何度読み返しても新しい
これは、私自身がコップから出られないからだと思う
ガラス越しに見る風景の不思議を解いてくれる
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
比較文化論の試み (講談社学術文庫) 文庫 – 1976/6/7
山本 七平
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥748","priceAmount":748.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"748","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"FsQwFp524SUt%2B5MXi1TdrPa48bhowhFpmsTLL3fH6udeYilFSXpAU8WrQ%2FhDheFx%2F3nGdU7sR%2B9E7RR6QBjRC0hfM%2BsAJEwAuPFbhEl2FucLiqwkKa7hBxfxXGeIVsFs","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}]}
購入オプションとあわせ買い
経済的破綻に更生はありえても、文化的破綻はその民族の自滅につながる。文化的生存の道は、自らの文化を、他文化と相対化することによって再把握し、そこから新しい文化を築くことしかない、とする著者が、日本人とヨーロッパ人、ユダヤ人、アラブ人との差異を、ことばや宗教、あるいは法意識などを通してわかりやすく解明した独特の比較文化論。日本文化の特性が如実に浮き彫りにされ、私たち自身を見直すうえで絶好の書である。
- 本の長さ99ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1976/6/7
- 寸法10.8 x 0.5 x 14.8 cm
- ISBN-104061580485
- ISBN-13978-4061580480
よく一緒に購入されている商品

対象商品: 比較文化論の試み (講談社学術文庫)
¥748¥748
最短で3月31日 日曜日のお届け予定です
残り6点(入荷予定あり)
¥1,100¥1,100
最短で4月4日 木曜日のお届け予定です
残り5点(入荷予定あり)
¥2,082¥2,082
最短で4月4日 木曜日のお届け予定です
残り2点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
1921年東京に生まれる。1942年青山学院卒業即日入営。1944年ルソン島に派遣される。1947年帰国。1958年山本書店を創立。著書に「ある異常体験者の偏見」「存亡の条件」「私の中の日本軍」「無所属の時間」。訳書にW.ケラー「歴史としての聖書」、F.ジェイムズ「旧訳聖書の人々」、J.ライト「概説聖書考古学」。1991年12月10日没。
【画家紹介】
【画家紹介】
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1976/6/7)
- 発売日 : 1976/6/7
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 99ページ
- ISBN-10 : 4061580485
- ISBN-13 : 978-4061580480
- 寸法 : 10.8 x 0.5 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 297,660位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 969位講談社学術文庫
- - 12,254位社会学 (本)
- - 29,512位ビジネス・経済 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年5月31日に日本でレビュー済み
著者に対する当方の印象は,あまりよろしいものではない.
イザヤ・ベンダサンの一件のせい.
本書も,ある人のお勧めでなければ,読む気にはならなかっただろう.
▼
そんな因縁のユダヤ関係の記述が,本書にも出てくる.
本書の論旨は,
「ユダヤ教などのセム系一神教の世界では,自分たちの伝統や考えを再把握し,それを他民族に相手の理解できる言葉で説明することが求められるが,日本ではその必要が生まれなかった.
でも,これからはそうはいかないだろう」
というもの.
すなわち,
・一種の宗教的迷信のように信じられてきた,経済⇒社会⇒政治⇒道徳⇒宗教という図式(p.3-4)
・非常に大きな特徴として,日本の敗因として精神的に弱い面があったことを挙げている『虜人日記』.
その中にある,「独りよがりで同情心がなかった」(p.15-17)
・「自分が何故そう考えるのか」という意識が皆無.
「自分の考え方を歴史的に把握し直す」ということをしない.
日本的「親切」は,独りよがりと同義.こういうのは感情移入と言う(p.18-22)
・これが国際的になると,一方的に何か言うだけで,一切交渉ができない,ということになってしまう(p.23-24)
・日本人には,「あっちはあっちで別だ.別の伝統があるんだから,向こうは向こうで別の臨在感を持っているんだ」というふうに考えることができない.
そう考えないで済む社会に住んでいたからだ.
ただ,これからもそうだとますます困ることになるので,一体この臨在感がどういうふうに出てきて,それが日本の場合にどう作用しているかを,先ず他との連関において検討しなくちゃならない.
こういうものを検討する場合は,「文化ショック」というものが一つの座標になる(p.37-39)
・仏教ショック:輪廻転生は,人間を初めて「個人」としてとらえた,当時としては進歩的な思想(p.40)
・キリスト教ショック:一つの文化ショックを受けると,そこで初めて,自分たちがそれによって生きている一つの前提を意識し,再把握できる(p.43-45)
・中東や欧州では,3000年以上諸民族が入り乱れているので,たえず文化ショックを相互に受けており,自分たちが持っている規範とは何かということを相互に自覚して,人に説明しないと生きていけない,そうしないと平和ということは無い(p.46)
・神が秩序を立てた,というメソポタミア文明系列の思想(p.52-53)
これが輪廻転生の思想と混合して,「最後の審判」というものが出てきたヨーロッパの思想(p.53-54)
・多数決原理は「個人の判断の集約」(p.59-60)
・全部「言葉にしなければならない」,そうしなければそれの持つ力が発揮できないと考えた,セム系の伝統(p.61-66)
その理由の一つは,臨在感を歴史的に把握し直すための知覚化.
もう一つは,「正式」という考え方(p.67-70)
・必要になった,自分たちの考え方を弁護するアポロギア(弁護論).
「自分たちはこういう考え方をするということを宣言することは,一見簡単に見えますが,しかしこれは一方的宣言では無意味で,あくまでも相手の言葉で言わなくてはならない.
そうしないと相手に理解できないから無意味です.
相手の言葉というのは,翻訳という意味ではなく,相手の使っている言葉,すなわち相手の考え方で説明しないと,相手に理解できない.
そうしないと護教論になりませんが,これは実は大変に難しいことなんです.
まして,自分の世界の最も大切な定義を空白にしていては不可能です」(p.71)
例えば日本外交を見ても,単なる日本式の「御説明」では,外国には理解されていないという例は,枚挙に暇がないほど.
・古代ローマ,皇帝クラウディウスによって裁定された,アレクサンドリアにおけるギリシャ人とユダヤ人の争いにおいて展開された,相互の護教論(p.76-78)
上記の一例.
・「我々が無意識のうちに生きている一つの伝統というものの相互の差ですね.それが,どこでどのように違ってくるかということを,先ず正確に歴史観的に把握するということが,さっき言ったように,一つの前提になってくるわけです.
争う必要はなくとも,外国人であるカイザルに自分の考え方を納得させるには,まずこれが必要です.
そしてこの場合,似た言葉を並べてごまかしても無意味なんです」(p.84-85)
・「これが日本に来ますと,一種の二元論になってくるんです.
つまり,一人の人間あるいは一つの対象を善悪という対立概念でとらえるんでなくて,人間を善玉悪玉と二つに分けるんです.
この考え方は対立概念とは全然違うんで,例えば人間を善玉悪玉と二分すると,その分けられた個々の人間はもう対立概念ではとらえられない訳です.
この二つ,すなわち,人間はあくまでも一個の人間で,その人間を善悪という対立概念でとらえるということと,人間はもとより,あらゆる対象を善玉悪玉に二分してしまって,各々別としてしまうこととは,全く違うんです」(p.88)
▼
当方が想像するに,上述のようなセム系の考え方を日本において実行したらどのようなことになるか?という思考実験をしたのが,イザヤ・ベンダサンという創作だったのではないかという気がする.
してみると,そういった考え方の部分での論争ではなく,専ら「ベンダサンはニセ・ユダヤ人か否か」という点にばかり人々の関心が集まってしまったのは,著者にとっては極めて不本意なことだったに違いなし.
▼
一神教的発想と日本的発想との乖離を知りたいなら.
【関心率42.42%:全ページ中,手元に残したいページが当方にとってどれだけあるかの割合.当方にとっての必要性基準】
イザヤ・ベンダサンの一件のせい.
本書も,ある人のお勧めでなければ,読む気にはならなかっただろう.
▼
そんな因縁のユダヤ関係の記述が,本書にも出てくる.
本書の論旨は,
「ユダヤ教などのセム系一神教の世界では,自分たちの伝統や考えを再把握し,それを他民族に相手の理解できる言葉で説明することが求められるが,日本ではその必要が生まれなかった.
でも,これからはそうはいかないだろう」
というもの.
すなわち,
・一種の宗教的迷信のように信じられてきた,経済⇒社会⇒政治⇒道徳⇒宗教という図式(p.3-4)
・非常に大きな特徴として,日本の敗因として精神的に弱い面があったことを挙げている『虜人日記』.
その中にある,「独りよがりで同情心がなかった」(p.15-17)
・「自分が何故そう考えるのか」という意識が皆無.
「自分の考え方を歴史的に把握し直す」ということをしない.
日本的「親切」は,独りよがりと同義.こういうのは感情移入と言う(p.18-22)
・これが国際的になると,一方的に何か言うだけで,一切交渉ができない,ということになってしまう(p.23-24)
・日本人には,「あっちはあっちで別だ.別の伝統があるんだから,向こうは向こうで別の臨在感を持っているんだ」というふうに考えることができない.
そう考えないで済む社会に住んでいたからだ.
ただ,これからもそうだとますます困ることになるので,一体この臨在感がどういうふうに出てきて,それが日本の場合にどう作用しているかを,先ず他との連関において検討しなくちゃならない.
こういうものを検討する場合は,「文化ショック」というものが一つの座標になる(p.37-39)
・仏教ショック:輪廻転生は,人間を初めて「個人」としてとらえた,当時としては進歩的な思想(p.40)
・キリスト教ショック:一つの文化ショックを受けると,そこで初めて,自分たちがそれによって生きている一つの前提を意識し,再把握できる(p.43-45)
・中東や欧州では,3000年以上諸民族が入り乱れているので,たえず文化ショックを相互に受けており,自分たちが持っている規範とは何かということを相互に自覚して,人に説明しないと生きていけない,そうしないと平和ということは無い(p.46)
・神が秩序を立てた,というメソポタミア文明系列の思想(p.52-53)
これが輪廻転生の思想と混合して,「最後の審判」というものが出てきたヨーロッパの思想(p.53-54)
・多数決原理は「個人の判断の集約」(p.59-60)
・全部「言葉にしなければならない」,そうしなければそれの持つ力が発揮できないと考えた,セム系の伝統(p.61-66)
その理由の一つは,臨在感を歴史的に把握し直すための知覚化.
もう一つは,「正式」という考え方(p.67-70)
・必要になった,自分たちの考え方を弁護するアポロギア(弁護論).
「自分たちはこういう考え方をするということを宣言することは,一見簡単に見えますが,しかしこれは一方的宣言では無意味で,あくまでも相手の言葉で言わなくてはならない.
そうしないと相手に理解できないから無意味です.
相手の言葉というのは,翻訳という意味ではなく,相手の使っている言葉,すなわち相手の考え方で説明しないと,相手に理解できない.
そうしないと護教論になりませんが,これは実は大変に難しいことなんです.
まして,自分の世界の最も大切な定義を空白にしていては不可能です」(p.71)
例えば日本外交を見ても,単なる日本式の「御説明」では,外国には理解されていないという例は,枚挙に暇がないほど.
・古代ローマ,皇帝クラウディウスによって裁定された,アレクサンドリアにおけるギリシャ人とユダヤ人の争いにおいて展開された,相互の護教論(p.76-78)
上記の一例.
・「我々が無意識のうちに生きている一つの伝統というものの相互の差ですね.それが,どこでどのように違ってくるかということを,先ず正確に歴史観的に把握するということが,さっき言ったように,一つの前提になってくるわけです.
争う必要はなくとも,外国人であるカイザルに自分の考え方を納得させるには,まずこれが必要です.
そしてこの場合,似た言葉を並べてごまかしても無意味なんです」(p.84-85)
・「これが日本に来ますと,一種の二元論になってくるんです.
つまり,一人の人間あるいは一つの対象を善悪という対立概念でとらえるんでなくて,人間を善玉悪玉と二つに分けるんです.
この考え方は対立概念とは全然違うんで,例えば人間を善玉悪玉と二分すると,その分けられた個々の人間はもう対立概念ではとらえられない訳です.
この二つ,すなわち,人間はあくまでも一個の人間で,その人間を善悪という対立概念でとらえるということと,人間はもとより,あらゆる対象を善玉悪玉に二分してしまって,各々別としてしまうこととは,全く違うんです」(p.88)
▼
当方が想像するに,上述のようなセム系の考え方を日本において実行したらどのようなことになるか?という思考実験をしたのが,イザヤ・ベンダサンという創作だったのではないかという気がする.
してみると,そういった考え方の部分での論争ではなく,専ら「ベンダサンはニセ・ユダヤ人か否か」という点にばかり人々の関心が集まってしまったのは,著者にとっては極めて不本意なことだったに違いなし.
▼
一神教的発想と日本的発想との乖離を知りたいなら.
【関心率42.42%:全ページ中,手元に残したいページが当方にとってどれだけあるかの割合.当方にとっての必要性基準】
2012年10月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本人の自国文化への無自覚の原因、そして無自覚が故の
異文化への無理解が実例を交えながら簡潔に語られています。
小著ながら大変に分かりやすい解説で目からウロコが落ちます。
日本人が持つ「もの」に対する感覚とセム族が持つ「場所」に対する感覚の対比や
日本の「名詞的」な神に対する聖書の「動詞的」な神の対比など目が覚める思いで
読みました。
グローバルという言葉がもてはやされて久しいですが、本当の意味で
国際人たる人間になるためには自他の文化的な背景を学ぶことが
いかに重要であるかを実感させられました。
異文化への無理解が実例を交えながら簡潔に語られています。
小著ながら大変に分かりやすい解説で目からウロコが落ちます。
日本人が持つ「もの」に対する感覚とセム族が持つ「場所」に対する感覚の対比や
日本の「名詞的」な神に対する聖書の「動詞的」な神の対比など目が覚める思いで
読みました。
グローバルという言葉がもてはやされて久しいですが、本当の意味で
国際人たる人間になるためには自他の文化的な背景を学ぶことが
いかに重要であるかを実感させられました。
2016年7月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読み物として、冒頭は面白い内容がたくさんありましたが、終盤にかけて少し退屈になりました。
学ぶ姿勢で読むとすれば、いい勉強になります。
学ぶ姿勢で読むとすれば、いい勉強になります。
2011年7月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本人というのは「自分たちが何故そのように考えるのか」ということを外国人、他の文化を持つ人たちに説明するのが下手な民族である。「虜人日記」の小松眞一氏はこのことを日本文化が確立されていないと指摘した。自分たちの文化を「ある時代のある文化圏のある考え方」と捉えて他の文化と比較し歴史的にも再把握する必要があると山本七平は述べる。日本人は他文化との交流による文化的ショックというものをあまり経験しておらず、文化も伝統も違う民族とのぶつかり合いの中で自分たちのアイデンテティを確立させてきた西欧文明とは大きく異なる。
「私たちが何故そのように考えるのか」「その考えを持つように何故至ったのか」内省し、他文化と比較することによって自らの文化的特性をより理解する必要がある。ものの見方において西欧人はひとつのものを何でも対立概念として捉えるが、日本人は分立して規定してしまう。善玉と悪玉に分けて考えてしまう。日本は自然法に従っていけば済まされる世界である。この善玉、悪玉で捉える日本人の性向は、この本が書かれてから三十年以上経っても何ら変わっていない。新聞を見てみれば一目瞭然である。
「私たちが何故そのように考えるのか」「その考えを持つように何故至ったのか」内省し、他文化と比較することによって自らの文化的特性をより理解する必要がある。ものの見方において西欧人はひとつのものを何でも対立概念として捉えるが、日本人は分立して規定してしまう。善玉と悪玉に分けて考えてしまう。日本は自然法に従っていけば済まされる世界である。この善玉、悪玉で捉える日本人の性向は、この本が書かれてから三十年以上経っても何ら変わっていない。新聞を見てみれば一目瞭然である。
2011年7月26日に日本でレビュー済み
本書の1章に、吉田松陰が獄中で妹に送ったとされる手紙の一文が出てくる。
妹は松蔭を心配し、「法華経を読んで心を落ち着けてください」という。
それに対し松蔭は「私は、そのような宗教は必要としないが、
お前たちが経を読むことは否定しない。それで安心が得られる
のならばそれはいいことだ。」という返事を返したと言うのだ。
この松蔭の言葉は、今の日本でもごく一般的に見られる
宗教に対する心理的態度ではないだろうか。更には、
「人間ならばこういう考えは普通だろう」とも思ってしまうかもしれない。
しかし、この考え方それ自体も何らかの伝統の産物であり、
結局はある地域にある一つの考え方に過ぎないのだという。
こういう考え方は、普段は「自然」とか「常識」と言う言葉で
済ませてしまい、まず言葉で説明することは無い。というか出来ない。
一方で、同じ集団の中では「自然」とか「常識」で済ませられることも、
いちいち言葉にして違いを解説しなければならない世界もあった。
欧州から中東にかけての地域である。ここでは多くの民族、国家が常に
入り乱れており、相互の誤解や不信が、下手をするとどちらか死ぬまで
争うという結果を招きかねない状況であった。そのため、彼らには、
仲間うちでのみ通じる「自然」「常識」を、相手の尺度でも理解できるよう
説明する必要があったのだ。
本書では、こうした日本と欧州中東との事情の違いを、筆者の身の回りの
出来事や歴史的事件などを踏まえてわかりやすく解説している。
同著者の 「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3)) とは、「臨在感」に関する説明など
大いに内容の重なる部分があるので、併読するとより理解が深まると思う。
妹は松蔭を心配し、「法華経を読んで心を落ち着けてください」という。
それに対し松蔭は「私は、そのような宗教は必要としないが、
お前たちが経を読むことは否定しない。それで安心が得られる
のならばそれはいいことだ。」という返事を返したと言うのだ。
この松蔭の言葉は、今の日本でもごく一般的に見られる
宗教に対する心理的態度ではないだろうか。更には、
「人間ならばこういう考えは普通だろう」とも思ってしまうかもしれない。
しかし、この考え方それ自体も何らかの伝統の産物であり、
結局はある地域にある一つの考え方に過ぎないのだという。
こういう考え方は、普段は「自然」とか「常識」と言う言葉で
済ませてしまい、まず言葉で説明することは無い。というか出来ない。
一方で、同じ集団の中では「自然」とか「常識」で済ませられることも、
いちいち言葉にして違いを解説しなければならない世界もあった。
欧州から中東にかけての地域である。ここでは多くの民族、国家が常に
入り乱れており、相互の誤解や不信が、下手をするとどちらか死ぬまで
争うという結果を招きかねない状況であった。そのため、彼らには、
仲間うちでのみ通じる「自然」「常識」を、相手の尺度でも理解できるよう
説明する必要があったのだ。
本書では、こうした日本と欧州中東との事情の違いを、筆者の身の回りの
出来事や歴史的事件などを踏まえてわかりやすく解説している。
同著者の 「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3)) とは、「臨在感」に関する説明など
大いに内容の重なる部分があるので、併読するとより理解が深まると思う。
2005年2月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本人は自分たちの伝統や考えを再把握し、相手の理解できる言葉で説明することができない。これは、日本人の物事の捉え方が独りよがりであったり、情緒的な善玉悪玉の決め付けなったりする性向に出ていると、著者は言う。「裸で付き合えば分かり合える」というのは日本人同士でしか通用しない、という強力なメッセージだ。
30年前に書かれた本であるが、スポーツ紙や夕刊紙の見出しを見ていると日本人はあまり変わっていないと感じる。例えば目立ちすぎるインターネットの寵児は、感情的にダメなら、悪玉に分類して排除しないと日本人は不安らしい。ディベートのような対立概念による多面的な捉え方は出てこない。著者はこのような自分達の思考の把握力の無さが、先の大戦の敗戦原因の一つと考えておられるようだが、今の日本を見てどう思われるだろう。
最近は憲法改正論議が喧しいが、これなどは日本人が「この著書の視点において」進化しているかどうか判断する一つの試金石だろう。この国のあり方を国民的レベルで煮詰め、国外に向けて説明してゆく能力が無ければ、憲法改正はできない。
終戦当時マッカーサーは「日本人は12歳」だといった。著者は戦後30年たって書いたこの本で日本人のナイーブさに再度警鐘を鳴らした。更に30年経った現在において、「日本人は14歳」くらいにはなっていることを世界に示すべきだ。
30年前に書かれた本であるが、スポーツ紙や夕刊紙の見出しを見ていると日本人はあまり変わっていないと感じる。例えば目立ちすぎるインターネットの寵児は、感情的にダメなら、悪玉に分類して排除しないと日本人は不安らしい。ディベートのような対立概念による多面的な捉え方は出てこない。著者はこのような自分達の思考の把握力の無さが、先の大戦の敗戦原因の一つと考えておられるようだが、今の日本を見てどう思われるだろう。
最近は憲法改正論議が喧しいが、これなどは日本人が「この著書の視点において」進化しているかどうか判断する一つの試金石だろう。この国のあり方を国民的レベルで煮詰め、国外に向けて説明してゆく能力が無ければ、憲法改正はできない。
終戦当時マッカーサーは「日本人は12歳」だといった。著者は戦後30年たって書いたこの本で日本人のナイーブさに再度警鐘を鳴らした。更に30年経った現在において、「日本人は14歳」くらいにはなっていることを世界に示すべきだ。
2012年12月27日に日本でレビュー済み
当たり前がなぜ当たり前なのかを問う重要性をより理解できた。
76年出版だが内容は全く古くない。98ページで口述で書かれているのですごく読みやすい。
戦前の日本のアジアでの振る舞いにみられる対話なしの“よかれと思ってやっていた”おしつけ、勝手な同情、ひとりよがり、独善的に機能していたことを指摘している。
自分の考え方を、ある時代のある文化圏のある考え方と客観的に把握することができていない。
なぜ自分がそう考えるかという意識が皆無で「別に理由はないですよ、そう考えるから、言っただけです」という回答は、自分の考え方のルーツに無関心で文化が入り乱れることもなく自己主張の必要がなかったからだという。
本書を読むと、日本人が外国からなにを考えているかわからないといわれる理由が理解できる。
わかり合うことが不可能なら、認め合うことが必要でる。
しかし、当たり前を言葉にできなければ、互いに考え方を主張・披露し、違いを認め合うことができない。 日本人は同情はできるが共感はできない・・・ うなる内容。
76年出版だが内容は全く古くない。98ページで口述で書かれているのですごく読みやすい。
戦前の日本のアジアでの振る舞いにみられる対話なしの“よかれと思ってやっていた”おしつけ、勝手な同情、ひとりよがり、独善的に機能していたことを指摘している。
自分の考え方を、ある時代のある文化圏のある考え方と客観的に把握することができていない。
なぜ自分がそう考えるかという意識が皆無で「別に理由はないですよ、そう考えるから、言っただけです」という回答は、自分の考え方のルーツに無関心で文化が入り乱れることもなく自己主張の必要がなかったからだという。
本書を読むと、日本人が外国からなにを考えているかわからないといわれる理由が理解できる。
わかり合うことが不可能なら、認め合うことが必要でる。
しかし、当たり前を言葉にできなければ、互いに考え方を主張・披露し、違いを認め合うことができない。 日本人は同情はできるが共感はできない・・・ うなる内容。