小林秀雄が勾玉を愛好していた事を最近知り、勾玉について書いている書籍を探していて、本書に辿り着きました。
小林秀雄の勾玉への思いだけが知りたいことなので、この本の購入は迷いましたが、55ページにキッパリと書いてあったので、諦めることができて買ってよかったです。
それに57ページには、私が求めていたこと(勾玉というものを介してこういう話が聞けたらいいなという中の一つ)が書いてあったので、満足しました。
私は鉱石の趣味から勾玉に入ったので、勾玉が骨董のジャンルのものだということを最近知り、青山二郎という人はこの本で知りました。
骨董も、石の世界と似ている(まったく同じではないが)部分がある、というか、石の世界ではそこまで、「これがいいぞ」と思う時のことやビビビと感じる時の感覚を言語化されていないのですが、青山二郎の言葉によって表現されるそれらの感覚が、骨董の世界を知らない私にも分かりました。
私は自分が、勾玉などに触れる時の、あの、普段とは別の世界のような感覚を、言語化したものを読みたかった、ということが分かりました。それが本書を通じて知ることができ、本当に収穫でした。
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物数寄考: 骨董と葛藤 単行本 – 2014/3/8
松原 知生
(著)
川端康成、小林秀雄、青柳瑞穂、安東次男、つげ義春、杉本博司の6人を取り上げ、その古美術愛好の本質を、超越的な断言や印象批評的な情語ではなく、一箇の感性論として語る、気鋭の美術史家による意欲的な一書。
- 本の長さ375ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日2014/3/8
- ISBN-104582268080
- ISBN-13978-4582268089
登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2014/3/8)
- 発売日 : 2014/3/8
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 375ページ
- ISBN-10 : 4582268080
- ISBN-13 : 978-4582268089
- Amazon 売れ筋ランキング: - 929,000位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,217位収集・コレクション (本)
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2014年7月2日に日本でレビュー済み
人は、通常骨董を愛でる際、言語以前の五感(所謂、感じる)及び思考(観念・文化)の往復運動を繰り返すが、小林秀雄は己を空(無我)しくし、焼き物を弄るなど身体が行為する事により思考・観念の残滓である解釈等を追い出す。肉体の動きは、観念の動きより遙かに微妙で深淵であると言っている。それ故、鑑賞は一種の創作行為でもある。
また、芸術家は個性を表現するのではなく新しい物性を生み出す。そして、結果的にその新しい物質的なるものに自己が顕現する。「虚にあって実を行ふ」(芭蕉)
和歌にあっての実朝の場合では、自分の心を表現したのではない。自ら成った歌が詠み捨てられたに過ぎない。
この場合、作者の個性・才能と云う「近代」的産物は、問題とならない。作者は、単なる媒体(憑代・依り代)であり自然・歴史(形・型)こそが巨匠である。作品は、「えにし」により生まれるのである。
それは、例えば救世観音のように作品の結果により、事後的に作者が生まれるのである。
歴史とは、不在の過去の視覚的現前化であり、全歴史は己の掌にある。その場合、物質性が想像力を促し且つ限定する役割を果たす。
また、伝統や形式や規矩は、自由な表現を実現するための必要な抵抗物となると言っている。
最終的には、生死を超えた「形」を見つめる眼、「活眼」(=直観)へと至った。
青柳瑞穂は、呉須赤絵の絵皿に衝撃的出会いをした。
光琳作品が持つ華美・哀愁、艶やか・愁い、豪放・繊細等の両義性とその間を彷徨うゆらぎに魅かれた。
それは、可視的な表象と可触的な現前のはざまに位置する両義性が瑞穂の眼と手を捉えたのである。
新佐野乾山の真贋論争では、肯定派ではあるが両義性の人瑞穂らしい曖昧さが最後まで付き纏っていた。
この件で、川端康成は初めから見捨てていたが、小林秀雄は、「偽物の臭いなんかしないじゃないの」と言っていた。
また、小林は「美は、信用である」と言い切った。但し、信用する人たちの見解が異なる事があった。青柳のように体を使い足で探し回るというような「近代」的美学が抑圧した身体性を、「骨董いぢり」によって奪還するという行為については肯定していた。
青山二郎は、「心構えたる者には真贋の差別無きこそ真なり」と説いた。
それは、真/贋を垂直的でなく水平的・相対的な関係性で捉え、そのあわい、善悪の彼岸で戯れ続けるという事である。
そして、知識ではなく眼力(直観)に軍配を上げる。
安東次男は、残欠という現前と不在のあわいに位置する両義的で曖昧なオブジェを賞玩した。そして、その複眼的視座のあり方を言語化した。
人は、美というよりむしろ骨董というかたちに形象化された時間的集積を所有しようとする。(谷川渥)
中国の磁器は、始めから欠如が内在されていない。日本のそれは、「われもの」と云う通りいづれ訪れる不可避の破損を常に内包していて、現実に割れてしまってもその個々の破片には再び、「生命」が移り宿る。その魅力は、死の徴候と再生の予兆とのあわいに見出される。所有は放棄を、現前は不在を既に内包している。そして、偶然性・潜在性も内包している。
安東にとって最大の関心事は、物との狎れ合いをどう回避するかであった。そして、その解は使うことであった。
残欠を入手する事は、不在を所有する事である。また、残欠=不完全はそれを活かす工夫を強いられる。
つまり、これらの事は、物への欲望に対する戒めとして規律が強化され、物との関係がいっそう緊張感を帯びたものとなる。
安東は、精神と物質という垂直的関係を設けるでなく物と仮象、内と外、価値と無価値、欲望と無関心などの相対的関係が互いに隣接し反転し合う臨界に自らを置き、そこに顕われる景色を言語化した。
著者は、六人の作家に注目し西洋近代の美術史学とは異なる方法で、骨董の思想的・文化的意義を考察した。
「数寄」という語は、さまざまな二項対立(暴力的な二分法ではない)を含意している。そして、「骨董」それ自体も幾重にも葛藤を孕んでいる。
それは、生と死、現前と不在、夢と現実、虚と実、起源と末世、物と欠損、真と贋などの間で分裂し、そのはざまを揺れ動き両極を攪乱する。そして、数寄者の葛藤がこれに同期し共振する。
長くなるので割愛した人もいるが小林秀雄の日本文化についての深い造詣、知恵、洞察に圧倒された。
初めての著作らしいが力作である。読み応え十分であった。
巻頭に重要な役割を果たすカラーの口絵写真があるが、ギラついていて出来具合が良くない。どうしたのだろうか。
また、芸術家は個性を表現するのではなく新しい物性を生み出す。そして、結果的にその新しい物質的なるものに自己が顕現する。「虚にあって実を行ふ」(芭蕉)
和歌にあっての実朝の場合では、自分の心を表現したのではない。自ら成った歌が詠み捨てられたに過ぎない。
この場合、作者の個性・才能と云う「近代」的産物は、問題とならない。作者は、単なる媒体(憑代・依り代)であり自然・歴史(形・型)こそが巨匠である。作品は、「えにし」により生まれるのである。
それは、例えば救世観音のように作品の結果により、事後的に作者が生まれるのである。
歴史とは、不在の過去の視覚的現前化であり、全歴史は己の掌にある。その場合、物質性が想像力を促し且つ限定する役割を果たす。
また、伝統や形式や規矩は、自由な表現を実現するための必要な抵抗物となると言っている。
最終的には、生死を超えた「形」を見つめる眼、「活眼」(=直観)へと至った。
青柳瑞穂は、呉須赤絵の絵皿に衝撃的出会いをした。
光琳作品が持つ華美・哀愁、艶やか・愁い、豪放・繊細等の両義性とその間を彷徨うゆらぎに魅かれた。
それは、可視的な表象と可触的な現前のはざまに位置する両義性が瑞穂の眼と手を捉えたのである。
新佐野乾山の真贋論争では、肯定派ではあるが両義性の人瑞穂らしい曖昧さが最後まで付き纏っていた。
この件で、川端康成は初めから見捨てていたが、小林秀雄は、「偽物の臭いなんかしないじゃないの」と言っていた。
また、小林は「美は、信用である」と言い切った。但し、信用する人たちの見解が異なる事があった。青柳のように体を使い足で探し回るというような「近代」的美学が抑圧した身体性を、「骨董いぢり」によって奪還するという行為については肯定していた。
青山二郎は、「心構えたる者には真贋の差別無きこそ真なり」と説いた。
それは、真/贋を垂直的でなく水平的・相対的な関係性で捉え、そのあわい、善悪の彼岸で戯れ続けるという事である。
そして、知識ではなく眼力(直観)に軍配を上げる。
安東次男は、残欠という現前と不在のあわいに位置する両義的で曖昧なオブジェを賞玩した。そして、その複眼的視座のあり方を言語化した。
人は、美というよりむしろ骨董というかたちに形象化された時間的集積を所有しようとする。(谷川渥)
中国の磁器は、始めから欠如が内在されていない。日本のそれは、「われもの」と云う通りいづれ訪れる不可避の破損を常に内包していて、現実に割れてしまってもその個々の破片には再び、「生命」が移り宿る。その魅力は、死の徴候と再生の予兆とのあわいに見出される。所有は放棄を、現前は不在を既に内包している。そして、偶然性・潜在性も内包している。
安東にとって最大の関心事は、物との狎れ合いをどう回避するかであった。そして、その解は使うことであった。
残欠を入手する事は、不在を所有する事である。また、残欠=不完全はそれを活かす工夫を強いられる。
つまり、これらの事は、物への欲望に対する戒めとして規律が強化され、物との関係がいっそう緊張感を帯びたものとなる。
安東は、精神と物質という垂直的関係を設けるでなく物と仮象、内と外、価値と無価値、欲望と無関心などの相対的関係が互いに隣接し反転し合う臨界に自らを置き、そこに顕われる景色を言語化した。
著者は、六人の作家に注目し西洋近代の美術史学とは異なる方法で、骨董の思想的・文化的意義を考察した。
「数寄」という語は、さまざまな二項対立(暴力的な二分法ではない)を含意している。そして、「骨董」それ自体も幾重にも葛藤を孕んでいる。
それは、生と死、現前と不在、夢と現実、虚と実、起源と末世、物と欠損、真と贋などの間で分裂し、そのはざまを揺れ動き両極を攪乱する。そして、数寄者の葛藤がこれに同期し共振する。
長くなるので割愛した人もいるが小林秀雄の日本文化についての深い造詣、知恵、洞察に圧倒された。
初めての著作らしいが力作である。読み応え十分であった。
巻頭に重要な役割を果たすカラーの口絵写真があるが、ギラついていて出来具合が良くない。どうしたのだろうか。