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在りし日の歌: 中原中也詩集 (角川文庫クラシックス な 4-3) 文庫 – 1997/6/1

4.4 5つ星のうち4.4 8個の評価

旺盛な活動を続ける中での愛児との突然の別れ。「亡き児文也の霊に捧ぐ」という言葉とともに中原が最後に編集した詩集『在りし日の歌』全編と、同時期の代表作を精選。詩人最晩年の活動のすべてを示す。
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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ KADOKAWA (1997/6/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1997/6/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 252ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4041171032
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041171035
  • カスタマーレビュー:
    4.4 5つ星のうち4.4 8個の評価

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中原 中也
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上位レビュー、対象国: 日本

2016年7月23日に日本でレビュー済み
在りし日とは    『在りし日の歌』58篇は,中也の死後刊行された詩集であり,「在りし日の歌」42篇と「永訣の秋」16篇の二部から成立している。<在りし日>とは,<過ぎし日>であり,<幼なかりし日>である。従って,在りし日の歌とは,①自己の過ぎし日(過去)を歌うことであり,②自己の生前(生の残滓)を歌うことであり,③また自己の幼なかりし日(幼年時)に溯行して歌うことである,と言えよう。在りし日が,何故に中也の心を羞じらわせるのか。<わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……>(「含羞(はぢらひ)──在りし日の歌──」)と中也は歌うが,その理由を何も語ってはいない。<在りし日>は,<死児等の亡霊>にみちた空の日であり,<姉らしき色>の女性と出会った日であるだろう。その在りし日の記憶が,何故か中也の心を羞じらわせるのだ。過ぎし日の歌は追憶となり,生前の歌は狂気となり,幼なかりし日の歌は幻想となって開花する。

虚構の幼年時    「三歳の記憶」は虚構の幼年時である。三歳の幼児が縁側にあたる陽を記憶しているかどうかは,甚だ疑問であるだろう。それはさておき,ひとまず譲歩したところで疑問が消えるわけではない。というのは,次に<樹脂(きやに)が五彩に眠る時、>という説明が続くからである。もっとも,不当である,などと文句を言うのは,筋違いということになろう。何故なら,「三歳の記憶」は,中也が現実の幼年時を追憶したものではなく,虚構の幼年時を追憶したものなのだから。従って,三歳の幼児が縁側の陽を記憶しているかどうかを問題とすべきではなく,むしろ「三歳の記憶」として書かれた真実を読み取るべきである。すなわち,追憶の主眼は第三連と第四連にある,と考えなければならない。<ひと泣き泣いて やったんだ。>は中也の自意識であり,<隣家(となり)は空に 舞い去つてゐた!>は中也の喪失感である。幼年時において既に中也は自意識と喪失感を抱いていた,と言えるのではあるまいか。

幻想の雨の日    「六月の雨」は幻想の雨の日である。雨が喚起するのは,<眼(まなこ)うるめる 面長き女(ひと)>であろうか。あるいは,その女への哀惜であろうか。<たちあらはれて 消えてゆく>のは女の幻影である,と同時に女との過去自体である。雨が女との過去を呼びさまし,憧憬と悔恨が中也の心に哀しく戻ってくる。だが,やがて雨は女も過去も自責の念も優しく洗い流す。<お太鼓叩いて 笛吹いて>遊ぶのは,現実の<あどけない子>であろうか。いや,そうではあるまい。<あどけない子>は,中也の存在を示す比喩であるだろう。すなわち,中也自身が<お太鼓叩いて 笛吹いて 遊んでゐれば 雨が降る>存在なのだ。つまり,<櫺子(れんじ)の外に>降る雨,そして<またひとしきり>降る雨は,中也の幻想である,と言えるのではなかろうか。中也の幻想が雨の日であり,六月の雨である。従って,「六月の雨」は,雨の日の幻想と解するのではなく,幻想の雨の日と解すべきである。

狂った正気    「秋日狂乱」は狂った正気である。中也はもはや若く年取っている。諦念のあとで平静や覚醒が湧出し,中也は衰弱と放心を持って青空を仰ぐ。が,それは,<今日はほんとに好いお天気で>と言わざるをえない空,つまり,そう道化なければ涙にうるむ空であり,先刻,子供等の昇天した空である。明るい廃墟や淡い物影は,生の終末の意識であり,死の揺籃の予感であるだろう。中也は<あゝ、誰か来て僕を助けて呉れ>と絶叫するけれども,その声は天まであがらない。何故なら,肉体は生の領域に静止しているが,精神は死の領域を深部に向かって飛行しているからである。その結果,中也には<田舎のお嬢さんは何処に去(い)つたか>,<昇天の幻想だにもはやないのか>すら分らず,ジッと見ていた蝶々も<どつちへとんでいつたか>分らなくなってしまう。蝶々(自己の魂)の行く方の失墜が,肉体において精神錯乱を生じさせ,いわゆる狂気ではない狂気,すなわち狂った正気の秋日を現出させたのだ。

月光狂想    「お道化うた」は月光狂想である。もちろん,主題が死であるのは言うまでもない。が,深刻なものであるにもかかわらず,何故か微苦笑を禁じえない。というのは,文字通り中也が道化ているためである。たとえば,<汗の出さうなその額、/安物くさいその眼鏡、/丸い背中もいぢらしく>とあれば,ゆるんだ頬をどうして元に戻すことができようか。また,それと同時に,一個の冷淡な眼差しを感じることも事実である。それを突き放した視線,あるいは生命感のない光,と言い換えてもよい。<ベトちゃんもシュバちゃんも、はやとほに死に、/はやとほに死んだことさへ、/誰知らうことわりもない……>という終連に中也の全身全霊が込められている。<はやとほに>が中也の発見であり,他者の気付かぬことである。しかし,月だけは生命(いのち)あるものの喜怒哀楽と死をずっと見続けてきた。降り注ぐ月の光は,生命(いのち)あるものを狂気に誘う他界の光に他ならない。中也は月の光を浴び,狂想を抱き,死に憑かれて死出の旅に出ようとしている。

永訣の辞    かくして中也は,ゆきてかへらぬ時を追惜し,子供と自己の死を哀惜し,「永訣の秋」という永訣の辞を述べる。ゆきてかへらぬ時とは,帰り来ぬ青春(とき)であり,過ぎ去りし青春(とき)である。しかも,それは,悔恨や諦念を生じさせる京都(とき)“場所”でもあるだろう。「ゆきてかへらぬ」は他界の揺籃である。豊饒な言葉が,かえって索漠とした世界を映し出す。<陽は温暖に降り酒ぎ、風は花々揺って>いるが,<埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つて>いる。そして,<棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であつた>,と言う。中也は,無人で音も声も聞こえないサイレント映画のような世界に住んでいるのだ。<その空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いて>いるのだから,どうやら地下の世界の住人になっているらしい。なんとなく,芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を想起した。

地下の幻想    「一つのメルヘン」は地下の幻想である。一つの蝶の無言劇が,死の静謐と価値の倒錯を以って始まる。すなわち,秋の<夜>であるのに,<陽>は<さらさらと射してゐる>のであり,無音の<陽>であるのに,それは<さらさらと/かすかな音を立ててもゐる>のだ。<さらさら>というオノマトペは,文部省唱歌の「春の小川」を念頭に置いて使用したのかも知れぬ。「春の小川」は地上の風景であるが,「一つのメルヘン」はそうではない。それは,地下の幻想であり,一つの蝶(自己の魂)の地下における自己存在証明(アイデンティティ)である。それ故に,蝶の影は<淡い>,しかし<くつきり>としていたのではなかろうか。けれども,<その蝶がみえなくなると>,いつのまにか地下の幻想は消失してしまう。ただ,その残像として<さらさら>というオノマトペのみが,水の流れとなって何事もなかったの如く,時を刻み続けているだけだ。だから,これは「一つの歌」ではなく,「一つのメルヘン」とした所以であるだろう。

永劫回帰    「春日狂想」は永劫回帰である。中也は現世に立ち返り,改めて自分はいかに生き・何をなすべきか,ということを考える。しかし,これは,死を回避すること,すなわち生き存らえることを前提としたものであって,究極には死が意識されている,と言ってよい。つまり,<愛するものが死んだ時には、自殺>しか方法がないわけだが,<業(?)が深くて、なほもながらふことともなったら、>という自己規定に続いて,いかに生くべきかが述べられているのだ。中也は,<奉仕の気持>を発見し,<本なら熟読>,<人には丁寧>と自他を睥睨する。その結果,中也は<知人に遇へば、につこり致し>,<鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて>,誰彼の別なく明るく愛嬌を振りまいていく。だが,その心は孤独であり,空虚であり,愛感である。生き存らえたところで,その人生は恨(はん)の永劫回帰以外ないのである。従って,中也は<つまり、我等に欠けてるものは、/実直なんぞと、心得まして。>と心得る。

行雲流水    「蛙声」は行雲流水である。中也は自己と人生と現世から永訣を告げたために,もはや本当の蛙声が聞こえない。それは,蛙鳴蝉噪としてしか聞こえず,<あれは、何を鳴いているのであらう?>と思われるだけである。そして,<その声は、空より来り、空へと去るのであらう?>と思いを空に馳せる。つまり,中也は,現実の存在の孤独を解決するために,上昇と消失を同一化した蛙声に,自己とその魂の運命をも見出していく。だが,疲労した心は,行雲流水の生き方を取り,美しい蛙声が聞こえない。というより,美しい蛙声を聞こうとしない。それ故に,<頭は重く、肩は凝る>のである。<さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、/その声は水面に走って暗雲に迫る。>,と感じた中也の心は,いかなる状態であったのか。とうてい端倪すべからざることと思われるが,それは,心の青空を蓋い尽くす曇天の気分で満ちていたのではなかろうか。
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2014年5月7日に日本でレビュー済み
「海にいるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にいるのは、
 あれは、波ばかり
 ・・・・・」
本人を知らず、中也を心から愛することが出来る読者が羨ましいと仲間の詩人に言わしめた中也の代表的詩集。未発表詩編も収録。きらきらと硬質な美しさをたたえた彼の世界があります。
早くに亡くした愛息子、文也への愛情があふれんばかりの詩集でもあります。小林秀雄との交流。長谷川泰子との出会いと別れ。色々な事柄が思い出されます。早世の天才ですが、彼の残した世界はいつまでも輝き続けます。
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2009年3月28日に日本でレビュー済み
 今なお多くの人に愛読される中原 中也(明治40年〜昭和12年)は、山口市湯田温泉生まれの詩人である。中也自身が編纂した詩集には『山羊の歌』『在りし日の歌』、また『ランボオ詩集』を出すなど、フランスの詩の紹介もした。
『在りし日の歌』は失った愛する我が子・文也に捧げた、中原中也が最後に自作をまとめ編集した詩集。
純粋で繊細な作品のリリシズムは「愛情あるいは悔恨そのものが元来精妙であるが如き精妙さに達している」と小林秀雄が評している。数々の珠玉の詩編を残しているが、その詩の一節には、次のようなところもあって懐かしい。   
    一つのメルヘン
  秋の夜は、はるかの彼方に、
  小石ばかりの、河原があって、
  それに陽は、さらさらと
  さらさらと射しているのでありました。

     北の海
  海にいるのは あれは人魚ではないのです。
  海にいるのは あれは 浪ばかり。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2005年2月27日に日本でレビュー済み
二泊三日の韓国旅行をして帰ったその日、一番『日本』を感じたのは、三日ぶりに見る風景でもなければ賑やかしいTVでもなかった。喫茶店で開いた中也の詩集であった。
「森の中では死んだ子が/蛍のようにしゃがんでる」ハングル文字の洪水の中から生還してきて、そういう一見なんでもない口語体の詩句に出逢ったとき「ああ私は日本人だ」と感じた。「日本語として理解するより先に、私には悲しみが見える。」
「とにかく私は苦労して来た。/苦労して来たことであった!」(わが半生)中也独特のリズムが静かに私の心を潤す。
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