素晴らしい!一読の価値あり!
何よりも文章がわかりやすい。
難解なウィトゲンシュタイン他西欧哲学エッセンスの紹介とそれに対する疑問、そして野矢茂樹独自論考の提示。
概念・論理一辺倒になりがちな西欧哲学に対し、概念・論理の前に実在・知覚があるとの主張が東洋・日本的。
日本が世界に誇れる哲学者では?
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語りえぬものを語る (講談社学術文庫) 文庫 – 2020/11/12
野矢 茂樹
(著)
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哲学の魅惑!
「相対主義の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されている。」
相貎論、懐疑論、ウィトゲンシュタインの転回、過去、隠喩、自由――スリリングに展開する著者会心の「哲学的風景」。【解説:古田徹也氏】
●猫は後悔するか
●世の中に「絶対」は絶対ないのか
●霊魂は(あるいは電子は)実在しうるのか
●相対主義はなぜ語りえないのか
●意味はない、しかし相貎はある
●懐疑論にどう答えればよいのか
●私にしか理解できない言葉
●何が語られたことを真にするのか
●自由という相貎
●科学は世界を語り尽くせない
――本書目次より
「相対主義の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されている。」
相貎論、懐疑論、ウィトゲンシュタインの転回、過去、隠喩、自由――スリリングに展開する著者会心の「哲学的風景」。【解説:古田徹也氏】
●猫は後悔するか
●世の中に「絶対」は絶対ないのか
●霊魂は(あるいは電子は)実在しうるのか
●相対主義はなぜ語りえないのか
●意味はない、しかし相貎はある
●懐疑論にどう答えればよいのか
●私にしか理解できない言葉
●何が語られたことを真にするのか
●自由という相貎
●科学は世界を語り尽くせない
――本書目次より
- 本の長さ512ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2020/11/12
- 寸法10.5 x 2 x 14.9 cm
- ISBN-10406521615X
- ISBN-13978-4065216156
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商品の説明
著者について
野矢 茂樹
1954年生まれ。現在、立正大学教授。専攻は哲学。
1954年生まれ。現在、立正大学教授。専攻は哲学。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2020/11/12)
- 発売日 : 2020/11/12
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 512ページ
- ISBN-10 : 406521615X
- ISBN-13 : 978-4065216156
- 寸法 : 10.5 x 2 x 14.9 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 37,190位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 87位講談社学術文庫
- - 93位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 519位哲学 (本)
- カスタマーレビュー:
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2015年2月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
このたび三読したが、益々深く入ってしまった。著者の云う、哲学的風景の意味が感じられてきたのである。今までは、バラバラであった論点が一貫性を持った山脈として最後の決定論と自由の関連に流れ込むそして新たな地平が開けてくる。章を読み進むにつれて、新たな展望が開けてくるのが実感できたのは、従来の読書では味わえない点ではなかろうか。終章に至って、また新たな大命題に遭遇し、新たな始まりを実感する。哲学の大海原が眼前に広がってくるのである。
相変わらず、行為空間のなかにいることには変わりないが、この空間の被膜において、まさに語りえぬ「自由空間」を追求する宿命なのである。
今自分がぶつかっている限界被膜から逃れるすべはない。これをいずこに求めるかということは、わかりきったことなのだ。いくたびかの通読の蓄積が、いよいよブレークスルーしつつある。
216年11月6日 著者の結論は、当為先行論。
最終章を読んで、根本の第一義は規範「~すべし」又はあるべき姿の追求なのだということがわかる。それ以前の論考がすべて、存在論に終始していると思われがちだが、よくよく見ると、存在論すべてへの根本的疑惑の提出と見なされるからである。たとえば、クリプキの規則論批判にしても「条約は破られるためにある」を地で行っているように、不確定である。判断基準は、その都度の自己責任による実存的決定によるといった、極めて、キルケゴール的境地さえ感じさせられる。だから、科学万能主義も著者のとる処ではない。著者は、植物型の「自由論」を説いているが、これは個人が絶対だという、ジョン・ロック流の個人主義に基づくものではない。ロックの名指しはないけれども、著者の立ち位置は、近代的自我というものに終始反論を唱えているのではないだろうか。それが、独我論、独今論の矛盾究明なのである。反絶対主義をとるゆえの、相対主義としての「自由論」なのである。ただし、戸田山哲学などと異なるところは、絶対主義(決定論)をも許容する相対主義ではないということである。
国民投票によって、民主主義を否定する独裁主義が採用されるのも民主主義だというのとは、本質がちがうのである。これは、ナチスのやり方だし、キョーサントーとかミンシュトーの最近のやり方でもあるのだが、政権さえとってしまえば、あとはこっちのものだということであって、矛盾しているようなもの言いだが【絶対】に許容できないものである。
これは、著者の注意深い丹念な粘り強い論考によって、ここにパラドックスを見出したからである。パラドックスとは、論理の矛盾であり、背理である。だから、この判断基準としてのパラドックス論は、最終章の直前において、科学万能主義にも無効を宣言している訳である。
相変わらず、行為空間のなかにいることには変わりないが、この空間の被膜において、まさに語りえぬ「自由空間」を追求する宿命なのである。
今自分がぶつかっている限界被膜から逃れるすべはない。これをいずこに求めるかということは、わかりきったことなのだ。いくたびかの通読の蓄積が、いよいよブレークスルーしつつある。
216年11月6日 著者の結論は、当為先行論。
最終章を読んで、根本の第一義は規範「~すべし」又はあるべき姿の追求なのだということがわかる。それ以前の論考がすべて、存在論に終始していると思われがちだが、よくよく見ると、存在論すべてへの根本的疑惑の提出と見なされるからである。たとえば、クリプキの規則論批判にしても「条約は破られるためにある」を地で行っているように、不確定である。判断基準は、その都度の自己責任による実存的決定によるといった、極めて、キルケゴール的境地さえ感じさせられる。だから、科学万能主義も著者のとる処ではない。著者は、植物型の「自由論」を説いているが、これは個人が絶対だという、ジョン・ロック流の個人主義に基づくものではない。ロックの名指しはないけれども、著者の立ち位置は、近代的自我というものに終始反論を唱えているのではないだろうか。それが、独我論、独今論の矛盾究明なのである。反絶対主義をとるゆえの、相対主義としての「自由論」なのである。ただし、戸田山哲学などと異なるところは、絶対主義(決定論)をも許容する相対主義ではないということである。
国民投票によって、民主主義を否定する独裁主義が採用されるのも民主主義だというのとは、本質がちがうのである。これは、ナチスのやり方だし、キョーサントーとかミンシュトーの最近のやり方でもあるのだが、政権さえとってしまえば、あとはこっちのものだということであって、矛盾しているようなもの言いだが【絶対】に許容できないものである。
これは、著者の注意深い丹念な粘り強い論考によって、ここにパラドックスを見出したからである。パラドックスとは、論理の矛盾であり、背理である。だから、この判断基準としてのパラドックス論は、最終章の直前において、科学万能主義にも無効を宣言している訳である。
2021年2月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
そうだ、そういえばそうだった。
2020年12月4日に日本でレビュー済み
各章明快な解説で、実に読みやすく、ウィトゲンシュタインはともかく、本書の著者が言いたい、伝えたいことは良くわかる内容です。
1 猫は後悔するか
2 思考不可能なものは考えられないか
3 世の中に「絶対」は絶対ないのか
4 真理の相対主義は可能か
5 霊魂は(あるいは電子は)実在しうるのか
6 行く手に「第三のドグマ」が立ちはだかる
7 ドグマなき相対主義へ
8 相対主義はなぜ語りえないのか
9 翻訳できないものは理解できないか
10 翻訳可能でも概念枠は異なりうる
11 そんなにたくさんは考えられない
12 一寸先は闇か
13 ザラザラした大地へ戻れ!
14 意味がないという話
15 意味はない、しかし相貌はある
16 懐疑論にどう答えればよいのか
17 語ることを、語られぬ自然が支える
18 私にしか理解できない言葉
19 本質的にプライベートな体験について
20 語られる過去・語らせる過去
21 何が語られたことを真にするのか
22 何を見ているのか
23 言語が見せる世界
24 うまく言い表わせない
25 自由という相貌
26 科学は世界を語り尽くせない
以上です。いま、最近の科学隆盛のよのなかでの科学リテラシーについて考えることが多いです。この「リテラシー」:読み書き能力、というものは、なかなか曲者で、教育環境を整える側は、このリテラシーを読み解く能力すなわち、リテラシー・リテラシーを求められます。本書でいうと、本書の記載事項が本書の読者にどのように読まれていくのか、は一つの独立した問題領域です。
また、ウィトゲンシュタイン自身は、教育者でもありましたが、教育一般、教育学一般、心理学一般に関しては、どうも実力不明な点が認められます。この点は目下再点検中です。
1 猫は後悔するか
2 思考不可能なものは考えられないか
3 世の中に「絶対」は絶対ないのか
4 真理の相対主義は可能か
5 霊魂は(あるいは電子は)実在しうるのか
6 行く手に「第三のドグマ」が立ちはだかる
7 ドグマなき相対主義へ
8 相対主義はなぜ語りえないのか
9 翻訳できないものは理解できないか
10 翻訳可能でも概念枠は異なりうる
11 そんなにたくさんは考えられない
12 一寸先は闇か
13 ザラザラした大地へ戻れ!
14 意味がないという話
15 意味はない、しかし相貌はある
16 懐疑論にどう答えればよいのか
17 語ることを、語られぬ自然が支える
18 私にしか理解できない言葉
19 本質的にプライベートな体験について
20 語られる過去・語らせる過去
21 何が語られたことを真にするのか
22 何を見ているのか
23 言語が見せる世界
24 うまく言い表わせない
25 自由という相貌
26 科学は世界を語り尽くせない
以上です。いま、最近の科学隆盛のよのなかでの科学リテラシーについて考えることが多いです。この「リテラシー」:読み書き能力、というものは、なかなか曲者で、教育環境を整える側は、このリテラシーを読み解く能力すなわち、リテラシー・リテラシーを求められます。本書でいうと、本書の記載事項が本書の読者にどのように読まれていくのか、は一つの独立した問題領域です。
また、ウィトゲンシュタイン自身は、教育者でもありましたが、教育一般、教育学一般、心理学一般に関しては、どうも実力不明な点が認められます。この点は目下再点検中です。
2021年7月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何か得られるか、何か新しいものが自分中に生まれうるかと考えてかなり頑張って読んだが大部分よくわからなかった。
なにを語ろうとしているのか、そもそもそこが読み取れなかった。ただ、それでいて読む人を惹きつける何かが本書にはあったような気がする。
しかし、それが何なのか具体的には書き表すことができない。
なぜこれほどレビューが高評価で溢れているのだろうか?
あまりにもよくわからない、読後感もその想いでいっぱいだ。
ただ、無駄だったとか、徒労だったとは思わなかった。
その過程が哲学するということなのだろうか...
なにを語ろうとしているのか、そもそもそこが読み取れなかった。ただ、それでいて読む人を惹きつける何かが本書にはあったような気がする。
しかし、それが何なのか具体的には書き表すことができない。
なぜこれほどレビューが高評価で溢れているのだろうか?
あまりにもよくわからない、読後感もその想いでいっぱいだ。
ただ、無駄だったとか、徒労だったとは思わなかった。
その過程が哲学するということなのだろうか...
2011年10月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
雑事に追われながら隙間の時間にポツリポツリ、一月ほどもかけて読み終えたが、その細切れの時間は非常に充実したものだった。一篇ごとに共感し、反芻し、別の出口をあれこれ考えてもみた。1行のメモも取らなかったので、次から次に湧き上がってきた私なりの考えは、あらかた忘却の淵に沈んでしまったが、良く言われるように忘れてしまうようなアイディアは大したものではない。近いうちに再読できればと思っているが、確かなことは、この本が、少なくとも私にとって非常に重要なものだということだ。
私はこの著者の愛読者と言っていいと思うが、実は本気で新刊を心待ちにするようになったのは『 『論理哲学論考』を読む 』以降だと思う。『読む』がきわめて緻密な論理構成を持っていたのに対して、本書では大きな方向性は堅持しながらも揺れや迷いを隠さず、様々な考え方や見通しを示しながら、どこまで行けるか試そうとする彷徨的な構成がとられている。書名は言うまでもなくウィトゲンシュタインの戒を破るものだが、譬えの凡庸さを承知で言えば、『読む』が『 論理哲学論考 』なら本書は『 哲学探究 』といったところか。
思い出すままに、いくつか疑問点を記しておく。ただし批判としてではなく、私自身の課題として。
まず著者がカントに倣って持ち出す「触発」の概念だが、この語の内実に立ち入ることは出来ないのだろうか。私としては、脳科学に期待したいところなのだが。
この本では最後に自由の問題が論じられるが、ここは私としては納得できなかった。著者の議論から導出されるのは「自由」ではなく、単に「不可知」ではないのか? 私としては、必ずしも「自由」を確保することに拘らない。
私はこの著者の愛読者と言っていいと思うが、実は本気で新刊を心待ちにするようになったのは『 『論理哲学論考』を読む 』以降だと思う。『読む』がきわめて緻密な論理構成を持っていたのに対して、本書では大きな方向性は堅持しながらも揺れや迷いを隠さず、様々な考え方や見通しを示しながら、どこまで行けるか試そうとする彷徨的な構成がとられている。書名は言うまでもなくウィトゲンシュタインの戒を破るものだが、譬えの凡庸さを承知で言えば、『読む』が『 論理哲学論考 』なら本書は『 哲学探究 』といったところか。
思い出すままに、いくつか疑問点を記しておく。ただし批判としてではなく、私自身の課題として。
まず著者がカントに倣って持ち出す「触発」の概念だが、この語の内実に立ち入ることは出来ないのだろうか。私としては、脳科学に期待したいところなのだが。
この本では最後に自由の問題が論じられるが、ここは私としては納得できなかった。著者の議論から導出されるのは「自由」ではなく、単に「不可知」ではないのか? 私としては、必ずしも「自由」を確保することに拘らない。
2021年2月15日に日本でレビュー済み
もとがエッセイだからか、すっきりしない文章になっています。面白い内容も散見できますが、文が冗長なので最後まで読むのが途中で苦痛になってきます。これをスッキリまとめて三分の一以下のページ数にしてはいかがでしょうか。
また、巻末のレビューにおいてウィトゲンシュタインの若き研究家古田氏が指摘されているように、この本では「語りえぬもの」を一切語っていません(著者本人も認めています)。
ただ論理哲学論考でウィトゲンシュタインが語りえるものと語りえぬものの境界を探ったように、著者も独自の方法でその境界をぎりぎりまで攻めようとしています。そのぎりぎり語り得るものの分類などとても面白く、前期ウィトゲンシュタインの理解を深めるために、いや発展させるために参考になりました。
色々批判していますが、新しい視点を提供してくれる良書です。一読すべきです。
ただ、もっとスッキリまとめてほしい。
また、巻末のレビューにおいてウィトゲンシュタインの若き研究家古田氏が指摘されているように、この本では「語りえぬもの」を一切語っていません(著者本人も認めています)。
ただ論理哲学論考でウィトゲンシュタインが語りえるものと語りえぬものの境界を探ったように、著者も独自の方法でその境界をぎりぎりまで攻めようとしています。そのぎりぎり語り得るものの分類などとても面白く、前期ウィトゲンシュタインの理解を深めるために、いや発展させるために参考になりました。
色々批判していますが、新しい視点を提供してくれる良書です。一読すべきです。
ただ、もっとスッキリまとめてほしい。
2011年12月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
哲学とは批判であり、既存概念の破壊である。そうである以上哲学的著作の言い回しは、どうしても否定的・攻撃的な表現になりやすい。ニーチェは極端だとしても、現代のわが国の哲学者においてもその傾向は基本的に変わらない。志が高ければ高いほど、気概が強ければ強いほど、声は大きく言葉は過激になりやすい。
著者の熱意は読者にも伝染する。哲学書を読み理解できた喜びは、攻撃的・批判的な言動となって迸ることが多い。しかもその矛先があろうことか批判精神をもたらした著者に向けられることさえしばしばである。哲学の歴史とは批判の応酬の歴史でもある。
だが不思議なことに野矢の哲学書は、読んでもなぜかそのような攻撃的・批判的な気持ちにならない。かといって書かれている内容が浅いわけでは決してない。深くて分かりやすくて面白い。しかも読者を和ませてくれる。恐らくは野矢の人柄によるのであろうが、それは希少で貴重な癒やし系の哲学なのである。
野矢の哲学書が癒やし系であるのはその語り口だけではない。野矢哲学は決して常識から外れることがない。難解な議論から突飛な結論を引き出すのではなく、われわれが普段当たり前のように思っていることを正確かつ緻密に分析し再考させてくれる。著者自身が言っているように、野矢がわれわれに見せてくれるのは哲学的風景であって、目もくらむような深淵やおどろおどろしい怪物ではない。それを美しいと感じるか物足りないと思うかは、読者の好みによるのだろうけれども。
個人的には斉一性の原理について論じている部分が興味深かった。われわれは過去に起こったことは未来にも起こり、過去に起こらなかったことは未来にも起こらないと信憑している。その最たる例が死の自覚だろう。われわれが自分の死を信憑するのは、今までに死ななかった人間が一人もいなかったからにほかならない。だがそのような時間的斉一性のほかに、「他人に起こることは自分にも起こる」という空間的斉一性もなければ、死の観念は成立しないだろう。
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの言葉に対抗するかのような挑戦的タイトルとは裏腹に、内容はいつもどおり穏やかで優しく温もりが感じられる。野矢は言葉が届かない彼方を目指すのではなく、言葉が生まれる手前を掘り起こそうとする。なかなかに分厚い本ではあるが、険しい山に登るがごとくねじり鉢巻をして構える必要はない。散歩するような気軽さで、読者は優れた哲学エッセーを賞味することができる。
著者の熱意は読者にも伝染する。哲学書を読み理解できた喜びは、攻撃的・批判的な言動となって迸ることが多い。しかもその矛先があろうことか批判精神をもたらした著者に向けられることさえしばしばである。哲学の歴史とは批判の応酬の歴史でもある。
だが不思議なことに野矢の哲学書は、読んでもなぜかそのような攻撃的・批判的な気持ちにならない。かといって書かれている内容が浅いわけでは決してない。深くて分かりやすくて面白い。しかも読者を和ませてくれる。恐らくは野矢の人柄によるのであろうが、それは希少で貴重な癒やし系の哲学なのである。
野矢の哲学書が癒やし系であるのはその語り口だけではない。野矢哲学は決して常識から外れることがない。難解な議論から突飛な結論を引き出すのではなく、われわれが普段当たり前のように思っていることを正確かつ緻密に分析し再考させてくれる。著者自身が言っているように、野矢がわれわれに見せてくれるのは哲学的風景であって、目もくらむような深淵やおどろおどろしい怪物ではない。それを美しいと感じるか物足りないと思うかは、読者の好みによるのだろうけれども。
個人的には斉一性の原理について論じている部分が興味深かった。われわれは過去に起こったことは未来にも起こり、過去に起こらなかったことは未来にも起こらないと信憑している。その最たる例が死の自覚だろう。われわれが自分の死を信憑するのは、今までに死ななかった人間が一人もいなかったからにほかならない。だがそのような時間的斉一性のほかに、「他人に起こることは自分にも起こる」という空間的斉一性もなければ、死の観念は成立しないだろう。
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの言葉に対抗するかのような挑戦的タイトルとは裏腹に、内容はいつもどおり穏やかで優しく温もりが感じられる。野矢は言葉が届かない彼方を目指すのではなく、言葉が生まれる手前を掘り起こそうとする。なかなかに分厚い本ではあるが、険しい山に登るがごとくねじり鉢巻をして構える必要はない。散歩するような気軽さで、読者は優れた哲学エッセーを賞味することができる。