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「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書) 新書 – 2020/4/18
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- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2020/4/18
- ISBN-104004318327
- ISBN-13978-4004318323
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2020/4/18)
- 発売日 : 2020/4/18
- 言語 : 日本語
- 新書 : 304ページ
- ISBN-10 : 4004318327
- ISBN-13 : 978-4004318323
- Amazon 売れ筋ランキング: - 114,360位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について

1969年熊本市生まれ.京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了.博士(人間・環境学).出版社勤務,香川大学経済学部准教授などを経て,現在,立命館大学産業社会学部教授.専門は歴史社会学・メディア史.著書に『「反戦」のメディア史――戦後日本における世論と輿論の拮抗』(世界思想社,2006年,内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞),『「戦争体験」の戦後史――世代・教養・イデオロギー』(中公新書,2009年),『焦土の記憶――沖縄・広島・長崎に映る戦後』(新曜社, 2011年), 『「戦跡」の戦後史――せめぎあう遺構とモニュメント』(岩波現代全書,2015年),『「働く青年」と教養の戦後史――「人生雑誌」と読者のゆくえ』(筑摩選書,2017年,サントリー学芸賞受賞),『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書,2020年),『戦後日本、記憶の力学――「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社,2020年), 『司馬遼太郎の時代――歴史と大衆教養主義』(中公新書、2022年)など.
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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まとめは、他のレビュアーの方にパスします。
実際に当時の青年らの心境が伝わってきました。それらを取り巻いていた環境や問題点、メカニズムなどを細かく著されている。
ただ、果たして教養自体(媒体としてではなく)は青年らをどう変化させたのか?
については、詳しい記述は見当たりませんでした。
もしかしたら、「人文知に対する軽視および孤立はこの先も進むだろう」という著者の記述がその答えなのかもしれません。(察してください)
普通に面白かったです。
本書は、終戦~1960年代半ばまでの全日制高校への進学を、主に経済的理由で断念せざるを得なかった人達が沢山いた時代の話だ。進学が叶わなくても、農村部では青年団や青年学級で勉強を続ける。都会へ働きに出た人達は、日々の仕事を終えた後に定時制高校へ通う。このような学校に通わずに、『人生手帖』や『葦』と言うような人生雑誌の人文科学系の解説記事と古今東西の名著を読んで大学に負けない一般教養を身につける。以上のような3パターンがあったとしている。
著者は、この3パターンについて、各当事者の残した手記や、新聞・雑誌記事、聞き取り、自治体の記録などの多様な資料を丁寧に辿ることによってその姿を明らかにして行く。大変な労作である。
この中で公的な資格として認められるのは、定時制高校の卒業証書だけだ。だが多くの企業は、定時制高校の卒業生を高卒採用の有資格者とは認めなかった。10代後半の若者が、仕事を終えた後、毎日夜学に通う苦労を厭わない。なぜなのか。更に青年団や青年学級、人生雑誌購読者の独学など、実利は全くない。その背景を著者は丹念に解明して行く。本書の帯にある「誰もが教養に憧れた時代」もその一つではあるとしても、そこに止まらない、かなり複雑なものがあることを著者は明らかにしている。
まる一日働いた後に更に勉強すると言うのは大変な事である。だが、勉強を続けようと言う意志が、働く支えになっていた人たちが居て、そこを成し遂げた誇りがその後の一生の支えになった人たちが居るのではと、本書を読み終えて感じた次第だ。
「教養」という言葉にはやや鼻持ちならない響きが含まれている。そう感じるのは私に「教養」がないからなのかもしれないが、どうにも「教養」という言葉にはそれが使われる文脈上、組織的な目的達成の為の手段という寓意があるような気がしてならない。人格陶冶もまた同様である。この本にしても青年団から始まり、定時制高校、人生雑誌といった組織的な流れが語られており、著者が言うような「実利を超越した勉学」「実利を超えた教養」といった高尚なものがその中で求められた歴史というのは実在しないのではなかろうか。社会心理学的に捉え直せば組織に所属するという考えが既に実利的である。
終戦直後の教養への憧れの一例として挙げられている『西田幾多郎全集』を買い求めるために人々が徹夜して長蛇の列をなしたという話は写真付きで紹介されているが、当時の状況を分析した結果、多くが転売目的で列をなした可能性が指摘されており、恐らくその通りであるように思われる(偽史言説としての『西田幾多郎全集』(1947年)購入徹夜行列)。このことは他の記述についてもチェリーピッキングされた可能性を示唆している。
著者は教養史を通して「格差と教育」の議論に一石を投じるのが目的であったようだ。
「何をなぜ学ばなければならないのか」という点については、意外に議論されることが少ない。「人文社会系の知はなぜ必要なのか」「格差社会のなかで教養にどう向き合うのか」といった素朴だが根源的な問いは、今日ではほとんど思いこされることはない。裏を返せば、「格差と教育」を論じることが、結果的に社会における「教養」の存在理由を不問に付すことにつながっている。
かつての勤労青年達は本書の記述によれば、高校に進学できない代わりに一部の人間が「教養」を求めお茶を濁したのであり、高校進学率が100%に近い現代においてかつて求められた「教養」と同質のものが求められる理由はなく、やはり懐古主義的な教養史観だと言える。
それにしても著者はなぜかつて存在した教養を求める人々の系譜が現代において消失したと思っているのだろうか。今現在でもそういう教養を培うことを目的とした組織はある。求める人々は当然存在している。たとえばシラスなんかがいい例だし、質はともかくとして、SNS上にもかつての人生雑誌で見られた「想像の読者共同体」が多数存在している。それらはただ形態が変わったり、サブカルチャー化したり、把握し辛くなっただけであるように思えるのだが、その辺りについてノータッチな事には不満が残るし、結局何をもって教養としているのかが不明なままである。
評価が高い本だったので期待して読んだが、さすがに消化不良と言わざるを得ない。ただ、そういう歴史的な潮流があったのは確かであり、ぎりぎり当時の世代が生存している段階でそれを掘り起こしたという点では評価できる記念碑的な本。
しかし一方で、何かもやもや感が残ります。それは、、
1)著者はプロローグで、「戦後日本における勤労青年の教養文化の盛衰プロセスとその社会的な力学について、検討していく」というのですが、彼らが求めたその「教養」、というのがどうもあいまいに思えます。中学卒勤労青年が減って全日制高校への進学者が増加するにつれて、「教養」を求める動きは衰退したというのですが、、、。では高校へ進学した青年たちは、その3年間で「教養」を身につけられたというのか。
2)中学卒勤労青年たちは、どうやっても「学歴」の獲得は難しい。せめて身につけられるのは「教養」という曖昧な幻想であったのではないか。進学出来なかったことへの代償として、「教養」を求めたのではなかったか。
3)「教養」を求めたのは中学卒勤労青年ばかりではなく、そもそも大学進学者が数パーセントであった時代のエリートたちの間で求められていた。しかし、1960年代になり、大学進学者が多くなるにつれ、大学生だからといって決してエリートというわけではないという状況になったとき、大学生の中での教養を求める動きも減少した、という。
「教養」というものの概念が曖昧です。大正時代の学歴エリートたちは、阿部次郎の「三太郎の日記」などを読むことが教養を高めることと思い込んでいたのかもしれないし、戦後まもなくの時代の中学卒勤労青年たちの求める「教養」とは、学歴では全日制高校進学者たちには負けるが、人間としてそれ以上の価値があるであろう何かを求めたのではなかったか。
「教養」の習得は、青年の一時代に限って求められるものではない。生涯、棺桶に入るまで求めなければならないものでしょう。先述の通り、その定義が曖昧ですが、、、 また、「人格の陶冶」という。 人格とは何か。考え出したら眠れなくなります。「金銭に拘泥しない」人格者という定義もあるが、「艱難辛苦、努力の結果財産を築いた」というのも人格者かもしれません。価値観によりますね。
当書のテーマである、戦後の勤労青年についての論述を読みながら、私の意識は、教養とは、人格陶冶とは、という方向へ行ってしまいました。昨今、「教養」も「人格陶冶」も、さっぱり聞きません。こんなレビューを書いている私は、絶滅危惧種かもしれません。