■藝大時代を書いた岩城宏之『森のうた』の読後、その後の経験談を含む2017年第20刷(1983年初刷)の本書を読んだ。『森のうた』と重なる時期の話もある。本書は、楽譜を巡る、著者の考え・経験を含むマジメな話・オカシイ話を含む。次の4部から成る。
■1。作曲家の自筆楽譜の乱筆のために間違って出版された楽譜が流通する問題。精度の高い写譜の重要性。次のエピソードを含む:
⚫︎有名な思想家ジャン=ジャック・ルソー(「むすんでひらいて」の作曲者)が写譜に取組んでいたこと。手書き楽譜の理想とも言われる。
⚫︎N響の指揮研究員時代、太鼓叩きのアルバイトもしていた。ある日曜日、教会の聖歌隊の伴奏のとき指揮をしていた人が、あとで、「浄書 カガワ楽譜」という名刺をくれる。それが賀川豊彦の子息の賀川純基で、音楽を理解した上で正確で読み易い楽譜を制作する日本最高の写譜家だったと後で分る。
■2。記譜法の色々、譜面上のイタリア語の意味、テンポの問題など。次のような種々の問題を含む悩みや経験談が書かれている:
⚫︎ Allegro, Andante やもっと面倒な指示がイタリア語で譜面に書かれるが、コレらの本当の意味は何か、作曲者・指揮者・演奏者の誰もが共通の解釈をしているとは思えないなど、根本的な疑問。
⚫︎メトロノームのテンポ指定は一見正確なようだが、古い作曲家の使ったメトロノームが狂っていることもある。
⚫︎ウィーンフィルの楽員によれば、天候・ホール・客の年齢層などによってテンポを変えるのだとのこと。
■3。暗譜のこと。他の指揮者のことは判らないがと、岩城自身の暗譜法を紹介、今思い出しても身体が震える失敗談もある。
⚫︎暗譜の先駆けと言われるトスカニーニがヒドイ近眼で、譜面台を見ながら指揮をするのが不可能だったのだという。コレがアメリカの聴衆に喜ばれた結果、指揮者の受難が始まったという。
⚫︎楽譜を置いてマーラーの1番を指揮したところ若手の批評家にコテンパンに書かれた、それからはなるべく暗譜でやることにした。
⚫︎岩城自身の暗譜法は、楽譜の各頁を頁ごと目の中にフォトコピーするのだと言う。ストラビンスキー「春の祭典」の場合、最初は3ヶ月かかった。1頁を3分ほど見つめる。全頁これを続け、最初から繰返す。それを3ヶ月。次回は3週間で出来た、次は1週間というように縮まった。
【蛇足:歴史の試験前に、ノートやカードを作ったりの苦戦。先生が、教科書の各頁をにらんで丸々写真のように覚えるんだ、と言う。そんなこと出来る訳ナイと、努力せず。本書の暗譜法は正に同じやり方。何十年もの手遅れ。】
⚫︎「春の祭典」での失敗談:
・メルボルン交響楽団主席指揮者のとき。西オーストラリア州の首都パースでの「春の祭典」演奏会。最低106人の演奏者を要するがメル響メンバーは94人。メルボルンでは別オーケストラの応援を得て何十回も演奏していた。
・今回はジェット機4時間の遠方。現地の中型オケから12人のエキストラを借りたが、彼らにこの曲は初体験だった。
・本番は意外に上手く進行、ミスはあったが客に判るほどでない。このオケでここまで来た、残るは最も複雑で激しい「いけにえの踊り」だが、暗譜のスコアであと6頁、ラストスパートだ、と夢中にトランペットにフォルティシモのサインを出す。トランペットから返事はなく、音楽は予想外の進行。次の瞬間、自分のフリ間違いに気付き、元に戻そうと努力したが、数秒間で諦めて両手で演奏停止の合図。
・永久とも感ずる静寂。客の方に振向いて「私のミスで止ってしまいました。途中からやり直します」と言い、コンマスの所に震えながら歩み寄り、だいぶ前からやり直すこととし、オケに何番からと指示した。その途端、聴衆から拍手が起こり、オケメンバーからも拍手。
・演奏再開、だが先程の場所で同じ状態が再現。トランペットは鳴らず、指揮棒は空回りしたが、夢中でオケに合せて終了。拍手鳴り止まず。
・楽屋に帰ってスコアで確認すると2小節分が頭の中から消えていたと分る。オケから誘いが来て数十人が待っている部屋に行く。彼らが口々に喋ったこと:普通はオケのせいにしてあのまま最後までやってしまう、止めなくても何とかなった、それを自分のミスだとハッキリお客に伝えた・・・。2回目も同じになると分っていた、だからあそこは指揮棒を見ないようにした。
・原因:復習の度に同じスコアをめくり返すのでボロボロになっていて、問題の頁の前頁をめくると2枚先が出て来て、それが目に入ってしまい、次に元に戻した頁が目に映るということを毎回繰返していた。それで頭の中のコピーが混乱したらしい、とのこと。
【覚えたスコアは既に絶版。新版は頁分けが違っていて元のフォトコピーの復習にはならない。だからボロボロのスコアを持ち歩いていた。】
【指揮活動の現役時代に、痛恨の失敗談を自ら公表する著者、感心するほかナイ。】
■4。楽員の用いるパート譜、指揮者の用いる総譜。ここはオカシイ話が多い。
・指揮者はオケ全体の楽譜を記す総譜を用いるが、楽員や独奏者はその受持ち範囲を記すパート譜を用いる。
・パート譜をパートと略すことがある。
・メルボルン響で新作のピアノ協奏曲を演奏するとき、ピアノ独奏者が自作のパート譜を持って来たのだが、練習中、指揮者の譜面と合わないことことが何度も起こり、堪忍袋の緒が切れて、
I don’t know how about your part !
と怒鳴った。途端にオケ全員がワァーと歓声を上げて笑った。休憩の時、楽員の言うには、素晴らしいシャレだったがあなたは分っていないのでは? 問題はpartにあった。
・現代曲などの場合、出版社から総譜を借りる。前に使った指揮者のメモが残っていることがある。演奏会直前に届いた総譜の猛烈に多い書込みを消すのに消しゴム半分を使ったこともあると言う。筆跡から書込みの主が分ることもあり、今度会ったら文句を言ってやるなどと書いてある。
・小さい頃から音楽教育を受けた訳でないための楽譜に関する失敗談を「恥ずかしい限りだが、事実だから仕方がない」と、いくつも挙げる。
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楽譜の風景 (岩波新書 黄版 250) 新書 – 1983/12/20
岩城 宏之
(著)
【出版社サイトより】 咆哮するブラス,炸裂するパーカッション,「春の祭典」は難所「いけにえの踊り」にさしかかった.指揮者は自信を持ってトランペットにフォルティシモのサインを出した.と,次の瞬間! ――暗譜で指揮する難しさ,「未完成」への熱い思いなど,N響を始め世界のオーケストラを指揮している著者が,楽譜との付き合いを体験に即して語る.
- 本の長さ209ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1983/12/20
- 寸法10.7 x 1 x 17.3 cm
- ISBN-104004202507
- ISBN-13978-4004202509
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1983/12/20)
- 発売日 : 1983/12/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 209ページ
- ISBN-10 : 4004202507
- ISBN-13 : 978-4004202509
- 寸法 : 10.7 x 1 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 299,180位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,404位岩波新書
- - 13,928位楽譜・スコア・音楽書 (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年5月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
筆者は打楽器奏者から指揮者に転じ、エッセイストとしても活躍した(故人)。今回初めて筆者のエッセイを読んでみたが、物事の真実を突き止めようという理知と包み隠さない率直な人柄を併せ持った方であったことが良く分かった。この本を読んで初めて、楽譜にはしばしば誤りがあり、誤りが無いとしても、速度の記号をイタリア語など作曲家の母国語でない言語で書かれているケースが多いので、作曲家の真意を汲み取ったものである保証はないということを知った。これは目から鱗だった。
後半では、筆者の音楽遍歴が紹介されており、興味深い。小学生の頃におもちゃの木琴を叩き始めたのが音楽との出会い。高校で初めてティンパニの存在を知るも、学校にティンパニが無く、練習の時は机を叩いていた。それでも芸大の打楽器科に入り、そこから指揮者に転身。幼少から徹底した音楽教育を受けている音楽家が多い今からすると、ちょっと考えられない音楽遍歴だが、このたくましさと貪欲さが往年の名指揮者達との強みなのだろう。
後半では、筆者の音楽遍歴が紹介されており、興味深い。小学生の頃におもちゃの木琴を叩き始めたのが音楽との出会い。高校で初めてティンパニの存在を知るも、学校にティンパニが無く、練習の時は机を叩いていた。それでも芸大の打楽器科に入り、そこから指揮者に転身。幼少から徹底した音楽教育を受けている音楽家が多い今からすると、ちょっと考えられない音楽遍歴だが、このたくましさと貪欲さが往年の名指揮者達との強みなのだろう。
2013年5月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
生前の筆者の指揮する演奏会を聴いたことがあり、懐かしく読みました。
2018年8月22日に日本でレビュー済み
最近、少しクラシックを聴くようになったという話を友人にしていたら勧められたのが本書。著者は著名な指揮者だが、自分を飾らない軽妙洒脱な文章でクラシック音楽に関する裏話を披露してくれており、実に楽しく読めた。楽譜があちこちに出てきて、楽譜が読めない自分は殆ど飛ばしたが、それでも問題なく楽しめた。
面白い話題が多い中で、個人的に指揮者はやはり大変だと思ったのは、楽譜を暗譜するくだりである。著者も若い頃はしていなかったそうで、暗譜をしない指揮者も多いとのことだが、著者が意を決して難曲のストラヴィンスキーの「春の祭典」を目の中にフォトコピーをするという方法で暗譜に挑む壮絶な努力には驚いた。そして完璧に覚えたはずの楽譜を頭の中でめくりそこなった際のエピソードには感動した。
面白い話題が多い中で、個人的に指揮者はやはり大変だと思ったのは、楽譜を暗譜するくだりである。著者も若い頃はしていなかったそうで、暗譜をしない指揮者も多いとのことだが、著者が意を決して難曲のストラヴィンスキーの「春の祭典」を目の中にフォトコピーをするという方法で暗譜に挑む壮絶な努力には驚いた。そして完璧に覚えたはずの楽譜を頭の中でめくりそこなった際のエピソードには感動した。
2017年9月28日に日本でレビュー済み
岩城宏之は面白い。底が抜けているし、おつむのてっぺんに蓋がない。13回腹を抱えて24回吹き出した。落語か漫才を聞かされている気分。この岩城宏之を始め、山本直純、グレン・グールド、Michel Polnareff、Elton John、モーツァルトー音楽を生業にする方々は、全員変人だ‼️ そりゃそうだ。音楽の女神の胸元にしがみついて、振り落とされないように頑張るには、並の神経じゃぁもたない。音楽の女神は綺麗だけど相当な乱暴者だからねぇ。くわばらくわばらなむあみだぶつ^_^
2011年9月20日に日本でレビュー済み
写譜という日本語を初めてしった。
写譜屋さんなんて職業がある、(あった?)ことを初めてしった。
昔は、版権の切れる前の楽譜は、世界に一組しかなかった。
その楽譜が、世界中のオーケストラを巡って歩いた、、
いろいろな楽団員の書き込みや落書きをのせて、、。
音楽と、楽譜に関わるエッセイ。
初出は、1982年。
エッセイとしても味わい深く、面白い。
もう二十一世紀の今となっては、
一種の現代音楽史みたいなものかもしれない。
写譜屋さんなんて職業がある、(あった?)ことを初めてしった。
昔は、版権の切れる前の楽譜は、世界に一組しかなかった。
その楽譜が、世界中のオーケストラを巡って歩いた、、
いろいろな楽団員の書き込みや落書きをのせて、、。
音楽と、楽譜に関わるエッセイ。
初出は、1982年。
エッセイとしても味わい深く、面白い。
もう二十一世紀の今となっては、
一種の現代音楽史みたいなものかもしれない。