中沢新一さんがカイエソバージュで見せた思考方法のまとめであり、
これからほどかれる直前の状態をそのまま保存した良書であり、
ほどきがいのある深度を持った思想と啓蒙、そしてなりよりも預言の書である。
中沢新一のいう対称性無意識とは、三歳までに教えられた身体に染み込んでいるなにかとそれ以前のこの空間ないにある《何か》のこと。
人類史とは言ってしまえば対称性無意識と人間との戦いであり、ブッダやキリストはそれと正面から戦ったがゆえに尊いのである。
それは人が傲慢にならない為の制御弁ほどのモノなのではあるが、そこには人間いうものの不思議が詰まっている。
智の楽しみとはこの事かと思う。

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野生の科学 単行本 – 2012/8/2
中沢 新一
(著)
ガリレオ、デカルト以降、現代の原子核物理に至る近現代の「科学」=客観科学は、「自然」を人間の外部としてコントロールしようとします。レヴィ=ストロースはそれを「家畜化」と名付けました。その科学技術は、昨年この国で大惨事を引き起こしました。「科学」が覇権を握る近現代において、人類学や民俗学だけが、「科学」に細々と抗い、「野生型」の知識の豊かさが無尽蔵にあることを、明らかにしようとしてきました。その精神
ガリレオ、デカルト以降、現代の原子核物理に至る近現代の「科学」=客観科学は、「自然」を人間の外部としてコントロールしようとします。レヴィ=ストロースはそれを「家畜化」と名付けました。その科学技術は、昨年この国で大惨事を引き起こしました。「科学」が覇権を握る近現代において、人類学や民俗学だけが、「科学」に細々と抗い、「野生型」の知識の豊かさが無尽蔵にあることを、明らかにしようとしてきました。その精神を引き継ぎ・発展させ、豊かで、具体的で、世界・自然と交感する新しい科学の創造を提示していきます。
本書は、「野生の科学」の精神をもって、多岐に亘るテーマを扱っていきます。
「科学」を乗り越えるインターフェイスの思想。「自然過程」で働く〈不思議な環〉を組み込んだ新しい人間科学。神話的思考による「ねじれ」、贈与的「新経済学」、「穴の幾何学」による「心的トポロジー」。
柳宗理「民藝」運動、深沢七郎「普遍文学」。アール・ブリュット、アール・イマキュレ、現代美術と心の構造の関係、そして曼荼羅が表現する「心そのもの」。
稲荷山(京都・伏見)、甲州(山梨)、熱海をアースダイビング。その上で、「土地」と脳の関係を「野生の地図学」として抽出します。
ガリレオ、デカルト以降、現代の原子核物理に至る近現代の「科学」=客観科学は、「自然」を人間の外部としてコントロールしようとします。レヴィ=ストロースはそれを「家畜化」と名付けました。その科学技術は、昨年この国で大惨事を引き起こしました。「科学」が覇権を握る近現代において、人類学や民俗学だけが、「科学」に細々と抗い、「野生型」の知識の豊かさが無尽蔵にあることを、明らかにしようとしてきました。その精神を引き継ぎ・発展させ、豊かで、具体的で、世界・自然と交感する新しい科学の創造を提示していきます。
本書は、「野生の科学」の精神をもって、多岐に亘るテーマを扱っていきます。
「科学」を乗り越えるインターフェイスの思想。「自然過程」で働く〈不思議な環〉を組み込んだ新しい人間科学。神話的思考による「ねじれ」、贈与的「新経済学」、「穴の幾何学」による「心的トポロジー」。
柳宗理「民藝」運動、深沢七郎「普遍文学」。アール・ブリュット、アール・イマキュレ、現代美術と心の構造の関係、そして曼荼羅が表現する「心そのもの」。
稲荷山(京都・伏見)、甲州(山梨)、熱海をアースダイビング。その上で、「土地」と脳の関係を「野生の地図学」として抽出します。
- 本の長さ484ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2012/8/2
- 寸法13.7 x 3 x 19.4 cm
- ISBN-104062177447
- ISBN-13978-4062177443
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商品の説明
著者について
中沢 新一
中沢新一(なかざわ・しんいち)
1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、明治大学野生の科学研究所所長。思想家。
著書に『日本の大転換』『アースダイバー』、『カイエ・ソバージュ』(小林秀雄賞)、『チベットのモーツァルト』(サントリー学芸賞)『森のバロック』(読売文学賞)『哲学の東北』(青土社、斎藤緑雨賞)など多数ある。
中沢新一(なかざわ・しんいち)
1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、明治大学野生の科学研究所所長。思想家。
著書に『日本の大転換』『アースダイバー』、『カイエ・ソバージュ』(小林秀雄賞)、『チベットのモーツァルト』(サントリー学芸賞)『森のバロック』(読売文学賞)『哲学の東北』(青土社、斎藤緑雨賞)など多数ある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2012/8/2)
- 発売日 : 2012/8/2
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 484ページ
- ISBN-10 : 4062177447
- ISBN-13 : 978-4062177443
- 寸法 : 13.7 x 3 x 19.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 295,161位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、多摩美術大学芸術人類学研究所所長。思想家。著書に『チベットのモーツァルト』(サ ントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(伊藤整文学賞)など多数ある(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『カイエ・ソバージュ』(ISBN-10:4062159104)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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2012年10月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
このような大著のレビューを書くなんてとても恐れ多いが、中沢氏の仕事が「知的なお遊び」と揶揄されるのを聞くのはあまり心地よくないので、私なりの率直な感想を述べようと思う。
『野生の科学』は間違いなく現代における非常に重要な思想書である。といっても、中沢氏の仕事は『チベットのモーツアルト』から『カイエ・ソバージュ』、そしてこの『野生の科学』に到るまで、その思想の核はずっと一貫している。中沢氏がずっと試みている思想的作業は、人類の根源的なこころの地層にダイブしていくということである。氏は現代数学やフランス現代哲学等を華麗に?使いこなして論を展開していくので、一部の知識人等は彼のやっていることを「知的なお遊び」だと批判する。しかし、私が思うに、中沢氏がやろうとしていることはそんな知の表層部分をこねくり回すようなポストモダンのお遊びではなく、もっと泥臭く地を這いずり回るような、というよりも知の地層、生の地層に泥を掻き出して潜っていくような、そんな作業であると思う。そのことは、彼が最近になって導き出した「野生の科学」という思想(この思想がこの本の核である)に如実に現れている。彼が『野生の科学』において主張していることは、乱暴に言ってしまえば、ただ一つである。それは、現代科学というものは野生化されなければいけないということである。科学を野生化するとはどういうことか。それは、人類が何千万年も前から営んできた「生活知」とも呼べるような思想や知恵をもう一度、誕生してたかが何百年という現代科学と繋ぎ合わせるという作業が必要であるということである。経済学が基礎的前提としている合理的経済主体や市場での等価交換などは、人類がずっと昔から行なってきた共同での贈与交換活動から見れば、実に歴史の浅い考えである。それをあたかも人類の普遍的活動であるかのように取り扱う経済学のせいで我々の社会はいま非常に混乱している。このような経済学的思想の蔓延によって、昨年の原発事故が起こったことは言うまでもないことである。中沢氏が長年主張し続けている「贈与」という思想、これこそは野生の科学の代表的なものであり、これからの我々の社会にとって、非常に重要な思想であることは間違いない。中沢氏の仕事は、このようにとても泥臭い人類の生活の実践知を掘り起こして、それを現代社会に再び贈与しようとするものであり、それは単なる「知的なお遊び」と言ってしまえるような軽いものでは決してないのである。
『野生の科学』は間違いなく現代における非常に重要な思想書である。といっても、中沢氏の仕事は『チベットのモーツアルト』から『カイエ・ソバージュ』、そしてこの『野生の科学』に到るまで、その思想の核はずっと一貫している。中沢氏がずっと試みている思想的作業は、人類の根源的なこころの地層にダイブしていくということである。氏は現代数学やフランス現代哲学等を華麗に?使いこなして論を展開していくので、一部の知識人等は彼のやっていることを「知的なお遊び」だと批判する。しかし、私が思うに、中沢氏がやろうとしていることはそんな知の表層部分をこねくり回すようなポストモダンのお遊びではなく、もっと泥臭く地を這いずり回るような、というよりも知の地層、生の地層に泥を掻き出して潜っていくような、そんな作業であると思う。そのことは、彼が最近になって導き出した「野生の科学」という思想(この思想がこの本の核である)に如実に現れている。彼が『野生の科学』において主張していることは、乱暴に言ってしまえば、ただ一つである。それは、現代科学というものは野生化されなければいけないということである。科学を野生化するとはどういうことか。それは、人類が何千万年も前から営んできた「生活知」とも呼べるような思想や知恵をもう一度、誕生してたかが何百年という現代科学と繋ぎ合わせるという作業が必要であるということである。経済学が基礎的前提としている合理的経済主体や市場での等価交換などは、人類がずっと昔から行なってきた共同での贈与交換活動から見れば、実に歴史の浅い考えである。それをあたかも人類の普遍的活動であるかのように取り扱う経済学のせいで我々の社会はいま非常に混乱している。このような経済学的思想の蔓延によって、昨年の原発事故が起こったことは言うまでもないことである。中沢氏が長年主張し続けている「贈与」という思想、これこそは野生の科学の代表的なものであり、これからの我々の社会にとって、非常に重要な思想であることは間違いない。中沢氏の仕事は、このようにとても泥臭い人類の生活の実践知を掘り起こして、それを現代社会に再び贈与しようとするものであり、それは単なる「知的なお遊び」と言ってしまえるような軽いものでは決してないのである。
2012年12月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まず告白しておくが、中沢が本書で提示する数学的アイディアの数々は、私にはとても魅力的に思える。
もちろんソーカル事件や、いわゆる駒場騒動でも中沢の数学理解が問題となったことについても、私は知らないわけではない。だから本書の第1章第1行のインタビュアーの「現代数学への関心があいかわらず強いようですね」という中沢への質問を読んだときには、心の中でニヤリとしてしまったのだが、ただ私自身、チョムスキー流の考え方にどうしても共感できず、ラカンが提案したさまざまな数式モドキ(のすべてを理解しているわけでないにしろ)に、そのいかがわしさを承知しつつ抗しがたく惹きつけられているのも事実で、特に言語について考えようとするとき、あくまでも比喩としてだが、有用な手掛かりになるものもあると感じている。
中沢も本書中でラカンを擁護しようとしているし、また本書中で層や圏をめぐる議論やトポロジーが経済学の他、言語や脳と関連づけられているのを読むと、今どきの知的環境である種の問題設定をすれば、誰でも同じようなことを思いつくらしいなと、溜息とともに中沢を支持してもいいのかもしれない。本書で言及される層理論や圏の論理学は中沢の持ちだす対称性だとか神話論理だとかと確かに相性は良さそうで、中沢の議論の展開方法が喩的思考に導かれているのも「知行合一」と言えなくもなく、あっさり却下できない準備はなされていると思う。
ただ、こうした数学的アイディアを紹介した後に展開される第2部、第3部の諸章が、本当にそうした理論的(あるいは論理的)な枠組みに従ったものになっているのかどうか、私には疑わしくもある。残念ながら『カイエ・ソヴァージュ』など最近の中沢の作品を読んでいないので、もしかするとそこには私の疑念を打ち消す仕事がなされているのかもしれないが、少なくとも本書を読む限りでは、第2部、第3部の文章は「ほら、これもキアスムですよ」「ここにも不思議な環が働いてますよ」といった、層や圏の論理に照らしてさえ本当に整合性があるのかどうか疑わしいようなイメージ的な丸め込みに思える。
加えて気になったことだが、本書付録の吉本隆明追悼文中に、「ジャーナリストならぬ思想家であるかぎりは、このような(引用者注:吉本のような)長期波動型の認識を手放すことはできない。たとえ身のまわりで耐え難いほどに悲惨な出来事が起ころうとも、感情に身を任せてしまうのを避けて『遠いまなざし』をもって事態を鳥瞰できるほどの理性が、思想家には求められる」(p464)という件りがある。私はこの主張に反対ではないが、しかし同時に、これはサリン事件後に中沢がかつてオウム信者だった知人に漏らしたとされる「(犠牲者が)もっと多く、一万人とか、二万人の規模だったら別の意味合いがあったのにね」という言葉に対する自己弁護であるようにも私には聞こえて、たとえその意図はなくとも自分の発言があちこちで取り沙汰されていることは百も承知なのだろうから、それだけは言ってはいけないことだったのではないかと思った。
この著者が危険な夢想家であることは、疑いを容れないと、私は考える。
もちろんソーカル事件や、いわゆる駒場騒動でも中沢の数学理解が問題となったことについても、私は知らないわけではない。だから本書の第1章第1行のインタビュアーの「現代数学への関心があいかわらず強いようですね」という中沢への質問を読んだときには、心の中でニヤリとしてしまったのだが、ただ私自身、チョムスキー流の考え方にどうしても共感できず、ラカンが提案したさまざまな数式モドキ(のすべてを理解しているわけでないにしろ)に、そのいかがわしさを承知しつつ抗しがたく惹きつけられているのも事実で、特に言語について考えようとするとき、あくまでも比喩としてだが、有用な手掛かりになるものもあると感じている。
中沢も本書中でラカンを擁護しようとしているし、また本書中で層や圏をめぐる議論やトポロジーが経済学の他、言語や脳と関連づけられているのを読むと、今どきの知的環境である種の問題設定をすれば、誰でも同じようなことを思いつくらしいなと、溜息とともに中沢を支持してもいいのかもしれない。本書で言及される層理論や圏の論理学は中沢の持ちだす対称性だとか神話論理だとかと確かに相性は良さそうで、中沢の議論の展開方法が喩的思考に導かれているのも「知行合一」と言えなくもなく、あっさり却下できない準備はなされていると思う。
ただ、こうした数学的アイディアを紹介した後に展開される第2部、第3部の諸章が、本当にそうした理論的(あるいは論理的)な枠組みに従ったものになっているのかどうか、私には疑わしくもある。残念ながら『カイエ・ソヴァージュ』など最近の中沢の作品を読んでいないので、もしかするとそこには私の疑念を打ち消す仕事がなされているのかもしれないが、少なくとも本書を読む限りでは、第2部、第3部の文章は「ほら、これもキアスムですよ」「ここにも不思議な環が働いてますよ」といった、層や圏の論理に照らしてさえ本当に整合性があるのかどうか疑わしいようなイメージ的な丸め込みに思える。
加えて気になったことだが、本書付録の吉本隆明追悼文中に、「ジャーナリストならぬ思想家であるかぎりは、このような(引用者注:吉本のような)長期波動型の認識を手放すことはできない。たとえ身のまわりで耐え難いほどに悲惨な出来事が起ころうとも、感情に身を任せてしまうのを避けて『遠いまなざし』をもって事態を鳥瞰できるほどの理性が、思想家には求められる」(p464)という件りがある。私はこの主張に反対ではないが、しかし同時に、これはサリン事件後に中沢がかつてオウム信者だった知人に漏らしたとされる「(犠牲者が)もっと多く、一万人とか、二万人の規模だったら別の意味合いがあったのにね」という言葉に対する自己弁護であるようにも私には聞こえて、たとえその意図はなくとも自分の発言があちこちで取り沙汰されていることは百も承知なのだろうから、それだけは言ってはいけないことだったのではないかと思った。
この著者が危険な夢想家であることは、疑いを容れないと、私は考える。