阿佐田哲也シリーズが好きで、購入しました。
内容は、かなり癖が強く好みによります。
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狂人日記 (講談社文芸文庫) 文庫 – 2004/9/11
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狂気と正気の間を激しく揺れ動きつつ、自ら死を選ぶ男の凄絶なる魂の告白の書。醒めては幻視・幻聴に悩まされ、眠っては夢の重圧に押し潰され、赤裸にされた心は、それでも他者を求める。弟、母親、病院で出会った圭子――彼らとの関わりのなかで真実の優しさに目醒めながらも、男は孤絶を深めていく。現代人の彷徨う精神の行方を見据えた著者の、読売文学賞を受賞した最後の長篇小説。
- 本の長さ320ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2004/9/11
- 寸法10.5 x 1.1 x 15.1 cm
- ISBN-104061983814
- ISBN-13978-4061983816
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/9/11)
- 発売日 : 2004/9/11
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 320ページ
- ISBN-10 : 4061983814
- ISBN-13 : 978-4061983816
- 寸法 : 10.5 x 1.1 x 15.1 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 53,827位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2012年2月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
元々は、月刊誌「海燕」に1987年1月号から翌88年6月号迄連載された。
色川はこれで読売文学賞を受賞している。彼、最後の長編小説である。
ある中年男が精神科の病院に入院する描写から始まる。
会話文以外では「自分は」と自己を称している。
自分が、自分と身の回りの人達との実生活と、そこにおいて見聞える幻覚や幻聴の様を、同じ現在進行形の形でぞろぞろと書いていく。
また、子供の頃の家族の生活、自分の特殊な遊び等を、想い出される話として書いていく。しかし、いつの間にか、過去に死んだ人達が、今の自分の枕元で蠢き囁く。
自分が自分を「狂疾」として文章がスタートしている。だから、どんなに厳格な描写であっても、それがそのままの現実を語っているのか、既に現実ではないのか、解釈は一様にならない。読む者には、その辺が、入り乱れて、居場所がふらふらと一定しない心地の悪さがある。
しかし、「狂疾」と言っても、完璧に狂っている訳ではない。常に幻覚に閉ざされている訳ではない。もしそうなら、文章表現等できない。
主人公の内なる言葉、「狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合の差あり、また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。ほとんどは度合の差であるにすぎず、しかもその度合はレントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。もともとどこまでが正常でどこからが狂疾か、度合の問題がほとんどである以上、この線がはっきりしているべきだが、それも明確になっていない」。
人間は、自分の眼、耳を通してしか見聞く事はできない。他人にどう見え、どう聞えるか、それは経験する事ができない。
そういう意味では、本人が狂っていると言えば狂っているのかもしれないし、そうでないのかも知れない。そんな思いを持ちながら、繰り返す「発作」と伴に彼は暮している。
そうした小説の中の問題に、実際の色川武大自身の問題かもしれないとの想いが入り込み同居して、一層読む者の立場をふらつかせ、居心地が悪くなる。
更には、彼の「狂疾」は、いつ知らず読む自分をも取り込まないでいない。私とて、私の眼で見た事しか見えないが、それに全幅の自信がある訳ではない。それは事実か幻覚か判らない。その間の線は、明確になっていない。
色川にナルコレプシーの症状があったのは知られるところだ。この病気には、特殊な睡眠の現れ方の問題だけでなく、幻覚や幻聴を伴うらしい。
小説の中で語られる生々しい妄想は、作者の実感なしに描けるものでない気がする。
主人公の心の悩みは、色川自身の苦悩でもあった筈だ。
幻をナルコレプシーに起因するとするのか統合失調症からとするのか、それはまたなかなか難しい問題であろう。
また、主人公が、自分で作り出したひとり遊びのカードゲームに埋没する様子が描かれているが、これも、彼の小学校時代に実際にあった話として知られている。
あとがきで、色川は、この主人公のモデルを、知り合いの弟の印象から得ているとしているが、「とはいえ、私は彼に会ったこともなく、くわしい話もきいていない。これはモデル小説ではなく、叙述はすべて作者が勝手に組みたてたもので、事実と無関係である」と”わざわざ”言っている。
しかし、実際は、そのモデルよりも、前述から想像されるように、小説の「自分」と色川自身の方がより一層不可分なのであって、「狂疾」は、際限もなくフィクションと現実の間を増幅しながら彷徨い、遂には読む者をも巻き込み、不安の底に落とし入れる。
主人公は、同じ病院である女性と知り合う。女性も病に冒されているが、病院からは彼女の方が軽微だと評価されている。その証拠に、彼女は入院しつつも、病院の手伝い等もしている。
その彼女が看病するからと懇願し、2人で病院を出、共同生活を始める。
彼女にとっては、人の面倒を見る事が病の治癒に向けた療法にもなっているのか。また、これもひとつの愛の形であるのか。
彼は、彼女の優しさに触れるが、しかしどこ迄行っても一体にはなれない。理解し合う事はできない。
孤絶の深まりは「狂疾」の所為か、それとも、それが人間の本性か。
色川はこれで読売文学賞を受賞している。彼、最後の長編小説である。
ある中年男が精神科の病院に入院する描写から始まる。
会話文以外では「自分は」と自己を称している。
自分が、自分と身の回りの人達との実生活と、そこにおいて見聞える幻覚や幻聴の様を、同じ現在進行形の形でぞろぞろと書いていく。
また、子供の頃の家族の生活、自分の特殊な遊び等を、想い出される話として書いていく。しかし、いつの間にか、過去に死んだ人達が、今の自分の枕元で蠢き囁く。
自分が自分を「狂疾」として文章がスタートしている。だから、どんなに厳格な描写であっても、それがそのままの現実を語っているのか、既に現実ではないのか、解釈は一様にならない。読む者には、その辺が、入り乱れて、居場所がふらふらと一定しない心地の悪さがある。
しかし、「狂疾」と言っても、完璧に狂っている訳ではない。常に幻覚に閉ざされている訳ではない。もしそうなら、文章表現等できない。
主人公の内なる言葉、「狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合の差あり、また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。ほとんどは度合の差であるにすぎず、しかもその度合はレントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。もともとどこまでが正常でどこからが狂疾か、度合の問題がほとんどである以上、この線がはっきりしているべきだが、それも明確になっていない」。
人間は、自分の眼、耳を通してしか見聞く事はできない。他人にどう見え、どう聞えるか、それは経験する事ができない。
そういう意味では、本人が狂っていると言えば狂っているのかもしれないし、そうでないのかも知れない。そんな思いを持ちながら、繰り返す「発作」と伴に彼は暮している。
そうした小説の中の問題に、実際の色川武大自身の問題かもしれないとの想いが入り込み同居して、一層読む者の立場をふらつかせ、居心地が悪くなる。
更には、彼の「狂疾」は、いつ知らず読む自分をも取り込まないでいない。私とて、私の眼で見た事しか見えないが、それに全幅の自信がある訳ではない。それは事実か幻覚か判らない。その間の線は、明確になっていない。
色川にナルコレプシーの症状があったのは知られるところだ。この病気には、特殊な睡眠の現れ方の問題だけでなく、幻覚や幻聴を伴うらしい。
小説の中で語られる生々しい妄想は、作者の実感なしに描けるものでない気がする。
主人公の心の悩みは、色川自身の苦悩でもあった筈だ。
幻をナルコレプシーに起因するとするのか統合失調症からとするのか、それはまたなかなか難しい問題であろう。
また、主人公が、自分で作り出したひとり遊びのカードゲームに埋没する様子が描かれているが、これも、彼の小学校時代に実際にあった話として知られている。
あとがきで、色川は、この主人公のモデルを、知り合いの弟の印象から得ているとしているが、「とはいえ、私は彼に会ったこともなく、くわしい話もきいていない。これはモデル小説ではなく、叙述はすべて作者が勝手に組みたてたもので、事実と無関係である」と”わざわざ”言っている。
しかし、実際は、そのモデルよりも、前述から想像されるように、小説の「自分」と色川自身の方がより一層不可分なのであって、「狂疾」は、際限もなくフィクションと現実の間を増幅しながら彷徨い、遂には読む者をも巻き込み、不安の底に落とし入れる。
主人公は、同じ病院である女性と知り合う。女性も病に冒されているが、病院からは彼女の方が軽微だと評価されている。その証拠に、彼女は入院しつつも、病院の手伝い等もしている。
その彼女が看病するからと懇願し、2人で病院を出、共同生活を始める。
彼女にとっては、人の面倒を見る事が病の治癒に向けた療法にもなっているのか。また、これもひとつの愛の形であるのか。
彼は、彼女の優しさに触れるが、しかしどこ迄行っても一体にはなれない。理解し合う事はできない。
孤絶の深まりは「狂疾」の所為か、それとも、それが人間の本性か。
2021年3月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ゴーゴリでも魯迅でもない、色川武大の狂人日記。
幻聴、幻視、精神病院の患者たち。
自分に内包するすべてを吐き出すかのような男の独白で話はゆっくりと進んでいく。
誰しも狂気を胸に抱えているが、うまく表現できずにいる。
それを作家が文字におこすことで救われる人も多いのかもしれない。
幻聴、幻視、精神病院の患者たち。
自分に内包するすべてを吐き出すかのような男の独白で話はゆっくりと進んでいく。
誰しも狂気を胸に抱えているが、うまく表現できずにいる。
それを作家が文字におこすことで救われる人も多いのかもしれない。
2014年5月18日に日本でレビュー済み
正直、そんなに小説読みでは無い自分であるがこの小説はもう何度も何度も読み返している
とはいえ作者の色川武大は阿佐田哲也名義の麻雀小説からほとんどの作品を読破している大ファン(一番好きなのは「生家へ」)
そんな色川武大の遺作がこの「狂人日記」
簡単に筋を説明すると自らを狂人と定義している主人公が、同じ病院で知り合ったこれまた狂人の女性と共に新しい生活を始めるという話だ
だが、この作品の底に流れているテーマはたんなる狂気では無いような気もする
確かに主人公には幻覚幻聴等の症状があり、その発作が起きる度に世界と自分が遮断されるという感覚を覚えている
しかしこの感覚は狂っていると自覚のない(個人的にも社会的にも)殆どの人にも共通する感覚ではないだろうか
思えば思春期の頃とても大事な事だと感じたのは「自分である」という事
何よりも大切なのは「かけがえの無い自分」でどんな時もどんな場所でも「自分自身」であり「本当の自分」でいる事
だが、50歳を目の前にして今思うのはそんなに「自分」って存在が大事なのか
「自分」よりもっと大事な存在があったのではないかって事
確かに世捨て人の様に社会や関係を遮断して生きていけるならそれでもいいだろう
しかし、それほど冷たい悟りも持てず、一人じゃとても寂しくて生きていけない「自分」ならもっと大切な存在があるはずだ
「自分」の身を犠牲にしても守りたい、守らなければならない存在が(それを妻や、家族や子供たちと言うのは照れくさくもあるのだが)
だけどいつも人には「自分」が存在する 誰にもわからない「自分」が、絶対孤独で世界で独りきりでしかない「自分」が…
この作品のテーマはそういう事なのだと勘違いや読み違えかも知れぬがそう思う
人は「自分」を超えて愛する「他者」と巡り合えるのかという事、そして巡り合えたかどうかはその「他者」の魅力や存在感、美や見かけじゃなくて 「自分自身」の心ひとつなのだと
だから余計なお世話なのだがタイトルの「狂人日記」にハードルの高さを感じている人があれば是非是非読んでもらいたい作品だ
とはいえ作者の色川武大は阿佐田哲也名義の麻雀小説からほとんどの作品を読破している大ファン(一番好きなのは「生家へ」)
そんな色川武大の遺作がこの「狂人日記」
簡単に筋を説明すると自らを狂人と定義している主人公が、同じ病院で知り合ったこれまた狂人の女性と共に新しい生活を始めるという話だ
だが、この作品の底に流れているテーマはたんなる狂気では無いような気もする
確かに主人公には幻覚幻聴等の症状があり、その発作が起きる度に世界と自分が遮断されるという感覚を覚えている
しかしこの感覚は狂っていると自覚のない(個人的にも社会的にも)殆どの人にも共通する感覚ではないだろうか
思えば思春期の頃とても大事な事だと感じたのは「自分である」という事
何よりも大切なのは「かけがえの無い自分」でどんな時もどんな場所でも「自分自身」であり「本当の自分」でいる事
だが、50歳を目の前にして今思うのはそんなに「自分」って存在が大事なのか
「自分」よりもっと大事な存在があったのではないかって事
確かに世捨て人の様に社会や関係を遮断して生きていけるならそれでもいいだろう
しかし、それほど冷たい悟りも持てず、一人じゃとても寂しくて生きていけない「自分」ならもっと大切な存在があるはずだ
「自分」の身を犠牲にしても守りたい、守らなければならない存在が(それを妻や、家族や子供たちと言うのは照れくさくもあるのだが)
だけどいつも人には「自分」が存在する 誰にもわからない「自分」が、絶対孤独で世界で独りきりでしかない「自分」が…
この作品のテーマはそういう事なのだと勘違いや読み違えかも知れぬがそう思う
人は「自分」を超えて愛する「他者」と巡り合えるのかという事、そして巡り合えたかどうかはその「他者」の魅力や存在感、美や見かけじゃなくて 「自分自身」の心ひとつなのだと
だから余計なお世話なのだがタイトルの「狂人日記」にハードルの高さを感じている人があれば是非是非読んでもらいたい作品だ
2007年9月1日に日本でレビュー済み
私はもともと麻雀が好きで、そこから阿佐田哲也のファンになった者です。
彼のことをより深く知りたいと思い、この作品を読みました。
ある50代の男が精神病院に入院するところからこの物語は始まります。
幻聴、幻覚、悪夢にさいなまれる男の描写がえんえんと続きます。
これはナルコレプシーの症状なのですが、この病気のことをただの「眠り病」ぐらいにしか認識していなかった自分には衝撃的でした。
この病は彼特有のものであり、ほかの患者はもちろんのこと主治医とも苦しみを共有することができないし、理解もされません。
このことから彼は深い孤独におちいるのですが、そこから救い出すかのように同じ入院患者の女「圭子」が現れます。
ここまでが前半部で、主に彼の病の特異さを描いています。
この出会いから物語は急転回し、
二人で病院を出ての同棲生活が描かれることになります。
その中で男は人と関わるということ、また人を心から愛するとはどういうことなのか、ということを思索し、懊悩します。
人を愛すれば愛するほど、その不可能さにぶつかってしまい、さらに孤独が深まってしまうというパラドックス。
そんなヨーロッパ映画のようなテーマが後半部では描かれています。
本書を読み終えて阿佐田名義と色川名義の作品のあまりの違いに驚きましたが、それと同時に両者の共通項も見えた気がしました。
『麻雀放浪記』でアウトローの世界を生き抜いた「坊や哲」も本作の中年男も、絶対的に「ひとり」だということ。
人間とは究極的にはたった「ひとり」であり、他との一体感などありえないまやかしであるということ。
そんなひとつの人間観を阿佐田=色川氏は終始一貫して語りつづけた小説家であったと思います。
彼のことをより深く知りたいと思い、この作品を読みました。
ある50代の男が精神病院に入院するところからこの物語は始まります。
幻聴、幻覚、悪夢にさいなまれる男の描写がえんえんと続きます。
これはナルコレプシーの症状なのですが、この病気のことをただの「眠り病」ぐらいにしか認識していなかった自分には衝撃的でした。
この病は彼特有のものであり、ほかの患者はもちろんのこと主治医とも苦しみを共有することができないし、理解もされません。
このことから彼は深い孤独におちいるのですが、そこから救い出すかのように同じ入院患者の女「圭子」が現れます。
ここまでが前半部で、主に彼の病の特異さを描いています。
この出会いから物語は急転回し、
二人で病院を出ての同棲生活が描かれることになります。
その中で男は人と関わるということ、また人を心から愛するとはどういうことなのか、ということを思索し、懊悩します。
人を愛すれば愛するほど、その不可能さにぶつかってしまい、さらに孤独が深まってしまうというパラドックス。
そんなヨーロッパ映画のようなテーマが後半部では描かれています。
本書を読み終えて阿佐田名義と色川名義の作品のあまりの違いに驚きましたが、それと同時に両者の共通項も見えた気がしました。
『麻雀放浪記』でアウトローの世界を生き抜いた「坊や哲」も本作の中年男も、絶対的に「ひとり」だということ。
人間とは究極的にはたった「ひとり」であり、他との一体感などありえないまやかしであるということ。
そんなひとつの人間観を阿佐田=色川氏は終始一貫して語りつづけた小説家であったと思います。
2020年7月2日に日本でレビュー済み
飾職人、薬品会社社員、国鉄臨時職員、警備員として世にでるも社会とうまくゆかず療養所に入る五十路の男。
前ぶれもなく和太鼓のような音とともに烈しい発作や痙攣が起こり、さまざまな幻視、幻覚や幻聴を聴いて無意識のうちに大声で吼えてしまう癲癇とおもわれる病気を持つ主人公。同室の唇を絶えず小さく動かしぶつぶつ呟く男(さざえ)、「廻り灯籠の一部の絵が破損しているかのように周期的に訪れる狂気」とたたかいながら、療養者にいて健常者として働きたがつている寺西圭子と同時に退院しあたらしい生活を始める。
発作ととともに自分の幼少期の鮮やかな記憶がよみがえる。破産とともに「バイバイー!」と私たち兄弟を捨てた母。生家の前の道路を自分の世界と思っていた犬のボビー。学童疎開で行つた山梨での梅干を食べて蕁麻疹ができた記憶。紙で力士をつくり独りで相撲の星取表をとつて興じていた頃。全額貯金して飾職人仲間でケチと呼ばれていたとき。弟との国鉄政治デモ。「僕のはじめての家族―!」園子との結婚生活。
神経細胞の襞(ひだ)の生物的なうねりが、社会から遠ざけられてなにもできない男のことばにできない悲哀と哀愁の情感が、あたらしい生活を始める准健常者とりとめのない対話として圭子や弟の正吾に向かって投げかけられています。「病院の方が、休めるね。それだけさ」「休める方がいいんだろう。兄貴の場合」これらの対話は、時代のエア・ポケツトに入つて昏迷するわれわれに、安らぎやわずらわしい肉親の温かさを再確認させてくれるのではないでしようか。
前ぶれもなく和太鼓のような音とともに烈しい発作や痙攣が起こり、さまざまな幻視、幻覚や幻聴を聴いて無意識のうちに大声で吼えてしまう癲癇とおもわれる病気を持つ主人公。同室の唇を絶えず小さく動かしぶつぶつ呟く男(さざえ)、「廻り灯籠の一部の絵が破損しているかのように周期的に訪れる狂気」とたたかいながら、療養者にいて健常者として働きたがつている寺西圭子と同時に退院しあたらしい生活を始める。
発作ととともに自分の幼少期の鮮やかな記憶がよみがえる。破産とともに「バイバイー!」と私たち兄弟を捨てた母。生家の前の道路を自分の世界と思っていた犬のボビー。学童疎開で行つた山梨での梅干を食べて蕁麻疹ができた記憶。紙で力士をつくり独りで相撲の星取表をとつて興じていた頃。全額貯金して飾職人仲間でケチと呼ばれていたとき。弟との国鉄政治デモ。「僕のはじめての家族―!」園子との結婚生活。
神経細胞の襞(ひだ)の生物的なうねりが、社会から遠ざけられてなにもできない男のことばにできない悲哀と哀愁の情感が、あたらしい生活を始める准健常者とりとめのない対話として圭子や弟の正吾に向かって投げかけられています。「病院の方が、休めるね。それだけさ」「休める方がいいんだろう。兄貴の場合」これらの対話は、時代のエア・ポケツトに入つて昏迷するわれわれに、安らぎやわずらわしい肉親の温かさを再確認させてくれるのではないでしようか。