実は、外見(装丁デザイン)で選びましたが、内容も素晴らしかった。
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新訳 チェーホフ短篇集 単行本 – 2010/9/24
アントン・チェーホフ
(著),
沼野 充義
(翻訳)
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今だからこそ読みたいロシア文豪の名作短篇
“人間を描く天才”チェーホフの短篇13をロシア文学研究者であり名エッセイストの沼野充義氏が豊かな言葉を駆使して新しく訳した珠玉の作品集。個性豊かな登場人物が濃密なドラマを繰り広げる。
“人間を描く天才”チェーホフの短篇13をロシア文学研究者であり名エッセイストの沼野充義氏が豊かな言葉を駆使して新しく訳した珠玉の作品集。個性豊かな登場人物が濃密なドラマを繰り広げる。
- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2010/9/24
- 寸法13.8 x 2.2 x 19.3 cm
- ISBN-104087734706
- ISBN-13978-4087734706
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2010/9/24)
- 発売日 : 2010/9/24
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 288ページ
- ISBN-10 : 4087734706
- ISBN-13 : 978-4087734706
- 寸法 : 13.8 x 2.2 x 19.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 130,382位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 121位ロシア・ソビエト文学 (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2017年8月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ご覧の通りの可愛いカバーイラストや挿絵、大きめの字などからパッと見子供向けの本にも思えますが中身はしっかりチェーホフです。物語のタイトルや、人の愛称など、沼野氏独自の訳が特徴的で、もし他の翻訳家のそれと比較して疑問に思った人は、解説を読めば多分納得できるハズです。愛着の持てる本のデザインと、選りすぐりの作品達のおかげで、個人的に何度も読み返す一冊になりつつあります。
2011年4月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
初チェーホフなので新訳うんぬんは言えませんが、違和感が少なかったです。
登場人物の呼び名が変わるロシア文学の違和感は仕方がありませんね。
新訳よりも解説が読みどころかも本書は。
作品本文をより深く理解する本来の解説に加えて、
新訳に関する考慮説明などでは主従が逆転、本文が解説を盛り立てている。
作品自体は、感情の起伏が激しい登場人物が多く出てきて、
本筋とは関係ない部分が詳細に描かれていて、
どこで盛り上がり結末なのか良く分からない。
けれど、気づくと真綿で首を絞められていてドキリとさせられる。
舞台の暗転を思わせるちょっとぶつ切れ的な場面転換やストーリー展開で
アメリカや日本の物語とは異なる。戯曲的。
ちょっと暗い、思慮深いというのだろうか…。
100年以上も前に書かれた物語なのに描かれているテーマは今を生きている私を苛立たせる。
悔しいけれど、してやられていると思う、チェーホフと新訳に。
登場人物の呼び名が変わるロシア文学の違和感は仕方がありませんね。
新訳よりも解説が読みどころかも本書は。
作品本文をより深く理解する本来の解説に加えて、
新訳に関する考慮説明などでは主従が逆転、本文が解説を盛り立てている。
作品自体は、感情の起伏が激しい登場人物が多く出てきて、
本筋とは関係ない部分が詳細に描かれていて、
どこで盛り上がり結末なのか良く分からない。
けれど、気づくと真綿で首を絞められていてドキリとさせられる。
舞台の暗転を思わせるちょっとぶつ切れ的な場面転換やストーリー展開で
アメリカや日本の物語とは異なる。戯曲的。
ちょっと暗い、思慮深いというのだろうか…。
100年以上も前に書かれた物語なのに描かれているテーマは今を生きている私を苛立たせる。
悔しいけれど、してやられていると思う、チェーホフと新訳に。
2013年3月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
若い頃からのチェーホフファンです。
原文も少し読んだことがあるので、沼野訳にはかなり違和感を感じました。
たとえば、沼野訳では「中二階のある家」でリーダが画家に対して「センセイ」と言っていますが、
原文では、《вы》(あなた)を使っています。
この小説でリーダは画家に対して反感をもっていて皮肉も言いますが、
「センセイ」などと言うほどいやみな女性ではありません。
なぜ、こんな色をつけて訳すのだろうと思いました。
「いたずら」(「たわむれ」)の「ナッちゃん」にしても、
どうして素直にナジェージダの愛称「ナージャ」にしないのでしょうか?
名前ぐらいは原文そのままの響きにしたほうが、ロシア女性の雰囲気がイメージできるのではと思いました。
全体にかなり沼野色が濃く、読んでいて、ひっかかりを多々感じました。
これはこれでおもしろいと感じる人もいるとは思いますが、
チェーホフ好きには、悲しくなるような一冊です。
もし、この本でチェーホフに興味をもたれたのなら、
沼野訳以外のチェーホフの小説も読んでいただきたいです。
私は今までいろいろな人の翻訳でチェーホフを読んできましたが、
小笠原豊樹訳が比較的気に入っています。
原文も少し読んだことがあるので、沼野訳にはかなり違和感を感じました。
たとえば、沼野訳では「中二階のある家」でリーダが画家に対して「センセイ」と言っていますが、
原文では、《вы》(あなた)を使っています。
この小説でリーダは画家に対して反感をもっていて皮肉も言いますが、
「センセイ」などと言うほどいやみな女性ではありません。
なぜ、こんな色をつけて訳すのだろうと思いました。
「いたずら」(「たわむれ」)の「ナッちゃん」にしても、
どうして素直にナジェージダの愛称「ナージャ」にしないのでしょうか?
名前ぐらいは原文そのままの響きにしたほうが、ロシア女性の雰囲気がイメージできるのではと思いました。
全体にかなり沼野色が濃く、読んでいて、ひっかかりを多々感じました。
これはこれでおもしろいと感じる人もいるとは思いますが、
チェーホフ好きには、悲しくなるような一冊です。
もし、この本でチェーホフに興味をもたれたのなら、
沼野訳以外のチェーホフの小説も読んでいただきたいです。
私は今までいろいろな人の翻訳でチェーホフを読んできましたが、
小笠原豊樹訳が比較的気に入っています。
2016年7月9日に日本でレビュー済み
ロシア文学って“誤解を受けやすい”と思う。その思潮や言動が必ずしも日本人が美徳と考えているものと一致せず、他の露人文豪の作品を並べて見ても、日本人からすると不可解なものが多いように思える。
したがって、自分の感性に合う・合わないだけでこの作品群を評価してしまうのは早合点であり、もっと人間本来の真性に照らして“深く”読むべきだと思う。
そうなると分量としては少ないこの短編集の作品を読み終えるのは私にとって意外と時間がかかった。有り体に言うと「この作品、何が言いたいの?」と感じて終わる作品もいくつかあり、1つ読み終えました、ハイ次、とは中々ならず、熟考のためしばらく本を置くというのも1回や2回ではなかった。
そうなったらどうすればいいだろう?そのためのテキストを翻訳者の沼野さんはちゃんと考えて、各作品には「講義ノート」とでも言うべき解説文を付けてくれている。
沼野さんの解説で特に私が興味を引いたのは「せつない」に付けられた『ロシアの「トスカ」』について。
その前に「せつない」の筋に簡単に触れると-
辻ぞり(冬のロシアのいわば“タクシー”)の老御者イオーナは客待ち中に雪が体に積もるのも気にしない。そしてごくたまに来る客を乗せても、心ここにあらずといった様子。しかしイオーナはふと客の方を振り返り、唇を動かして何か言おうとしてるのか?そうとも見える。しかし言葉は出て来ない。そんなこんなで誰かに何かを話そうとするがいっこうに成就しない。それは聞いてもらえないというのもあるが、それよりも、イオーナは話したいのだけど、話すための何かが揃わないと話が喉でつかえてしまい、そのまま飲み込んでしまう、そんな感じ。実は彼は息子を不慮の病気で失ってしまっていた…(これはほんの導入部なので筋の全開はしてません。安心してください。)
沼野さんはトスカについて、ロシア語以外の言語への翻訳が困難な独自の語彙を持つと書いている。そして詩人リルケが、自分の中にある最も言い表したい感情がロシア語で言うトスカであり、母語のドイツ語ではその感情のあやが言い表せないと煩悶する様が詳細に引用されている。
つまりトスカとは「ペーソス」ではなく、また「心痛」や「憂鬱」も一面しか表していない。
私が「せつない」を読んで、沼野さんの説明も読んで感じた「トスカ」とは、本来の精神状態では真円の状態であるものが、言葉では言い表せない何か“欠けるもの”が(ごく一部でも)存在し、そのために他人からは真円、つまり普通に見える感情が真円たりえないために心の内部の整合性が取れず、精神的バランスを崩してしまうものと解釈してみた。
そうなると、一般的にはイオーナは誰にでも息子の死を話すことで同情をしてもらえることになるのだが、心に欠けたものがあるために、心が同情を本能的に拒絶し、そのため口から言葉が出なくなるということになる。
それは、他人からすると「同情得られたら楽になるよ」というつもりかもしれないが、イオーナからしたらわかってるかのような態度を取ってほしくない、大切なものを安っぽい言葉で汚してほしくないという感情に結び付き、これは日本でも震災での被災者が安直に「ケアしましょう」と言われるのをものすごく不快に思うのと同じ感情で、人間の共通する心理として理解できる。
ただ、日本語ではそういう感情を的確に言う単語がないが、ロシア語だとそれは「トスカ」になるということだと理解した。
そうなると沼野さんは解説で『「せつない」は元々日本では「ふさぎの虫」と翻訳されていて原題のニュアンスがこれでは伝わらない』と書いてはいるが、私の『「トスカ」=心の中が何か理由不明で欠けている』説に立つと、「ふさぎの虫」(=気分がふさぐことを虫のせいであるとしていう語(大辞林))という邦題も言い得て妙、と言える。
以上のようにロシア文学の意義を正確に移すのがいかに難しいか!それを沼野さんは「キモい」「なごみ系のルックス」「ナンパ」という言葉すら翻訳で用いて、チェーホフの生きた息吹そのままをわたしたちの現代感覚で読めるように配慮している。
異論や批判もあるだろうが(私も正直少し違和感はある)、トータルでは私はこれもアリだと思う。この翻訳が合うか合わないかは時代が証明してくれるから、今結論は出さずに数年後に見てみればよい。ダメならば数年後には先人の訳が残りこの訳は淘汰されることになる。
したがって、自分の感性に合う・合わないだけでこの作品群を評価してしまうのは早合点であり、もっと人間本来の真性に照らして“深く”読むべきだと思う。
そうなると分量としては少ないこの短編集の作品を読み終えるのは私にとって意外と時間がかかった。有り体に言うと「この作品、何が言いたいの?」と感じて終わる作品もいくつかあり、1つ読み終えました、ハイ次、とは中々ならず、熟考のためしばらく本を置くというのも1回や2回ではなかった。
そうなったらどうすればいいだろう?そのためのテキストを翻訳者の沼野さんはちゃんと考えて、各作品には「講義ノート」とでも言うべき解説文を付けてくれている。
沼野さんの解説で特に私が興味を引いたのは「せつない」に付けられた『ロシアの「トスカ」』について。
その前に「せつない」の筋に簡単に触れると-
辻ぞり(冬のロシアのいわば“タクシー”)の老御者イオーナは客待ち中に雪が体に積もるのも気にしない。そしてごくたまに来る客を乗せても、心ここにあらずといった様子。しかしイオーナはふと客の方を振り返り、唇を動かして何か言おうとしてるのか?そうとも見える。しかし言葉は出て来ない。そんなこんなで誰かに何かを話そうとするがいっこうに成就しない。それは聞いてもらえないというのもあるが、それよりも、イオーナは話したいのだけど、話すための何かが揃わないと話が喉でつかえてしまい、そのまま飲み込んでしまう、そんな感じ。実は彼は息子を不慮の病気で失ってしまっていた…(これはほんの導入部なので筋の全開はしてません。安心してください。)
沼野さんはトスカについて、ロシア語以外の言語への翻訳が困難な独自の語彙を持つと書いている。そして詩人リルケが、自分の中にある最も言い表したい感情がロシア語で言うトスカであり、母語のドイツ語ではその感情のあやが言い表せないと煩悶する様が詳細に引用されている。
つまりトスカとは「ペーソス」ではなく、また「心痛」や「憂鬱」も一面しか表していない。
私が「せつない」を読んで、沼野さんの説明も読んで感じた「トスカ」とは、本来の精神状態では真円の状態であるものが、言葉では言い表せない何か“欠けるもの”が(ごく一部でも)存在し、そのために他人からは真円、つまり普通に見える感情が真円たりえないために心の内部の整合性が取れず、精神的バランスを崩してしまうものと解釈してみた。
そうなると、一般的にはイオーナは誰にでも息子の死を話すことで同情をしてもらえることになるのだが、心に欠けたものがあるために、心が同情を本能的に拒絶し、そのため口から言葉が出なくなるということになる。
それは、他人からすると「同情得られたら楽になるよ」というつもりかもしれないが、イオーナからしたらわかってるかのような態度を取ってほしくない、大切なものを安っぽい言葉で汚してほしくないという感情に結び付き、これは日本でも震災での被災者が安直に「ケアしましょう」と言われるのをものすごく不快に思うのと同じ感情で、人間の共通する心理として理解できる。
ただ、日本語ではそういう感情を的確に言う単語がないが、ロシア語だとそれは「トスカ」になるということだと理解した。
そうなると沼野さんは解説で『「せつない」は元々日本では「ふさぎの虫」と翻訳されていて原題のニュアンスがこれでは伝わらない』と書いてはいるが、私の『「トスカ」=心の中が何か理由不明で欠けている』説に立つと、「ふさぎの虫」(=気分がふさぐことを虫のせいであるとしていう語(大辞林))という邦題も言い得て妙、と言える。
以上のようにロシア文学の意義を正確に移すのがいかに難しいか!それを沼野さんは「キモい」「なごみ系のルックス」「ナンパ」という言葉すら翻訳で用いて、チェーホフの生きた息吹そのままをわたしたちの現代感覚で読めるように配慮している。
異論や批判もあるだろうが(私も正直少し違和感はある)、トータルでは私はこれもアリだと思う。この翻訳が合うか合わないかは時代が証明してくれるから、今結論は出さずに数年後に見てみればよい。ダメならば数年後には先人の訳が残りこの訳は淘汰されることになる。
2015年2月16日に日本でレビュー済み
チェーホフの描くものは悲劇なのか喜劇なのか、という議論があるらしい。
確かにその味わいは、甘さ、でもなく、辛さ、でもない。要は甘辛だ。それだけに後を引く。
時に、、、
・「育ちのよさとは、ソースをテーブルクロスにこぼさないことじゃなくて、誰かほかの人がそんなことをしても、気がつかないってことなんだな」
と真理めいたことを説くかと思えば、
また時に、、、
・「ほかのものなら何でもあったが、愛だけはなかった。」
などの禁句で安心をぶち壊す。
やってはいけないことをやり、言ってはいけないことを言う。その結果、取り返しのつかないことになる。しかし、それは同時にどうしようもないことで、しかもどうでもいいことである。
何なのこれ!って言いたくなる。
何とも言えない…としか言えなくなる。
悲劇的喜劇、喜劇風悲劇、笑えない喜劇、泣いてられない悲劇、それがチェーホフの味わいだ。
…キライじゃない。
確かにその味わいは、甘さ、でもなく、辛さ、でもない。要は甘辛だ。それだけに後を引く。
時に、、、
・「育ちのよさとは、ソースをテーブルクロスにこぼさないことじゃなくて、誰かほかの人がそんなことをしても、気がつかないってことなんだな」
と真理めいたことを説くかと思えば、
また時に、、、
・「ほかのものなら何でもあったが、愛だけはなかった。」
などの禁句で安心をぶち壊す。
やってはいけないことをやり、言ってはいけないことを言う。その結果、取り返しのつかないことになる。しかし、それは同時にどうしようもないことで、しかもどうでもいいことである。
何なのこれ!って言いたくなる。
何とも言えない…としか言えなくなる。
悲劇的喜劇、喜劇風悲劇、笑えない喜劇、泣いてられない悲劇、それがチェーホフの味わいだ。
…キライじゃない。
2012年10月17日に日本でレビュー済み
さまざまなテーマの―したがって、それらの魅力も多岐に渡る―13の短篇が所収されている。それぞれの短篇がチャーミングで、胸を焦がされるような思いがした。
『いたずら』(従来は『たわむれ』と訳されることが多かった作品)では、初心な(うぶな)女性の恋が、主人公のユーモラスないたずらとともに、鮮やかに描かれていた。そして後に、その恋といたずらは、追憶であることが明かされる。一見軽妙なのに、人生のほろ苦さまで包含してしまうチェーホフの筆致は圧巻だ。
『ワーニカ』や『牡蠣』、『ねむい』は、貧しい子供を描いた作品。実は私自身、大人になってからは、子供を描いた作品はほとんど読んでこなかっただけに新鮮だった。どちらも、幼い子供の言葉や考えが、これまた軽妙に描かれつつも、『ワーニカ』や『ねむい』は、19世紀末のロシアの貧しい子供の絶望的な悲劇が活写されているし、『牡蠣』には、むくむくと膨らむ子供の想像力の過程が刻々と描かれていて、凄みを感じた。
『ロスチャイルドのバイオリン』や『奥さんは子犬を連れて』(従来の訳は『子犬を連れた奥さん』)『せつない』(従来の訳は『ふさぎの虫』)など、大人の、死や愛、貧困を描いた作品もある。どれも、胸が詰まるような思いがした。
チェーホフの短篇を私が愛するのは、その作品の多くが、ペーソスにユーモアを同居させることを忘れていないからだ。僕は時折短い物語を書いてみるが、こういう物語を書きたいと切に思う。ここに所収された作品のほとんどは、無上と言ってもいいほどの完璧な作品だ。
そしてもちろん、忘れてはならないのは、訳者沼野充義氏の愛情溢れる丁寧な仕事だ。19世紀末のロシアの事情に、あるいはロシア語に疎い私たちのために、全ての短篇に数ページの解説を与えてくれている。どれも、時代背景や訳出の事情を知るためだけでなく、ひとつの書評として読めるほどに完成されたものだ。沼野氏の解説がなければ、私は、この本をここまで愉しむことはできなかったのではないかと思われる。
まるで日本語でそのまま書かれたような自然な翻訳にも脱帽。装丁も洒脱で、ちょっとしたプレゼントにも最適です。
『いたずら』(従来は『たわむれ』と訳されることが多かった作品)では、初心な(うぶな)女性の恋が、主人公のユーモラスないたずらとともに、鮮やかに描かれていた。そして後に、その恋といたずらは、追憶であることが明かされる。一見軽妙なのに、人生のほろ苦さまで包含してしまうチェーホフの筆致は圧巻だ。
『ワーニカ』や『牡蠣』、『ねむい』は、貧しい子供を描いた作品。実は私自身、大人になってからは、子供を描いた作品はほとんど読んでこなかっただけに新鮮だった。どちらも、幼い子供の言葉や考えが、これまた軽妙に描かれつつも、『ワーニカ』や『ねむい』は、19世紀末のロシアの貧しい子供の絶望的な悲劇が活写されているし、『牡蠣』には、むくむくと膨らむ子供の想像力の過程が刻々と描かれていて、凄みを感じた。
『ロスチャイルドのバイオリン』や『奥さんは子犬を連れて』(従来の訳は『子犬を連れた奥さん』)『せつない』(従来の訳は『ふさぎの虫』)など、大人の、死や愛、貧困を描いた作品もある。どれも、胸が詰まるような思いがした。
チェーホフの短篇を私が愛するのは、その作品の多くが、ペーソスにユーモアを同居させることを忘れていないからだ。僕は時折短い物語を書いてみるが、こういう物語を書きたいと切に思う。ここに所収された作品のほとんどは、無上と言ってもいいほどの完璧な作品だ。
そしてもちろん、忘れてはならないのは、訳者沼野充義氏の愛情溢れる丁寧な仕事だ。19世紀末のロシアの事情に、あるいはロシア語に疎い私たちのために、全ての短篇に数ページの解説を与えてくれている。どれも、時代背景や訳出の事情を知るためだけでなく、ひとつの書評として読めるほどに完成されたものだ。沼野氏の解説がなければ、私は、この本をここまで愉しむことはできなかったのではないかと思われる。
まるで日本語でそのまま書かれたような自然な翻訳にも脱帽。装丁も洒脱で、ちょっとしたプレゼントにも最適です。