この本の「リベラル保守」という考え方には伝統的な価値観やその土地の"徳"を重視するヴァーチューエシックスに通ずる所があるように思えます。
近代主義的な人間観に仏教や日本のアニミズム的な価値観を対峙させることによって、他者との繋がりや、包摂的なコミュニティ形成を強調しています。
新自由主義的な人間像や世界観が支配的になっていることに警鐘を鳴らすだけではなく、それに対抗でき得るオルタナティヴを本書は提示しています。
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「リベラル保守」宣言 (新潮文庫) 文庫 – 2015/12/23
中島 岳志
(著)
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リベラルと保守は対抗関係とみなされてきた。だが私は真の保守思想家こそ自由を擁護すべきだと考えている――。メディアでも積極的に発言してきた研究者が、自らの軸である保守思想をもとに、様々な社会問題に切り込んでゆく。脱原発主張の根源、政治家橋下徹氏への疑義、貧困問題への取り組み方、東日本大震災の教訓。わが国が選択すべき道とは何か。共生の新たな礎がここにある。
- 本の長さ245ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2015/12/23
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-104101365725
- ISBN-13978-4101365725
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登録情報
- 出版社 : 新潮社; 文庫版 (2015/12/23)
- 発売日 : 2015/12/23
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 245ページ
- ISBN-10 : 4101365725
- ISBN-13 : 978-4101365725
- 寸法 : 14.8 x 10.5 x 2 cm
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2022年5月17日に日本でレビュー済み
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「暫時の改革が良い」は反対は少ないと思うが、危機的な状況ではやはり機能しない。日本の現状は余り楽観を許されないとみているので、ギアチェンジは必要です。その辺のかじ取りが、今の政治家にできるかと言うと難しいでしょう。日本には独裁者を排除する文化があるので、独裁者が出る心配はあまりしていないが、気概のあるリーダーはやはり必要です。国も企業もその組織運営に際しては、分かり易い理念と中長期の見通しを語ることが重要なのは同じことですが、いまの国にはその両方が欠けていますので、結構致命的です。岸田首相の新しい資本主義は理念でも計画でもない。雑誌の記事を見ても、中身はこれから専門家と相談するではなさけない。
2022年7月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この作者の最近作、利他の本を2冊購入し、感銘をうけたため、この本も購入したが、思ったほどで
なかった。
「思いがけず利他」がすごかった。
なかった。
「思いがけず利他」がすごかった。
2022年10月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「リベラル保守」宣言 中島岳志
間違いなく今年のベスト3に入る衝撃を受けた。これまで私が読んできた内田樹やトクヴィル、エドモンドバーグの思想がダイジェスト的に絡み合い、本書の読書体験の中で総括されているという異様な高揚感があった。私自身はリベラル、さらには一種のアナキズム的な思想を持っていると考えていたが、もしかすると本書の言うところの保守主義なのかもしれない。本書で強調される保守の本質とは、「人間の不完全さ」をベースとした社会構想にある。保守はリベラリズムにおいてしばしば出される設計主義的で革新的な打開策に対して、傲慢と批判するのはそのためである。中島氏はバーグの言葉を借りて「価値やモラルの基準を失った自由は暴走し、自己の自由を阻害する他者へのむき出しの暴力となって現れます。制約を失った自由こそが、人々から真の自由を奪い、世の中の秩序を破壊するのです」と、行き過ぎた自由主義を批判する。この部分は、三島由紀夫が『若きサムライのために』でも述べていた青年の特徴としてある「人間性の恐ろしさへの無知」に近い部分がある。三島は学生紛争で暴れまわる学生を前に、青年にはわかるまいが本当の自由というのは恐ろしく、社会というものは自分や他人は放っておくと何をしでかすかわからないという根本的な人間性への恐れを知るものが作っていると看破する。これは私自身、同意する。私自身が、どんなに自分を律しようとしてもままならないという感覚を持っているために、傲慢かもしれないが、人間の不完全さというものを痛いほど毎日感じている。だからこそ、これは内田老師もよく言っているが、社会構想はある種の人間の弱さをベースにしなければならないと思う。
また、保守は画一的なルールを用いる設計主義を嫌うと書いたが、それは人間の多様性を認めることでもある。分かり合えない(そして、お互いが分かり合えないことを分かり合っている)他者とどのように共存すればよいかということを考えることが肝要である。ここには葛藤がある。分かり合うことはできないのだけれども、何とか折り合いをつけるために分かり合おうとする葛藤のダイナミズムの先にこそ、人間の成熟がある。相手と自己の差異の間で平衡を保ち、自己変容を伴いつつ合意を生み出すことこそが、社会的存在である人間の叡智なのである。リベラリズムは、自由を主張するばかりに、相対主義に陥る可能性がある。本書では、その克服のためにも「真理は一つかもしれないが、その真理に至るまでの道筋は多様である」という多一論的な思想を紹介する。
保守は人間の不完全さを基盤としているため、進歩主義にも懐疑的となる。何らかの抜本的な改革というものを行い際には、理性に基づく制度設計に対して、歴史や経験値を通じた検証が必要と考え、こうした考え方を「理性に基づく進歩」と対置して「過去へと遡行する前進」を表現している。歴史に基づいた平衡感覚というものは曖昧ではあるが、非常に理解できる。本書を読んでいると、たびたび三島の思想に類似点と見つけてしまうのであるが、根本的な人間観はやはり三島と共通していると感じる。三島は現実主義に対して、本当の現実主義を考える場合には、人間が馬鹿げた夢を見るということも勘定に入れなければならないと看破しているが、その通りであると思う。
ここで、歴史や経験値、平衡感覚という言葉が出てきたが、保守と懐古主義を明確に線引きする必要がある。保守におけるキーワードとして再帰性というものがある。これは、「特定の価値を一旦客体化した上で、主体的に引き受け直す意志の在り方」と指す。この話を聞いて、私自身まず想起されたのは、東京ディズニーランドのスプラッシュマウンテンの寓話である。スプラッシュマウンテンはジェットコースターの背景に非常に教化的なエピソードを持っている。まず、スプラッシュマウンテンのストーリーは青年ブレアラビット(=うさぎどん)が旅に出るところから話はスタートする。ブレアラビットは地元の空気に飽き飽きし、より楽しい「笑いの国」を目指して旅に出るが、ブレアフォックス(=きつねどん)とブレアベア(=くまどん)に邪魔をされてしまう。しかし、頭の良いブレアラビットは邪魔をする者たちの罠には引っかからず、逆に罠にかけていくのだが、最終的にはブレアフォックスとブレアラビットに捕まってしまう。殺されそうになり、窮地に追いやられたブレアラビットは「頼むから茨の茂みにだけは投げ込まないでくれ」と懇願する。しかし、これはブレアラビットの機転で、茨の茂みとはブレアラビットの地元の街を指す。それを聞いたブレアフォックスとブレアベアは
まんまとブレアラビットを茨の茂みに投げ込み(ここでジェットコースターのクライマックス)、彼は絶体絶命の危機から、地元に生還する。そこで、最後に安心して皆に迎えられたブレアラビットは僕にとっての「笑いの国」はこの地元の街のことなんだと言って物語は終わる。この話は、本書における再帰性を表す意味で非常に教化的であり、アナロジーに富む。保守は伝統や歴史に盲従することはない。常に自身の周囲にある伝統や歴史を客体化する経験や思考を繰り替えし、問い直すダイナミズムの中に、保守の本質がある。ここが、保守と懐古主義の明確な分かれ道である。
最後に、保守は宗教を重要視する。人間の理性の完成可能性を疑い、その能力の決定的限界を謙虚に受け止めようとする者は人間の不完全性を認識するための指標として「超越的なるもの」を必要とする。一方で、現実的には、宗教はコミュニティを基盤とすることが多い。現在の社会は極度に個人化が進んでいるが、人間は個人化が進んだ先に、単なる抽象概念だけで心理的な安全性を感じられるほど便利にできていない。異質な他者と出会いながら、自身の社会性を育んで行く「中間団体」が本来は必要であり、そこで議論の技法を学ぶ。そうした人間だけが、デモクラシーを機能させることができる。過去との連続性を持ち、ある種コミュニティに密着した宗教に基づくゆるやかなコミュニティが中間団体には理想的であり、宗教によって人間の不完全さを理解した(角が取れた)人々が、中間共同体として集まることを社会の安定性をもたらす手段として、評価している。
本書は、自身の思想的遍歴のハイライト的なものではあるが、すべての文章に対して同意するわけではない、いや、同意してはならないとも思う。この文章は読んでいて非常に心地よかったと感じるのであるが、直近、新入社員の教育係をやるなど、自分自身の境遇の変化がこの文章を自分に心地よいものとしているのではないかとも感じる。伝統や慣習を重視し、社会的分業を良しとする流れは、ある意味現状に満足している立場に置かれ、さらには自由を求める人々との葛藤がある人間にとって、心地よいものではないかと冷静になって考えるべきである。こうした絶え間ない客体化と葛藤による自己変容こそが、保守なのだと言われれば、それは納得できる。
間違いなく今年のベスト3に入る衝撃を受けた。これまで私が読んできた内田樹やトクヴィル、エドモンドバーグの思想がダイジェスト的に絡み合い、本書の読書体験の中で総括されているという異様な高揚感があった。私自身はリベラル、さらには一種のアナキズム的な思想を持っていると考えていたが、もしかすると本書の言うところの保守主義なのかもしれない。本書で強調される保守の本質とは、「人間の不完全さ」をベースとした社会構想にある。保守はリベラリズムにおいてしばしば出される設計主義的で革新的な打開策に対して、傲慢と批判するのはそのためである。中島氏はバーグの言葉を借りて「価値やモラルの基準を失った自由は暴走し、自己の自由を阻害する他者へのむき出しの暴力となって現れます。制約を失った自由こそが、人々から真の自由を奪い、世の中の秩序を破壊するのです」と、行き過ぎた自由主義を批判する。この部分は、三島由紀夫が『若きサムライのために』でも述べていた青年の特徴としてある「人間性の恐ろしさへの無知」に近い部分がある。三島は学生紛争で暴れまわる学生を前に、青年にはわかるまいが本当の自由というのは恐ろしく、社会というものは自分や他人は放っておくと何をしでかすかわからないという根本的な人間性への恐れを知るものが作っていると看破する。これは私自身、同意する。私自身が、どんなに自分を律しようとしてもままならないという感覚を持っているために、傲慢かもしれないが、人間の不完全さというものを痛いほど毎日感じている。だからこそ、これは内田老師もよく言っているが、社会構想はある種の人間の弱さをベースにしなければならないと思う。
また、保守は画一的なルールを用いる設計主義を嫌うと書いたが、それは人間の多様性を認めることでもある。分かり合えない(そして、お互いが分かり合えないことを分かり合っている)他者とどのように共存すればよいかということを考えることが肝要である。ここには葛藤がある。分かり合うことはできないのだけれども、何とか折り合いをつけるために分かり合おうとする葛藤のダイナミズムの先にこそ、人間の成熟がある。相手と自己の差異の間で平衡を保ち、自己変容を伴いつつ合意を生み出すことこそが、社会的存在である人間の叡智なのである。リベラリズムは、自由を主張するばかりに、相対主義に陥る可能性がある。本書では、その克服のためにも「真理は一つかもしれないが、その真理に至るまでの道筋は多様である」という多一論的な思想を紹介する。
保守は人間の不完全さを基盤としているため、進歩主義にも懐疑的となる。何らかの抜本的な改革というものを行い際には、理性に基づく制度設計に対して、歴史や経験値を通じた検証が必要と考え、こうした考え方を「理性に基づく進歩」と対置して「過去へと遡行する前進」を表現している。歴史に基づいた平衡感覚というものは曖昧ではあるが、非常に理解できる。本書を読んでいると、たびたび三島の思想に類似点と見つけてしまうのであるが、根本的な人間観はやはり三島と共通していると感じる。三島は現実主義に対して、本当の現実主義を考える場合には、人間が馬鹿げた夢を見るということも勘定に入れなければならないと看破しているが、その通りであると思う。
ここで、歴史や経験値、平衡感覚という言葉が出てきたが、保守と懐古主義を明確に線引きする必要がある。保守におけるキーワードとして再帰性というものがある。これは、「特定の価値を一旦客体化した上で、主体的に引き受け直す意志の在り方」と指す。この話を聞いて、私自身まず想起されたのは、東京ディズニーランドのスプラッシュマウンテンの寓話である。スプラッシュマウンテンはジェットコースターの背景に非常に教化的なエピソードを持っている。まず、スプラッシュマウンテンのストーリーは青年ブレアラビット(=うさぎどん)が旅に出るところから話はスタートする。ブレアラビットは地元の空気に飽き飽きし、より楽しい「笑いの国」を目指して旅に出るが、ブレアフォックス(=きつねどん)とブレアベア(=くまどん)に邪魔をされてしまう。しかし、頭の良いブレアラビットは邪魔をする者たちの罠には引っかからず、逆に罠にかけていくのだが、最終的にはブレアフォックスとブレアラビットに捕まってしまう。殺されそうになり、窮地に追いやられたブレアラビットは「頼むから茨の茂みにだけは投げ込まないでくれ」と懇願する。しかし、これはブレアラビットの機転で、茨の茂みとはブレアラビットの地元の街を指す。それを聞いたブレアフォックスとブレアベアは
まんまとブレアラビットを茨の茂みに投げ込み(ここでジェットコースターのクライマックス)、彼は絶体絶命の危機から、地元に生還する。そこで、最後に安心して皆に迎えられたブレアラビットは僕にとっての「笑いの国」はこの地元の街のことなんだと言って物語は終わる。この話は、本書における再帰性を表す意味で非常に教化的であり、アナロジーに富む。保守は伝統や歴史に盲従することはない。常に自身の周囲にある伝統や歴史を客体化する経験や思考を繰り替えし、問い直すダイナミズムの中に、保守の本質がある。ここが、保守と懐古主義の明確な分かれ道である。
最後に、保守は宗教を重要視する。人間の理性の完成可能性を疑い、その能力の決定的限界を謙虚に受け止めようとする者は人間の不完全性を認識するための指標として「超越的なるもの」を必要とする。一方で、現実的には、宗教はコミュニティを基盤とすることが多い。現在の社会は極度に個人化が進んでいるが、人間は個人化が進んだ先に、単なる抽象概念だけで心理的な安全性を感じられるほど便利にできていない。異質な他者と出会いながら、自身の社会性を育んで行く「中間団体」が本来は必要であり、そこで議論の技法を学ぶ。そうした人間だけが、デモクラシーを機能させることができる。過去との連続性を持ち、ある種コミュニティに密着した宗教に基づくゆるやかなコミュニティが中間団体には理想的であり、宗教によって人間の不完全さを理解した(角が取れた)人々が、中間共同体として集まることを社会の安定性をもたらす手段として、評価している。
本書は、自身の思想的遍歴のハイライト的なものではあるが、すべての文章に対して同意するわけではない、いや、同意してはならないとも思う。この文章は読んでいて非常に心地よかったと感じるのであるが、直近、新入社員の教育係をやるなど、自分自身の境遇の変化がこの文章を自分に心地よいものとしているのではないかとも感じる。伝統や慣習を重視し、社会的分業を良しとする流れは、ある意味現状に満足している立場に置かれ、さらには自由を求める人々との葛藤がある人間にとって、心地よいものではないかと冷静になって考えるべきである。こうした絶え間ない客体化と葛藤による自己変容こそが、保守なのだと言われれば、それは納得できる。
2017年6月11日に日本でレビュー済み
「リベラル保守(liberal conservative)」とはなんぞや…という前に、私が気になったのは、著者の中島岳志さん(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)が未だ西部邁の“影響下”にあるや否や、である。私も、ブントや安保全学連の活動家だった北海道出身の西部に対して、一時、『 経済倫理学序説 』などを通じて、良い印象を持ったこともあったが、所詮は「右」を“売り物”にする唾棄すべき「産経文化人(笑)」であり、今は歯牙にも掛けないでいる。それに比べると、佐伯啓思さん(京都大学名誉教授)の方が多少はマシである。以上、私の個人的な“好悪(笑)”によって、残念だけど星1つ減点としたい。
それはさて措いて、「リベラル保守」という概念について、中島さんの言説を追ってみたい。まず。「リベラル」と「保守」という政治的なスタンスは、特にアングロサクソン圏で見られ、対立的なコンセプトとして語られることが多い。つまり「リベラル」vs.「保守」という図式だ。まず、中島さんは「真の保守思想家こそリベラルマインドを有し、自由を積極的に擁護すべき」と宣揚する。ただ、その「自由」とは、エドマンド・バークなどに依拠しつつ、「先人たちの経験の積み重ねの上に獲得された歴史的成果」であり、「歴史的に構成されてきた「賢明な法」や「制度」によって規定された存在」というものだ。
ここで大事な点が「節度という「足枷」」である。逆に言えば「制約を失った自由こそが、人々から真の自由を奪い、世の中の秩序を破壊する」こととなる。そしてもう一つ付け加えるのが「寛容」である。「真の保守思想は、他者への寛容を是とするリベラルマインドによってこそ生命力を得る」ことになる。このあたりまではある意味、従来の穏健的良識的「保守思想」と同一線上にある訳だが、大阪外国語大学(現大阪大学)でヒンディー語を学び、アジア思想(アジアの思想伝統)を考究した中島さんは、結論のみ紹介するけれども、「相対主義的リベラリズムを克服し、多一論的リベラリズム」を上乗せして提唱する。
そして、中島さんは「私たちはここで一度立ち止まり、リベラルな自由民主主義を歴史的に構築された経験知によって再定義し、さらにアジア的多一論によって包み直すべき」とし、最後に「「多一論的なリベラル保守」という立脚点こそ、今の時代に求められているスタンス」と結論付けている。インド(不二一元論)、中国(老荘思想)、仏教(多則一、一則多)などといった「アジアの思想伝統」を踏まえた「多一論」というオリジナリティを付加した「多一論的なリベラル保守」というものを、中島さんは訴えているのである。こうした知的営為は、アングロサクソン流の思考形式と異なり、日本人には胸に落ちよう。
本書は、序章の「「リベラル保守」宣言」から始まり、以下第1章から第8章までの『表現者』に収載されていた論考を基に組み立てられている。第1章は「保守のエッセンス」ということで序章の継続といった色合いだが、第2章以降は「リベラル保守」的な視点からの時事的評論が展開されている。しかし、それらは「体制保守」といった文脈とは異なっている。例えば、第2章では福島の「原発事故」を扱っているけれども、それは「この国土を手間暇かけて整備し、守ってきた先祖に対する冒涜であり、歴史を寸断する暴挙」と論断している点で理解できよう。その他の論考にも、合点のいくものが多いと考える。
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「リベラル保守(liberal conservative)」とはなんぞや…という前に、私が気になったのは、著者の中島岳志さん(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)が未だ西部邁の“影響下”にあるや否や、である。私も、ブントや安保全学連の活動家だった北海道出身の西部に対して、一時、『 経済倫理学序説 』などを通じて、良い印象を持ったこともあったが、所詮は「右」を“売り物”にする唾棄すべき「産経文化人(笑)」であり、今は歯牙にも掛けないでいる。それに比べると、佐伯啓思さん(京都大学名誉教授)の方が多少はマシである。以上、私の個人的な“好悪(笑)”によって、残念だけど星1つ減点としたい。
それはさて措いて、「リベラル保守」という概念について、中島さんの言説を追ってみたい。まず。「リベラル」と「保守」という政治的なスタンスは、特にアングロサクソン圏で見られ、対立的なコンセプトとして語られることが多い。つまり「リベラル」vs.「保守」という図式だ。まず、中島さんは「真の保守思想家こそリベラルマインドを有し、自由を積極的に擁護すべき」と宣揚する。ただ、その「自由」とは、エドマンド・バークなどに依拠しつつ、「先人たちの経験の積み重ねの上に獲得された歴史的成果」であり、「歴史的に構成されてきた「賢明な法」や「制度」によって規定された存在」というものだ。
ここで大事な点が「節度という「足枷」」である。逆に言えば「制約を失った自由こそが、人々から真の自由を奪い、世の中の秩序を破壊する」こととなる。そしてもう一つ付け加えるのが「寛容」である。「真の保守思想は、他者への寛容を是とするリベラルマインドによってこそ生命力を得る」ことになる。このあたりまではある意味、従来の穏健的良識的「保守思想」と同一線上にある訳だが、大阪外国語大学(現大阪大学)でヒンディー語を学び、アジア思想(アジアの思想伝統)を考究した中島さんは、結論のみ紹介するけれども、「相対主義的リベラリズムを克服し、多一論的リベラリズム」を上乗せして提唱する。
そして、中島さんは「私たちはここで一度立ち止まり、リベラルな自由民主主義を歴史的に構築された経験知によって再定義し、さらにアジア的多一論によって包み直すべき」とし、最後に「「多一論的なリベラル保守」という立脚点こそ、今の時代に求められているスタンス」と結論付けている。インド(不二一元論)、中国(老荘思想)、仏教(多則一、一則多)などといった「アジアの思想伝統」を踏まえた「多一論」というオリジナリティを付加した「多一論的なリベラル保守」というものを、中島さんは訴えているのである。こうした知的営為は、アングロサクソン流の思考形式と異なり、日本人には胸に落ちよう。
本書は、序章の「「リベラル保守」宣言」から始まり、以下第1章から第8章までの『表現者』に収載されていた論考を基に組み立てられている。第1章は「保守のエッセンス」ということで序章の継続といった色合いだが、第2章以降は「リベラル保守」的な視点からの時事的評論が展開されている。しかし、それらは「体制保守」といった文脈とは異なっている。例えば、第2章では福島の「原発事故」を扱っているけれども、それは「この国土を手間暇かけて整備し、守ってきた先祖に対する冒涜であり、歴史を寸断する暴挙」と論断している点で理解できよう。その他の論考にも、合点のいくものが多いと考える。