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日本の文脈 単行本 – 2012/1/31
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東日本大震災と原発事故の後で、われわれはどのように生きていくべきか? グローバリズムを生き延びるための「日本の文脈」とは?
いま、もっとも注目される二人の論客による、知的興奮とスリリングな展開に満ちた対談集、21世紀を生き抜く実践の書!
- 本の長さ333ページ
- 言語日本語
- 出版社角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日2012/1/31
- ISBN-10404110078X
- ISBN-13978-4041100783
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商品の説明
著者について
登録情報
- 出版社 : 角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/1/31)
- 発売日 : 2012/1/31
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 333ページ
- ISBN-10 : 404110078X
- ISBN-13 : 978-4041100783
- Amazon 売れ筋ランキング: - 371,551位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、多摩美術大学芸術人類学研究所所長。思想家。著書に『チベットのモーツァルト』(サ ントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(伊藤整文学賞)など多数ある(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『カイエ・ソバージュ』(ISBN-10:4062159104)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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そして人は、そこに遅れて参入して決して起源には遡及できない。始めから「贈与」されたものである。
そしてそれは、身体により感じるという方法によってしかわからない。
日本には、能、茶の湯、禅等中世の身体技法が残っている。
「時間のフライング能力(予知)」や「危険に対するアラーム感覚」など筋肉や骨格レベルでの運動能力とは異なる能力(「たま」とか「霊」と古来云った)は、現代では存在しないことになっているがそれは現在の知的な道具や度量衡では考量できないというだけのことである。二人は、人知を超えるものを確信している。
能の「摺り足」についての説明がある。
「五感を働かせて、身体から蜘蛛の糸のようなものをまわりに向けて吐き出して、それをあちこちにつないで、まわりからの入力に対応して、速度も歩幅も方向も決まる。自分単位では、歩けない」。イメージがよく掴める。
我々には、西欧のような主体概念(自我)はない。しかし、身体的潜在力が最も開花するための方法がいろんなところに仕掛けられている。
そして、東洋的な学びが目指しているのは母性原理(有時間モデル)で西洋は、男性原理(無時間モデル)である。そこには、「成熟」と「正解」の違いがありそして、東洋的学びには終りがない。
「ユダヤ的知性」についての腑に落ちる説明がある。
「ユダヤ人は、知的なパラダイムの変換以外を知的営為とは認めないがそういうものが学問の王道となっている。そしてそれが評価されるための組織や表彰のシステムを延々とつくり上げてきた」。
もう一つ、感動的な洞察を。西田幾多郎は、日本の「つくり」を引き出して論理を創った。
最後に、仏教は古い人類の知恵を修行体系にうまく組み込んでいる。
「般若心経」の「色即是空・空即是色」という考えも仏教の発明ではない。もの凄く古い伝統の中で伝わっていたものを洗練して取り入れている。
使い回しでない、創造的見解が多数語られている。
おもに贈与論を軸にして農業から教育、宗教、経済の問題、さらには日本人とユダヤ人との比較文化論まで縦横にふみこんで、柔軟な思考と豊富な知見に基づく刺激的な論考をもとに大変わかりやすく解析した教養本ともいえる。なるほど出版とほぼ同時に早々と重版決定となったのも肯けるというもの。
『チベットのモーツアルト』の著者・中沢新一氏はチベット仏教の実践的研究家であり、一方の内田樹氏は思想家・レヴィナスを翻訳した『困難な自由 ユダヤ教についての試論』の著者で合気道7段の腕前を持つ武道家でもある。つまり、二人は机上の思索のみならず、「くくのち(樹の精霊)学舎」や「凱風館」といったフィールドをもっていて、実践活動の中で検証と思索を繰り返す方法論的な共通項もある。また、共に構造主義の影響を受けながらもそれを超克すべく、一般的で分かりやすい言葉で考察する“男のおばさん”的振舞いを自負しているところも共通していておもしろい。
第4章「戦争するか結婚するか」という対立する局面では、多くの先人たちの行動は戦争を回避するための結婚を選択したことに注目。あるいは、自然との共生を育んできた里山文化や歴史をふまえてみれば、これまで否定的に捉えられていた「日本的なもの」こそ「王道」ではないかと思われる。このように現実肯定的な「国褒め」の記述にあるように当初は『日本の王道』として編集されようとしていたものが、3.11の大震災で必然的に文脈が変わったのだという。
確かに、震災を契機として日本を取り巻く環境は大きく変化した。経済の成り立ちに影響を及ぼす「贈与」の原理にもとづく人間関係を生み出す力が生まれようとしているのかもしれない。
最終章では、霊性をもつ神話で構成された世界として現在をとらえ、その復活と同時にこの国の方向性を示唆している点に注目したい。
中沢「(前略)いま必要なのは新しい幕藩制の創出でしょう」
内田「ほんとうにそうです。『廃県置藩』は僕の持論なんです。(後略)」
中沢「市町村合併が理不尽だと思うのは、人間が生きてきた土地には歴史があるのに、地名を消すことで、地名とともにその土地に刻まれた歴史的財産が失われてしまう」
内田「(前略)言語、食文化、宗教儀礼、風習、そういうものを共有している空間がいちばん居心地がいいに決まってる。サイズに大小があっても、文化的な一体感を持つ共同体を基礎にして自治体をつくっていけばいいじゃないですか」
という件りがある。同じような話を前にも読んだ記憶があるが、やはり内田だったかもしれない。
ただ私の乏しい歴史知識から考えて、藩という単位は必ずしも自然共同体を基盤としていないので、上の引用の最後の部分の内田の提言に対し、「廃県置藩」というキャッチフレーズはやや違和感がある。「一体感を持つ共同体」は、今風に言えば「創られた」もので、「創られた」ものも数百年を経れば自然と化す、ということか。ま、中沢は抜け目なく「新しい幕藩制」とは言っているが……
中沢のアースダイバー話も、こちらはもう少し時間幅を大きくとって縄文海進を起点に考えるわけだけど、「古層」みたいなものを持ち出してきて現状を批判していくアプローチは同じ。
これがさらにスケールアップすると、中沢「現生人類が出現したとき、心の根源のところに贈与というものがセットされてあった」(p48)とか、同じく中沢「資本主義というのは、人間の脳の中に本質的なかたちでセットされていて、その脳の働きは何かというと『増殖』です」とか、内田「ここに来る途中、『心の先史時代』という本を読んでたんです。ネアンデルタール人から現生人類に変わるときに脳の構造がどう変わったかという話なんですけど、脳の容量自体はあまり変わってないんだそうです。使い方が変わった」(p249)とかいう話になる。
こういう「古層」は、人間的主体の内省的意識に対しては「身体」として現れるわけで、こちらは中沢のヨーガとか内田の武道、あるいは「霊性」に繋がっていく。内田も仲良しらしい養老孟司なんかも脳vs身体みたいな対立構図で考えていて、脳にはしばしば間抜けな悪役が振られる。
要するに二人は同型の立論法をあちこちで使っていて、まさに関係性に着目する構造論的思考方法と言えるのだが、そこで召喚される項が本当に同じ意味で「古層」なのかどうかには、かなり疑わしいものがある。実際、藩と身体と縄文時代の地形と霊性は、二人の構造論の中で割り当てられる位置こそ同じだとしても、それ自体として共通性を持っているとは言い難い。これは構造論と言うより、喩的思考法、つまり構造論が対象とした神話的思考法に近いのではないか。
さらに、たとえ二人の論法を受け入れたとして、だから諸々の「古層」に依拠することが正しいという結論は、直ちには導かれない。幕藩体制が永年の間に「一体感のある共同性」を醸成してきたように、現在の行政的区画が将来的に「一体感のある共同性」に転化していく可能性はあるわけで、大名領国や藩ばかりが人間の身体性や縄文的想像力や現生人類の行動特性に対する洞察力を備えていたと主張するのは、かなり強引だと思う。あるいは、藩や身体性や縄文的想像力や現生人類の進化論的諸条件を否定し乗り越えていくのが、数万年単位の進化の姿でないと、誰が言い切れるのか?
ただ、喩的に展開する「古層」への回帰思想(に近いもの)が、読む者に物語を読むような快感を与えてくれることは否定できない。その読み味は、そういえば井戸や地下鉄の緊急通路といった地下への通路に執着のあるらしい村上春樹の神話的物語にも通じている、かもしれない。
基本的に、内容は日本の「国ほめ」が中心になるのだが、「3-11」後になされた対談では、コインの裏側にある日本の弱点についても語られることになる。わたしにとってもっとも関心が高いのは、第三章のユダヤ人との比較だ。同じ「辺境の民」という構造的共通性をもつユダヤ人との比較で浮かび上がってくるのは日本的思考の特性である。ユダヤ的一神教に基づく思考のあり方には二人とも憧憬の思いは隠さないが、二人がともに尊敬する人類学者レヴィ=ストロースもまた、ユダヤ的思考を体現したユダヤ系フランス人である。
「辺境ユダヤ」と「辺境日本」。中身はまったく異なりながらも、世界に置かれている状況がきわめて似ている二つの民族。日本にあってユダヤに欠けているものはこの対談で明確になる。それは、農業へのコミットメントだ。読んでいて、「日本文明の世界への貢献といえば、北米と南米における日本人移民による農業技術移転にある」と南米移民を前にして語った梅棹忠夫の話を思い出した。本書で語られるさまざまなテーマは、日本人にとっての農業の意味について多く語られているのだ。
本書に収録された対談や鼎談を最後まで読んでいくと、結局は「辺境日本」に生きるわたしたちは、みずからの強みを自覚し、徹底的にみずからを掘り起こす作業をするしかないのかもしれないという気持ちにさせられる。いろいろ好き嫌いの分かれる著者たちではあるが、近代資本主義が行き詰まりを見せている現在、こういう視点でものを考えることも何かのヒントになるのではないかと思う。一読をすすめたい。
さて原発問題のみならず、原理主義にとらわれて思考停止しているケースが多いのが現状ですが、それでは何もはじまりません。ある意味技術的で、柔軟な考え方、価値観が必要なのでしょう。お二人の議論を読んでいると、病気がいいとか悪いとか、なったお前が悪いとか、とやかく言わないで、全力をあげていまある病気を治そうとつとめる、という医療に通じたものを感じます。