映画化されたら(もしかしたら既にそうされたのかもしれませんが)
どんなに良いだろうと思えるほど、映像的な作品だと思います。
ストーリーも巧みで飽きさせません。
ベニスへ行ってみたくなりました。
ヘンリー・ジェイムズは全部読んだわけではありませんが、
『ねじの回転』と並ぶほど強く刻印されました。
難解さは皆無です。
小説というものの愉しみをこれほど味わえる古典も少ないのでは
と思います。
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アスパンの恋文 (岩波文庫) 文庫 – 1998/5/18
ヘンリー・ジェイムズ
(著),
行方 昭夫
(翻訳)
アメリカの大詩人アスパンを研究している「わたし」は、恋人だったミス・ボルドローに送ったアスパンの恋文を入手するため、ヴェニスを訪れた。人目をさけてひっそり住んでいる彼女の邸の下宿人となり、その機会をうかがう「わたし」の前に…。精緻な心理描写でストーリーテラーとしてのジェイムズの才能が遺憾なく発揮された傑作。
- 本の長さ214ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1998/5/18
- ISBN-104003231384
- ISBN-13978-4003231388
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1998/5/18)
- 発売日 : 1998/5/18
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 214ページ
- ISBN-10 : 4003231384
- ISBN-13 : 978-4003231388
- Amazon 売れ筋ランキング: - 198,424位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年9月2日に日本でレビュー済み
この『アスパンの恋文』(1888年)は、ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)の作品だからといって身構えて読む必要のない、ごくふつうの小説といえばいえます。
ヘンリー・ジェイムズの小説では、視点の問題がやはり気になるところです。
本編は、終始一人称の「わたし」が過去のできごとを回想するかたちで物語るという形式をとっています。できごと、とくに人物間のできごとは、とにかく厳格に「わたし」があくまで見聞きし、経験し、感じ、想像したことの範囲内でしか語られてはいません。
重要な登場人物であるミス・ボルドローもミス・ティータも、彼女らが思っていることや考えていることはどこまでも視点人物である「わたし」の推測の範囲内で描かれていて、それは逆にいえば、「わたし」が彼女らに近づき、間借り人と家主の関係で少しずつかかわりをもちはじめながらも、じっさいに彼女らが何を思い、考えているのかわからないというところに小説のサスペンスが生まれてくるということにもなります。
ただ、おもしろいのは、ミス・ボルドローは「わたし」にはその心の動きはほとんど読みとれないのだけれど、ミス・ティータのほうは、馬鹿正直で、うそがつけない人物に(都合よく?)設定されているため、というか正確には、彼女のことを、会話するなかでは自分の気持ちを偽れない人物として「わたし」は理解しているので(その理解はまちがっている可能性はなくもないのですが)、読者は、ただただ回想のなか不確かな憶測や推測に終始する「わたし」の語りの密室世界にだけ置いておかれるということはありません。
「わたし」に徐々にうちとけはじめたあとのミス・ティータの心の動きは、手にとるように、とはもちろんいきませんが、「わたし」の語りをとおしてであれ、中年女性(たぶん)ながら意外と少女のような純真な心の動きがあることが読者には感知できます。
この小説の主筋は、一見すると、「わたし」が詩人アスパンの恋文を手に入れられるかどうかというところにあり、そこに物語を盛り上げていく主要なサスペンスが生まれているといえます。
しかしじつは、それと並行して小説をつらぬく、ミス・ボルドローとともに最初まるで謎めいた女性だったミス・ティータが徐々に「わたし」にたいしてうちとけ、多少とも親しげな口をきくようになり、最後ついにある提案というか申し出をするという、こちらのサブというか脇筋というか、もうひとつの話が、心理描写もふくめて精細に描かれ、隠し味のようによく効いているからこそ、この小説がおもしろいものになっているのではないかと思えます。
というか、見ようによっては「大きな壺」にも「ふたりの人間の向き合った横顔」にもみえる錯視図形・多義図形の「ルビンの壺」のように、読みようによっては恋文の話とミス・ティータの話とが反転可能なかたちで並存しているともいえます。
しかもそのふたつの話は最後みごとに合わさり重なってひとつの結末へと収斂します。
小説の舞台となっているのはイタリアのヴェネチア。
読みながら、ヴェネチアとは「魂の生活がとうの昔に消え失せてしまい、美的な仮象だけが後に残された」都市であると語った哲学者ジンメルのことばや、トーマス・マンの小説『ヴェニスに死す』(1912年)、それを映像化したヴィスコンティの映画(1971年)、そしてジョニー・デップ、アンジェリーナ・ジョリー共演の映画『ツーリスト』(2011年)などを思い出していました
ヘンリー・ジェイムズの小説では、視点の問題がやはり気になるところです。
本編は、終始一人称の「わたし」が過去のできごとを回想するかたちで物語るという形式をとっています。できごと、とくに人物間のできごとは、とにかく厳格に「わたし」があくまで見聞きし、経験し、感じ、想像したことの範囲内でしか語られてはいません。
重要な登場人物であるミス・ボルドローもミス・ティータも、彼女らが思っていることや考えていることはどこまでも視点人物である「わたし」の推測の範囲内で描かれていて、それは逆にいえば、「わたし」が彼女らに近づき、間借り人と家主の関係で少しずつかかわりをもちはじめながらも、じっさいに彼女らが何を思い、考えているのかわからないというところに小説のサスペンスが生まれてくるということにもなります。
ただ、おもしろいのは、ミス・ボルドローは「わたし」にはその心の動きはほとんど読みとれないのだけれど、ミス・ティータのほうは、馬鹿正直で、うそがつけない人物に(都合よく?)設定されているため、というか正確には、彼女のことを、会話するなかでは自分の気持ちを偽れない人物として「わたし」は理解しているので(その理解はまちがっている可能性はなくもないのですが)、読者は、ただただ回想のなか不確かな憶測や推測に終始する「わたし」の語りの密室世界にだけ置いておかれるということはありません。
「わたし」に徐々にうちとけはじめたあとのミス・ティータの心の動きは、手にとるように、とはもちろんいきませんが、「わたし」の語りをとおしてであれ、中年女性(たぶん)ながら意外と少女のような純真な心の動きがあることが読者には感知できます。
この小説の主筋は、一見すると、「わたし」が詩人アスパンの恋文を手に入れられるかどうかというところにあり、そこに物語を盛り上げていく主要なサスペンスが生まれているといえます。
しかしじつは、それと並行して小説をつらぬく、ミス・ボルドローとともに最初まるで謎めいた女性だったミス・ティータが徐々に「わたし」にたいしてうちとけ、多少とも親しげな口をきくようになり、最後ついにある提案というか申し出をするという、こちらのサブというか脇筋というか、もうひとつの話が、心理描写もふくめて精細に描かれ、隠し味のようによく効いているからこそ、この小説がおもしろいものになっているのではないかと思えます。
というか、見ようによっては「大きな壺」にも「ふたりの人間の向き合った横顔」にもみえる錯視図形・多義図形の「ルビンの壺」のように、読みようによっては恋文の話とミス・ティータの話とが反転可能なかたちで並存しているともいえます。
しかもそのふたつの話は最後みごとに合わさり重なってひとつの結末へと収斂します。
小説の舞台となっているのはイタリアのヴェネチア。
読みながら、ヴェネチアとは「魂の生活がとうの昔に消え失せてしまい、美的な仮象だけが後に残された」都市であると語った哲学者ジンメルのことばや、トーマス・マンの小説『ヴェニスに死す』(1912年)、それを映像化したヴィスコンティの映画(1971年)、そしてジョニー・デップ、アンジェリーナ・ジョリー共演の映画『ツーリスト』(2011年)などを思い出していました
2005年6月1日に日本でレビュー済み
一般の書評と違って私は正直あまりおもしろくなかった。やはり
ジェイムズの最高傑作はデイジーミラーであると思う。
この作品に出て来る主人公はぶらぶら遊んでいる遊び人のよう
なだけでなく、うそはつくし、金で人を言うことを聞かせよう
としているところが好きになれない。
ミス・ボルドローは主人公を上回る守銭奴で、最期に暗闇に
現れる場面は奇怪でさえある。
一番気持ち悪いのはミス・ティータだ。いい年をして主人公に
結婚を申し込むなんて。
しかし、主人公がティータとの結婚を嫌って、手紙の入手をあ
きらめるところは情けない。
ジェイムズの最高傑作はデイジーミラーであると思う。
この作品に出て来る主人公はぶらぶら遊んでいる遊び人のよう
なだけでなく、うそはつくし、金で人を言うことを聞かせよう
としているところが好きになれない。
ミス・ボルドローは主人公を上回る守銭奴で、最期に暗闇に
現れる場面は奇怪でさえある。
一番気持ち悪いのはミス・ティータだ。いい年をして主人公に
結婚を申し込むなんて。
しかし、主人公がティータとの結婚を嫌って、手紙の入手をあ
きらめるところは情けない。
2003年4月18日に日本でレビュー済み
アメリカの大詩人アスパンを研究している「わたし」は、アスパンが彼の恋人ミス・ボルドローに送った恋文を手に入れるため、ヴェニスを訪れた。「わたし」は、ミス・ボルドローに近づくべく、彼女の邸の下宿人となる。彼女は、姪のミス・ティータと女中の三人暮らし。傲慢で貪欲なミス・ボルドローと違って、ミス・ティータは子供のまま大人になったような、純粋で不思議な中年女性であった…。
ヘンリー・ジェイムズの作品は難解過ぎる、と一般に評されているが、本作は非常に素直で美しい作品である。その文体の流れは、ヴェニスの運河の流れのように透明でとどまるところを知らない。読者はその流れに釣られて、頁をめくるのをやめることができないのだ。
物語の面白さとは別に、ジェイムズ特!有の精緻な心理描写を楽しむこともできる。「わたし」の視点ではなく、例えばミス・ティータの視点で物語を読み返した時、本作が全く違った様相を呈することに読者は驚きを禁じえないであろう。
ヘンリー・ジェイムズの作品は難解過ぎる、と一般に評されているが、本作は非常に素直で美しい作品である。その文体の流れは、ヴェニスの運河の流れのように透明でとどまるところを知らない。読者はその流れに釣られて、頁をめくるのをやめることができないのだ。
物語の面白さとは別に、ジェイムズ特!有の精緻な心理描写を楽しむこともできる。「わたし」の視点ではなく、例えばミス・ティータの視点で物語を読み返した時、本作が全く違った様相を呈することに読者は驚きを禁じえないであろう。