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提婆達多 (岩波文庫 緑 51-5) 文庫 – 1985/4/16

4.1 5つ星のうち4.1 17個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 岩波書店 (1985/4/16)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1985/4/16
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 203ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 400310515X
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003105153
  • カスタマーレビュー:
    4.1 5つ星のうち4.1 17個の評価

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中 勘助
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カスタマーレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2024年2月19日に日本でレビュー済み
ダイバダッタという名前は手塚治虫の「ブッダ」で知ったが内容は憶えておらず、今回新たな気持ちで読んだ。解説を読むと、初期仏教史の中でブッダに反逆した「極悪人」として有名だが諸説があって、その評価は分かれているようだ。ただ彼がブッダの肉親で、一部の経典を除けば、教団を分裂させた「悪玉」という評価が一般的で、この作品でもほぼその線に沿って書かれている。

シッダールタ出家後のダイバダッタによるヤショーダラ妃の誘惑や、ブッダへのいわゆる「五事」改革要求、ブッダとその教団への反逆、さらに後年になってマガダ国王ビンビサーラを退けて王子アジャータ=シャトゥルに王位簒奪をそそのかすのも、大筋において教典説話の叙述と同じだという。ただ、諸々の経典においてもダイバダッタの死の真相だけは曖昧なのだそうだ。

悪人正機など、いかにも仏教説話に準じた話だが、和辻哲郎が最後に書いてあるように、提婆を動かしているものが青年時の競闘にのみ起因するような「復讐」という言葉は不適当で、真意は「仏陀に打ち克とうとする心」だという指摘は正しい。構図が後半は前半より劣っているという指摘にも賛成で、後半のビンビサーラ王と王子の確執を描きすぎて、ダイバダッタと仏陀の影が薄くなった感じになってしまった感がある。
2011年3月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 諸説はあるようですが、ダイバダッタというのは、インド王族の生まれで釈尊(ブッダ)の従兄、釈尊十大弟子の一人アナンダの兄弟です。
 青年時代ヤショダラ妃を巡っての戦いに敗れたこともあり、釈尊に対して終生強い対抗意識を持ち続け、王子の身分を捨て一旦は釈尊の弟子となりますが、後に反逆して種々の迫害を加えたと言われています(迫害の程度や動機にはやはり諸説あるようです)。
 本書は、そんなダイバダッタを通して、人間の傲慢や愚かさ、畏敬と厭悪が同居する矛盾した人間の心や葛藤を描きだした作品です。また本版には和辻哲郎さんと荒松雄さんの解説が載っていますが、作中での釈尊の存在感について等、読後の感想に相違点があって面白いです。
 当たり前ですけれど、古代インドの資料に当たって執筆されているとはいえ、本作は完全なノンフィクションではなく、作者の中さんが、自分の伝えたいことをしっかりと表現するために加えた創作部分も混じっています。

 ダイバダッタは決して善人ではありませんが、正直さを好む性向があったり、誠実な愛には心を動かしたりすることもあり、完全な悪人でもありません。
 彼は、我独り尊しという気持ちがあって自分自身を誰よりも重んじ、他人を卑しみ軽んじていて、相手を心から尊敬することのできない我慢偏執の生命が強い人間といえます。
 時折何かの縁に触れて善の生命状態になることもありますが、基本的な生命境涯が三悪(地獄・餓鬼・畜生界)または四趣(三悪に<他に勝ろうとする生命状態>である修羅界を加えた境涯範囲)、六道(四趣に更に人界、天界の境涯を加えたもの)の間を輪廻する、未熟で弱い人間です。
 自分を謙虚に省み、他者と対等に交わったり教えを乞うことができず、また迸る自己の感情や欲望の奴隷となり知足することができない。他者と自分を比べ、競い、順列をつけずにいられない彼は、常に乾き、飢え、不安、憤懣を抱えている。自覚のない自分の弱さにもろに苦しんでいる、人間臭いといえば真に人間臭い人物です。本作最後の一文は、そんな彼の生命は、私達の中にも存在するということを思わせられ、謙虚な気持ちになります。
 
 他のレヴュアーさんが言及されている『バラバ』を私も読みましたが、信仰と人間というテーマをより深くリアルに、切実に彫りこんであるのは、個人的には『バラバ』だと思います(キリスト教と仏教の宗教性の違いが出ているのかもしれません)。本書はもっと「人間」そのものを描くことに力点が置かれているという感じを受けました。文体も、前者はシンプルで力強いですが、本書はなめらかでしっとりとした感触です。
 
 最後に、ダイバダッタは、釈尊最晩年の教えであり<諸教の王>と呼び習わされる『法華経』では、成仏の記別が与えられ救われています(<悪人成仏>と言います。ちなみに『法華経』以前の経典では救われません)。
 キリストも「他人を裁くな。汝が裁かれざるためなり」と言っていますが、作中で、人間の弱さを許さない怒りの仏であったダイバダッタから民衆の気持ちが離れ、人間の弱さを受け入れる慈悲に満ちた釈尊が慕われたように、我々人間には、ありのままの自分を認めてくれる大きな<理解と受容の懐>、<励ましと蘇生の泉>こそが必要なのだと思います(勿論仏には、成長のために欠点や誤りを指摘してくれるような厳愛の一面もまた、必要です。気休めや甘えは結局相手の為にならないのですから。行為の根底が慈悲であるのかどうかが問題なのですね。難しいことです)。
 
 

 
 
  
 
24人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2012年11月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
あのノスタルジックで抒情的な「銀の匙」と同じ作家の作品とは俄かに信じられないほど作風と文体が異なる小説「提婆達多」の主人公は、自尊心が強すぎて他人に容れられずに、身の程知らずにも仏陀を敵視した極悪人とされる。

古代インドの言葉を漢訳音写した人名、地名が続々と登場する。「でーばだつた」(提婆達多)「しつどはーるとは」(悉達多、のちの仏陀(釈迦))「やしよーどはらー」(那輸陀羅、悉達多の妻)「かびらばすつ」(迦'羅婆蘇都、釈迦族の王国の都)などに困惑していたら、先を読み進められない。

それでも、放映された大映映画「釈迦」では勝 新太郎が主人公「提婆達多」を演じていたこともあり、イメージが掴めて多少とも読解に役立った。本書は、仏陀に挑んだ主人公の妄執と復讐そして挫折の物語だといえる。

姫君の花婿候補を選ぶ武芸大会で「しつどはーるとは」(悉達多)に不覚を取った「でーばだつた」(提婆達多)は、嫉妬心と敵愾心を隠して相手に近づき、遠大な復讐計画を実行に移す。

無常感から妻子を捨てて出家する「しつどはーるとは」(悉達多)に助力し、憂愁に沈む夫人「やしよーどはらー」(那輸陀羅)を慰めつつ、言葉巧みに誘惑する。狡猾極まりない、生まれながらの女誑しには、真情も無ければ後悔も無い。

成道を得て仏陀となった「しつどはーるとは」(悉達多)の名声を妬み、「やしよーどはらー」(那輸陀羅)の自死で仏陀を逆恨みした「でーばだつた」(提婆達多)は、今度は帰仏帰依を装って仏陀の教団に近づく。

釈尊の弟子として獅子身中の虫となった「でーばだつた」(提婆達多)に信心が無いことを見抜いた人々に軽んじられて逆に復讐心を燃え立たせる、実に懲りない男である。

歴史的には、布教や教団の結束のためにイエス・キリストにユダの裏切りが必要だったのと同様に、仏陀には「でーばだつた」(提婆達多)の反逆が必要だったのかも知れない。
11人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2016年5月3日に日本でレビュー済み
「銀の匙」とあまりに違う! と驚いたのは私たちだけではなく、本書の後書きで
和辻哲郎氏もやはり驚きの言葉を贈っておられます。
しかし私は素人なりに思います。
「銀の匙」は、大人(=著者)が子どもの心を描いたというより、子どもが子どもの
心を、たまたま大人の文体を用いて描いた作品、と私は思っています。
それほどまでに子どもの心がそのまま描かれている。子どもが著者に憑依して
描かせたのではないかと思えるほどです。
この「提婆達多」も然り。まるで主人公、否すべての登場人物が著者に憑依して
描かせたようです。
中勘助という稀有な作家は、イタコのような人だったのかも知れません。むしろ
作家という人たちは大なり小なり、憑依できる能力を持っているのでしょう。
それはそれとして、仏伝として読んだ場合、聖人たる釈尊が浮き世を顧みない
変わり者のように描かれているのも、逆にリアリティがあります。
元妻ヤショーダラ妃の無惨な自死を目の前にしてさえ、眉一つ動かさないのが
生老病死を超越した仏陀である、と言えば確かにそうなのでしょうが、リアルに
描かれると「それにしても…」とちょっと引いてしまいます。
総じて、提婆達多目線で描かれた仏伝、です。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2006年11月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
提婆達多は釈尊の親戚です。本人も極めて秀でた才能を有するにもかかわらず、彼は常に釈尊を尺度に自身の行動と人生をいきていくのでした。すなわち、”釈尊”という人物に”執着”することによって、物欲、名誉欲、金銭欲などの様々な執着による懊悩苦悩が彼を襲ってきます。この執着は、われわれ多くの普通の人間=凡夫の行いに付随せざるをえないものですが、これこそが全ての苦悩の根源であることを、本著は私達にきづかせてくれます。苦悩の根源を断ち切ることの大切さを、本著は読者に訴えてやみません。さて、釈尊が見いだした真理を、私なりにまとめあげると以下の3点になるとおもいます。1)ものはうつりゆく:栄枯盛衰、一定のものはない、2)すべての物事には関連がある:因果、なにひとつ単独では作用しえない、そして3)執着こそが苦悩の根源:無執着の最高の境地、涅槃こそ最上である。本著によって、われわれは、そのいずれもがまごう方なき真理であることを、改めて知りうることになるのです。より詳細に深めたい方は、友松圓諦先生の『仏教聖典』をともに拝読されると、人生についての執着、すなわち苦の素因から”解放”されるきっかけとなるかもしれません。私は本著を読んで、巷間で常識とされている虚礼、冠婚葬祭や人間関係による執着を、年齢を重ねるごとに、徐々にですが、整理していこうと決意したのです。不可能とは理解しつつも、少しでも釈尊の境地へ近づくために。
14人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2003年1月24日に日本でレビュー済み
釈迦の従弟にして弟子・ダイバダッタ(手塚治虫『ブッダ』でも強烈な印象を残している)の、釈迦への嫉妬と釈迦の妻・ヤショダラへの想いに苦悩し、引き裂かれる一生を描いた傑作。
自らに驕り自らを省みることのない人間である彼は、一生をかけて復讐を願うが、それを果たすことなく死ぬ。
この小説は、あくまでもダイバダッタの心情だけを事細かに描ききり、彼の目を通してのみブッダを描き、それによって却ってブッダの生き様も、真摯なヤショダラの愛も際立つ。
人は、人からも愛されなければ苦しみ人を憎むこともあるだろう。それをどう超克していくのか。人は本来、傷つきたくない。しかし傷つくことを怖れては、本当に愛されることはできない。この人間の苦しみを迫力ある文章で描ききったこの作品は、月並みだが、感動の一言だ。
読んでいて救われるのは、作中のクライマックスでもある、前篇で、嘘から出たまこととしてヤショダラを恋するようになり、その苦しみの中で遂に自分の本心を打明けてしまうシーンだ。ここで確かにダイバダッタは傷つくことを承知で本当の愛を求め、そして知ったのである。手に入れた途端にその愛の対象を失うのだが。本当の愛に触れて愛を知った、その愛だけは彼の生涯を通じて本物だったのだろう。
ちなみにこの作品が書かれたのは1920年。しかし明治の文豪の作品が未だに非常に現代的であるのと同様、この作品もものすごくモダーンである。普遍的なテーマを切り鮮やかに描ききることに、この作品は見事に成功している。
よくぞこれだけのテーマをこの量にまとめた!??!!いう感動もある。厚さ8ミリしかない文庫で、しかも余白多し。古代インドの自然や当時の王侯貴族の華麗な様子、ヤショダラとダイバダッタの恋など、本当に描写力がすごい。
愛と憎しみという人間の普遍的な苦しみと救いとを、史実と結合させて力強く描いた傑作。
40人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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