳を雇える環境にあるとは限らないのだから.
・英語力が下がり続けているのは,教育プログラムなどの問題ではなく,もっと根の深い,国民的な規模での無意識のブレーキがかかっていること(p.88-90)
といったあたりから,オカルト臭が漂ってくるので,ソースを映画などに求めるのではなく,もっと客観的論拠を提示なされたほうが宜しいかと.
▼
経済談義;
・苅谷剛彦さんが『階層化日本と教育危機』で指摘したように,階層社会は,努力することに対するインセンティヴの有無に基づいて二極化します.どれほど能力があろうとも,素質に恵まれていようとも,自分の能力や資質は「決して適切には評価されないだろう」と確信している人は努力しない.ですから,努力する事へのインセンティヴを傷つけるというのが,社会的差別の最も邪悪かつ効果的な部分なのです(p.33-34)
そういう側面もあるだろうが,経済学では,二極化の原因は他に求められるとしている.
トマ・ピケティ『21世紀の資本論』によれば,先進国は労働分配率が長期的に低下し,資本の蓄積が増えるほうが国民の所得の伸びよりも速いため,格差が固定化するということを,過去200年の統計データから実証して見せている.
すなわち,「自助努力で乗り越えられない格差は存在しない」は,幻想である可能性が高い.
・「とりあえず何かをぐるぐる回す,それ自体を目的する経済活動こそが,経済の本来の姿である――と,そんなふうに考えている(p.149)
そういう活動は確かに存在するだろうが,「本来の姿」とまで言われることには,違和感を感じざるを得ず.
▼
・就職情報産業にとって,「適職イデオロギー」を深く内面化した若者は,エンドレスの顧客(p.108)
・「適職イデオロギー」と類似したものが「赤い糸イデオロギー」(p.110)
・「あなたは普通の人である.それゆえ,普通の人と結婚すればよい.そうすれば普通の幸福が得られるであろう――という,あまり夢のないワーディングで結婚に追い込んでいた,小津安二郎の時代(p.115)
・社会的に非力な若い夫婦にとって,権力を持つ人に仲人になってもらうことは,貴重な安全保障(p.118)
それは間違いではないのかもしれないが,フィクションが「その論拠である」とされると,一挙に信頼性が下がるわけで…
・結婚が必要とするのは,他者と共生する力.日本社会の深刻な問題は,他者との共生能力が劣化していること(p.120)
▼
・現代人が「利己的」だと思っているふるまいの殆どは,利己的ではなく,あえて言えば「利脳的」(p.39)
・利己的にふるまうことが許されている社会では,最強の一人以外は,誰一人自己利益を安定的に確保できない(「最強の一人」にしても,病気になったり,けがをしたり,居眠りをしている間に寝首をかかれる不安からは,生きている限り逃れられない)(p.39)
▼
数値データ万能主義に対する批判(p.50-51)は,それは確かにその通りなのだが,本書のように,客観的根拠らしいものが殆ど挙げられずに論を推し進めているのを見ると,非常に危ういものを感ず.
著者の「こう思う」に対し,反論者が「いや,そうは思わない」と応えたら,そこで議論は停止してしまうだろう.
それは意見の対立者相互の交流を途絶させ,他者との共生能力の劣化を招くと思うのだが.
▼
・「権利請求」戦略として常態化している,「まず被害者の名乗り」(p.126)
・その起源はマルクス主義.もともとは,おのれが「不当に社会的資源を占有している強者」であるという疚しさの自覚を持った人々が,「資源の返還とフェアな配分」を提唱したところから始まったものだが,その運動がいつの間にか,「不当に社会的資源を収奪されている弱者」の倫理的優位性を足場に,「資源返還」を要求するものに変わった.(p.126-127)
・ポスト・コロニアリズムや後期フェミニズムの言説の中では,「疚しさ」の感情は遥かに後退し,専ら「弱者の立場から強者に対して,非寛容に権利請求する」言葉が氾濫するようになった.「被抑圧者の告発の前で,強者たちは疚しさを覚えて,うなだれなければならない」という,それなりに倫理的な命題が,「とりあえず弱いふりをすると,他人を屈服させることができる」という世渡り術にまで頽落するまでに,それから長い時間はかからなかった(p.127)
・左翼の社会改革論は原則的に,「個人的な善意による,局所的なフェアネスの実現」を批判し続けてきた.そんな中途半端な善意は,体制の延命に加担することに過ぎない.矛盾は隠蔽されてはならず,社会的に不幸な人々は,中途半端な救済を拒否して,極限まで不幸にならなくてはならないという不思議な理屈が,ずっとさよくてきな常識」だった.「全ての救いのチャンスから見捨てられた人間」「鉄鎖の他に失うべきものを持たないプロレタリアート」をどうやって立ち上がらせるかが,喫緊の政治課題である時に,個人的善意で中途半端な救いなんか提供されて,腰を折られては困る.「窮民革命論」が典型的だが,要するに,その社会で最も収奪され最も抑圧されている人間が,革命の主体になるべきだ,と左翼的には考える.でも,そうなると,世界的な貧困の水準から見たら,日本のプロレタリアなんか殆どブルジョアだから,窮民革命論者たちは革命の主体を探して,世界のあちこちを訪ね歩き,「世界で最も収奪され,抑圧されている人」を探し出し,その同伴者になろうとした.このロジックの難点は,そうやって革命の主体となる権利を持つ人を,厳しく条件づけていくと,遂にこの世に「革命の主体」の条件を満たす人が,一人もいなくなってしまうこと.どんなに収奪されているプロレタリアも,下を見れば下がいる」から(p.156-158)
・ラディカルすぎる政治的主張は,一回りして現状肯定に行きついてしまう(p.158)
・強者たちは「強者連合」を形成し,様々な利権をお互いに融通し合って「共存共栄」している.一方,弱者はどんどん孤立する(p.161)
・弱く幼い人間が,連帯の技術を知らぬままに,誰の支援もなしに「自分らしさ」なんか追及していたら,社会的に下降する以外に道はない(p.161-164)
▼
・ホロコーストから生き残ったユダヤ人の多くは,彼らの神が彼の民を救うことなく,虐殺されるに任せたことを理由に,信仰に背を向けた.そのときエマニュエル・レヴィナスは,こう言って,その背教をなじった.「あなたがたはいったい,どのような幼児的な神をこれまで信じていたのか.「善行を成した者には報償を与え,過ちを犯した者を罰し,あるいは赦し,その善性ゆえに人間たちを永遠の幼児として扱うもの」を,あなた方は神だと信じてきたのか.だが,よく考えてほしい.ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である.人間が人間に対して犯した罪は,人間によってしか購うことはできない.それは神の仕事ではなく,人間の果たすべき仕事である.人間たちの世界に人間的価値を根付かせるのは人間の仕事である.「私たちの力だけでは,この世界を公正で慈愛に満ちたものにすることができません.神様,何とかしてください」と泣訴するような幼児的な人間を,神がわざわざ創造するという事があり得ようか.神がその名にふさわしい威徳と全能を備えたものであるならば,神は必ずや神の支援抜きで,この地上に正義と自愛の世界を作り出すことのできる人間を創造されたはずである.だから,成人の信仰は,神が世界を負託できるものたることを,自らの責務として引き受ける人間の出現によって証しなされるのである」 レヴィナスはホロコーストの時間における「神の沈黙」を,人間に対する絶対的な信頼に基づいて,召命を負託されたことと解釈することによって,崩れかかったユダヤ人共同体を瀬戸際で支え,虚無的になりかけたユダヤ人たちを,再び律法の学習と戒律の遵守の,静かな信仰生活へと戻した(p.204-206)
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原発問題論議に関しては,著者のように宗教にすがっている限り,事故学的な解決は到底望めず,かえって事故再発防止を妨げるのではないか?,としか.
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以上,主なものを列挙したように,「確かにそういうこともあるのだろうが,さほど正しいとも言えない」ような記述が,特に著者の専門外分野において目立つ.
▼
著者の専門分野の記述だけ拾い読みするのが吉か?
【関心率22.46%:全ページ中,手元に残したいページが当方にとってどれだけあるかの割合.当方にとっての必要性基準】
2020年6月25日に日本でレビュー済み
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とても平易でわかりやすい文章なのに意味を理解するところを自分なりに理解するにはちょっと時間がかかりました。1ページ読んでは考えてまた読んでは考えて…
つまりこれは哲学書だと思います。
今の日本の世相なども取り入れていていっけんわかりやすいですが、理解しようとすると自分自身が少し高みに行かないといけない。
この本を読む前の自分と読んだ後の自分はちょっと違う人になっています。
今まで知らなかかった知性を得られてよかったです。
内田樹さんがよく言う教育とはこういうことなのでしょう。知る前には想像することができなかった世界または自分に会えます
つまりこれは哲学書だと思います。
今の日本の世相なども取り入れていていっけんわかりやすいですが、理解しようとすると自分自身が少し高みに行かないといけない。
この本を読む前の自分と読んだ後の自分はちょっと違う人になっています。
今まで知らなかかった知性を得られてよかったです。
内田樹さんがよく言う教育とはこういうことなのでしょう。知る前には想像することができなかった世界または自分に会えます
2018年10月25日に日本でレビュー済み
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「武田鉄矢、今朝の三枚おろし」であまりにたびたび取り上げられる思想家なので読んでみた。哲学者だけあってしっかり読ませてくれる。着想が素晴らしくそれを記す筆力が半端なく強い。しかし、まあ、安部総理批判の潜り込ませ方もすごいね。彼ら全共闘世代の特徴なんだろうけど、やっぱり政権は批判しないとダメなんだろうね。それはステレオタイプとどう違うのか、そういうのは「呪いの時代」的にどうなんだろう、と言うのが素直な感想。政治家は権力闘争的な政治屋稼業が本職で、哲学者や経済評論家など学問・売文屋とは棲む世界が違うから行動における価値観も当然違うだろうにな、と思う。とは言うものの、本著は政権批判な部分を飛ばして読めばその内容は超一流だと思った。
2020年4月22日に日本でレビュー済み
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謳い文句通りでした。
2012年1月31日に日本でレビュー済み
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言ってることはもっともらしいが、やっていることは著しく矛盾している人だな、と思いました。
内田氏は村上春樹氏へのマスコミ・知識人のバッシングを集団的憎悪(「呪い」)と鋭く批判します。
それ自体はもっともな批判だとは思います。
ですが、彼は先の大阪市長選挙での橋下と平松の戦いの際、反橋下陣営の論客として彼を知識人・マスコミとスクラムを組み橋下氏をバッシングし、「ハシズム」とレッテル貼りしました。
当時のマスコミの橋下バッシングの凄まじさ、本人にはどうしようもない出自の問題まであげつらう徹底ぶりは記憶に新しいことと思います。
これは内田氏の批判している(はずの)集団的憎悪・「呪い」ではないのでしょうか?
自らは「呪い」を否定しながら、自分の気に食わない相手に対しては平然と「呪い」を放つ、その態度は知識人として恥ずべき態度であると思います。
そこを減点して☆二つとさせていただきました。
内田氏は村上春樹氏へのマスコミ・知識人のバッシングを集団的憎悪(「呪い」)と鋭く批判します。
それ自体はもっともな批判だとは思います。
ですが、彼は先の大阪市長選挙での橋下と平松の戦いの際、反橋下陣営の論客として彼を知識人・マスコミとスクラムを組み橋下氏をバッシングし、「ハシズム」とレッテル貼りしました。
当時のマスコミの橋下バッシングの凄まじさ、本人にはどうしようもない出自の問題まであげつらう徹底ぶりは記憶に新しいことと思います。
これは内田氏の批判している(はずの)集団的憎悪・「呪い」ではないのでしょうか?
自らは「呪い」を否定しながら、自分の気に食わない相手に対しては平然と「呪い」を放つ、その態度は知識人として恥ずべき態度であると思います。
そこを減点して☆二つとさせていただきました。