鎌倉・室町時代の主要な歴史上の人物の単なる伝記ではなく、
それらの人物を取り巻いていた当時の政治状況や慣習、思想、民衆、宗教などを
細かく描き出し、時代の生々しい断面像を明らかにしようとする
独特の視点が非常に斬新に映る力作。
例えば足利尊氏について著者は、
●他の御家人と比べて大して家格の高くない足利家が「なぜ君臨できたのか」
●なぜ鎌倉に戻らず京に幕府を置いたのか。
を疑問として提起し、
「君臨する根拠」として悪党も含めた軍事力と朝廷の旧来の権威を利用するために、
また東国の有力御家人に襲われることを恐れて、
京に新たな武門の秩序の創設を企てたのではないか、と推理している。
巷間になじみの薄い中世史の興味深い様子を窺い知ることができる一冊。

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人物を読む 日本中世史―頼朝から信長へ (講談社選書メチエ) 単行本 – 2006/5/11
本郷 和人
(著)
源頼朝は善人だった?
足利尊氏が天皇家を再興させた?
武士が興隆し「統治」が生まれた中世に、大きな足跡を残した8人の真実とは。明快な視座のもと、続々と明かされる仰天の新事実、そして立ちのぼる“王権”のダイナミックな姿――。人物史から読み替える、分かり易く新しい中世史!
足利尊氏が天皇家を再興させた?
武士が興隆し「統治」が生まれた中世に、大きな足跡を残した8人の真実とは。明快な視座のもと、続々と明かされる仰天の新事実、そして立ちのぼる“王権”のダイナミックな姿――。人物史から読み替える、分かり易く新しい中世史!
- 本の長さ260ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2006/5/11
- ISBN-104062583615
- ISBN-13978-4062583619
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商品の説明
著者について
1960年東京生まれ。東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し、日本中世史を学ぶ。専攻は中世政治史、古文書学。東京大学史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当し、現在は東京大学大学院情報学環助教授。
また最近は、昔から愛好していた歴史的人物を科学的な脈絡の中で捉え直す、「新しい人物史」の構築に挑んでいる。
著書に『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会)、『新・中世王権論』(新人物往来社)などがある。同業の妻と一男一猫がある。
また最近は、昔から愛好していた歴史的人物を科学的な脈絡の中で捉え直す、「新しい人物史」の構築に挑んでいる。
著書に『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会)、『新・中世王権論』(新人物往来社)などがある。同業の妻と一男一猫がある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年11月13日に日本でレビュー済み
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2018年6月8日に日本でレビュー済み
本郷先生の専門が生かされた素晴らしい一冊。最近の本と違ってお勧めできます
2006年8月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本の中世史は,世界に誇れる程に複雑怪奇である.これを何とか判り易くするために,八人を選び列伝体で書いてしまおうとの企画.一見魅力的だがこれがうまく行かない.なぜなら,例えば頼朝.この人物像を組み立てるだけの史料がない.あの暗い吾妻鏡しか使えないとしたら,頼朝計画は不可能になる.そしてこの本の中で頼朝は特に不可解である.別の言い方をすれば,この本を理解するには日本の中世史が判っている必要があるのでは,と思える程この本は難解である.要するにこの時代(信長を除く)の叙述に,列伝体は無理なのだ,と考えざるを得ない.但し,この本は索引がしっかりしているので,手許に置いておくだけの価値はあるだろう.折角の著者の博識が空回りに終ったのはかえすがえすも残念である.
2007年5月5日に日本でレビュー済み
この著者はよっぽど中世史が好きなんだなあと感じる一書。
中世という時代そのものへの愛であり、中世史を彩る人々への愛でもあろうか。
ここまで好きなことを仕事に出来ると言うことは羨ましくも感じる(勿論、苦労はそれ以上にあろうが)。
源頼朝に始まり、織田信長に終わる8人の人物を中心に中世史を構築しようと言う野心的な試みである。源頼朝、法然、足利尊氏、織田信長といった有名人から九条道家、細川政元といった少し詳しい人ならば知っているかなという人物、三宝院満済のような誰それ?といった人物まで幅広い。
しかし、読了してみると、なかなか、著者の考える中世の各局面を代表する人物を集めたなあと人選に感心するところである。
この書の中世史観の中心となるのは王権論である。東の王権たる鎌倉幕府と西の王権たる朝廷、王権の統一を目指し、そして挫折し王権の縮小を図った室町時代、王権を乗り越えていった戦国時代。単なる人物史に終わらず、中世という時代の色を読み取ることが出来るように著述が構成されている。
王権論が著述の縦糸とすると、中世社会の各種の特長が緯糸である。鎌倉時代初期の御家人の価値観、中世の仏教界、朝廷の官途、御成敗式目の法的性格、戦国時代の上洛の意味づけといったところが紹介されている。この縦糸と緯糸を組み合わせることによって現代人の感覚ではわかりにくい中世という時代をとらえようと試みている。
一般書だからか、文体は軽いが、内容はなかなかに骨太である。
正直言って大学レベルの日本史の知識や素養がないと内容の理解は難しいように感じた。
歴史好きというより、歴史学好きの人に勧めたいところである。
中世という時代そのものへの愛であり、中世史を彩る人々への愛でもあろうか。
ここまで好きなことを仕事に出来ると言うことは羨ましくも感じる(勿論、苦労はそれ以上にあろうが)。
源頼朝に始まり、織田信長に終わる8人の人物を中心に中世史を構築しようと言う野心的な試みである。源頼朝、法然、足利尊氏、織田信長といった有名人から九条道家、細川政元といった少し詳しい人ならば知っているかなという人物、三宝院満済のような誰それ?といった人物まで幅広い。
しかし、読了してみると、なかなか、著者の考える中世の各局面を代表する人物を集めたなあと人選に感心するところである。
この書の中世史観の中心となるのは王権論である。東の王権たる鎌倉幕府と西の王権たる朝廷、王権の統一を目指し、そして挫折し王権の縮小を図った室町時代、王権を乗り越えていった戦国時代。単なる人物史に終わらず、中世という時代の色を読み取ることが出来るように著述が構成されている。
王権論が著述の縦糸とすると、中世社会の各種の特長が緯糸である。鎌倉時代初期の御家人の価値観、中世の仏教界、朝廷の官途、御成敗式目の法的性格、戦国時代の上洛の意味づけといったところが紹介されている。この縦糸と緯糸を組み合わせることによって現代人の感覚ではわかりにくい中世という時代をとらえようと試みている。
一般書だからか、文体は軽いが、内容はなかなかに骨太である。
正直言って大学レベルの日本史の知識や素養がないと内容の理解は難しいように感じた。
歴史好きというより、歴史学好きの人に勧めたいところである。
2007年5月7日に日本でレビュー済み
著者は、面白い日本史を描くためには人物史を活用すべきだと提案し、源頼朝から織田信長にいたる有名人物の評伝の形式をとって、対象人物への想いを共感をこめて語りつつも、同時に歴史学としての日本中世史の知識もしっかり教えてくれる。
例えば源平の戦いの本質とは、全国各地の在地領主としての武士が、朝廷のくびきを脱して自立を勝ち取る過程にあったのであり、いわば在地領主達の独立戦争だったのだと説明する。源平の内乱の過程では全国各地の国衙レベルで、平清盛によるクーデターの小型版といえる変革が次々に発生したそうだが、こうした勢力が合従連衡を繰り返し、より大きな武装集団を形成していった過程こそ、この戦いの本質だという見解だ。そして、最後まで勝ち残った源頼朝が在地領主の新しい王に担がれて、幕府という権力が形成されたから、その後の中世史において在地領主としての武士が主役を演じることが可能になったのだという。
また著者は、中央権力が実質上存在しなかった戦国時代に、再び天下統一の機運が生じたきっかけとして、法然に起源を持つ平易な称名念仏の教えが一般民衆に広く受容され、武士勢力に対抗し始めたことをあげている。分国や地域を超えて結びつく一向一揆に対抗するために、織田信長を先頭とする武士達は統一権力をめざして戦ったのだというのだ。私自身も以前、法然上人の開いた知恩院で早朝の勤行に参加して「南無阿弥陀仏」を繰り返す称名念仏の大合唱に心地よく陶酔したことがあるので、著者の考えに大変同感することができた。
例えば源平の戦いの本質とは、全国各地の在地領主としての武士が、朝廷のくびきを脱して自立を勝ち取る過程にあったのであり、いわば在地領主達の独立戦争だったのだと説明する。源平の内乱の過程では全国各地の国衙レベルで、平清盛によるクーデターの小型版といえる変革が次々に発生したそうだが、こうした勢力が合従連衡を繰り返し、より大きな武装集団を形成していった過程こそ、この戦いの本質だという見解だ。そして、最後まで勝ち残った源頼朝が在地領主の新しい王に担がれて、幕府という権力が形成されたから、その後の中世史において在地領主としての武士が主役を演じることが可能になったのだという。
また著者は、中央権力が実質上存在しなかった戦国時代に、再び天下統一の機運が生じたきっかけとして、法然に起源を持つ平易な称名念仏の教えが一般民衆に広く受容され、武士勢力に対抗し始めたことをあげている。分国や地域を超えて結びつく一向一揆に対抗するために、織田信長を先頭とする武士達は統一権力をめざして戦ったのだというのだ。私自身も以前、法然上人の開いた知恩院で早朝の勤行に参加して「南無阿弥陀仏」を繰り返す称名念仏の大合唱に心地よく陶酔したことがあるので、著者の考えに大変同感することができた。